佐藤優――WEB上における彼の教育論、宗教論、神学論、国家論等、その、ほんとうの水準と根本的な諸問題
佐藤優――WEB上における彼の教育論、宗教論、神学論、国家論等、その、ほんとうの水準と根本的な諸問題
私が見・読んだ限りでの佐藤優自身が発言している記事の、そのほんとうの水準と根本的な諸問題について、述べてみたい。
(1)“佐藤優の教育論『子どもの教養の育て方』「本当に力がつく本の読み方」(特別編その3)、東洋経済オンライン版”には、こうある――
ア)佐藤は、「近代になると……合理的に描写するという、自然科学的な発想が必要となってきたのです。それが写生文です。それによって、近代的な散文が確立してきたわけです。近代散文法がないと、産業は発達しません」、と述べている。先ず、この佐藤の発言の問題は、「近代」の特徴を「合理的」な「<自然科学>的発想」に置いて、<自然>科学を前景化・全体化して語り、人文科学や社会科学を後景に退けてしまっている、点にある。ほんとうは、次のように言うべきである。@産業の発達――その産業構造の高度化・拡大は、自然史的必然に属しており、「近代散文法」とは直接的な関係はない。科学・技術や生産様式の発達、産業の発達は、遅延させることはできても逆行(退行)させたりすることはできないものである。この意味で、エコロジーの極限に想定される天然自然<主義>は錯誤でしかないものである。と同時に、A人間存在の総体性にとっては、「経済的範疇というものもまた部分」にすぎず、近代の宗教的形態である科学<主義>における「科学が発達し、技術が発達し、未来が描けるというような考え方」は、部分でしかない科学を全体として錯誤するところにある。B「社会の経済的な、あるいは生産的な、あるいは技術的な発達」に対して、情念や非感覚的部分や喜怒哀楽の感情は、それに伴って発達するわけではない。マルクスが、人類の歴史において、市民社会における経済社会構成体(土台)・「材料、資本、生産力」という経済的範疇は「第一次的に重要なもの」である、「そしてその他のものはそれに影響される」と述べた時、観念諸形態の問題・「幻想領域の問題は、そういう経済的範疇を扱う場合には大体捨象できるという前提」に立脚して述べているのであって、それゆえにマルクスは、一方で、「困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない規範(≪人類的成果・歴史的現存性≫)としての意義をもっているということを理解する点にある」、と述べたのである(『経済学批判』・『ドイツ・イデオロギー』)。すなわち、マルクスは、経済決定論者ではないし、観念の自体構造・観念の自己増殖過程を否定したわけではない。したがって、C「幻想領域を幻想領域の内部構造として扱う場合には、下部構造、経済的な範疇というものは大体しりぞけることができる」ということを前提・立場とした吉本もまた、観念論者でも、ヘーゲル<主義>者でもないのである(『吉本隆明全著作集11』「共同幻想論」)。
このような訳であるから、私たちは、佐藤に対して、次のように言っておくべきであろう――科学や技術の進歩・発達、その知識の増大、それによる生活の利便性の向上、産業構造の高度化・拡大は、自然史的必然に属している。したがって、先ず以て、「近代散文法がないと、産業は発達しません」という佐藤のこの言葉は、根本的な誤謬に、普遍性と彼を支えるメディアの組織性の後光をかぶせて語られた水準の言葉でしかないものなのである、というように。産業の発達(その高度化・拡大)は、佐藤の言うような「近代散文法」があるとかないとかという問題ではなくて、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然に属しているのである。この佐藤が、読者に対して、役に立つからマルクスの『資本論』を読むように薦めているのであるが、その割には、彼は、次のような『資本論』にあるマルクス自身の立場――すなわち、「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」という立場について、全く理解していないのである。
イ)「井戸まさえ:(≪佐藤さんは、≫)小学生に読ませる本として、夏目漱石の『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』は、暴力的なシーンも多く無条件ではすすめられないという話を、『子どもの教養の育て方』(東洋経済新報社)の対談でされていました」。「佐藤優:僕としては、むしろお父さん、お母さんに『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』を読んでもらって、漱石とはどういう人だったのかということを考えてほしいと思います。かなり神経衰弱で、よく暴力を振るう人だったということは、漱石の奥さんの夏目鏡子さんの『漱石の思い出』(文春文庫)に出ています。併せてそれも読んでおくのもおすすめです」。この記事を読んでいて、私は、思わず、プッと吹き出してしまった。
「バルトの生涯」(その4)においても述べたことであるが、この佐藤の根本的な誤謬を目の当たりにする時、吉本が述べているように、人間存在の三様式(存在の仕方)、すなわちその「異なった次元を構成する観念の総体性をおさえることは、それをのっぺらぼうの世界とみなすことからくるすべての錯誤から、人間を脱出させることは確か」なことなのである。この思想の原理・この思想の認識方法と概念構成は、佐藤等々のような知ったかぶりの皮相的な、知識、教養、インテリジェンス、における普遍性の後光をかぶせて語られた誤謬を、根本的に批判し・根本的に打ち砕くための<思想的武器>となるものである。漱石の文学(『坊っちゃん』・『吾輩は猫である』)の本質は、先ず以て、自己幻想(対自的な自己意識)にある。そして、その文学作品の価値は、その自己表出の度合にある。したがって、その書物は「暴力的なシーンも多」いとか・夫人が漱石は「神経衰弱で、よく暴力を振るう人だった」とか書いているからという理由で、すなわち恣意的嗜好的即自的な善悪・倫理の問題に転化して、その書物は小学生に「無条件ではすすめられない」という言い方は、根本的に間違っているのである。この時、バルト読みのバルト知らずであった佐藤は、文学読みの文学知らずであることも、自己暴露してしまったのである。この佐藤の語り方は、私が小学校高学年の頃の全国PTA会長の語り方と全く同じ水準のものである。すなわち、その会長は、アメリカのテレビ映画の西部劇は、暴力的なシーンや決闘シーンがあるから良くないということで、放映しないように・子供に見させないように、放送各社に圧力をかけたのである。確か、それ以降だと思うのだが、私たちが好きだった西部劇は少なくなっていったと記憶している。
