本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

佐藤優(×竹村健一)『国家と人生 寛容と多元主義が世界を変える』――その根本的な批判

佐藤優(×竹村健一)『国家と人生 寛容と多元主義が世界を変える』太陽企画出版、に基づく

 

 竹村健一×佐藤優『国家と人生 寛容と多元主義が世界を変える』を、近くの図書館で借りてきて読んでみた。やはり、読み終わったあとに、非情な徒労感に襲われてしまった。なぜならば、古い形式論理学に固執する佐藤の語りは、形而上学的一面的皮相的独断的固定的で、人間や世界の本質を、総体的に指し示してくれるものが皆無だからである。したがって、私たちは、佐藤の本を、徒労感に襲われる苦痛を<ガマン>して読まなければならないのである。にもかかわらず、なぜ、今、私は、佐藤の本を読むのか?――それは、佐藤がカール・バルトを読むべきだと言い、そのカール・バルトを論じているのであるが、彼のそれは、富岡幸一郎と同じように、バルト読みのバルト知らずのまま、カール・バルトの信仰・神学について、根本的な誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて、「いい加減」(佐藤)に「理論……出鱈目」(佐藤)に論じているからである。また、このことは、人間学的領域における、国家論や天皇制論等についても、然り、だからである。したがって、先ず以て神学における思想家であるカール・バルトの信仰・神学の原理およびその認識方法と概念構成を首肯する私は、どうしても、メディア的組織性の後光を利用して馬鹿げた似非使徒を演じている佐藤や冨岡の根本的な問題の総体について、根本的な批判だけはしておかなければならないのである。

 

1)この本の1章「沖縄から日本が見えてくる」については、次回に、佐藤優『沖縄・久米島から 日本国家 を読み解く』(小学館)と一緒に論じたいと考えるので、今回は省略する。ただ、今回の本、次回の本、その他の本における特徴的な佐藤の語り方から言えば、彼の国家論や天皇制論は、いつも同じである。言い換えれば、佐藤には、そのことに関する知識や思想における、方法論や著述家としてのレンガを積み上げるような成長の跡が見られないのだ。すなわち、佐藤の知識は、雑学的なのだ。普通の人が知らないようなどうでもいい知識や情報を小出しにしているだけなのだ。ほんとうは、思想の課題としては、国家を論じることは社会主義的国家等々への過渡的課題と国家無化(人間の社会的現実的な解放)の究極的課題についての認識と自覚が必要であるように、沖縄の課題を考えることは、究極的には天皇制の相対化・無化の課題を考えることでもある。しかし、佐藤には、この認識と自覚がないのである。次回の『沖縄・久米島から 日本国家 を読み解く』の「あとがき」を読んだだけで、そうした佐藤をイメージできてしまう。佐藤は、その「あとがき」で、「カール・マルクス……が強調しているように、国家は最大の暴力機関である」・「久米島の歴史を勉強するなかで、国家の暴力性がどこにあるかが見えてきた」、と述べている。このように、佐藤は、国家の本質を、いつも実体的に考えているのであるが、佐藤のそれは、経済決定論に基づいて、国家は、「帝国主義時代」に対応した「官僚的および軍事的装置」・「組織」・「中央集権的な権力組織、暴力組織」である国家権力として、成長し・強化される、したがって、「これまでの革命はすべて」、そうした国家機構を完成させてきたのであるが、「いまや国家機構を粉砕し……なければならない」、というレーニンの『国家と革命』におけるそれなのである。ほんとうは、国家の本質は、吉本やフーコーやマルクスが指摘しているように、支配は被支配を鏡とする、という意味での共同の幻想であり、観念の共同的形態であり、司牧システムが生み出す無意識の共同性なのである。

 

2)佐藤は、次のように述べている。
@「ロシア人は霊魂の実在を信じているからこそ、靖国神社を敵視しない」・「じつはロシア正教として」は、「戦前日本の国家神道のような形態が理想と考えて」いる(126頁)。「ロシア人は日本の皇室に対する畏敬の念、尊敬の念を強く持って」いる・「日本の場合、政治的権力は転々とし、さまざまな間違いを犯す」が、「皇統という権威によって国家は維持されて」いる(210頁)。
A「ロシア正教には日本の神道と共通するところが多い。自然と一緒に生きていこうという考え方、一種の共生の精神」である(127頁)。
B「熊に限らず、ロシアにはもともと、自然や動物の中に神様がいた」(124頁)。
C「竹村さんは、見えないものに対する畏敬の念、自然を二一世紀に取り戻したいとおっしゃっていましたが、それはとても重要です。私はクリスチャンですが、神道的な感覚というのは、世界に誇るべき遺産だと思うのです」(129頁)。
D堀江貴文が「日本も大統領制にしたほうがいい」と言ったことに対して、それは「天皇を戴く日本の体制変革につながるということであなた(≪佐藤≫)は反対している。そして天皇制に関連して『護憲』に言及していますね」と竹村が聞いたことに対して、佐藤は次のように答えている――それは、憲法9条を守ろうという護憲論ではなく、「基本」的に、憲法第1章第1条―8条の護憲、「国体の護持も含め」た「権威」としての天皇、「天皇制の堅持」、「立憲君主制」のための「護憲」である(258頁)。
 この佐藤の語りに対して、私たちが注意すべきことは、彼が人類史的段階の差異性に基づいてこれらのことを全く語っていない、ということである。このことは、佐藤の易姓革命論の時の語り方と同じである。すなわち、佐藤の語りは、いつも、形而上学的一面的皮相的独断的固定的なのである。
 Cの「見えないものに対する畏敬の念」についてであるが、佐藤の場合、それは、「権威」としての天皇、天皇制――彼のそれは、人類史の母胎・母型・原型としてのアフリカ的段階・縄文的段階におけるそれでは全くなく、天皇中心の神国思想、「多様性のある寛容な国」・「神の国」を目指している北畠親房の『神皇正統記』に基づくアジア的段階におけるそれに過ぎない。すなわち、このことは、4)において確定できるのであるが、彼のそれは、せいぜい7,8世紀以降のそれに過ぎないものなのである――を指している。佐藤は、人類史的段階のおける差異性の観点を持たないまま、北畠に依拠して、第一に、日本は「『見えない権威』である天皇によって支えられ」てきた・この天皇の宗教的権力が政治的権力を支えてきた、と考えている。したがって、「首相公選制」は、当選した首相に宗教的権力も政治的権力も移行してしまうから、「権威」としての天皇を排除してしまうことになるから、よろしくない、と考えている。また、逆に、天皇の方も、天皇は「権威」としてのそれであるから、天皇が政治的「権力」を掌握し行使する場合、その「系統は途絶え、別の皇統から天皇が誕生する」ことになる、と考えている。その例が、「第二五代の武烈天皇」(『日本書紀』)である、と考えている(270−279頁参照)。

 

