本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

佐藤優――(続)WEB上における彼の天皇制論等、その、ほんとうの水準と根本的な諸問題

佐藤優――(続)WEB上における彼の天皇制論等、その、ほんとうの水準と根本的な諸問題

 

 私の予定としては、カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』「神の言葉の受肉――イエス・キリスト(その5 待望の時間144−201頁)を整理し書くつもりでいたのだが、その前に、日本キリスト教団に属する一教会員として、同じ日本キリスト教団に属しているらしい天皇制論の本質的な問題を棚上げにしたままその問題を皮相的に出鱈目に発言している佐藤優のそれを論じておく必要が不可避なことだと思え、先ずは、彼の、根本的な問題のある、軽薄な、天皇制論を述べておきたいと思う。この場合、佐藤の、そうした、また復古的・退行的な、天皇の<「権威」>擁護等を主張する天皇制論を論じる前に、先ず以て、単なる学問や単なる知識や単なる駄弁ではないところの、天皇制国家下における自らの戦争体験の思想化を介した、すなわち学問・知識を包括し止揚した思想の言葉で語られている、また、天皇制の問題を追究することは「同時に日本の知識の問題、社会の問題、文化の問題、あるいは制度の問題を総ざらいすること」であると語った、吉本隆明の天皇制論を述べてみたいと思う。その方が、この記事を読まれる方にとって、天皇制論について、きっと思想的な知識的な深化も豊富化も得られるし・理解も得られると考えるので、そうしたいと思う。資料は――
吉本:
1)吉本隆明×笠原芳光(インタビュアー)『<信>の構造 3――吉本隆明全天皇制・宗教論集成』「天皇制および日本宗教の諸問題」春秋社
2)吉本隆明・赤坂憲雄『天皇制の基層』「天皇制論の視座」作品社
佐藤の天皇制論等についてのWEB上の資料:
1)田原総一郎VS佐藤優『第三次世界大戦』左巻「第4章日本」、『文学界』文芸春秋社
2)2012年3月号の「玄侑宗久×佐藤優 福島と沖縄から『日本』を読む」
3)佐藤優・魚住昭『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社、加藤陽子・佐藤優・福田和也の鼎談『危機下の宰層相――原敬と「おとな」の政治』福田和也クォリティマガジン

 

吉本隆明×笠原芳光(インタビュアー)『<信>の構造 3――吉本隆明全天皇制・宗教論集成』「天皇制および日本宗教の諸問題」
(1)戦後過程において、天皇制の無化・相対化の課題を担った、吉本の、戦争体験の思想化の位相――
ア)天皇への身体的危害を加えることの禁止条項である明治憲法の第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」というこの条項は、「子供のときから学校制度の中で教えられ、また、ごく普通の庶民の家族の周辺に雰囲気としてあった」ものである。すなわち、天皇は、日常生活には関係のない非日常的な「雲の上の……存在」として、神聖不可侵な「現人神であるという育ち方をしてきた」。しかし、この人類史のアジア的段階における専制君主の在り方(ディスポティズム)・「神性皇帝」の象徴である天皇は、「戦争」を契機に、不可視的な最大の「無形の権力」・「畏怖する権力」・「威圧する権力」として、「きわどく日常の意識にはいってくるようになった」。この体験から吉本は、戦後の「象徴天皇と民主主義」を容認し、そこにとどまっていたら、そうした天皇制に対する錯誤性や迷妄性から超出できないだろうという認識と自覚から、言い換えればその天皇制の本質を究明し・それを無化し相対化することができなくなってしまうという認識と自覚から、「象徴天皇と民主主義」を容認する進歩的知識人に対して全く「納得」することができなかった。なぜならば、吉本は、観念的な<威力>である<宗教>としての天皇制は、それがたとえ近代主義を骨肉までに受け入れている知識人であろうとも、その思考や知識において、現人神としての天皇という「観点」を同在させてしまうことがあることを、体験的に知っていたからである。その例は、現在でもある。日本キリスト教団に属する著述家で言えば、その例は、復古的退行的な思考や知識や発言を持っている佐藤優や富岡幸一郎である。こういうメディア的著述家の、<たちの悪さ>は、キリスト教界――限定的には、彼らが属している日本キリスト教団であり、一方でイエス・キリストを頭とする神的側面と人間的側面の構造してある教会の人間的側面――のある枠組の閉鎖性の中において、そのような「馬鹿げた(≪似非≫)使徒」(佐藤や冨岡)に聞き入る「馬鹿げたロバをつくりだ」し・量産してしまう点にある(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」)。 

 

イ)「キリスト教の出身」で、現在は「キリスト教にたいへん批判的」な笠原の理解しているキリスト教は、まさしく現在大多数派を占めている自然神学の系譜に属するキリスト教――ローマ・カトリック主義的キリスト教、近代主義的プロテスタント主義キリスト教、アジア的日本的な自然原理に基づく近代主義的プロテスタント主義キリスト教、カルト的キリスト教――であるということはすぐに分かる。それはさておき、笠原は、天皇の神聖性の概念は伊藤博文がキリスト教から得たもので、「キリスト教と天皇制は似ているところがある」と述べている。それに対して、吉本は、それは違う、ということを、歴史を大和朝廷以前にまで遡及し考察し追究することで、こう答えている――現象的には、明治政府は、本居宣長や平田篤胤のつくった「天皇は現人神だという宗教的イデオロギー」を、「革命のイデオロギー(≪革命の手段≫)としてつかった」のであるが、現人神の概念を含めて天皇制の本質的な問題は、天皇が、宗教的権力、政治的権力、軍事的権力という、政治と宗教(祭祀)の「統帥権」を持つのは、「天皇制が大和朝廷をつくるまでのあいだだけである」・なぜならば、その後の歴史においては、「天皇は、政治には直接関与しない位置にい」たからである、と。そして、梅原猛や吉本隆明は、『対話 日本の原像』において、次のように述べている。
吉本:
@共同幻想の問題、すなわち制度的政治的問題の観点からすれば、原日本人・原「日本の歴史」と、経済的基盤を農耕に置き、人類史のアジア段階概念における生産様式論、すなわち土地は村落の所有、さらには総括的な共同体の統括者・専制君主のものという土地の総括的な共同体所有と貢納制をとった「天皇家の歴史」・「初期の大和朝廷以降の国家」の歴史は決して同じではなく、前者の歴史の方が後者の歴史よりも「ずっと古く」、人類史における世界普遍的な母胎・母型・原型にまで遡及できるものを持っている。
A神が「高千穂の峰に天降」るという信仰は、「縄文時代あるいは弥生初期からあった巨石・磐座・樹木信仰と同じもの」である。また、「初期の天皇が大和盆地」に入り、「そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰のありかたは、沖縄の聞得大君の即位のやり方と同じ」である。すなわち、それは、「一種の巨石信仰あるいは樹木信仰、……あるいは小高い丘の頂点から神が降りてくる」という類型に入る。聞得大君の即位式・「お新下し」の場所は、ニライカナイからやってくる神々が降臨する御嶽である。とすれば、その信仰は、天皇家・「農耕民に特有な信仰」というよりも、それよりももっと古い、そこに「前からいた先住民」・原日本人の「信仰」と言うことができる。
梅原:
@「仏教も日本に来ると現世肯定の思想となる。これが即身成仏の密教思想とか、現世に浄土をみる日蓮の思想となって現れ」ている。また、天台本覚論のように、日本において仏教は、山川草木悉皆仏性とか「『山川草木悉皆成仏』という考え方」になる。「これは中国でできた考え方ですが、中国では今一つ有力な思想になりません。しかし、こういう考え方が、日本仏教の主流の考え方になったのは、それはやはり、アイヌの思想にはっきり残存しているように、一切の生きとし生きるもの、動物も植物もすべて、人間と同じ魂を持っていて、この世にそれぞれの仮装をつけて現れるにすぎないという考え方が、その根底にあったから」である。「日本の土着宗教の最も基本的な哲学は、……霊の循環」である。「その霊魂が人間・動物・植物みんな共通で、そういう生死の輪廻を無限に繰り返しているという世界観は、人類史における旧石器時代(≪アフリカ的段階≫)の人間に共通したもので、とくに狩猟採集文化が後代まで続いた日本では非常に色濃く残っている」。
A記紀神話を、天皇族・大和朝廷の神からではなく、土俗民の神・土俗の神の方から読む必要がある――「記紀神話を、天つ神からではなく国つ神の方から読むことが可能ではないでしょうか」。「アマツカミ主体」の「記紀史観」においては、日本の国家は、「渡来の農耕民(≪父系≫)が土着の狩猟民(≪母系≫)を支配してつくった国」である。「アマテラスオオミカミというのは明らかに農耕民族の神だし、その孫のニニギノミコトも農耕民族として日本に来た」。しかし、日本には、すでに、「土着のクニツカミ」がいた。したがって、「われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考え」ていく必要がある。