いずれにせよ、私自身の経験から言って、そういうものを見たり読んだからといって、暴力的になったり・人を殺したりするということはない、ということは確かなことだと思う。「(≪親鸞は、次のように述べている≫)一人でも殺せる業縁(≪機縁・不可避的な契機≫)のないときは殺せないものである。殺さないからといってそれは自分のこころが善いから殺さないのではないのである。またその反対に殺すまいとおもうていても(≪戦争等の不可避的な契機がれば、≫)百人も千人も殺すことがあるかもしれぬ」(『歎異抄』)。したがって、もし、現在、この社会において、人が、こちら側の意志だけではどうすることもできず、その境界の壁を打ち破って、そうした暴力や殺人の側に移行しやくなったとすれば、それは、現在の社会の時代水準がそうさせているいる、と言うことができるのである。現在、情報科学や情報技術の高度化は人間の感覚を研ぎ澄まし、高度消費資本主義社会は現実的な衣食住の日常性を第一義としない豊かなイメージ価値を消費する社会として、身体的な肺病等に代わって正常と異常との境界を行き来する精神の病を生み落し、また、「私は消費社会の漂泊者でいたい」(「朝日新聞」夕刊、2006年9月22日)と書いた作家の中村うさぎを生み落している。消費資本主義の「高度な資本システム」的必然がもたらす<無意識>世界(システム価値・共同幻想)が人を動かしている事態である。すなわち、その「システム化された文化の世界」(<無意識>世界の共同性)は、<意識的>に対応可能な「制度、秩序、体系的なもの」・「物の系列」に「マス・イメージ」を付加することを強いて、「虚構の価格上昇力」を形成する。例えば、労働量・労働時間が同質・同量の化粧品であっても、見た目に美しい色や形の容器に入れることで実質的な交換価値とは別のイメージ価値が付加されるのである。しかし、その場合、その商品は、衣食住に必要な商品である前に、イメージとしての商品・ブランドとしての商品である。そうした商品が、マス・メディアを通して毎日のように流され続けていくために、中村がそうであったように、大衆の<無意識>世界にそうした商品を身に付けたいという欲望を生み落としていく。そして、<無意識>に「そうやってしか存在できなくなったとすれば」、その事態は、自分の意志によるのではなく「システムの意志によっている」ということができる。すなわち、制度が人間の<意識>を変えたように、「システムの意志」・システム的価値が人間の<無意識>世界を形成している事態である。そして、「このシステム的な価値は、社会制度や国家秩序の差異によって左右されない世界普遍性をもった様式」として、<意識的>に対応できる「制度・秩序・体系的なものに象徴される物の系列」を衰退・解体させている。しかし、このシステム的な文化は、「実体から遠く隔てられ、判断の表象」を喪失しているから、その度合に応じて「白けはてた空虚にぶつかる度合」が決定され、生活的実感を希薄化させている(吉本隆明『マス・イメージ論』)。
もう少し書いておこう。以前に述べたことであるが、吉本は、オウム事件と少年A事件が惹き起こされた消費資本主義段階の社会の時代状況においては、価値観が多様化して善悪の基準がなく浮遊状態にあるから、オウムの「集団的犯罪」・殺人も少年Aの「単独犯罪」・殺人も「いつでも交換可能」である、と述べている。また、村上春樹も、「カルト宗教に意味を求める人々の大半は、べつに異常な人々ではない。落ちこぼれでもなければ、風変わりな人でもない。彼らは、私やあなたのまわりに暮らしている普通(あるいは見方によっては普通以上)の人々なのだ」・「彼らは……まわりの人たちと心をうまく通じ合わせることができなくて、いくらか悩んでいるかもしれない。自己表現の手段をうまく見つけることができなくて、プライドとコンプレックスとのあいだを激しく行き来しているかもしれない。それは私であるかもしれないし、あなたであるかもしれない。私たちの日常生活と、危険性をはらんだカルト宗教を隔てている一枚の壁は、我々が想像しているいるよりも遥かに薄っぺらなものであるかもしれないのだ」、と述べている。「それは私であるかもしれないし、あなたであるかもしれない。私たちの日常生活と、危険性をはらんだカルト宗教を隔てている一枚の壁は、我々が想像しているいるよりも遥かに薄っぺらなものであるかもしれないのだ」――こういう感性・認識・自覚が、佐藤には全くないのである。佐藤は、自己相対化視座を持たず、いつも自分をエリートだと勘違いして、その一方通行的一面的皮相的な場所において、思惟し発言しているからである。したがって、ほんとうは、佐藤の述べている宗教も神学も知識も教養もインテリジェンスも、その隔てれた壁は「想像しているいるよりも遥かに薄っぺらなもので」、すぐにあちら側に行けてしまうものであるかもしれないのだ。したがってまた、『ふしぎなキリスト教』で橋爪大三郎が、キリスト教の神学者や牧師や著述家は「どこか押しつけがましく」・「上から目線で教えをたれる」と書いたことに対して、それは自然神学的なキリスト教の神学者や牧師や著述家については正当性のある言葉であるから、耳を傾けた方がいいのである。
さて、ここで話を元に戻せば、人間は自己意識をもった存在であるから、対自的でもあり・対他的でもある個体の自己意識(観念) は、現実的な、@個体的自己が自己自身に関係する自己関係の世界(<個体>的な個人の世界)や、A個体的自己が一対の男女(性)として関係する対的関係の世界(<対>的な個人の世界)およびその対関係の共同性である家族における家族関係の世界(「<家族>の一員としての個人の世界」)――この対幻想において注意すべきことは、それは、逆立する形で疎外された共同幻想としての習俗や制度としての家族ではなく、<個体>の対幻想であるということである――や、B個体的自己が社会と関わる社会における共同的関係の世界(「<社会>的な個人」としての世界)、において、それぞれ次元の異なる、自己幻想、対幻想、共同幻想を生み出していくことになる。したがって、それぞれの次元の諸課題をそれぞれの次元において自己認識し自己解決できない場合、その自己還帰・自己回できない対他的な自己意識は、政策(的言語)や法(的言語)を介して、それを逆立した鏡とする、観念の共同的形態、共同の幻想、司牧システムが生み出す無意識の共同性、を本質とする政治的国家に逆立した形で疎外していくことになるのである。その場合、第一義性・価値は、それを疎外した側に自己還帰・自己回収させることができなかった分、法・政治的国家の側に移行してしまうのである。その場合、ほんとうは、第一義性・価値は、現実的な個体(対――個体の対幻想という意味の)にあるにもかかわらず、また現実的な社会・市民社会の方が、観念的な国家・政治社会よりも、無限に規模が大きいにもかかわらず、そうなってしまうのである。そして、資本制を経済社会構成体として、またそうしたものとして自由主義的な政治的近代<国家>が存在しているために、人は、私意・私利を精神とする市民社会においては、私的他者との対立・争いの生活や利害共同性との対立・争いの生活を強いられ、共同幻想を本質とする国家においては、あたかもそうした対立や争いのないような法的政治的な共同観念によって統一された公民としての生活を強いられる。すなわち、そうした二重の生活を強いられることになる。したがって、ほんとうは、観念的な共同の幻想を本質とする政治的国家・政治社会は、究極的には止揚し無化すべき対象なのである。しかし、佐藤が書いたものや・発言したものを見て分かることは、彼は、そうした思想的課題を持たないということである。