 Dについて言えば、ほんとうは、日本が人類史におけるアジア的段階から完全に超出できない限りは、すなわち、西欧的段階に完全に移行しない限りは、イギリスのような完全な立憲君主制やアメリカのような完全な大統領制にはならないのである。伊藤博文は「神聖」という概念に、人類史的段階におけるアジア的・「東洋的な神聖君主」という「感性的理解、或いは感情的理解を加え」た。したがって、伊藤の「神聖」概念は、人類史の西欧近代的な「立憲君主の概念における神聖」とは違った位相にあるものである。したがってまた、観念的な威力である宗教としての天皇制は、それを理念・観念において相対化し・無化しない限りはいつまでも残存してしまうから、近代主義を骨肉にまで受け入れた佐藤や冨岡にも憑依するのである。政治的権力と宗教的権力を有した天皇制が成立していたのは奈良朝以前の初期天皇制の時期だけであり、天皇制的な専制君主が、「機構化されたのは律令官制による」が、「日本的なデスポットとしての天皇制」の特徴的威力は、「政治的権力に直接たずさわっているときも、間近にあるときも、遠ざかって棚上げされているときも、<天皇制>が一貫してその背後に<観念>的な<威力>を発揮していたという事実にある」。すなわち、国家を共同幻想の一形態と考えず、土台−上部構造論において天皇制の問題を扱えば、戦後資本主義の成熟と高次化、すなわち市民社会の成熟によって農耕を経済的基盤とするアジア的段階に成立した天皇制の問題は終焉したことになるのだが、天皇制のもうひとつの側面である宗教的権力(威力)・共同幻想としての天皇制は観念的遺制として今も残存しつづけている、と言うことができる。(記事「佐藤優――(続)WEB上における彼の天皇制論等、その、ほんとうの水準と根本的な諸問題」参照)

 

 Bの山川草木に神が宿る、という感じ方の様式・考え方の様式・行動の様式は、人類史のアフリカ的段階・縄文的段階においては世界普遍性を有していたもの・共通のものであって、日本的特殊としての「世界に誇るべき遺産」では全くないのである。それだけでなく、それらの様式は、フレイザーの『金枝篇』「樹木崇拝の名残り」にあるように、西欧近代・西欧的段階を生み出した現在の<地域>西欧であれ、人類史におけるアフリカ的段階・縄文的段階を経てきたのである。このような人類史的段階における差異性の認識と自覚を持たない佐藤は、アフリカ的段階・縄文的段階のそれらの様式を、アジア的段階の日本特殊としての「世界に誇るべき遺産」として認識してしまう、根本的な誤謬を犯しているのである。この決定的な根本的誤謬に基づいて佐藤は語るから、その語りは、その最初から、支離滅裂で「いい加減」で「理論……出鱈目」な語りとなってしまうのである。したがって、この本全体から推察して、佐藤の言う@とAとBの「国家神道」・「日本の神道」・「神道的な感覚」は、7,8世の以降におけるそれを指しているのである。佐藤の言う神道・「国家神道」・「日本の神道」・「神道的な感覚」についての思考と語りは、彼が原武史の『出雲という思想』を読んだという場合も、大和朝廷以降に固定され、記紀に固定され、また270−276頁と絡めて言えば、北畠親房の『神皇正統記』に固定され、そこで停滞した思考であり語りなのである。このような形而上学的一面的皮相的独断的固定的な佐藤が、読者に対して、外交でも国際政治でもそうだが、「幅広い視点でものごとを見るのが大事」、と述べているのである。
 ここで、7,8世紀以降とは、大化の改新(645−650年)以降から壬申の乱(672年)を経由し、天武天皇と持統天皇が編纂した飛鳥浄御原「律令」施行(689年)により中央集権化が成立した以降のことである。したがって、8世紀に編纂された『古事記』や『日本書紀』は、日本語と起源としての日本語(原日本語)との境界領域と言える(吉本『敗北の構造』「敗北の構造」)。

 

 このような訳であるから、根本的な誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて「いい加減」に「理論……出鱈目」に論じている佐藤の天皇制論に対して、根本的な批判を加えるためには、次のような認識と自覚を必要とするのである。したがって、かつて述べたことを再掲しておくことにする。吉本と梅原にBを付加したけれども、もちろん、ここを飛ばして読んでもかまわない。(記事「佐藤優――(続)WEB上における彼の天皇制論等、その、ほんとうの水準と根本的な諸問題」参照)
A――笠原芳光は、天皇の神聖性の概念は伊藤博文がキリスト教から得たもので、「キリスト教と天皇制は似ているところがある」と述べたことに対して、吉本は、それは違う、ということを、歴史を大和朝廷以前にまで遡及し考察し追究することで、こう答えている――現象的には、明治政府は、本居宣長や平田篤胤のつくった「天皇は現人神だという宗教的イデオロギー」を、「革命のイデオロギー(≪革命の手段≫)としてつかった」のであるが、現人神の概念を含めて天皇制の本質的な問題は、天皇が、宗教的権力、政治的権力、軍事的権力という、政治と宗教(祭祀)の「統帥権」を持つのは、「天皇制が大和朝廷をつくるまでのあいだだけである」、なぜならば、その後の歴史においては、「天皇は、政治には直接関与しない位置にい」たからである、と。そして、梅原猛や吉本隆明は、『対話 日本の原像』において、次のように述べている。
吉本:
@共同幻想の問題、すなわち制度的政治的問題の観点からすれば、原日本人・原「日本の歴史」と、経済的基盤を農耕に置き、人類史のアジア段階概念における生産様式論、すなわち土地は村落の所有、さらには総括的な共同体の統括者・専制君主のものという土地の総括的な共同体所有と貢納制をとった「天皇家の歴史」・「初期の大和朝廷以降の国家」の歴史は決して同じではなく、前者の歴史の方が後者の歴史よりも「ずっと古く」、人類史における世界普遍的な母胎・母型・原型にまで遡及できるものを持っている。
A神が「高千穂の峰に天降」るという信仰は、「縄文時代あるいは弥生初期からあった巨石・磐座・樹木信仰と同じもの」である。また、「初期の天皇が大和盆地」に入り、「そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰のありかたは、沖縄の聞得大君の即位のやり方と同じ」である。すなわち、それは、「一種の巨石信仰あるいは樹木信仰、……あるいは小高い丘の頂点から神が降りてくる」という類型に入る。聞得大君の即位式・「お新下し」の場所は、ニライカナイからやってくる神々が降臨する御嶽である。とすれば、その信仰は、天皇家・「農耕民に特有な信仰」というよりも、それよりももっと古い、そこに「前からいた先住民」・原日本人の「信仰」と言うことができる。
B天皇制無化の課題を日本における宗教祭儀の問題で扱えば、南島・琉球の視点から宗教的祭儀を調べ、その新しい形態とその古形を調べることで、天皇制固有のものとされてきた宗教祭儀を相対化し無化することができる。現在でも天皇が行っている農耕的な宗教祭儀は、中国ではそれ以前から行われており、日本の天皇制に固有なものではない。また、その宗教性の基本的性格は、ひとつは、祖先を信仰するという、南島に「宝庫のごとく保存されている一種の祖霊信仰」にあるから、天皇制における宗教性は、古形としてのそれではなく、それよりも新しい形態である。