 

ウ)宗教としての天皇制は、「西欧の近代的な思想」も「受け入れる」し、「婚礼の儀式」にあるように「母系制社会の儀式……婿入婚」という「考古学的な古層」も持っている。この宗教としての天皇制は、空間的には「来訪神」であり、時間的には縄文期にまで時代を遡ることができるところの「祖先崇拝」である。来訪神には、地域や地勢によって差異があり、@「小さな島」の村落なら、「海の彼方に原郷」・ニライカナイがあって、「そこから神々がやってくるという信仰」・「水平来訪神」信仰があり、A「盆地の村里」の村落なら、「山の頂」「名だなる樹木を伝わって……上の方から垂直降りて」やってくるという信仰・「垂直来訪神」信仰がある。ここで、問題は、この種族は@の類型に入り、この種族はAの類型に入る、ということを空間的に確定することではなくて、問題は、これらの「信仰がいつからはじまったか」ということを、時間的に縄文期にまで時代を遡って考察し追究していく点にある。したがって、宗教としての天皇制の本質的な課題の究明は、天皇制それ自体を時間的な起点として、「天皇制は騎馬民族で外からやってきた王権だ」と、ということを確定する点にあるわけではない。言い換えれば、宗教としての天皇制の本質的な究明の課題、すなわちその無化・相対化の課題は、「稲作農耕が入ってきた」弥生時代(農耕を経済的基盤とした人類史におけるアジア的段階)の日本の農耕村落共同体や「海辺の村落」(漁村)にあった信仰を考察し追究するだけでなく、もっとそれ以前・天皇制以前にまで、すなわち狩猟採取を経済社会構成の基盤としていた人類史のアフリカ的段階(縄文的段階)――アイヌは「縄文人の末裔で、混血を……避け……孤立した村落をつくって……縄文時代の、信仰から言葉からいろんなものがのこっている」――における「磐座(いわくら)とか樹木信仰」や「社会のあり方」や「言葉のあり方」にまで、歴史的に時代を遡及して考察し追究していく点にある。

 

エ)天皇制――議院内閣制と大統領制
 佐藤は、ここでも、人類史的段階のおける差異性の観点を持たないまま、日本は「『見えない権威』である天皇によって支えられ」てきた・この天皇の宗教的権力が政治的権力を支えてきた・「首相公選制」は、当選した首相に宗教的権力も政治的権力も移行してしまうから、天皇を排除してしまうことになる(≪この言葉には、そうであるからよろしくない、という含意がある≫)、と言うのである。しかし、ほんとうのところは、日本が人類史におけるアジア的段階から完全に超出できない限りは、すなわち、西欧的段階に完全に移行しない限りは、イギリスのような完全な立憲君主制やアメリカのような完全な大統領制にはならない。伊藤博文は「神聖」という概念に、人類史的段階におけるアジア的・「東洋的な神聖君主」という「感性的理解、或いは感情的理解を加え」た。したがって、伊藤の「神聖」の概念は、人類史の西欧近代的な「立憲君主の概念における神聖」と違った水準を持っている。したがって、観念的な威力である宗教としての天皇制は、それを理念・観念において無化し・相対化しない限りは、残存してしまうのである。したがってまた、それは、観念的な遺制としての不可視な<観念的>な威力であるから、近代主義を骨肉にまで受け入れた佐藤や冨岡にも憑依するのである。こうした佐藤の思惟・知識における重大な問題は、それだけでなく、それ以前的な問題として、観念の共同性を本質とする政治的共同性に第一義性・価値を置いて、逆に、現実的な社会に生き生活する個やその現存性に第一義性・価値性を置かないところに、そして大多数の被支配としての一般大衆・一般市民の幸福を第一義的に考え・繰り込み・構想していく観点を持たないところに、あるのである。

 

オ)さまざまな天皇制論に対する、吉本の批判的観点
@天皇制に対する、「アフリカとかアジアとかの王権」に対する、西欧の「民俗学的……構造主義的な理解」・「西欧の民俗学あるいは人類学の思想」における解釈の仕方は、外在的な「外側からの解釈」である。この方法、この解釈の仕方は、一面的部分的であり、「まちがっている」と言える。この考え方の「日本の元祖は山口昌男」である。山口は、人類史的段階における「部族的な段階」でのアフリカ王権の在り方を、無媒介的に日本の天皇制に適用しているのだが、ほんとうは、日本の天皇制は人類史における「<アジア的>段階のディスポティズム」である。また、日本の天皇は「チベットの王」と似ているが、人類史的段階におけるアジア的な原始仏教的「インド的……ヒンズー的」な現人神・生き神様の「ダライ・ラマとはちが」っている。なぜならば、日本の天皇制は、確かに人類史における「<アジア的>段階のディスポティズム」ではあるが、日本の天皇は「仏教圏からはじまって」いるのではなくて、原日本(縄文期)における「一種の部族的な、地域的な原始宗教からはじまっている」と言えるからである。このように、日本の天皇制は、人類史のアフリカ的段階(縄文期)における原始宗教からはじまっているという意味では、山口のアフリカ的王権説も通用する点があるとは言える。したがって、この外在的な「外側からの解釈」は、内在的な「体験的な天皇制、つまり、内部体験……を底のほうまでえぐる」方法を持たないから、その本質にまで届くような考察と追究をすることはできない、すなわちその方法では天皇制を無化し・相対化することはできない。
A日本民俗学の創始者の柳田國男や折口信夫は、人類学的な知識を知っていながらそれを意識して使わず、「内部の文献と、内部を歩いて集めた村落の習俗」に依拠する方法をとっている。しかし、この方法も、一面的部分的である。すなわち、柳田の民俗学も、折口の民俗学や国語学も、人類史のアジア的段階以前にまで、「農耕社会」以前の縄文期にまで歴史的な時間をもっと遡って考察し追究しなければならない。
 したがって、ほんとうは、人類史段階における西洋近代・「『外部』とはなにかをとくこと」が、人類史的段階におけるアジア的日本・「内部の民俗、習俗を解くことと同じこと」という方法が必要なのである。史観の拡張の課題として、現在を止揚することは、人類史をアジア的段階の以前、すなわち人類史の母系・母胎・原型であるアフリカ的段階(縄文的段階)にまで遡及し考察し追究していくことと同じことという方法が必要なのである。
Bマルクスのインドを基盤としたアジア的段階概念で、今でも成立し通用するのは、「ひとつは、専制主義の大きな仕事は、水利・感慨をやることだったという指摘」・「それから制度は、一種の現物貢納制で、穀物なら穀物、織物なら織物を、そのまま税金として取るということ」・「もう一つは、外来の敵が来たら、それと戦うだけの軍事力を直接把握しているということ」、の三つである。