ウ)佐藤は、「批判」とは、「対象を受け止めて、対象の論理をとらえ、そしてそれに自分の意見を加える」ということだ、「つまり、全面的に賛成だという場合も批判なん」だ、と述べている。ここでも、佐藤は、大見得を切って平然と、誤謬に普遍性の後光をかぶせて、「つまり、全面的に賛成だという場合も批判なん」と語るのである。佐藤は、その知識の原理・その知識の認識方法と概念構成を持たないために、そうなってしまうのである。Aという思想を批判するということは、Aをその根本において、<否定的>に媒介するということである、言い換えれば、Aをその根本において、包括し止揚して、Aから超出するということである、そういうふうにして思想(観念)を時間累積をしていくということである。佐藤のように、「全面的に賛成だという場合も批判なん」だ、と言ってしまったたら、根本的な批判における、<否定的>媒介の契機・区別を包括した同一性・その時間累積ということが成立できなくなってしまうのである。そうしたら、思想の深化と豊富化はあり得なくなってしまうのである。特に、ヘーゲルのような体系的な思想を批判する場合、批判は、単純にしかし根本的に、ということが批判の原則となる。ヘーゲルとフォイエルバッハを根本的に包括し止揚し・そこから超出して自らの哲学体系を構築したマルクスは、「思惟過程が現実的なるものの造物主であって、現実的なるものは、思惟過程の外的現象を成す」・その思惟過程は理念(自由)の自己展開過程(運動)であるとしたヘーゲルに対して、「理念的なるものは、人間の脳髄に転移し翻訳された物質的なるものにほかならない」(理念は、身体を座として持つ外化された観念である)と批判したのであるが、ヘーゲルの媒介性一般まで否定してしまったフォイエルバッハに対しては、そのヘーゲルの媒介性一般を自らの思想に時間累積(保存)させたのである、すなわちヘーゲルを否定的に媒介したのである(『資本論』)。また、「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、人間の理性・思惟・論理を人間に内在する神的本質として、その人間中心主義・その主観主義・その内面主義において、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」(『ヘーゲル』)にあると述べたバルトは、ヘーゲルの哲学体系に対して、「自由・主権」は神自身においてのみ「実在であり真理」(『教会教義学 神の言葉』)であるという概念を対置することで、ヘーゲルの自由の概念を単純に根本的に包括し止揚して、紙一重で超えたのである。いずれにせよ、佐藤は、このことを認識し・理解することができないのである。したがって、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて、「全面的に賛成だという場合も批判なん」だ、と大見得を切って平然と語ってしまう佐藤に対して、私たちは、その言い方は、論理的整合性のない、支離滅裂で出鱈目な言い方でしかないのだ、という言葉を投げ返す以外にないのである。
もう少し根本的な批判の在り方・批判の原則について、例示しておこう――例えば、「生理過程から、対象の形や色や全体像が構成され、<この対象は茶碗だ>」と「了解される」個体の知覚作用における認識が成立するためには、まず「対象物から眼に到達する光作用」に対して、生理過程として網膜の背後にある「色彩」「明暗」「形態」を弁別できる諸神経の「刺激の継続と強弱」・「刺激の質量」の度合という「自体的な識知」・「生理過程の<変容>」と同時に、そうした「対象物からうけとる神経刺激」という生理過程の外部に出て、「対象物を全体的に構成」し「了解」する「対象的認識の過程」が必要である。この対象的認識の過程は、生理(自然)過程にとっては絶対的な自己矛盾であるから、人間に固有な「心的領域」あるいは「観念」という概念を疎外する以外に、この自己矛盾を包括し止揚することはできない。ここで、疎外とは疎外の止揚である。したがって、「生理学が<観念>という概念と命名を拒否」しても、「<観念>という言葉でいいあらわされるものと、おなじ実体を想定せざるを得ない」(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。そして、いったん疎外され生み出された観念は、その自体性と自己増殖性を持つ。吉本は、観念の出自とその自体性・自己増殖性を論じることで、唯物論か観念論か、という思想の対立した在り方を包括し止揚して・架橋して・そこから超出しているのである――@「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。あるいは、A「(≪私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示――この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪党派思想、党派的共同性、学派、教派、思想傾向、党派的多元主義≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない」(カール・バルト『教会教義学 神の言葉』)。これは、バルトの、根本的な、党派的思想・党派的共同性・党派的多元主義批判なのである。すなわち、バルトは、一つの事柄(一回的な唯一無比のイエス・キリストにおける啓示)に仕えることで――このためには、ローマ書3・22やガラテヤ書2・16等の「イエスの信仰」の属格を、主格的属格として啓示認識し・啓示信仰する以外にないのであるが、すなわちその啓示認識・啓示信仰を授与される必要があるのであるが――、例えば、信と不信、知と非知、キリスト者(教)と非キリスト者(教)という枠組を包括し止揚してその枠組を取り払い、両者を架橋した、ということである。言い換えれば、信・知・キリスト者(教)を、そのあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)に対して、完全に開いた、ということである。ここに、根本的な、批判の在り方、批判の原則、があるのである。
エ)私たちは、佐藤のその書き方・発言から、彼には、プライドとコンプレックスとを混在させた斜に構えたところがあるように感じられる。このことは、本を読んでいても感じられたことだ。なぜならば、佐藤は、その発言において、例えば教養の概念を規定しないまま、よく教養・エリート・一流・天才という言葉を使うからである。やはり、東大・キャリア組に対してか、そうした者に対するコンプレックスがあるのに違いない。一方で、時代状況が佐藤に加担することで、彼がメディア界に受け入れられ登場した時、彼は自分をエリートだと勘違いしてプライドを懐いたに違いない。ほんとうは、東大・キャリア組か同志社・ノンキャリア組かは、あくまで学業の優等生かどうかとか・事務次官への道が開かれているかどうかという問題であって、人間の存在様式の総体性から言ったらほんの一部分の大した問題ではないということを、佐藤は認識し・自覚できなかった分、異常な程のプライドとコンプレックスを混在させたキリスト教的著述家になった、と言うことができる。このことは、佐藤の次のような言い方に現われている――佐藤は、「宗教が宗教の本質を失わずにいるためには、やっぱり宗教的な天才が必要なんですよ。それで、その宗教的な天才が書き遺したもの、言い伝えたことっていうのは、それを解釈し直したことによって命を入れる」ことを目指すと言うのである。佐藤は、バルトの言う神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示(の出来事)とその啓示認識・啓示信仰(の出来事)へと向かうのではなく、言わば一般メディア受けのための「宗教」、「宗教的」へと向かうのである、また佐藤は、自己意識における彼の自己欲望に基づく「天才」、「天才」を求めるのである――このような佐藤は、その最初から、キリスト教に固有な啓示の「概念の実在」(類・歴史性)を根本的に論じられわけがないのである。