 

梅原:
@「仏教も日本に来ると現世肯定の思想となる。これが即身成仏の密教思想とか、現世に浄土をみる日蓮の思想となって現れ」ている。また、天台本覚論のように、日本において仏教は、山川草木悉皆仏性とか「『山川草木悉皆成仏』という考え方」になる。「これは中国でできた考え方ですが、中国では今一つ有力な思想になりません。しかし、こういう考え方が、日本仏教の主流の考え方になったのは、それはやはり、アイヌの思想にはっきり残存しているように、一切の生きとし生きるもの、動物も植物もすべて、人間と同じ魂を持っていて、この世にそれぞれの仮装をつけて現れるにすぎないという考え方が、その根底にあったから」である。「日本の土着宗教の最も基本的な哲学は、……霊の循環」である。「その霊魂が人間・動物・植物みんな共通で、そういう生死の輪廻を無限に繰り返しているという世界観は、人類史における旧石器時代(≪アフリカ的段階≫)の人間に共通したもので、とくに狩猟採集文化が後代まで続いた日本では非常に色濃く残っている」。
A記紀神話を、天皇族・大和朝廷の神からではなく、土俗民の神・土俗の神の方から読む必要がある――「記紀神話を、天つ神からではなく国つ神の方から読むことが可能ではないでしょうか」。「アマツカミ主体」の「記紀史観」においては、日本の国家は、「渡来の農耕民(≪父系≫)が土着の狩猟民(≪母系≫)を支配してつくった国」である。「アマテラスオオミカミというのは明らかに農耕民族の神だし、その孫のニニギノミコトも農耕民族として日本に来た」。しかし、日本には、すでに、「土着のクニツカミ」がいた。したがって、「われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考え」ていく必要がある。
B7,8世紀に律令体制を作る場合、……天照大神中心の神の体系をこしらえて、それを日本国家を統一するイデオロギーとした。その神道が祓いみそぎの神道です。……祓いみそぎの神道(記紀神道)というのは律令に応じた神道だと思う。(中略)私の古代研究は、国学の目でみるゆがみを、真淵や、宣長の目のゆがみを正して、ありのままにみたいということなのです。本居宣長が日本語を研究しましたけれども、結局8世紀以上に遡れない。(中略)琉球語とアイヌ語(≪南島やアイヌの宗教世界を含めて≫)という二つの灯の中に、我われが失ったものが浮かび上がってくるのではないかという気がするのです(江上波夫・梅原猛・上山春平『アイヌと古代日本』梅原猛「ユーカラの世界」小学館)。

 

B――宗教としての天皇制は、「西欧の近代的な思想」も「受け入れる」し、「婚礼の儀式」にあるように「母系制社会の儀式……婿入婚」という「考古学的な古層」も持っている。この宗教としての天皇制は、空間的には「来訪神」であり、時間的には縄文期にまで時代を遡ることができるところの「祖先崇拝」である。来訪神には、地域や地勢によって差異があり、@「小さな島」の村落なら、「海の彼方に原郷」・ニライカナイがあって、「そこから神々がやってくるという信仰」・「水平来訪神」信仰があり、A「盆地の村里」の村落なら、「山の頂」「名だなる樹木を伝わって……上の方から垂直降りて」やってくるという信仰・「垂直来訪神」信仰がある。ここで、問題は、この種族は@の類型に入り、この種族はAの類型に入る、ということを空間的に確定することではなくて、問題は、これらの「信仰がいつからはじまったか」ということを、時間的に縄文期にまで時代を遡って考察し追究していく点にある。したがって、宗教としての天皇制の本質的な課題の究明は、天皇制それ自体を時間的な起点として、すなわち7,8世を起点として、「天皇制は騎馬民族で外からやってきた王権だ」と、ということを確定する点にあるわけではない。言い換えれば、宗教としての天皇制の本質的な究明の課題、すなわちその相対化・無化の課題は、「稲作農耕が入ってきた」弥生時代(農耕を経済的基盤とした人類史におけるアジア的段階)の日本の農耕村落共同体や「海辺の村落」(漁村)にあった信仰を考察し追究するだけでなく、もっとそれ以前・天皇制以前にまで、すなわち狩猟採取を経済社会構成の基盤としていた人類史のアフリカ的段階・縄文的段階――アイヌは「縄文人の末裔で、混血を……避け……孤立した村落をつくって……縄文時代の、信仰から言葉からいろんなものがのこっている」――における「磐座(いわくら)とか樹木信仰」や「社会のあり方」や「言葉のあり方」にまで、歴史的に時代を遡及して考察し追究していく点にある。

 

C――本居宣長が、『古事記』にあらわれた8世紀以降の日本を問題にしたように、また天皇制に文化的な価値観(漢学的な美意識)を収斂させていった三島由紀夫のように、「歴史的に<天皇制>を問題とするとき、歴史時代的にこれを問題にしたらだめで歴史時代以前の視点を包括する眼で問題にしなければ、南島の問題やアイヌの問題や在日朝鮮人の問題を包括する」ことはできない。神であり人であり、尊ばれると同時に蔑まれた神人は、差別用語ではなく、非農耕民を総称した呼び方であり、そしてその非農耕民は村のはずれで、手厚く処遇されたのである。この処遇からすれば、天皇も神人の一人であった。ただ天皇は、政治的には専制君主として権力を有していた。天皇族の祭儀は、それより古い南島の祭儀に基づいたものであり、儒教や仏教の知識も農耕技術も大陸からの輸入によるものであった。このように、「祭儀ひとつとっても、天皇族独自の祭儀はなかった」ことを根拠づけることができれば、天皇制の根拠を相対化し無化することができる。この天皇制の相対化・無化の課題は、日本においてまだ山の民と海の民と陸の民の相互変換が可能であった共同体の水準、「<法>が法以前の<宗教>的な<威力>であったときの共同体」の水準、「国家が国家以前の共同体」の水準であった時期にまで遡及し鳥瞰図の時間軸を拡張させて考察していくところにある。なぜならば、天皇制という「歴史時代の一国家の歴史は、千数百年」に過ぎず、「そういうものに、人類的にも生活的にも文化的にも価値を収斂させるわけにはいかない」からである。そのような作業において、地域としての南島やアイヌや在日朝鮮人の問題は、世界普遍的な課題に連帯させることができる(吉本『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。

 