 

カ)人類史のアジア的段階における農耕社会とそれ以前の狩猟採取社会との「境界点」にある信仰は、土俗的な「地母神信仰」・「性神信仰」――田の神の儀式(「共同体の(≪農耕の≫)神」信仰・共同の幻想)における「苗代の植え付けのときから、田圃で男女が性的模擬行為」の「踊りをして豊穣を祈り(「性の神」信仰・対幻想)、それから田植えがはじまる」という儀式、弥生期にも出土するが、縄文期の土偶(女性像)を食物をつくる場所に埋めて行う儀式――であが、それは、アジア的段階よりももっと以前の縄文的段階に属している。そして、「習俗的、神話的なところから推察される社会は、母系的な社会」・母系制社会である。この「性神信仰」の起源は、「耕作と穀物を実らせるとということが日常の生活の中に入ってきた」「縄文の晩期」にある。したがって、人類史のアジア的段階の弥生期以降においては、「性の神」(対幻想)と「共同体の神」(農耕神・共同幻想)とが「混淆した……層」として現れる。

 

キ)山川草木に神が宿り、そこで「人の名前……は神様の名前」であるが、「地名が同時に人名であったり、地名が同時にその土地の形(地勢)をあらわ」したり、人名に「大山とか、小川とか、自然の名前をつける」という在り方は、「日本の原始的な自然宗教のおおきな特徴」であり、それは、人類史的段階における「縄文時代のたいへん早い時期からの宗教のかたちの名残り」である。

 

ク)現前化されているさまざまな「永遠の問題」(永続的問題)と「現在の緊急の問題」に対する、その課題の本質とその解決の方途とを探求しようとする時、@「永遠の問題としてだけ解いても、ちがって」くる。すなわち、そうした場合は、「『宗教』になってしまう」。また、一方で、「緊急の問題としてだけ解こうとしても」、間違ってしまう。すなわち、そうした場合は、「政治」・党派的思想・党派的共同性・党派的多元主義になってしまう。したがって、両者を同在的に扱い、その課題の本質とその解決の方途とを探求する必要がある。親鸞の場合、「信仰は不信を含んでいる。だから、信仰者としての親鸞は、不信者としての悪人よりも下位にあるという独特の包括の仕方をとってい」る。親鸞の信仰・「宗教の問題」(信仰・宗教の言葉)は、「思想の問題」(思想の言葉)である。したがって、親鸞は思想家であり、「親鸞の宗教的な運動」は、「当時における思想運動」である。宗教の言葉で語られた親鸞の往還思想は、現在だけでなく未来に生きる思想の水準を獲得している。
 バルトの啓示認識・啓示信仰・啓示神学の言葉も、同じ水準にあるものである。すなわち、神学における<思想家>であるバルトは、そのあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)を、究極的包括的総体的永遠的に信・知(神学)・キリスト者(教)の側に――言わば、全人間・全世界・全人類の、神性を本質とするイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)の側に――包括し止揚して両者を架橋することができる、その信仰・神学の原理、その認識方法と概念構成の唯一無比な根拠・立脚点・原動力の場所を、ローマ書3・23やガラテヤ書2・16等の「イエスの信仰」の属格を主格的属格として理解するところに置き、そこに信頼し固執したのである。このような神学における<思想の言葉>において、バルトは、信・知(神学)・キリスト教を語ったのである。にもかかわらず、バルト読みのバルト知らずの、思想なき、原理なき、方法論なき、論理的整合性と論理的一貫性なき、佐藤は、このことが理解できないのである。だから、馬鹿げた似非使徒である佐藤は、やはり外在的皮相的場当たり的出鱈目に「何か宗教という言葉ではない言葉で提示しないといけない」、と言ってしまうのである。その佐藤は、ほんとうは真剣にキリスト者として担うべき、フォイエルバッハの宗教批判やハイデッガーの揶揄し批判した「存在者レベルでの神」・その「神への信仰」という課題を、すなわち神学における思想の課題を、理解せず・担わず、読者を煙に巻くかたちで、いつもただ、「宗教」、「宗教」、と言っているだけなのである。ほんとうに、もう、佐藤や冨岡は、馬鹿げた似非使徒を演じるのをやめて欲しい。

 