また、そのような佐藤の在り方(馬鹿げた似非使徒の試み)は、その最初から、「誤謬は必然」のそれなのである。これでは、佐藤のそれは、佐藤個人の恣意的な<人間>宗教・宗教としての<佐藤>教(現在を止揚する課題等々を持たない、現世利益中心・功利性中心の土俗的な新興宗教)でしかなくなってしまうのである。佐藤は、バルトを読んでいるという割には、このことが全く理解できていないのである。 ここで、信仰・神学の在り方における、佐藤と、バルトとの根本的な差異性・決定的な差異性・究極的な差異性、を書いておこう。バルトは、次のように述べている――@「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『カール・バルト著作集10』「福音主義神学入門」)。A「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っている(『啓示・教会・神学』)。B「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。なぜなら、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」。「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉』)。Cバルトの「大嫌いな言葉」は、「神学の素人」という言葉である。それは、「古い古い、全く誤った区別の仕方です」。「わたしもまたひとりの素人なのです」。なぜならば、「全人類をその中に含む『神の民衆、神の民』……の中では、上も下もなく、人は皆『相並んで』立っているのです。ひとりの人は神学を学び、他の人はこれを学びませんでした。が、だからとって、神学を学んだ人、あるいは今学びつつある人が、そうではない、ただの素人とは別種の、すぐれた者ではないのです」(『最後の証し』)。このCのバルトの言葉を見い出す時、私たちは、佐藤には、その最初から、バルトを、根本的にそしてトータルに語れるはずはないことを知ることができるであろう。
さらに、ここで、ヘーゲルの教養概念について考えてみたい。なぜならば、佐藤は、エリート層と教養とを結びつけているのだけれども、教養の獲得の仕方は、エリート層であろうと非エリート層であろうと同じだからである。ヘーゲルの「教養」概念の基底には、「普遍」と「特殊」・「個別」との相関思想があり、したがって、ヘーゲルは歴史的に累積された現在としてある「文化や教養」を媒介として、「個別」は「普遍」となり、「普遍」として「生成」される、と述べている。そうすることで、人は「普遍的な原則と視点に関する知識を獲得する」のである(加藤尚武・高山守外編集『ヘーゲル事典』弘文堂および岩佐茂・島崎隆・高田純編『ヘーゲル用語辞典』未来社)。すなわち、個体は、親や近親や教師や本等に体現されている歴史的現存性を媒介として、人類が「つくり上げた文化や教養を獲得する」のである。佐藤の語り方は、ここで終わっているのである。しかし、ヘーゲルは、違うのである。ヘーゲルの場合は、次のように言うのである――本質は、現象しなければならない。自由な人間の自己意識・理性・思惟の無限性(本質)は、先ず、意識とは意識された現実であるとか・現実の意識であるという場合の、意識と対象との統合(抽象性と具象性の総体)としての知識・観念であるが、それはまだ「論理付けられた知」識・観念ではないところの「現象知」としてある。しかし、観念を観念する・抽象を抽象するという観念の自体的展開・観念の自己増殖運動(観念・知識の頂きへと上昇していく往相過程)において、その「現象知」(知識・観念)を、その頂きにまで上り詰めることで「論理付けられた知」識・観念は、自由な精神の具現化・具現化された自由な精神、すなわち価値としての理性的・論理的・合理的・体系的な学・哲学である。しかし、ヘーゲルの知識には、そうした往相過程はあっても、その知識・観念(観念的日常・25時間目)の頂から再び非知(生活日常・24時間)へと向かって意識的に下降してくる還相過程を持たないのである。したがって、吉本は、次のように言うのである――「<知識>にとって最後の課題は、頂を極め、その頂に人々を誘って蒙を開くことではない。頂を極め、その頂から世界を見おろすことでもない。頂を極め、そのまま寂に<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に<非知>に向かって還流するよりほか仕方がない」・「親鸞は、<知>の頂を極めたところで、かぎりなく<非知>に近づいてゆく還相の<知>をしきりに説いているようにみえる」(吉本隆明『最後の親鸞』)。
(2)“佐藤優の教育論『子どもの教養の育て方』「偏差値を追うと人格が歪む」(特別編その1)、東洋経済オンライン版”には、こうある――
ア)「知の怪物と呼ばれる作家の佐藤優氏は『現在の日本には3つのエリートがいる』と指摘する。第一は、古いシステムを動かすノウハウを持っている『旧来のエリート』、第二は、社会、政治の混乱期に、急速なキャリアの上昇を行った『偶然のエリート』。この2つのエリートが日本を牛耳るかぎり、日本は閉塞状態から抜け出すことはできない。今の日本に本当に必要なのは、第三の『未来のエリート』だ。子どもや若者が本物の教養を身につければ、日本は10年後に大きく変化する。では、どうすれば若者は佐藤氏のような教養人になれるのか? どうすれば子どもを教養人に育てられるのか?――そんな疑問に、5児の母であり、前衆議院議員の井戸まさえ氏が迫る」。
「知の怪物」・「佐藤氏のような教養人」――この言葉を見て、私は、思わず、プッと噴き出してしまった。 このように佐藤を持ちあげた人物だけでなく、聞き手の佐藤も、マルクスをして「真に亡霊のように悩ませ、巨大な壁としてかれのまえにたちふさがり、真に学ぶべき卓越した存在としてみえ」「プロイセン国家哲学の反動的な巨匠」と呼ばせたヘーゲルの「教養」概念を先ず以て持ったうえでそのように述べているのだろうか・聞いているのだろうか、という疑問を持ったからである。そのこともそうだが、もう一つ、佐藤の問題は、彼には、知識の還相過程からの言葉である「人類は文明の進展やエリート層のために存在しているのではない」(吉本隆明『アフリカ的段階について 史観の拡張』)、という認識と理解と自覚とが、全く欠如している、という点にある。ここでも、佐藤は、ただ、「エリート」とか「キャリア」とか「教養人」という言葉を使っているだけなのである。ほうんとうに、佐藤は、異常なほどのプライドとコンプレックスの塊の持ち主なのだな、ということを痛感させられる。