3)佐藤は、次のように述べている。
@日本が「ここまで発展した」のは、「権威と権力が明確に分けられていたから」である(257頁)。
A「国民投票法」は、「ポピュリズム、衆愚主義が進行」し、「人民主権だけがあればいい、天皇という権威は不要という考えが強くなり、皇統廃絶に向かう可能性があるから」よろしくない。また、首相公選制については、それが「実現すると、天皇陛下と総理大臣のどちらが偉いのかという議論がでてくるかもしれ」ないから、それはよろしくない(260頁)。
B「私はコミュンテルンが1932年テーゼで初めて用いた『天皇制』という用語は、皇統の意義を正しく反映していないと思う」(261頁)。
C「成文憲法は二次的な問題」であって、第一義的な問題は「国体の本義としての憲法」の「発見」にあるから、「日本の国家体制の基本、伝統的言葉でいう国体」、天皇の権威の護持を伴わない改憲は、「今よりも悪くなる」からよくない。したがって、今は護憲の立場だ、と佐藤は言うのである。「いま竹村さんは日本の文化や伝統といわれたけれど、人間がいかに知恵を使い、論理や科学技術の世界で先端を追求しても、やはりどうしても超えられないものがあることに気づく。そしてそれに対して畏敬の念を持つ。そのひとつが日本の皇統だと思う」(263―265頁)。
D「寛容の精神」を身につけさせる「神道」を基盤とした「権威と権力が別れた瞬間から多元主義になるのです」(263・264・270頁)。

 

 私たちは、佐藤にとっての最重要事項が、大多数の被支配としての一般大衆の幸福・救済の追求・実現にあるのではなく、「権威」としての天皇、天皇制の護持にあることを、2)と、この3)(特に、AとC)における語りから知ることができる。要するに、佐藤は、退行的復古的に、「日本独特のシステム」(<原>日本のそれではないところの、せいぜい7,8世紀以降のそれ)は「最高権力者は最高権威者にはなれない」、という点にあるということを言いたいだけなのである(261頁)。また、佐藤は、あくまでも天皇の権威と天皇制を守るために、天皇の「元首」化も・政治的「権力」化も、「日本の交戦権」も認めるべきではない、と言っているだけなのである。言い換えれば、佐藤のいうエリート、教養、知識、インテリジェンスは、その意識的自覚的な還相過程を持たないから、その還相過程において、その知識なら知識に、大多数の被支配である一般大衆・一般市民の大衆像と大衆的課題を繰り込むという回路を持っていないのである・持たないのである。この佐藤とは全く異なり、吉本と同じように、マルクスは、その還相過程の回路を持っているのである――「物質的な力は物質的な力によって倒さねばならぬ。しかし理論もまた、それが大衆をつかむ(≪大衆同化・大衆迎合・大衆啓蒙のことではない、大衆路線、民族路線、啓蒙主義のことではない≫)やいなや、物質的な力となる」(マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』)。したがって、佐藤は、大多数の被支配である一般大衆・一般市民の幸福と救済の構想を持たないのである。政治の本質を事実的政治にのみみる政治屋・佐藤の頭の中にあるのは、第一義的には、「権威」としての天皇、天皇制を守ること、「権力」としての国家を成り立たせること、ただそれだけなのである。この佐藤は、『はじめての宗教論』「右巻」で「究極的な救済をどう得るかという視座から宗教について考察すると述べ、「左巻」では神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」、と尤もらしく聞こえる言葉で根本的な誤謬に普遍性やメディア的組織性の後光をかぶせて断定的に述べていたのであるが、このような佐藤が、個人の救済を考えられるわけがないし・個人の救済を考えるわけがないし・実践するわけがないのである。その証左――後述する、佐藤と冨岡の靖国参拝推進論を読まれたし。しかし、このような佐藤とは全く違って、身近な農民のために身も心も尽くした宮沢賢治は、往還思想において、ほんとうに、全体と個との幸福・救済を考えた優れた思想家だったのである。

 

 @についてであるが、自然史の一部である人類史の自然史的過程は進歩・発展を基調としており、経済社会構成の拡大・高次化、科学被術の発達、それに関わる知識の増大、感覚器官の発達、生活の利便性の向上等々は、自然史的必然に関わることであって、別に「権威と権力が明確に分けられていたから」では全くない。

 

 Bについてであるが、ほんとうは、次のように言うべきである――アジア的段階概念の明確化のためには、第一に、共同体論としてのアジア的段階概念、すなわちアジア的農耕村落共同体内部の内在的構造の問題を扱わなければならない、第二に、生産様式論としてのアジア段階概念、すなわち土地の総括的な共同体所有と貢納制、土地の共同体的所有と分配方式の問題を扱わなければならない、第三に、政治形態論、政治権力論としてのアジア段階概念、すなわち支配共同体と被支配共同体との関係、アジア的専制、中央集権体制の問題を扱わなければならない。第三の問題について言えば、支配共同体としてのアジア的専制は、被支配共同体に対して支配を及ぼしたが、下層の農耕村落共同体の個々の農民等に対しては具体的に支配を及ぼそうとはしなかった。支配共同体は、従前の村落共同体の掟等を排除するのではなく、<接木>することで支配を完成させた。すなわち、総括的支配共同体は、それ以前からあった下層の農耕村落共同体の、自然的規定や風俗や習慣や文化等にできるだけ手を加えないで温存していくという支配の様式をとった。また、第一の問題について言えば、農耕村落共同体の規模や、その共同体が育む相互扶助意識・感情や、逆に自分の所属する村落が世界のすべてであるという閉じられた在り方が生み出す未開の心性や村八分や、村落以外のことに対する無関心や、アジア的な風土的自然環境(広大な 砂漠・平地帯を有する、気候・地形)から経済的基盤を農耕においた農耕村落共同体における農耕民(循環と停滞)と神人(進歩と発展の契機)と呼ばれた非農耕民との関係性を扱うものである。アジア的共同体の当初において、農耕以外の職業に携わる人たちは「神人」(民俗学)と呼ばれた。それは、尊ばれると同時にさげすまれる存在であった。「神人」は、非農耕民、具体的には芸能者・宗教者・鍛冶屋・ハンセン病・ざるやかごを生産する竹細工師、海部民のことであったが、農耕民・狩猟民・海部民は相互転換が可能であった。天皇もその「神人」の一人であった。
 日本的デスポット、総括的共同体は、吉本が『常陸風土記』や『古事記』に基づいて述べていうように、大規模な灌漑用水工事を必要とせず、井戸や池を掘る・傾斜地に水を貯水する工事を行う「小規模、狭領域のデスポットだということ」で、「はじめに自然の水源をおさえたものがデスポットに近づき、つぎに小規模な灌漑用水工事を、技術的に手に入れます。この技術は大陸からの導入です。そこで日本的デスポットは、中国の冊封体制に迎合」しながら、「国家本質を手離さない」で<接木>国家を形成していくことを体得していった。したがって、日本独自のデスポットの「解明のひとつは、日本的デスポットの成立過程を、前共同体との関連においてはっきりさせること」にある。また、日本において、現存する危機に対処し現存する危機を処理しようとするときいつも復古してくるのは、日本の自然思想の伝統である。なぜならば、宗教性としての天皇制は、今でも観念的遺制として残存しつづけているからである。それは、いつでも、世界史的普遍性を無視した日本の自然思想の伝統である民族性を強調する権力として復古してくるだろうし、また自己と異質で外部的な産業的思考や個人主義的思考に対しても「権力」として復古してくだろう。そしてその場合、それらを支えるのは、どんなにひどい権力の支配をも自然災害を受け入れていくように受け入れていく民衆の意識(共同幻想)であり、いつも個体性を超えていく共同体至上意識であり、村八分の意識であり、反個人主義であり、中央への委任的意識等である。吉本は、次のように述べている――「アジア的様式の最たるポイントは、共同体の専制的な遺制が、経済的にも政治的にも宗教的にも、あるいは風俗、習慣としても、たいへん強いということです(吉本『敗北の構造』「宗教としての天皇制」)。