吉本隆明・赤坂憲雄『天皇制の基層』「天皇制論の視座」
(2)戦後過程において、天皇制の無化・相対化の課題を担った、吉本の、戦争体験の思想化の位相――
ア)一方に、大正デモクラシーの世代があり、他方に、吉本と同じ世代でありながら、その数年差で「スターリン主義の匂い」を嗅いだ中野重治・大杉栄等の「日本のマルクス主義とアナキズムを主体とする左翼思想」を体験した者たちがあった。大衆的「神聖天皇の雰囲気のなかに入っていた」吉本は、「文学青年」として、「近代主義的な自我意識の体験」もし、「知識の目覚め」・「内面の眼め」の体験もしたが、彼は、「神聖天皇というところで大衆体験と同じところにいた」。言い換えれば、「神聖天皇制の理念」を持っていた吉本は、体験から見たら多数派の大衆に属していたが、知識の方から見たら少数派の知識人に属していた。また、そうした吉本は、その理念をもっと先鋭化していけば、「いわゆる青年将校たちの事件、二・二六事件とか五・一五事件とかに象徴的に鋭く出されて行ったもの」へと通底していくと理解した。ここには、「階層論」――大衆から「孤立して閉じた共同性のなかだけで成り立っている」知識人や支配層の天皇認識と大衆のそれとの落差の問題)と、「知識論」――知識の自立の課題――という二重の問題がある。
 さて、
@戦争中は「近代主義的な、知識人として……多数派」に属していた『文化防衛論』を著わした三島由紀夫の天皇制論議は、「文化意識としての天皇制の問題」、すなわち現人神理念の政治的翻訳としての天皇の「軍事問題に関する栄誉大権」の付与にある。
Aデモクラシーの概念や民本主義をよく知っていた和辻哲郎や津田左右吉等の「オールド・リベラリストたちの考え方を政治理念として集約しているのは、吉野作造の天皇機関説」である。すなわち、彼らは、明治憲法の第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と第3条の天皇の神聖不可侵条項を「カッコに入れておけば、……近代天皇制」、すなわち天皇は「憲法に規定された一種の機関」という天皇機関説が成り立つ、と考えた。この国家に直通する知識人の法的言語である天皇機関説が「嘘」である理由は、第1条と第3条は、「あまり近代意識をもっていなかった一般大衆にたいして、ものすごい威力を及」ぼすものであったからである。言い換えれば、彼らのそれ(その説・知識)は、大衆の天皇制体験(その認識・感情)をその知識に繰り込めなかった分、大衆から閉じられ乖離した党派的思想・党派的知識人共同性のそれでしかなかった。少数派の知識人の吉本にとってもそうであった。このように、天皇制体験の本質は、第1条と第3条にあった、と言うことができる。
B戦後、オールド・リベラリストの和辻も津田も、ただ周囲の環境や時代が変わっただけという認識の下で、戦後「全部といってよいほど天皇制擁護に回った」。それに対してコミュンテルン「32年テーゼの延長線上で天皇を否定しろという論議が、……左翼から澎湃(ほうはい)として起こった」。
Cこうしたことに対して、吉本は「異和を感じた」。
Dまた、戦後の象徴天皇制に対しても、吉本は「異和を感じた」。なぜならば、この「象徴」の概念は、広義に解釈すれば、「国民統合の象徴としてふるまった」・ふるまう、ということで、天皇には「どんなふるまい」も可能となるからである。
E「万世一系」という概念は、歴史的にはそのようなことあり得ないのであって、それは、あくまでも日本的な「神話と伝承によらなければ成り立たない」概念であり・規定でしかないものである。にもかかわらず、『はじめての宗教論』で、「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学が不可欠なのです。神学的な操作(≪非神話化等の操作≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像をもっているキリスト教を信じることはできないということです」、と述べた馬鹿げた似非使徒の佐藤は、『第三次世界大戦』における発言で、「天皇は権威」として、「理屈のない世界の存在として」「あくまでも(≪その≫)歴史と伝統を守るべきだ」、と言うのである。これだけ見ても、佐藤には、天皇制に対する客観的な歴史的視点も、思想的課題も、天皇制を論じる場合の方法論も・論理的整合性も・論理的一貫性も、全くないのである、場当たり的なのである。
F象徴天皇制は、民衆の中で、意識的にか無意識的にか一般化している・「市民社会の基礎になっている」・「市民主義的理念の基礎になっている」。そうすると、昭和天皇の逝去のとき「皇居前で砂利の上に座って伏し拝んでいた人たち」とそれを見て「土人だ」と理解した浅田彰は、その市民的一般性からはみ出した少数派となる。それに対して、やはり少数派である吉本は、象徴天皇制が<無意識的>な市民社会の一般性としてあるという意味でそのことを肯定せざるをないとしても、「理念として」は「全面的に否定」である、<象徴天皇制>の憲法規定も削除すべきである、と述べている。したがって、吉本は、「天皇制」や「天皇」は「全部なしに」する必要がある、すなわち、天皇制の本質は、天皇個人の問題や、「支配共同体の政治的機能」にはないから、その天皇制の本質(共同の幻想として最大の「無形の権力」・「畏怖する権力」・「威圧する権力」)を理念において無化し相対化しなければならない、と述べるのである。そうするために、吉本は、天皇制以前にまで歴史を遡及し考察し追究する必要がある、と述べるのである。
 したがって、天皇個人に戦争責任があるという場合、「出兵に関する絶対権限」・大権である「統帥権」にまつわる責任はある、と言うことができる。もう一つは、天皇が「現人神だと考えなければ命を的にできない」ということで「行動」し・「生き」・「死んだ」「多数の民衆」に対しても、責任がある、と言うことができる。にもかかわらず、佐藤は、加藤陽子・佐藤優・福田和也の鼎談『危機下の宰層相――原敬と「おとな」の政治』で、「東電の幹部たち」などは「統帥権」の技法で、エリートに「恐怖を越え」させるような「新しい思想」――ただ単なる軍隊組織的な技術論でしかないにもかかわらず、馬鹿げた似非使徒の佐藤は、これを「思想」と言うのである――が「必要だ」と言うのである。また、この佐藤は、2011年「3月16日」の天皇のビデオメッセージにある「人びとの雄々しさに深く胸を撃たれた」という言葉は、天皇大権である「統帥権の発動」だと言うのである。これが、馬鹿げた似非使徒のほんとうの正体なのである。それでも、心ある神学者や牧師や著述家たちは、このような佐藤を、根本的に批判しないのだろうか……。もしそうであるならば、戦後に、戦争責任を告白した日本キリスト教団の戦後過程は、いったい何だったのだろうか……。バルトは、次のように述べている――第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった1933年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」。「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した。「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(カール・バルト『バルト自伝』)。

 

イ)天皇の、外在的な政治的権力の形態や支配共同体の形態は、時代的に変化する。明治以降の天皇制支配共同体の政治的権力は、「朝廷」から、「元勲層」(「明治維新の変化の担い手だった下層武士」が中心・公家の「岩倉具視」もいた)へと移行した。この「元勲層」は、「朝廷とお同じように、公私両方にわたって、つまり宗教的な権威と機能的な権威、あるいは制度と天皇の私性、そういうものをいつでも表と裏にできるようなかたちで機能して」いた。「元勲層のある人が制度上の貴族院議長……男爵」等の「公的な意味もありますけど、私的な意味でも」天皇は、私的なことを決める時には気の置けない「元勲に……相談」した。そして、「公的な場面に元勲層」が登場する。元勲層は、政治的機能・制度的機能としては権限がないにもかかわらず、「政治的な役割を発揮」していた。

 