イ)偏差値重視の子育てについての佐藤の意見――「佐藤:灘とか開成といった難関私立高校の入試は、……高校1年生の1学期終了分くらいまでの問題が出ます。そのわずか3カ月の違いが、入試のときの決定的な差になるんです。これに対して浦和高校の場合は、……中学の範囲を超えた出題はない。それだから、絶対にミスをしないというスタイルの受験勉強が必要になりました。こういう勉強は、官僚になるための準備としてはいいのですが、創造力はつきません。外務省に入ってみると、雰囲気が基本的に浦和高校の繰り返しだったんですね。……ほとんどが『一番病』なんです」。 この言い方だと、佐藤は、3月強の学業知識量の差が「創造力」の差になる、といっているのと同じことである。もしそうであるとすれば、キャリア組エリート官僚コースの道は、灘・開成→東大法学部→キャリア組エリート官僚となると思うのだが、そして彼らは学業の優等生であることも確かなことなのだが、だからといって、彼らが「創造力」や構想力があるとは考えられない。なぜならば、国民全体の奉仕者としての「創造力」や構想力や政治的資質――例えば、財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は全面的に制度としての官僚・政治家・政府支配上層にあるから、消費税増税は本末転倒もはなはだしい、と正当性のある発言をしていた名古屋市長の河村たかしのような――を持っているとは思えないからである。また、佐藤の本や発言を読んだ限りでは、彼は、「創造力」の概念を持っていないと思う。なぜならば、佐藤は、「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』)、と述べたマルクスの言葉を理解していないからである。この市民社会の経済的カテゴリーである「材料、資本、生産力」の概念は言語(思想)という概念に置き換え可能であり、人は、自分の意志とは無関係に、すなわち不可避的に、ある歴史的現存性の中に生誕し、その環境の中で生き生活し喜怒哀楽し思想し時代を刻み、人間の類(人類)の歴史の継起として死んでいくものである。したがって、この意味ではオリジナルな思想というものはあり得ないのである。したがってまた、思想というものは、先行する思想を包括し止揚するという形でしか、現在から未来に生きることはできないのである。マルクスもそうだったし・吉本もそうだったし・バルトもそうだったのである。すなわち、バルトは、啓示の「概念の実在」を媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」、また一方で、バルトは、現実と時代から強いられて、その信仰・神学に、個性や時代性を刻んだのである。吉本は、『吉本隆明全著作集6 文学論V 言語にとって美とはなにか』において、ヴァレリー『文学論』を引用している――「もともとオリジナルな文人なぞ、在りはしないのだ。真にこの名の値する人々は世に知られていないばかりでなく、知ろうとしても知り得ない。しかし、わたしはオリジナルな文人だぞ! という顔をする人間はある」。
もう一言付け加えておくとすれば、灘や開成の生徒だって、東大にできるだけトップの方で入学しようとして、「一番病」か二番病かは知らないが、そういう病気にかかっているに違いないのだ。しかし、そうした連中も、人間的に優れた人は、私の知人の東大出の人たちのように、「自分の専門に関しては誰にも負けない自信はあるけれども、それ以外のことについてはそうではない」とか・あるいは一番とか何番とかを気にすることなく、自分の東大における優と可が少なく良が多い成績表を自分の方から見せてくれたりする、という謙虚さと分別とを持っているのである。このことは、彼らが、専門外の分からなさや成績の良し悪しについて、異常なコンプレックスを懐いていないことの証左なのである。また、そのことを、人間存在の総体性の評価の基準においていないことの証左なのである。ここが、いつも、一流とか、エリートとか、一番とかを異常に気にして発言している佐藤との決定的根本的な違いなのである。
ウ)佐藤は、さらに続けて、「外務省で初の例だったのですが、文部教官の発令を受けて、東大の駒場の専門課程で教鞭を執っていた」・「ご存知の方もいると思いますが、教養学部の専門課程というのは、東大の法学部よりも内部進学点が高い。極端な秀才の集まりで、その中で特に成績のいい連中が集まるのが総合社会科学分科の国際関係論コースです。そこの中から試験で勝ち抜いてきたのが、外務省のキャリア職員に多いわけです。しかし、そういう人物が幼児プレーが趣味だったりするんです。僕が見てきた中で、そういう比率がかなり高い」。
超エリートの外務省キャリア職員の幼児プレー趣味――それが、その職員の職能とどう関係があるのだ。そういう趣味を、新宿歌舞伎町で充たしていたとしても、その職員が市民社会の法に抵触せず、現実的に他者としての女性を侵害しないのであれば、いいではないか。それは、誰にでもある、生理の方からやってくる「肉体のとげ」なのだ。その人は、その欲望を充たしながらも、一方ではその惨めさに悩んでいるかもしれないのだ。いったい、佐藤は、生理の方からやってくる「肉体のとげ」を持っていないとでも言うのだろうか。全く、自己相対化視座を、その知識の原理・その認識方法と概念構成に持たない、佐藤は、いつも、自分を神のような立場において、書いたり・発言したりする。
さて、フーコーは同性愛者だったが、その体験の思想化に基づいて、次のように述べている――マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ。なぜならば、資本主義制度における生産は、制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである。すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである。したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」のである。「このマルクスのやり方にちょっと手を加えますと、ほぼわたしのしたかったことになります。(中略)問題は、何らかの様式に基づいてセクシュアリティを生産し、不幸な結果をもたらす積極的なメカニズムとはどんなものかをとらえること、それだけなのです」(桑田禮彰・福井憲彦・山本哲二編『ミシェル・フーコー』「セックスと権力」新評論)。そう言えば、佐藤は、『はじめての宗教論』でも、バルトとキルシュバームとの対関係が日本では封印されていることを、「火宅の人、バルト」などと得々と意味ありげに述べていたな。しかし、神学における往還思想の持ち主のバルトは、佐藤のような人物が指摘してくるであろうことを予想していて、『福音と律法』で、罪の本質は人間の自主性・自己主張・無神性にあるのであって、「余りに性急に、余りに熱心に、念頭に置いて来た」「性的リビドー」(「『死んでいる』罪の成果の一部」)にあるのではない、という言葉を置いているのである。もっと言えば、ヨハネ8章の「姦通の女」においてイエスの語った、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という、私たち人間の内面の普遍性に届く言葉を聞いて、佐藤はこの女に石を投げられるとでもいうのだろうか? 高村光太郎だって、生理的自然からやってくる「人体飢餓にたえかねたとき」、彼は、「岩手の山岳の起伏に女体の起伏を想像し、晴れた空の雲に、伯爵夫人の横になった裸体を空想し、ブナの分岐に逞しい女の太股をみ、岩石に性別をかん」じていた(吉本隆明『作家論U 高村光太郎』)。しかし、彼らには、佐藤とは全く違って、人間の、個・現存性と類・歴史性との同在性の自覚における、「創造力」や構想力があった。
ここまでくると、私たちは、佐藤のコンプレックスの源は、やっぱり、官僚養成機関であった東大・キャリア組エリート官僚に対する、同志社・ノンキャリヤ組にあるように思えてくる――「東京大学教養学部を退官された、山内昌之先生と話していて、先生ご自身は北大の出身なのですが、何か根源的な問題が東大教養学部の中の超エリート養成にはあるのではないかと言っていました」。佐藤は、「実力とかみ合っていない」プライドは「滑稽だ」、「プライドは高いけれども実力は低いというのを、客観的に見ることができる」必要がある、と述べているのであるが、私たちには、この言葉は、そのまま佐藤自身にあてはまるように思えるのである。