 

 佐藤は、「日本の国家体制の基本、伝統的言葉でいう国体」、「畏敬の念」の対象としての天皇の「権威」の護持、を求めるのである、要求するのである。この佐藤は、『はじめての宗教論』では、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学が不可欠なのです。神学的な操作(≪非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」、と言うのである。しかし、この佐藤は、せいぜい7,8世紀以降に成立した「権威」としての天皇、天皇制については、そのまま信じろ、非論理で信じろ、と言うのである。佐藤は、<原>日本・<原>日本人・<原>日本文化にまで歴史を遡及して考察することをしないのである、そうすることを放棄するのである、そうすることの根本的な重要性を認識し自覚していないのである。ほんとうは、思想的な課題として、沖縄を「見」・考えること・読み解くことは、「権威」としての天皇、宗教性としての天皇制、天皇制国家を相対化し無化することなのである。しかし、「沖縄から日本が見えてくる」、『沖縄・久米島から 日本国家 を読み解く』という佐藤には、先ず以て、「権威」としての天皇、宗教としての天皇制、天皇教への信奉が、第一義性として・価値性としてあるのである。
 この佐藤は、『神学部とは何か』で「自分と異なる見解を排除するというのではなく、むしろ、神学は自らの教派的出自にとらわれるものなのだ。そういう考え方に踏みとどまる人たちがまっとうな神学者なのである」と党派性・党派的思想・党派的共同性を認めている。したがって、佐藤は、キリスト教の根本的な内在的課題、すなわちその信仰・神学の原理・その認識方法と概念構成それ自体で、信と不信、知と非知、キリスト者(教)と非キリスト者(教)の枠組を取り除き両者を架橋するという神学における思想的課題を認識せず・自覚せず・持たず、またイエス・キリストの啓示の実在そのもの・啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)という「神の言葉の三形態」も捨て去って、そしてまた戦争の廃絶のための民族国家を無化する構想も持たず、「権威」としての天皇、天皇制を信奉せよ、国家のために生命を捧げた英霊を祀る靖国神社を参拝せよ、と要求するのである。言い換えれば、佐藤や冨岡幸一郎は、自然神学的な天皇教的キリスト教という新興宗教の教祖を目指しているのである――佐藤は、キリスト教の外在的な量的拡大を目指して、「靖国神社にクリスチャンが参拝するようにならないと、日本のキリスト教は土着化しない。土着化しないと広がらない」・「国家というのは重要な概念」だ・したがって、この「国家のために生命を捧げた人をどう受けとめるかは、どの宗教でも最重要問題」であるから、「靖国神社の問題」は、「キリスト教徒がどのような国家観を持つかという問題」だ、と述べて、さらに関東学院大の富岡幸一郎も靖国神社に参拝すべきだと主張していることを紹介している。この佐藤と冨岡の語り方の根本的な問題は、観念の共同性にしか過ぎない国家を前提し、国家のために死ぬべきことを前提にして語る語り方にある。アジア的日本的な自然思想・自然原理への復古・退行による、新興宗教としての彼らの土俗的な天皇教的キリスト教は、日本のナショナルなものである滅私奉公に基づく自然神学的な土俗的キリスト教を目指した北森嘉蔵の変種でしかないものである。また、新興宗教としての彼らの土俗的な天皇教的キリスト教は、民衆を戦争へと駆り立てて家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家に対する批判的な考察も行わないし、「権威」としての天皇、天皇制を相対化し無化していく課題も持たないし、戦争廃絶のために民族国家を国民に開いていく課題や国家を止揚し無化していく課題も持たないのである。ここに、馬鹿げた似非使徒としての佐藤や冨岡のペテンがあるのである。このような佐藤や冨岡は、吉本が述べていたように、次のような事態を惹き起こすに違いにないのである――現在も、「いかにもマスコミ受けするような、明るくて建設的なことをいっている政治家とか知識人とか文化人とかが、一杯います」。しかし、「そんなやつらは、一番ダメで、そんなやつらこそ、一番危ないんです。いざとなったら、真っ先に、『戦争をやれっ、やれっ』っていうのは、そんなやつらに決まっています」(『超「戦争論」下』)。

 

 トータルな歴史認識のためには、文明史的尖端の現在において流通している価値意識や思考様式や認識水準の観点と、人類史の母胎・母型・原型であるアフリカ的段階・縄文的段階にまで歴史を遡及したところで得られるその時代において流通していた世界普遍的な価値意識や思考様式や認識水準の観点との二重の構造的判断が必要となる。近代的戦争は民族国家間の争いであるという意味で、その首謀者である国家支配上層が相互に殺戮しあうことは許容されるとしても、アメリカにとっての<ならずもの国家>に対して民主主義と人権尊重と蛮行の解除を根付かせることを標榜するアメリカ支配上層が、イラク戦争で平然と劣化ウラン弾を民衆の生活の場所に撃ちこむ在り方は、アメリカ合衆国の共同幻想においてのみ通用する一方的一面的な認識に基づくものでしかない。したがって、アメリカ合衆国支配上層が行ったそうした戦争行為は、一般大衆の生活や安全や人権を無視するテロ集団やフセイン政権と全く同じ水準のものなのである。いずれにせよ、革命思想の究極的総体的永続的な課題は、国家の無化を伴う人間の社会的現実的な解放にあり、民衆を歴史の主体とするところにある(『吉本隆明が語る戦後55年8』)。

 

 Dについてであるが、天皇制の支配の様式は、党派的思想、党派的共同性に基づいた多元主義にあるのではなく、「接木」の構造にあるのだ。例えば、吉本隆明に依拠して言えば、こうだ――「『さねさし』は相模につく枕詞であり、アイヌ語の地名によくある『たねさし』と同じで『突き出た細長い土地』という意味」である(『詩人・評論家・作家のための言語論』)。この自然の地勢の名称である「突き出た細長い土地」を経て、その場所の固有名詞であるアイヌ語の地名「たねさし」へと固定化されていく過程に、「形態認識」の起源と系列を見出すことができる(吉本『ハイ・イメージ論 T』「形態論」)。「相模は半島のように突き出た場所」であるが、「先住していた人たちは、そういう地形を『さねさし』あるいは『たねさし』と呼んでいた」。すなわち、支配としての大和朝廷は、被支配の先住民(起源としての日本人・原日本人)の「さねさし」あるいは「たねさし」を枕詞として相模(相武)という言葉に<接木>することによって、支配と被支配との均衡を企てたのである。そして、支配は、被支配の「法、宗教、……風俗、習慣」を、支配の法や言語等の方へと垂直的に集中化させていったのである。そうした過程で、被支配の先住民(起源としての日本人・原日本人)の「さねさし」あるいは「たねさし」という枕詞は削り落とされ、最終的には支配としての言葉であった相武(現在の相模)が共同規範語として存続されていくことになった。また、被支配に属する国津罪への侵犯は当初は当事者間だけの罪として<清祓>の対象でしかなかったが、次第に支配そのものへの侵犯の罪として罰せられる対象へと垂直的に集中化されていった。大衆「自らが所有してきたもの」ではない「接木」の構造に基づいて成立した支配の共同幻想を、大衆自らが「自らの所有してきたものよりももっと強固」に、「自らのものであるかの如く錯覚」させられ支配に直通していったところに、すなわちそうした支配の共同幻想を天然自然の災害を受け入れていくように自らのものとして錯誤し受け入れていくことで支配を下から支えていったところに、「古代における大衆」(大衆の共同幻想)の敗北はあったのである。