ウ)天皇制の問題を天皇制からはじめて天皇制で終わらせる、赤坂の論じ方に対して、吉本は、次のような批判を加えている。
@天皇制以前にまで歴史を遡及して考察し追究すれば、村落共同体の一員として住居を定めてそこで生活していた「常民大衆」(日本列島の先住民・原日本人)は、すでに「村はずれの小さな鎮守様」や「村はずれの山の頂にある」岩石や村の「名だなる樹木」等を「祭祀の対象」としていたし、民俗の祖先祭祀を行っていた。したがって、国家水準の支配共同体の天皇が統括的な「宗教的源泉」・「祭祀者」となるためには、そうした天皇制以前に存在していた村落共同体水準の「常民大衆」の自然宗教・祖先祭祀を、「組織化」する必要がある。ここで、国家水準を有した共同体とは、村落共同体の自己防衛組織の連合体は<権力>としての国家水準を獲得することはできないから、村落共同体の連合体の「第三の勢力」・武力的な政治的権力、すなわち一部支配上層の意思によって発動できる軍事組織を揚した支配共同体に移行した水準にあったそれのことである。そして、日本の場合は、支配共同体が下層の村落共同体を「接ぎ木」するという政治的技法(支配と被支配の均衡点を見出す調整方法)がとられた。したがって、宗教が国家宗教としての水準を獲得するためには、「祭祀力の組織化」が必要となる。南島の問題でいえば、琉球王朝における、村落共同体のユタではなく、その組織的制度的表現であったノロの最高位としての聞得大君を必要とした。この「ノロや聞得大君の継承の祭儀」は、天皇の国家的な宗教的<威力>の授受である「大嘗祭の祭儀」と共通している。言い換えれば、その祭儀は、天皇制に固有なものではない。再度述べれば、ここで重要なことは、天皇が支配共同体の「宗教的源泉」・統括的な「祭祀者」であるためには、支配の側は、天皇制より「ずっと以前」から存在していた先住・原日本の村落共同体の原日本人・「常民大衆の祭祀」を、組織的制度的に「接ぎ木」しなければならなかった、という点にある。
Aしたがって、「神話的な歴史の記述の中にある天皇が祭祀者として宗教的な権威の頂点になっている記述」にとどまっていては天皇制を無化し相対化できないから、その天皇制以前にまで、すなわち人類史の縄文期段階(アフリカ的段階)の「母系的な祭祀の段階」にまで歴史的に時間を遡及して考察し追究していく必要がある。そうすると、ほんとうは、本来的には、宗教的権威は、女性にあった段階に辿り着く。にもかかわらず、『記』・『紀』の段階になると「男性優位の記述」・「男性の天皇に宗教的権威がある記述」になってくる。このことは、組織的制度的な接ぎ木・政治的調整がされた、ということを意味している。しかし、ほんとうは、「天皇家は、初期王朝から母系制」だった。なぜならば、『記』・『紀』によれば、神武天皇の宮殿は「橿原地方にあったかと思うと、二代の綏靖」天皇のときには宮殿が変わっている・このように「一代ごとに宮殿が変わるのは、女の人の方に入り婿」する婿入婚だったからである。したがって、神武天皇に、宗教的権威・祭祀権限があったと言い切ることはできない。
 このような考察もしないで、聖書の神や聖書の歴史認識に対しては近代主義者として振る舞うにもかかわらず、天皇制に対しては錯誤性と迷妄性を容認して、即自的な「権威」としての天皇制を擁護する佐藤優(軽薄に靖国神社を参拝した、バルト読みのバルト知らずの富岡幸一郎も同じ穴のむじなと言える)は、田原総一郎との対談で、「天皇は祀り主」で、その天皇は「男性」で「千数百年続き」、それは「日本の歴史と伝統」であるから、「皇統が女性ではまずい」と発言しているのである。近代主義者で、歴史を重んじる割には、佐藤は、錯誤性と迷妄性の只中で、軽薄で場当たり的で出鱈目な発言を平然としているのである。
B吉本が、天皇制の経緯について関心を持ち、天皇制成立以前にまで歴史を遡及して批判的に考察し究明し論じる、モチーフは――
◎戦争体験・天皇制体験の思想化と、
◎「日本列島に人間が住み始めたの別に(≪人類史のアジア的段階における≫)天皇制からはじまる」わけではなくて、それ以前「数千年はおろか数万年前から」・人類史のアフリカ的段階(縄文的段階)からである、という認識と自覚と、
◎人類史の縄文的段階における先住の日本人・原日本人は、例えば宗教祭祀においても、天皇制とは違う宗教祭祀をしていた。すなわち、彼らは、「収穫の豊穣を願う」祭祀、「多くの場合に妊娠している女性像を土でつく」り「素焼」した土偶を食物をつくる場所に埋める儀式を習俗として行っていた。したがって、この先住民・原日本人の「社会」・「宗教」・「生活」・「狩猟の仕方」(アイヌの熊送りの祭祀等)にまで歴史的に時間を遡及して考察し追究していかなければ、その認識は一面的部分的なそれとして、根本的な誤謬を犯すことになり、根本的な誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ることになる。したがってまた、天皇制が「主体」ではなくて、原日本・原日本人が「主体」・起源である、という認識と自覚が必要である。そうでない場合、その思考・その認識・その知識は、錯誤性と迷妄性の只中におけるそれでしかなくなる。言い換えれば、天皇制は、この先住民・原日本人の宗教祭祀、習俗、心性、文化を、天皇制の宗教、法、制度に接ぎ木して支配を完成させたのであるが、そうした天皇制の支配に対して、村落共同体の「常民大衆」は、天皇制的なものを「自らが所有してきたそれ以上のものとして」錯誤することで、支配に繰り込まれていった。また被支配層は、支配の暴政や圧政に対しても、天然自然の災害を受け入れるように受け入れて行った、という認識と自覚と、
◎「精神的な絶対的帰依として天皇信仰」が成立した根拠は、天皇制以前にすでに存在していたところの、民俗の祖先祭祀という「精神的な絶対的帰依としての対象」にあるのであって、支配はそれを組織化・制度化(接ぎ木)したのである。この支配における接ぎ木の構造に、天皇制の本質的な問題はある。したがって、天皇制の問題は、人類史のアジア的段階において、天皇制で始まり天皇制で終わらせてはならないのである――この認識から、私たちは、第一に、近代歴史学の問題から言えば、経済的基盤を農耕に置いたアジア的段階の天皇制の権力の起源は、弥生時代以降であるのだが、もしも完全に日本が西欧化すれば、そうした面の天皇制は完全に消滅することになる、と言う。しかし、第二に、日本基督教団に属するという馬鹿げた似非使徒の、近代主義を骨肉にまで受け入れた自然神学的な佐藤優や富岡幸一郎の天皇制論や靖国参拝の駄弁や即自的な退行的復古的な発言や著作の出現は、そうした彼らの自己意識(自己幻想)を、そうしたアジア的段階にある天皇制的な観念的遺制・観念的威力(共同幻想)が侵食している証左でもある、と言う――、という認識と自覚と、
◎昭和天皇の大嘗祭のパンフレットによると、「南洋の風習としてある祭式に似ていて掘っ立て小屋を二つ建てて」行われる。ただ、制度として荘厳化されている、「昭和天皇の葬儀」も、「棺の入っている神輿を衣冠束帯の姿の人がかつで行き、「その前後を太鼓をもったり幟をもったりした人が……ついていく」。「それを見て(≪吉本が≫)……連想した」ことは、「行列」をつくって、「幟をたくさんもって、棺桶を親戚縁者がかついで……お墓まで歩いて」く「田舎の葬式」である。ただ、制度として荘厳化されている、という認識と自覚
にある。

 