エ)なぜならば、佐藤は、根本的に理解もしていないのに、トマスの「『神学大全』とバルトの『教会教義学』を読んでおけば神学の概略がどうなっているか理解できるはず」だと、いかにも全部を読んで理解したかのようなウソを言うからである。ほんとうのところは、吉本の次のような言葉に正直さと誠実さと真実はあるだろう――第一、「わたしは……『源氏』は原文で読まなければ判らないなどという迷信の世界を……無化したいと思った」。「頭をひねりながら判読してみても、たった二、三行すら正確には判読できない」。また「ある程度以上のスピードで読める(正確に)ような『源氏』研究者が現存するなどということを、まったくしんじていない」 (『源氏物語論』筑摩書房)。第二に、「万巻の書を読んだという人もいるけれど、僕は全然そんなことはない。(中略)主な作品を読んでいくだけでも、……こういう作家かとおもうわけで、それは間違いなくイメージは湧きます。(中略)専門家といわれる人でも、誰か一人でもいいから全部ちゃんと読んだかと聞かれたら、それはあんまりいないと思います」 (『幸福論』青春出版社)。
バルトは、正直さと誠実さと真実さにおいて、自分のことを、「あわれな騾馬のように、まるで霧の中を自分の道をさぐりあてなければ」ならなかったし・また「学問的機敏さが欠如していて、ラテン語の知識も不十分で、記憶力もわるいという条件の下で」学問(神学)に没頭しなければならなかったと、書いている。
オ)「井戸:対人関係でも、有名私立とか国立の一流校を出た人たちが、たとえばコミュニケーションが上手かといったらそうではなく、大丈夫かなと思う人たちもいっぱいいます。偏差値の高い私立中学に入れたとしても、『チームプレー』を学ばせたり、違う世界を経験させることは大事なのでしょうか。たとえば地域の野球チームに入れてみるとか」。「佐藤:とても意味があると思います。スイミングスクールやサッカーでもいいでしょう。ただ、具体的にはスポーツばかりではなく、何かほかのことでもいいかもしれません。教会に通うことでもいいと思う」。一面的外在的なコミュニケーションに偏向した意見を述べている。両者には、個人の資質の問題や人間の対自的意識の問題が全く視野に入っていないのである。スイミングスクールやサッカーや教会共同性に関わったからといって、個人の資質の問題や人間の対自的意識の問題を解決できるわけはないのだ。ここでも、佐藤は、バルトを読んでいると言いながら、人間の対自的意識に関わる言葉で、「われわれ人間の間の伝達は――われわれが人間一般として互い相対立して立つ限り――事実いかに問題的であるかということを念頭におくならば」、「一体、誰が誰を知っているのであろうか」(『教会教義学 神の言葉』)というバルトの重い言葉を理解していないのである。
吉本は、コミュニケーションの問題について、次のように述べている――第一に、現実の意識は、対自的となった人間的意識(自己意識の対自的意識、言語の自己表出)と対他的となった実践的意識(自己意識の対他的意識、言語の指示表出)の構造としてある。この自己意識における対自的意識と対他的意識・言語の自己表出と指示表出の構造である現実的意識の外化である言語表現は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(≪実践的意識≫)の外化、あるいは外化された対他意識である」。このようにして人間は、自己を客体化し、他者の対象となり、社会的関係に入る。このとき<表現>された言語は、客観的な対象として百人百様の享受の対象となり、「交通の手段」となる。外化されたその実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)は確かに「他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識」という意味で、コミュニケーションによる相互理解に根拠を与える意識である。第二に、一方で、人間には、他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識、言語の自己表出)があることも確かなことなのである。このことは、「心・精神」の働きである意識と無意識の関係から根拠づけることができる。第一に、人間の「心・精神」の世界は、「意識領域」と「無意識領域」との構造としてある。また、第二に、その無意識領域は、「核」・意識領域との境界にある「表層面」・核と表面層の間にある「中間層」との構造としてある。第三に、無意識領域が「現実世界」と接しているという場合、それは、無意識領域の「表層面」を指している。第四に、特に無意識領域の核の出自は、胎児期と生まれてから一年間の乳児期における母親との関係の在り方によって形成される。第五に、このような構造的把握は、個体の問題や家族を扱う上で重要なものである。
(3)“「日本の論理、そして思想を斬る(出口汪×佐藤優)」”の記事には、こうある――
ア)この第一部は、「一流評論家(≪佐藤優のこと≫)、現代文参考書に出会う」、となっている。佐藤を持ちあげる方も持ちあげる方だが、それを得意になって聞き入っている方も聞き入って方である。ここでも、やはり思わずプッと吹き出してしまった。@「佐藤:早稲田大学と慶応大学で少しお手伝いをしたときのことです。授業をしていても、どうも学生がその内容を全く理解できていないという感触を受けたのです」。A「そこで一回目に、山川の『詳説世界史B』の教科書を用いて、年号の試験を……教科書の太字を中心に、ウェストファリア条約とか明治維新、日露戦争勃発、ポーツマス平和会議、真珠湾攻撃、独ソ戦勃発、広島の原爆投下、二・二六事件、五・一五事件等……100題出したんです……まず慶応の……手嶋龍一さんがやっているインテリジェンス講座の大学院生で、修士課程」で。そうしたら100点満点中の「平均点は、4.2点でした」。「次に、早稲田大学の政経学部の3年生でもやったんです」。そうしたら、平均点は、「5.0点です」。偏差値重視の問題について対談していたにもかかわらず、佐藤は、こんなくだらない記憶量のことでテストをしているのである。むしろ、佐藤は「創造力」の必要性や論理の重視を言っていたのだから、現在を止揚する課題とか・世界認識の方法の課題・根本的な批判の原則等とかを論じさせるテストを行うべきだろう。また、佐藤の『神学部とは何か』における、中国の易姓革命論についての人類史的段階における革命概念(易姓革命と市民革命)の差異性を考察しないところでの彼の即自的皮相的な書き方は、いったい何点になるのだろうか。佐藤とは全く違って、理性的・論理的・合理的・体系的な、マルクスをして「真に学ぶべき卓越した存在としてみえた……プロイセン国家哲学の反動的な巨匠」と呼ばせたヘーゲルは、次のような「真に学ぶべき卓越した」考え方を述べている――「中国の哲学とエレア哲学とスピノザの哲学が、おなじ一を原理とするといっても、肝心なのは一の内容がどうなのかです。一が抽象的な一か具体的な一か、精神的な一に達するほど具体的にとらえられているかどうか、そこに根本的なちがいがあるので、それを無視して三つの哲学を同列にあつかうのは、みずから、抽象的な一しか知らないこと、哲学の関心がどこにあるかを知らないまま哲学について判断をくだしていることを、証明するようなものです」(『歴史哲学講義』)。ここには、「一を原理とする」中国哲学とギリシャ哲学と近代西洋哲学との人類史的段階における差異の自覚の必要性が述べられている。すなわち、西洋近代を頂点とする文明史的観点から、自然からの超出の度合=自由の自覚の度合=精神の発達の度合、その差異性の自覚の必要性が述べられている。