 

4)竹村は「伝統と新しい発想」との関連で、「神道の思想」の拡大が、「世界平和につながる」と述べ、佐藤は「寛容の精神」を身につけさせる「神道」を基盤とした「権威と権力」の分離が望ましい、と述べている(270・271頁)。彼らの言う神道、天皇の「権威」、天皇制は、せいぜい7,8世紀を起源とする人類史的段階におけるアジア的日本的なものに過ぎないことは、すでに述べた。また、山川草木に神が宿るという「神道」的なものは、別に7,8世紀以降のアジア的段階における日本的特殊性ではなく、それよりずっと以前に時間を遡った原日本・原日本人・原日本文化にあったものであり、すなわちそれは、人類史のアフリカ的段階・縄文的段階(原日本・原日本人・原日本文化)において世界普遍性として存在していたものなのである。したがって、それは、日本的特殊としての「世界に誇るべき遺産」では全くないのである。
 いずれにせよ、佐藤の言う神道や、天皇の権威、天皇制は、7,8世紀以降のそれでしかないことは、次のような北畠親房の『神皇正統記』に対する佐藤の評価の仕方や語り方で分かる――第一に、佐藤は、北畠における天皇中心の神国思想、「多様性のある寛容な国」・「神の国」を目指している。第二に、北畠は、「14世紀」に「比較思想史の方法を使って、インドと中国の天地創造と宇宙論を調べ、この両国と日本は全然違うことを証明」した。第三に、北畠は、「インドと中国は仏教による天地創造物語ですが、これは古事記・日本書紀の神話とは異なっている。日本は違う形で出現したことを根拠に、『唐こころならざるものは大和こころなり』と説明した」。「本居宣長と同じ発想です」。第四に、北畠は、天皇制を「相当幅のある万世一系」において考えており、天皇は権威としてのそれであるから、天皇が権力を行使しようとする場合、その「系統は途絶え、別の皇統から天皇が誕生すると考えている」。「第二五代の武烈天皇」がそれである。第五に、佐藤は、「日本人は伝統を大切にし、たとえ権力者であっても伝統や権威(≪天皇、天皇制≫)を変更することはできない」、と述べている。したがって、この佐藤の語りの意味は、「権威」としての天皇、天皇制を護持するために、人類史のアフリカ的段階・縄文的段階である原日本、原日本人、原日本文化について、7,8世紀以前にまで時代を遡って考察し詮索するな、記紀以前に歴史を遡及して考察し詮索するな、「いい加減」であれ、「非論理」的であれ、と要求していることと同じことなのである。佐藤は、ほんとうに、馬鹿げた似非使徒を、ペテン師を、演じているのである(270−279頁)。

 

 何度も繰り返しになるのであるが、佐藤の、北畠『神皇正統記』に対する評価と「本居宣長と同じ発想です」という語りにおいて、佐藤の言う「権威」としての天皇、天皇制、神道が、せいぜい7,8世紀以降のそれでしかないことを、私たちはすぐに知ることができる。佐藤が易姓革命論を述べているときもそうであったが、佐藤には、人類史的段階における差異性の認識と自覚が皆無なのである。ほんとうは、中国、インド、日本には、区別を包括した同一性としての、人類史のアジア的段階における自然を原理とするという共通性があるのである。作家・詩人であり、セゾンコーポレーションの会長でもあった堤清二(辻井喬)は、「『伝統』をはき違えるな」の新聞記事の中で、本居宣長等の詩歌を例に挙げて次のように述べている――「中学のとき、(中略)『敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花』という歌を習いました。教師は、国のために忠誠を誓って潔く散れと宣長も言っている、だからそういう国民になれ、それが日本の伝統だ、と繰り返した。でも宣長は、大和心とは「もののあわれ」を知ることだといいたかったのであって、『潔く散るのが大和心』と伝えたのだとは、私は思わない」(2003年3月30日朝日新聞 ・朝刊)。ここには、宣長が「もののあわれ」とは、例えば『古事記』神話をそのあるがままに受け入れることであり、それゆえに詩歌の起源は『古事記』に最初にでてくる「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」 にあると述べたのに対して、それに異を唱えた宣長の師・賀茂真淵や折口信夫を介して詩歌の起源を論じた吉本とはまた別の問題が述べられている。ここに登場する教師に代表されているのは、共同体至上意識が個体性を超えてしまうアジア的な負の心性や、国家の共同幻想 から対象的になれずに、そうした共同幻想に侵蝕された自己意識・自己幻想・自己思想の敗北した在り方にある。それだけではなく、教師に代表されているのは、思想の自立の根拠である大衆原像や大衆像や大衆的課題を、自らの自己思想に繰り込んでいく回路を持たないがゆえに、知識の世界や書かれた歴史には登場しない<生活>者大衆に対して閉じられていく非自立的で党派的な自己思想の敗北的な在り方にある。

 

5)事実政治を政治の本質と考えている政治屋の佐藤は、人間存在における相互規定的な社会的および政治的な共同性の側面のうちの政治的側面に偏在化させて、「権謀術数の世界」の永田町の政治家たちの判断・行動を例に出して、人間関係には、「エソロジー」・「動物行動学の知識」が「絶対に」・「必要」である、「政治家や評論家は肉食獣で普通のサラリーマンや官僚は草食獣」であり、権力闘争や論争を繰り広げている前者は「いざ協力すべきと判断した」場合には、「何事もなかっかのように話ができる」が、後者は「おとなしい人ほど」「いつ異常な行動をとるかわからない。ある日突然、ストーカーになったり」する、と佐藤は述べている。佐藤は、ここでもやはり、一方通行的一面的皮相的独断的固定的に、人間を動物性に偏在化させて人間論を人間関係論を展開している。

 