エ)接ぎ木の構造と天皇制無化・相対化の課題とは、次のようなものである――
◎日本語という場合、その日本語は、一般的に8世紀以降、すなわち奈良時代以降の日本語について言われるように、「日本民族」も、「文化的、……言語的に統一性をもった」ところの「統一国家が成立した以降」(吉本隆明『敗北の構造』「敗北の構造」)について言われる。しかし、奈良時代以降の日本語と起源としての日本語との間には差異があるように、日本民族と起源としての日本人(原日本人)との間にも差異がある。それはなぜかと言えば、支配としての天皇制「統一国家を成立せしめた勢力の共同幻想」は、被支配としての先住民(起源としての日本人)の共同体における「法、宗教、……風俗、習慣」等の「共同幻想」と「接木」を行うことによって成立しているからである(『敗北の構造』「南島論」)。
◎経済的社会構成を農耕においていた支配としての大和朝廷はその法構成において、被支配の先住民に属する呪術的・婚姻的な部分を国津罪として下位に残し、その国津罪に支配の法に属する農耕的な天津罪を「接木」することによって、支配と被支配との均衡を企てた。
◎天皇制無化・相対化の課題を旧日本語の問題として扱うこと――それは、日本「民族あるいは種族としての言葉以前、つまり種族語になる以前の言葉」にまで遡及して考察することである。「種族語になる以前の言葉」すなわち旧日本語は約「30%から40%くらいの割合で、南と北の方の言葉にのこっている」。例えば「琉球語とか、もっと先の八重山語というふうに限定してもいいんですが、そこでは三母音……『あいう』しかないと考えます」。「例えば『雲(くも)』という言葉は五母音(中略)だけど、三母音だとしたら『O』がないから『くむ』になるわけです。琉球語では『雲』のことを『くむ』と発音します」(吉本隆明・北山修『こころから言葉へ』弘文堂)。吉本は、「三母音の言葉の方が古くからあり、日本語の基層になっている」、と述べている(吉本隆明他『吉本隆明の文化学』三交社)。「奈良朝以後に、漢字を借りて表意的、また表音的に文字に表されて古典語とか近代語とか呼ばれているものを日本語とかんがえると、日本語という枠組みからはみだしてしまう表意や表音」があり、「それは『記』『紀』の神話や神名のなかに、また『万葉』や『おもろさうし』や『アイヌの神話』や日本列島の『地名』のなかに、遺出物のように保管されている。そこで文字表記がなされなかった以前まで遡行して、日本語とはなにかを考える必要がある」(吉本隆明『母型論』学習研究社)。
◎天皇制の無化・相対化の課題を日本における宗教祭儀の問題として扱うこと――それは、南島・琉球の視点から宗教的祭儀を調べ、その新しい形態とその古形を調べることで、天皇制固有のものとされてきた宗教祭儀を無化・相対化することである。宗教性の基本的性格は、ひとつは、祖先を信仰するという、南島に「宝庫のごとく保存されている一種の祖霊信仰」にある。この宗教性の段階では,「宗教性の観念が、少なくとも家族の共同性から逸脱しないで出てくる」。もうひとつは、「海の向こうには神の国」・「常世の国」・「ニライカナイ」があって、「そこから神がやって来て村々にお祝いをしてまた帰って行くという、来迎神信仰」があり、その本質は「それが共同宗教だという点」にある。この「来迎神信仰にともなって、まず田の神信仰、稲作到来信仰が現れる」。それが共同宗教という意味で、それは支配へと至るところの、マルクスのいう宗教から法へ、法から国家へと登りつめる権力としての宗教である。前者の祖霊崇拝と、後者の来迎神信仰との混在として現れたのが、「日本の<本土>でいえば、近代国家における天皇制、あるいは天皇における世襲祭儀、つまり大嘗祭」の中にある。そうした「宗教的威力、権力が、どのように継承されるかというのが、大嘗祭の問題」である。世襲祭儀には、氏族共同体から前氏族共同体の範疇を出ないところで成立していた南島のノロ継承祭儀、琉球王朝における制度的表現であったノロの最高位としての聞得大君になるための<御新下り>儀式、天皇の世襲大嘗祭の儀式があり、その「共同宗教としての祭儀の中に、農耕祭儀的な要素が見え隠れする」ところに三者の共通性がある。「ノロや聞得大君の継承の祭儀と天皇の大嘗祭の祭儀に共通するのは、あくまでも宗教的<威力>の授受なのですが、同時にその祭儀には、農耕祭儀、稲作祭儀のあり方が、潜在的に見え隠れしていること」が分かる。そして、「地域的な相異は時間的な相異に変換できるという考え方からゆきますと、田の神行事とかノロ継承の行事のほうが、天皇の世襲大嘗祭や聞得大君の御新下りより、(中略)時間的に古形を保存している」といっていい。ところで、近代国家を<政治的国家>として捉えるということは、資本主義社会を前提とするということである。つまり現在、産業構造的には天皇制の基盤であった農耕・農耕村落共同体は解体されているから、政治権力としての天皇制・制度としての天皇制ファシズムはほとんど解体していると言える。それだけではなく、戦後憲法の象徴天皇制の規定により、憲法上も政治権力としての天皇制の問題は終焉していると言える。しかし、天皇制は「現在、資本主義の〈影の部分〉」として、「〈政治〉的な標的としては副次的なものに過ぎない」が、「<歴史>的に根底をつきくずさなければ」「一木一草にまで染みついているという問題は解決」できない、すなわちその問題を止揚し無化することはできない。政治的権力と宗教的権力を有した天皇制が成立していたのは奈良朝以前の初期天皇制の時期だけであり、天皇制的な専制君主が、「機構化されたのは律令官制による」が、「日本的なデスポットとしての天皇制」の特徴的威力は、「政治的権力に直接たずさわっているときも、間近にあるときも、遠ざかって棚上げされているときも、<天皇制>が一貫してその背後に<観念>的な<威力>を発揮していたという事実にある」(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」筑摩書房)。すなわち、国家を共同幻想の一形態と考えず、土台――上部構造論において天皇制の問題を扱えば、戦後資本主義の成熟と高度化、すなわち市民社会の成熟によって天皇制の問題はほぼ解体・終焉したことになるが、天皇制のもうひとつの側面である宗教的権力(宗教的威力)・共同幻想としての天皇制は観念的遺制として今も残存しつづけているのである。宗教性としての天皇制は、観念的遺制として残存しつづけているから、いつでも、日本の自然思想の伝統である世界普遍性を無視した民族性を強調する権力は復古してくるだろうし、また自己と異質な外部的な産業的思考や個人主義的思考に対しても「権力」として復古してくるだろう。したがって、その起源である大和朝廷が成立した以前にまで過去を遡及して考察し究明し、そうした自然思想の伝統を無化していく必要があるのである。
◎天皇制無化・相対化の課題を現人神の問題として扱うこと――それは、大和朝廷以前から、すなわち現人神信仰は、人類史の縄文的段階から日本列島に存在していたことを示すことで、天皇制固有のものとされてきた現人神信仰を無化・相対化することができる。その名残は、例えば、「諏訪神社」にある「大祝(おおはふり)」(男の覡かんなぎ)=現人神信仰――「神話時代から男性が磐座の上で即位」する儀式を行い「代々の御神託を授けられる」。それ以降は、現人神となる――がそれである。天皇制は、縄文期から存続していたそうした現人神信仰を接ぎ木した、組織的制度的に集約した。したがって、天皇制における現人神信仰があって、大祝があるのではなく、天皇制の前にすでに大祝=現人神信仰があった、ということが、天皇制にまつわる錯誤性や迷妄性から超出するための重要な点となるのである。
 長谷川美千子という埼玉大学教授は、憲法の象徴天皇制の規定は「曖昧な言葉」だとして、退行的復古的に、その実質を天皇の寛容な「祈る者」としての宗教的側面におくべきことを生真面目に論じていた(『文芸春秋3月特別号』文芸春秋)。この教授の問題点は、佐藤と同じく、世界史的観点を持たず、したがって、人類史における8世紀以前の日本(縄文期、起源としての日本や日本人)にまで歴史的に時間を遡及して考察せずに、8世紀編纂の『古事記』に固定的に依拠しながら、軽薄に、平然と、宗教的側面としての天皇の祈りを人類のための始源的な祈りだ・天皇を中心とした日本が世界のすべてだ、と錯誤し迷妄していくところにある。

 

佐藤優の天皇制論等
(1)田原総一郎VS佐藤優『第三次世界大戦』左巻「第4章日本」、『文学界』文芸春秋社
 天皇は、「祀り主」という伝統的存在であり、「権威」的存在であから、現在ある近代的な「人権思想」を適用することはできないから、「女系天皇も女性天皇も両方ダメ」である。「理屈のない世界の存在として、あくまで歴史と伝統を守るべきだ」――ここで、佐藤の言う歴史は、客観的な歴史ではないのである。軽薄で出鱈目な佐藤だけに通用する歴史なのである。知識でも学問でもないのである。ここで、佐藤は、『はじめての宗教論』における語り方とは違って、天皇制に関しては、非論理性も錯誤性も迷妄性も容認すべきだ、と言っているのである。佐藤には、ほんとうは、思想もない、論理もない、論理的整合性もない、論理的一貫性もない、のである。佐藤は、場当たり的なのである。
 「人間的なものを皇室に求めるのは間違い」。この言い方からは、概念的には、皇室は、アジア的日本的な無なる存在か、あるいは神かどちらかでしかないことになる。ここではもう、佐藤は、自然神学の系譜に属する領域をも飛び出してしまって、佐藤の恣意性による党派的多元主義に基づく天皇制的な新興宗教の教祖になっている。
 雅子さんには、基本的人権がない、という田原の問いに対して佐藤は、「自己責任」だ、と言うだけでなく、「(≪佐藤は≫)基本的に外務省出身者に対しては冷たい」とも述べている。この後者の言葉に、学業の優等生・東大・ハーバード大・オックスフォード大・キャリア組官僚・エリートの経歴の持ち主の雅子さん――事実主義者の佐藤は、ほんとうは、これらのことはすべて事実なのだから素直に認めるべきなのだ――に対する、異常なコンプレックスを抱いている佐藤を、私たちはすぐに見出すことができる。