イ)「外交官試験に合格した、一応選りすぐられているはずの一流大学を出た外交官の卵たちを、モスク ワの高等経済大学や、モスクワ国立大学の地理学部に留学させたら、成績不良で退学になる研修生が3、4人出てきたんですよ。このことが、私の愛国心をいたく刺激しましたね。私、モスクワ大学でも教鞭をとっていましたから、『なんでロシア人に、しかも日本の外交官の卵が負けるんだ』と言って、向こうの教務責任者に聞きに行ったんです」。そうしたら、その理由の一つ目が「日本の大学で、経済学修士をとっているのに……簡単な微分方程式が解けない」・「線形代数が全然わからない」から、二つ目が「哲学史だ……要するに、今起きている現象というのは、何らかの過去の思想の鋳型があるということをわかっていない」から、三つ目が「論理……要するに、ディベートが何か全くわかっていない。これは、真理を追求するための議論ではなくて、一定の手続としての議論をする、ということなのだけれども、その中でごく初歩的な論理学がわかっていない」からということだった。何かこれだけ読むとすごいことを言っているように感じさせられるのであるが、ほんとうのところは、ここでも佐藤は、自分の経歴と皮相的な知識を披露しているだけなのである。例えば、佐藤は、「今起きている現象というのは、何らかの過去の思想の鋳型」だから、現象の解明のために「哲学史」が必要である、と、その対語である本質との関係を捨象してしまって・無媒介的にそう言っているのである。しかし、ほんとうは、(1)でも少し述べたこととも関係しているのであるが、ある現象を解明するためには、現象はその運動する本質の媒介的な現実性(具象性と抽象性の総体)であるから、その現象からその本質を探求しなければならないのである。
例えば、バルトは、次のように述べている――「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」。このことは、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする神についての命題であり、神自身においてのみ「実在であり真理」である自在であって他在としての神の自由の命題である。なお、聖書的証言の本来的テーマは、三位一体の第二の「存在の仕方」(性質・行為・働き、人間に向かって語られた神の言葉、外化された神の他在性)である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル」聖霊を問う問いとが包括されている点にある。このことは、ここでは本質と現象の問題に引き寄せて言えば、イエス・キリストにおける啓示の出来事(このことに、本質の媒介的現実性としての現象という概念をあてると)は、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする神の第二の存在の仕方における媒介的現実性(神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリスト、神の側の真実としての啓示の客観的現実性)となる。また、この啓示は、それ自体に、この啓示に固有な証明能力を持っている。すなわち、聖霊は、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする神の第三の存在の仕方における媒介的現実性(「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊の注ぎによる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰の主観的現実化・人間への啓示認識・啓示信仰の授与)となる。このように、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」神性・単一性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。
佐藤は、自分でバルトを読んでいると言い・また読者に対してもバルトを読むことを薦めているにもかかわらず、このもっとも重要なバルトの神学のその原理・その認識方法と概念構成を全く理解していないのである。また、論理(ディベートとの関連での論理的思考を言っているらしい)の重視を述べている佐藤自身が、初歩的な論理的な整合性(合理性)を全く持たずに、哲学史と現象の説明とを無媒介的に結び付けてしまっている事態を垣間見る時、私たちは呆れてしまうのである。
ウ)したがって、「『国家の本質は暴力である』とレーニンもマックス・ウェバーも言ったがそれは正しい」・「国家を絶対化するのでもなく、拒否するのでもなく、国家とはあくまでも是々非々でつきあえ」と書いてしまう佐藤には、次のような国家の本質的な問題が全く理解できないのである――「思想は物質ではなく外化された観念である」から、「観念の運動は観念によってしか埋葬されるず、甲の観念は、乙の観念がそれを包括し、止揚することによってしか、……亡びない」(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」)。すなわち、国家の本質は共同幻想にあるから、またそれは物質ではなく観念の共同性であるから、そしてまた個体の観念が身体を座として持っているように共同の幻想を本質をする国家もその肉体としての官僚機構等を持っているのであるが、その肉体である官僚機構・軍事機構(暴力装置)を暴力革命で打破・破壊しても、その本質である共同の幻想を思想(観念)によって止揚し・無化し・埋葬しない限りは、国家を本質的に止揚し無化することはできないのである。共同的な宗教から法、国家(自由主義国家)へと登りつめことで完成された政治的近代国家の場合、私たちは、人間の思惟や現実的生活において、あたかも対立や争いのないような天上・天国の観念的非日常性(政治的共同性・政治的生活)と対立や争いのある地上の現実的日常性(市民社会生活・個別的私的現実的生活)との二重の生活を強いられる。そして、この完成された政治的近代国家における国家の問題は、観念の共同的形態である国家と個別的私的現実的生活の場である市民社会との問題として現われる。したがって、ここで、国家の問題は、一方で国家を国民にできる限り開いていく過渡的形態の問題として、他方で人間の社会的現実的な究極的総体的永続的な解放の問題として現われる。すなわち、それは、一切の価値・第一義性を、対自的であって対他的でもある現実的な個の現存に自己還帰させる問題として、そしてその個を媒介とした社会の構成の問題として現れる。この国家の止揚・無化を伴う人間の社会的現実的な解放の問題は、思想にとって還相的な究極的総体的永続的な課題である。