 しかし、ほんとうのところは、現実的、知識的、思想的には、こうであるだろう・こう言うべきであるだろう――吉本によれば、言語の本質は、自己表出(その度合)と指示表出(その度合)の構造である。胃痛で「うっ」と発語された場合、それは、反射的に発せられたもので、表現された<結果>として周りの人に伝わるかもしれないとしても、その第一義性は他者との外コミュニケーションを目的としてはいない。ここに、他者への伝達目的によるのではない、自己自身の「内側だけ」から惹き起こされ自己自身の「内側だけ」で反響している表現である自己表出の本質がある。それは「自分自身との交通の欲望及び必要から発生した」ものである。この「価値」としての言語の自己表出性に関わる対自的な「人間の精神や心」は、文明の発達、、科学技術の発達や知識の増大や経済的社会構成の高次化にともなって発達はせず、「ギリシャ・ローマ時代や万葉時代から」変化をしていない部分として現在もある、と言うことができる。現在でも一人の女性が、ある男性の心臓の鼓動を高まらせたり、ある男性にとってその女性が世界の全てであり、その関係の破綻がある男性の自死をもたらしたり、現在では殺害等をもたらしたりすることがあり得る。これらのことは、万葉集の時代に生きた人も現代人も変わらないこととしてある(吉本『老いの流儀』日本放送出版協会)。また、吉本は発生学者の三木成夫の学問的成果を踏まえながら、人間には三つの器官あることを述べている。それは、第一には、生体の植物的機能器官、植物神経系に属する自律神経器官、呼吸器官・循環器官・消化器官等「植物器官」としての「内臓器官」である、第二には、生体の動物的機能器官、動物神経系に属する視覚・聴覚等の「動物器官」としての「感覚器官」である、第三には、「心・精神」としての「人間固有の器官」である。この「人間固有の器官」である「心・精神」は、感覚に依存する「心・精神」と内臓に依存する「心・精神」との構造としてある。また感覚に依存する「心・精神」の働きと内臓に依存する「心・精神」の働きの起源は、筋肉などの「体壁から神経がつながっている感官器官」と、植物系の神経で動かされている「腸とか肺とか胃とか心臓とか」の「内臓器官」とが分離されたところにある。さらに遡って言えば、原始的な感覚器官である臭覚機能が、内臓器官の一つである呼吸器官から分離されたところにある。人間の「心・精神」の働きは、内蔵器官に依存した「心・精神」の働きによる表出と、感覚器官に依存した「心・精神」の働きによる表出の構造としてある。

 

 さて、前述したことを「言語理論と結び」つけると、次のように言うことができる――自己表出は、大脳を中枢としない植物神経系(大腸・肺・心臓・血管等)・自律神経系に関わる「人間の内臓の働き」と、それに基づく情緒・情感・情念等「心(精神)の動き」とを基盤としている。しかし、そうした自己表出も、外化され表現されれば表現された結果(客観的対象性を持つということ・自分にとってだけでなく百人百様の享受の対象となるということ)として、第二義的であれ他者にも伝わるから指示表出性も持つということができる。しかし、その場合も、あくまでも、指示表出性を第一義的な目的とはしていない点に、すなわち指示表出の本質である外在的な<外>コミュニケーションを第一義的な目的としていない点に、自己表出の本質がある。それに対して、指示表出の本質は、風物を視覚(感覚)的に受け入れ了解し「美しい」と感じたことを表現し他者に伝達するところに第一義的な目的がある。すなわち、指示表出の本質は、他者に「何かを指し示す」こと・意味や物語を構成することを第一義的な目的とする点にある。このように指示表出は、大脳を中枢とする動物神経系・反射神経系に関わる感覚器官の動きと、それに基づく感性、悟性、理性等の「心(精神)の動き」との結びつきである。もちろん、他者とのコミュニケーションを第一義的な目的とする指示表出も、花を視て反射的に美しいと自己自身の心を第二義的に動かす自己表出性を持つのであるが、その場合も、指示表出の第一義的な目的はあくまでも他者への伝達のための意味や物語の構成にある。このように、「人間の身体は植物部分、動物部分、そして人間固有の部分(≪内臓器官に依存したそれと、感覚器官に依存したそれとの、二重構造としてある心・精神≫)」を含んでいる。そして、それらは、それぞれの固有性と、胃腸・心臓等の内臓病で顔にその表情が出るように、大脳と内臓との相互規定性とを持っている。言語の自己表出は価値構成に関わり、言語の指示表出は意味構成・物語構成に関わる、と言うことができる(吉本『心とは何か』)。また、「個体としての人間は、身体の枠組みがあって、身体の枠組みの像はさまざまな観念の母胎をなす」のであるが、このことは、「大脳」は「感覚の母胎」をなし、「内臓」は「それ以外のものの母胎」をなす 、ということである(吉本『ハイ・エディプス論』言叢社)。したがって、例えば、森林セラピーにあるように人が樹木の中に佇み「心・精神」を落ち着かせたり癒されたりするのは、その個体が自己身体にある植物系の神経を根拠としているからである。また、動物セラピーにあるように人が犬やイルカ等の動物によって「心・精神」を落ち着かせたり癒されたりするのは、個体が自己身体にある動物系の神経を根拠としているからである。こうした人間の「心・精神」の在り方は、人類史に敷衍して言えば、人類史の「現在」は「未開・原始の時代」の意識や思考や認識や行為を重層化させている、と言うことができる。また、個体史に敷衍して言えば、人間の「心・精神」の世界、その成り立ち、その病気、その異常等の問題は、胎児期・乳児期からの内臓に依存した「心・精神」の働きと、感覚に依存した「心・精神」の働きとの関わり合いの「集積」の中から発生してくる、と言うことができる(吉本『人生とは何か』)。したがって、外在的な「外コミュニケーション」に関わる意識領域や内在的な「内コミュニケーション」に関わる無意識領域における「心・精神」に負った傷の度合と質によって、「心・精神」を正常の状態に維持できたり、異常の領域に移行させられたり、境界域を行き来したり、コミュニケーションの改善で治癒できたりそれだけでは治癒できなかったりすることになる。

 

 さらに、吉本は、感覚系の言語と内臓系の言語を絡ませながら<ひきこもり>について、次のように述べている――「ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは『価値』という概念にぴたりと当てはまります。価値というものは、そこでしか増殖しません」。したがって、一般的に流通している「外」コミュニケーション能力は、あくまで「意味」の構成を本質とするものである。その「外」コミュニケーション能力による言語は、「感覚に依存する心の動き」と深く関わる感覚系に依拠した指示表出における言語を本質としている。確かに社会的関係の中で、この能力は必要である。また、「意味」が集まって「物語」が生まれるから、そういう外コミュニケーションによる経験には有効性もある。しかし、それは、人間のコミュニケーションの部分であって全体ではない。「この人が言っていることは奥が深い」、「黙っているけれど存在感がある」という感じを与える人は、その人の内面では「意味」構成だけでなく「価値」増殖が起こっていることを示している。ここでその「価値」の自己増殖は、その人が自分「一人」で、自分との絶えざる自己対話から・「自分と対話したことから」、生まれてくる・生まるものである。したがって、明るく社交性のある人は意味とその集積としての物語を生むが、最も多く価値を生むわけではない。したがってまた、人間の理想型は、「社交的要素」と「ひきこもりの要素」との均衡にある。しかし、人間は資質的にか強いられてかどちらかに傾斜してしか生きられないし、現在は時代的な価値観の多様化の中で、世代的断層が拡がり、「外」コミュニケーションも困難にさせている(吉本『ひきこもれ――ひとりの時間をもつということ』大和書房)。そうした状況の中で、自然史的必然として、情報科学と情報技術の発達による高度情報社会は、外在的な<外>コミュニケーション能力に関与し続けている。しかし、ここで考慮すべきは、その発達は、人間の感覚に依存する「心・精神」の部分の発達をもたらすが、内臓に依存する「心・精神」の発達をもたらすわけではないということである。その発達がもたらすものは、あくまでも人間の「心・精神」の部分の発達であって全体の発達ではないということである。このことは、今も市民社会に現存する愛憎問題や金銭問題や家族問題や友人問題や職場問題や日常茶飯事のいざこざや傷害や殺害の事態を眺めて見ればよく理解できることである。このことは政治の世界でもいえる。小泉首相の靖国参拝問題ではじまった靖国問題への世論の動向について、加藤絋一は朝日新聞で次のように述べている――昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示した発言が報道された時点では靖国参拝の反対派が多くなったが、小泉首相が靖国参拝後「いつ行っても国際問題にしようとする勢力がある」と話した時点から賛成派が増え逆転現象が起きた。このことは、「束縛のない自由な社会になったものの」、価値の多様化という状況の中で、「何がいいのかみんながわからなくなって浮遊しているように映ります」と述べている(2006年9月17日朝日新聞・朝刊)。
 いずれにせよ、このような個体概念や言語論やコミュニケーション論の構成は、<部分>でしかないものを<全体>化する錯誤や誤謬から人間を解放してくれるものである(吉本『詩人・評論家・作家のための言語論』)。