 

(2)2012年3月号の『文学界』「玄侑宗久×佐藤優 福島と沖縄から『日本』を読む」
ア)福島原発事故による放射性物質の飛散等の問題について、佐藤は、「科学の発想の枠の中では限界がある。だからといって、信じるか信じないかという信仰のレベルに飛んでいけない」・「連想したのはキリスト教の神学の『終末遅延』という概念です」。この言い方には、やはり、思想がない、論理がない、論理的整合性も論理的一貫性もない。先ず、放射性物質の飛散等の問題は、あくまでも科学的技術的問題であって、今後もそれに基づいて安全に確実に解決の道を探って行く以外にない問題である。それなのに、突然脈絡もなく「終末遅延」の概念が飛び出してくる。なぜこうなってしまうのかは、一目瞭然である。佐藤は、知識あるいは神学のその原理・その認識方法と概念構成を持たないからである。したがって、佐藤の語り方は、意識的にそうしているのか無意識的にそうなってしまうのか分からないが、いつも、場当たり的で、支離滅裂で、読者や聴衆を煙に巻いてしまうそれなのである。
 冨岡と同じように、バルト読みのバルト知らずの佐藤には、バルトの啓示神学におけるその原理・その認識方法と概念構成が理解できないのである。バルトにとって、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の場所だけなのである。そして、その啓示の場所は、主格的属格としての「イエスの信仰」におけるイエス・キリストの啓示の内容である「インマヌエル」――神は、罪深き私たち人間と、「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」、というイエス・キリストにおける啓示の場所なのである。この場所においては、万物に質量(重さ)を与える根元であるヒッグス粒子の概念も、「正直に受け取ることができる」のである。このことは、ヒッグス粒子が発見されても、宇宙の謎の90何%以上が未解明のままであると言われているからではない。たとえ宇宙(自然)の謎が100%解明されそれが人間の対象性として人間的自然となったとしても、それはあくまでも人間によって対象化された宇宙・自然(人間的自然)であって、神そのもの、啓示の実在そのものではないからである。すなわち、バルト神学のその原理・その認識方法と概念構成においては、神そのもの・啓示の実在そのものは、常に、天然自然を含めてそうした人間的自然の彼岸・外にあるからである。このことが、佐藤や冨岡には全く理解できないのである。したがって、現在話題になっているiPS細胞(人工多能性幹細胞)についても事情は変わらない。そのiPS細胞に関する科学や技術の進歩発達およびその知識の増大は、自然史的必然に属する事柄であり、停滞したり逆行したりすることはあり得ない。しかしそれは、人間によって対象化された自然・人間的自然でしかないものであるから、私たちは、ヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果等を、人間的世俗的真理として正直に受け取ることができるのである。バルトの、このようなその神学の原理・認識方法と概念構成が、佐藤や冨岡には全く理解できないのである。このバルトの場所においては、天皇制の問題も、佐藤のように非歴史的に、非論理的に、錯誤性や迷妄性を前提として扱うのではなく、天皇制以前にまで歴史を遡及して考察し追究して、それを無化し相対化していかなければならないのである。

 

イ)佐藤は言う――「バチカンが今なお異端の処分を解いていないのはフス派だけだ」。権力をいつも実体としてしか考えない佐藤は、フスの処刑を外在的事実的にだけ述べている。これで論理の展開は、終わってしまう。したがって、佐藤は、外在的に事実だけを述べて、ローマ教会にある内在的教義的思想的な本質的な問題を提起しなしまま、それゆえに、バルトのように自らの神学のその原理・その認識方法と概念構成それ自体で、自然神学の系譜に属するローマ教会の教義そのものにある内在的思想的な問題――包括的に言えば、自然神学の問題――を根本的に包括し止揚し、そこから超出していく神学における思想の課題も担うことをしないで放棄してしまうのである。この在り方は、国家の問題を扱うときも同じだ。したがって、佐藤には、党派的多元主義者であり権力実体主義者である佐藤自身が、フスを処刑したローマ教会と同じようなことをしてしまう可能性がある、ということを理解できないのである。再度述べるのだが、佐藤は、「東電の幹部たち」などは戦前の「統帥権」に依拠した技法で、エリートに「恐怖を越え」させるような「新しい思想」――それは、ただ単なる軍隊組織的な技術論でしかないにもかかわらず、馬鹿げた似非使徒の佐藤は、これを「思想」と言うのである――が「必要だ」と言うのである。また、この佐藤は、2011年「3月16日」の天皇のビデオメッセージにある「人びとの雄々しさに深く胸を撃たれた」という言葉は、天皇大権の「統帥権の発動」だと言うのである。これが、復古的退行的な思考と発言を行う、軽薄で危険極まりない馬鹿げた似非使徒佐藤の、ほんとうの正体なのである。
 佐藤の「恐怖を越え」させる軍隊組織的な統帥権的技法は、戦前の大衆ナショナリズムにあった「私」にではなく、第一義的に「公」や、共同や、全体に価値や重きをおくところの<滅私奉公>に基づく、立身出世に代表される社会的ナショナリズムや、過剰化された忠君愛国に代表される政治的ナショナリズムの水準にあるものでしかないものなのである(吉本隆明『吉本隆明全著作集14』「国家・家・大衆・知識人」)。これは、再度言えば、退行的復古的な危険な思考であり発言であり扇動である。「明るくて建設的なことをいっている」復古的退行的な佐藤の思考や発言は、吉本が述べているように、現在も「いかにもマスコミ受けするような、明るくて建設的なことをいっている政治家とか知識人とか文化人とかが、一杯います」・しかし、「そんなやつらは、一番ダメで、そんなやつらこそ、一番危ないんです。いざとなった、真っ先に、『戦争をやれっ、やれっ』っていうのは、そんなやつらに決まっています」・したがって、「そんなやつらを信じちゃいけねえということだけは、確実にいえます」((『超「戦争論」下』))、という水準にあるそれである。冨岡も同じ穴のむじな、である。

 

ウ)「資料 佐藤優」には、週刊新潮2012年9月27日の記事も載っていて、その記事で、佐藤は、日本は「『見えない権威』である天皇によって支えられ」てきた・この天皇の宗教的権力が政治的権力を支えてきた・「首相公選制」は、当選した首相に宗教的権力も政治的権力も移行してしまうから、天皇を排除してしまうことになる、と言うのである。私たちは、ここまで軽薄さと錯誤性と迷妄性を自己暴露している馬鹿げた似非使徒佐藤に対して、ただただ呆れ果ててしまうのである。観念的遺制であり観念的威力である宗教としての天皇制の無化・相対化は、天皇制以前にまで歴史的に時間を遡及して考察し追究して、理念において・観念においてそれを無化し・相対化しなければ、「大統領制」になっても、その本質は観念であるから、それは、残存してしまうのである。

 

(3)佐藤優・魚住昭『ナショナリズムという迷宮』朝日新聞社、加藤陽子・佐藤優・福田和也の鼎談『危機下の宰層相――原敬と「おとな」の政治』福田和也クォリティマガジン
ア)佐藤は、「当たり前だと思っていることこそ」思想だ、と言う。やっぱりな、と思った。佐藤には、最初から思想の概念がないから、そう言わざるを得ないのである。また、佐藤は、思想は「対抗思想」だとも言う。ここでも、やっぱりな、と思う。佐藤は党派的多元主義者だから、そう言わざるを得ないのである。佐藤が扱う国家は、即自的事実的国家である――「近代の民主主義の基本は間接民主主義でしょう。(中略)国民によって選ばれた政治家と、試験制度によって選抜された専門家たち(≪官僚機構≫)に国家の運営を任せる。ところが、それが機能していない」・「エリートと大衆の差異は存在するんですが、……自分をエリートだと勘違いしている連中が、自分のためだけにやっているのが現在の政治、行政の特徴です」(玄侑宗久×佐藤優 『福島と沖縄から「日本を読む」』)。先ず以て、最初に言いたいことは、佐藤自身が、「自分をエリートだと勘違いしている」著述家である、ということである。また、私たちは、この言い方の中に、佐藤の<ウソ>をすぐに見つけることができる。なぜならば、最後の方にある「政治、行政」の言葉を「佐藤の発言と著作」という言葉に入れ替えれば、両者が全く同じ水準にあるからである。言い換えれば、佐藤は、思想としての国家の問題、国家についての思想的課題、すなわちその過渡的課題と究極的課題について全く分かっていないのである。したがって、信仰論においても、思想としての信仰の問題、信仰についての思想的課題、すなわちその神学(信)のその原理・その認識方法と概念構成それ自体において、神学(信)における党派的思想・党派的共同性・党派的多元主義を越えるために、信や知キリスト者(教)と不信や非知や非キリスト者(教)とを架橋していく課題、すなわち信や知キリスト者(教)を、そのあるがままの不信や非知や非キリスト者(教)に対して完全に開いていく課題、を佐藤は、全く理解していないし・全く持っていないからである。

 

イ)佐藤は言う――思想とは、戦前「天皇」という言葉だけで「直立不動の姿勢をとる軍人にとって」、「天皇」こそ「思想」そのものだった、そのように「疑念をもたないこと」だ。ここで軍人は、天皇を統帥権者とする、軍隊組織の共同的規範に縛られた一員である。したがって、この佐藤の言葉は、そうした天皇のために、自己意識・自己了解・自己判断を放棄せよ、そうした天皇の「判断と命令に従って歩」け、人間の存在様式の総体性を放棄せよ、そうした共同的人間としてのみ生きよ、ということと同じである。佐藤は、自立思想の課題を持たないし、人間の存在様式の総体性も全く理解していないのである。このように馬鹿げた似非使徒の佐藤は、ほんとうに馬鹿になってしまって、そうした天皇制的観念(共同幻想)に憑依して、明治憲法の第1条・3条に対する錯誤性と迷妄性に基づく服従が、「思想」と言っているのである。近代主義を骨肉にまで受け入れた佐藤の言う思想は、戦前の政治的ナショナリズムの忠君愛国を目指す復古的退行的な水準のそれなのである。いずれにせよ、戦後に、戦争責任の告白をした日本キリスト教団に属しているという佐藤も冨岡も、天皇制それ以前にまで歴史を遡及して考察し追究していく思想的課題も、現在を止揚していく思想的課題も、すべて放棄してしまっているのである。このような佐藤や冨岡の発言や本にある言葉を鵜呑みにしたり模倣したりしたら、人類史におけるアジア的段階を払拭でき得ていない日本の場合、上の方から、制度としての徴兵等々が強いられてくるようになるのではないだろうか? いずれにせよ、吉本が書いていたように、「無知が役にたったためしはない」のである。

 

ウ)佐藤は言う――「思想が転換するきっかけは戦争の殺戮です」。ここでも、佐藤は、外在的皮相的な発言をしている。私たちにとって、思想は、先ず以て、この世界に対する自己自身の内在的な資質や感性における異和性の感受からか、外在的な社会的時代的状況に強いられてか、いずれにせよそうした自己と世界との関係の異和性や問題性の解消と和解という人間的欲求から生み出されるところの、言わば自己の内面から湧出してくる人間的欲求に基づいた自己表出・自己表現欲求・自己解放・自己慰安としてあるだろう。そして、思想は、一切の現実的事実や思想的事実を対象とするだろう。したがって、「戦争の殺戮」が「思想が転換する」契機ではないだろう。ここでも、佐藤の語り方の、外在性一面性皮相性があらわれている。宮沢賢治の往還的な救済思想にとっての第一義性は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという点にあった。この宮沢賢治の言葉を、バルトの神学の言葉で言い換えれば、「イエスの信仰」の主格的属格理解に基づく、イエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済(史)となる。また、聖書の中の言葉(マタイ26・6−13、マルコ14・3−9)を神学における思想の言葉で言えば、イエスに注いだ香油を高く売ればある一部の「貧しい人々に施すことができたのに」とベタニアの女を叱責した弟子たちの往相的な相対的・一面的・部分的・過渡的・緊急的な救済の言葉に対して、イエスは、「なぜ、この人を困らせるのか。わたし(≪神性を本質とする神の「第二の存在の仕方」である啓示と和解そのもののイエス・キリスト≫)に良いことをしてくれたのだ」・「するままにさせておきなさい」という還相的な究極的・包括的・総体的・永遠的な全人間・全世界・全人類の救済の言葉を投げかけているのである。佐藤の『はじめての宗教論』にある、神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」という言い方は、思想の課題にとって、全く以て、相対的・一面的・部分的・過渡的・緊急的な救済の言葉でしかないものなのである。

 

エ)佐藤は言う――「キリスト教は構成がそうとうインチキな宗教です。だから強いんですよ」・「三位一体なんてわかるはずないわけですからね」。私は確信をもって言うことができるのであるが、佐藤は読者に対して役にたつからバルトを読むように薦めているけれども、彼自身は、バルト読みのバルト知らずとして、バルトを根本的に理解していないのである。したがって、佐藤は、読者に対して、理解してもいないのに、大見得を切って、トマスの『神学大全』とバルトの『教会教義学』を読んでおけば「神学の概略がどうなっているか理解できるはず」だと述べているのであるが、そしてやはり私は確信をもって言うことができるのであるが、佐藤はバルトの『教会教義学』を理解する上で最も重要な『教会教義学 神の言葉』を全く理解していない、と言うことができる。そのような佐藤は、メディア受けのために、そして読者や聴衆を煙に巻くために、「インチキな宗教」・「三位一体なんてわかるはずない(≪ほんとうは、佐藤は、ただ、その事柄を論じる神学的な能力がないからそう言わざるを得ないことを、そのことを、正直に告白すべきなのだ!≫)」・「宗教」――フォイエルバッハの宗教批判や、ハイデッガーの揶揄し批判した「存在者レベルでの神」やその「神への信仰」を、その神学の原理・その新式方法と概念構成それ自体で包括し止揚して、「超自然な神学」へと超出したバルトの場合は、「宗教」という概念は成立しないのだ。こうした概念的問題についても、佐藤は全く理解していないのである。すなわち、佐藤の発言は、思想や論理や論理的整合性や論理的一貫性のない、出鱈目で「インチキ」なそれなのである――という言葉を使うのである。

 

 

 最後に、いずれにせよ、戦後に、戦争責任の告白をした日本キリスト教団に属する心ある神学者や牧師や著述家は、その教団に属すると称している軽薄で出鱈目な佐藤優や富岡幸一郎に対して、ほんとうは、不可避な問題として、根本的な批判を加えるべき責任があると考えるのであるが、両者に対してそうした根本的な批判を加えた人たちがいるのか知りたいと思う。そして、もしも幸いにもそうした心ある人がいるとすれば、その人たちのことを教えて頂きたいと思う。