 

6)佐藤は、「いまは社会全体に、エリート教育の必要性に対する意識が弱くなっている。困ったものです」、と述べている。興味のある方は、62頁および103−106頁を読まれたい。私たちは、このように、商業主義のメディア的組織性の後光の下で、自分をエリートだと勘違いしている佐藤を見出す時、笑えてしまうのである。私たちは、思わず、プッ、と吹き出してしまうのである。

 

 また、これも佐藤の語り方の特徴であるのだが、佐藤は、一方にコンプレックスを持ちながら、他方で他人の境涯を介して自分をエリートだと他者ににおわせる語り方をする。例えば、このようにだ――内在的事柄を述べずにあくまでも外在的な事柄にこだわりながら、同志社大学の有賀徹太郎の外在性について云々し、同志社大の教授から京都大に誘われた、「いまの日比谷高校から同志社に進んだ」「大秀才神学者」だ。このようなことは、わざわざ述べる必要のないことだろう。このような佐藤に特徴的な発言は、彼が、人を、いつも、エリート(勘違いした)――非エリートという関係において眺めていることの証左なのである。いわば、彼にあるコンプレックスの裏返された表現である。ほんとうは、状況の問題、思想の問題から言えば、こう言うべきであるだろう――「明治以後、知識と高度の産業が……引っ張ってき」た段階では、教養文化と「大衆文化との乖離がはなはだしかった」。しかし、その乖離が高度消費資本主義段階にある経済的社会構成の方から解消さててきている。活字文化と映像文化や音響文化の差異は、「創作の手段」の差異である。ただ映像文化や音響文化は、科学技術の高度化と表現手段の高度化とパラレルな関係にあるから、それらの高度化は映像文化に大きな影響を与えた(吉本『超20世紀論』)。言い換えれば、「ふつうマス・イメージがおおきくふくらんでゆくのは、きめられた<知>の秩序や制度が普及してひろく大衆のレベルにゆきわたることだと理解されている」。しかし、「現在ポップ的な文学やエンターテイメントが、質的に高度になってゆく様子は、まったくちがっている」。その変化は、下方の裾野からはじまり、それぞれの量的な層が統合されて、「強固な同一性の階梯」をつくり上げているところにある。したがって、その階梯を辿ってゆけば、大衆はだれでも「無意識に高度な質にたどりつくことも、意識された上昇もできるひとつの世界通路が成立している」。しかしここで考慮すべきことは、そうした現在のポップ文学やエンターテイメントの世界の旗手たちも知識の本当の課題を引き受けるためには、支配の制度がある限り、そのような世界通路の頂から意識的自覚的に「非知」へと「もう一度下降してゆかなければならない」(吉本『マス・イメージ論』)――ここに、知識にとっての思想的な課題があるだろう。なぜならば、自然的な知識的上昇を目指す往相的な知識内部で円環し閉じられていく知識は、支配としての国家の共同性と同じように、書かれた歴史には登場しない大多数の被支配としての一般大衆を、騙し、裏切り、惑わし、扇動し、困窮させ、死なせる党派性、党派的思想、党派的共同性として、法(的言語)や政策(的言語)を介して、支配としての国家の共同性に加担していくことになるからである。

 

 そしてまた、2007年12月現在で「文芸春秋の書評委員」をやっていたらしい佐藤は、「最近、書評でも、ろくに中身を読まずに紹介する人がいます」、と述べている(144頁)。この言葉を見出して、私は、あなた自身がそうでしょう、と言いたくなった。あなた自身が、「ろくに」バルトの本の「中身を読まずに紹介」している、バルト読みのバルト知らずでしかない、と言いたくなった。なぜならば、バルトを読んだ、マルクスを読んだ、読者も読むべきだ、と語るけれども、佐藤の本を読んだ限りでは、彼はバルトを(おそらくマルクスも)根本的に理解しているとは思えないからである。興味のある方は、152−156頁を読まれたい。

 

 さらに、佐藤は、「難しい本には二種類ある」、「ひとつは理論が出鱈目で難しいふりをしている本」である、「二つ目は、議論の積み重ねで構成され」た「知識が得られるもの」である、と述べている。このようなことを述べている佐藤に対して、読者として正直に言わせてもらえば、佐藤の本は、「理論が出鱈目で」、全く以て、根本的な「知識」も「得」させてくれないし、人間や世界の本質を指し示してくれないし、人間的な慰安も喜びも励ましも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれない、ものである。この本を読んでもいてもそう思えたのであるが、論理、論理、とよく言う佐藤のその論理的思考とは、形式的一面的皮相的独断的固定的な思考方法のことなのである。そのことを、この佐藤の本自体から簡単な事柄で例示してみよう――佐藤は、人間関係には、「エソロジー」・「動物行動学の知識」が「絶対に」・「必要」である、「政治家や評論家は肉食獣で普通のサラリーマンや官僚は草食獣」であり、権力闘争や論争を繰り広げている前者は「いざ協力すべきと判断した」場合には、「何事もなかっかのように話ができる」が、後者は「おとなしい人ほど」「いつ異常な行動をとるかわからない。ある日突然、ストーカーになったり」する、と述べている。しかし、この佐藤の、まさに形式的一面的皮相的独断的固定的な人間理解からは、<なぜ?>、人間には、動物セラピーだけでなく、植物セラピーも有効なのかを説明することはできない、また人間の無意識の傷の問題等々も説明することは全くできないのである。それに対して、吉本の理論、吉本の言説においては、そうした事柄のすべてを、根拠づけて説明することができるのである、実感的に認識できるのである、実感を伴った知識として習得できるのである。