現在においても、「共同幻想の高度な水準は依然として国家」にある(『吉本隆明全著作集14』「国家・家・大衆・知識人」)。「共同幻想に対して個人幻想の世界に属する文学、芸術というものは、必ず逆立する」。したがって、「文学で政治に奉仕しよう」という政治や文学の立場は無化し止揚されなければならないものである(『吉本隆明全著作集14』「人間にとって思想とはなにか」)。吉本は、ロシア革命が「政治体制の幻想的な革命である政治革命」であって「社会革命を意味するもの」ではなかったことを述べている。そして、ロシア革命において「真に問題なのは」、「政治革命にはじまる全幻想領域の革命」が、「あるがままの大衆の生活基盤にまで錘鉛を下ろしうるか」にあったと述べている(『吉本隆明全著作集13』「情況とはなにか」)。なぜならば、人間の社会的現実的な究極的総体的永続的解放としての社会革命が、革命の究極像としてあるからである。そうでない限り、いつまでも「文学は個人における内面の自由、恣意性、自由な仮象としてしか現れない」(『吉本隆明全著作集11』「共同幻想論」) からである。階級概念も、事実としての現実的で具体的な市民社会では、労働者の子が資本家であったり、資本家の子が労働者であったりというように百人百様の現れ方をする。しかし、経済的社会構成体を中枢とする理念としての市民社会においては、一方が資本家なら他方は非資本家であるというように、垂直的な概念(支配――被支配という関係性、権力)に転化する。このことは、マルクスが、「資本家や土地所有者」は「経済的範疇の人格化」、すなわち経済的範疇において抽象化された人格であり、その限りで、「階級関係と階級利害の担い手である」。したがって、マルクスは、「決して個人を社会的諸関係に責任あるものにしようとするのではない」、と述べたのである(『資本論』)。本質的に共同幻想と逆立する共同幻想はないから、全ての共同幻想は、共同体の個々の成員に対して権力に転化しまうことになる。したがって、個体の自己幻想において、国家を「風俗、習慣的な慣行律」、家族的習慣、宗教、法まで含めて共同幻想の一態様として自覚的に把握する時、すなわちそうした国家から対象的になって距離をとる時、少なくとも国家の共同性を第一義化・価値として措定してしまう錯誤だけは、すなわち国家の共同性から抑圧されていく錯誤だけは、犯さずに済むことができる。レーニンやトロツキーが、国家は階級支配の道具であると述べたのに対して、その前に国家がなければ階級はないというところに国家の思想的な問題があるとして、吉本は次のように述べている――「思想の問題としての国家は、あるがままの大衆の存在様式の原像からうみだされた共同的な幻想として成立し、そこから大衆の生活過程と逆立し矛盾するにいたったものとして規定される」、と(『吉本隆明全著作集13』「情況とはなにか」)。
エ)佐藤は、「神学っていうのはいい加減な学問で、結論が先に決まっているんですね」・「どんな形だって自分たちが正しいんだ」・「あとはどういう風に理屈を組み立てるか、という訓練で、このことは、役人になったら役に立つのですけどね(笑)」、と語っている。私がすでに何回か佐藤の書いたこと・語ったことについて論じたことを念頭におけば、佐藤のこの語り方から、私たちは、佐藤が、神学のその原理・その認識方法と概念構成を持っていないこと、またそれ自体において自己相対化視座を持っていないこと、信と不信・知と非知・キリスト者(教)と非キリスト者(教)とを架橋する往還思想を持っていないこと、党派的思想と党派的共同性に基づく多元主義に立脚していること、皮相的な知識をただ振りかざすだけの単なる政治屋に過ぎないこと、を知ることができる。これらのことは、すでに、“「佐藤優の宗教、神学、等々の、ほんとうの位相」”において述べたことである。このような馬鹿げた似非使徒の佐藤に対して、わが日本の神学者や牧師や著述家は誰も批判ができないのだろうか、批判をしないのだろうか、ということが、私たちには全く理解不可能なこととしてある。佐藤は、「論理で語れる世界を徹底的に行うことによって、神学の世界では否定神学というんですけれども、残余の部分を示すんですよ、それによって。 だから、その残余の部分を示すための準備作業として、徹底した論理化が必要なんですよね。それで、徹底した論理化を行った結果、初めて残余の部分、宗教について語る権利を持つんですよ」。私たちは、この佐藤の恣意的で出鱈目な発言が、まさしく、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものであり、ハイデッガーが揶揄し批判した「存在者レベルでの神」・その神への「信仰」でしかないことを、すぐに理解できることを知る時、やはりまた、わが日本の神学者や牧師や著述家は誰も批判ができないのだろうか、批判をしないのだろうか、ということが、私たちには全く理解不可能なこととしてある。日本の神学者や牧師や著述家は、バルトのように、次に引用するフォイエルバッハの正当性のある根本的な批判に耳を傾けて欲しいと思う――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、「神学の秘密は人間学以外の何物でもない!」(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。佐藤は、バルトを曲解し、そして根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて、恣意的に出鱈目に、「実は」、「宗教でない形態で宗教を語っていくっていうのが、実は最も宗教的である」ということを、バルトは『ローマ書』で述べている、と語るのである。ここでも、佐藤は、馬鹿げた似非使徒を演じている。ほんとうに、マルクスや吉本が書いているように、「無知が役に立ったためしはない」、のだ。
オ)「プラグマティズムと言うと、どうも軽く見られがちなのですけれど、プラグマティズムというのは、その背景に実は神様がいるわけですよ。要するに、正しいことを選びとることができる力というのが備わっているから、プラグマティックに選ぶことができるわけで。実は正しい言葉を選択することができるっていうのは、その背後に神様がいるわけですよね」。ここで、「背後に神様がいる」という佐藤の「正しいこと」とは何なのか? 馬鹿げた似非使徒の佐藤の恣意性と出鱈目さが「正しいこと」なのか? 身近な農民のために身も心も尽くしながら、全体と個との幸福と救済を考えた宮沢賢治のような優れた往還思想を全く持たない、馬鹿げた似非使徒の佐藤の恣意性と出鱈目さが「正しいこと」なのか?
カ)「現在のような日本の状況で重要なのは、宗教という形以外の形で提示しないといけないということなんですよね。思想でもいいし、現代文の読み方という形でもいいし、あるいは論理学でもいい。何か宗教という言葉ではない言葉で提示しないといけない」――佐藤は、オウムのように、「宗教」、「宗教」、と繰り返しているだけなのだ。佐藤は、論理の重要性を語りながら、また思想の概念を使いながら、彼の論理には一貫性がないし、論理的整合性もないし、思想もないし、また彼には本質の媒介的現実性である現象についての理解等々もないのである。また、バルト読みのバルト知らずである自然神学的なキリスト教的著述家の佐藤は、神と人間との無限の質的差異の自覚も、終末論的限界の自覚(自己相対化視座)も、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の実在そのもの・啓示の客観的現実性)と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)においてある神の言葉への連帯と、それに基づいて個性と時代性を刻んでいく信仰的・神学的な表現としての「告白」・「証し」・「宣べ伝え」もないのである。佐藤の「宗教という言葉ではない言葉」というこの語り方――このような馬鹿過ぎる言葉(メディア的な皮相的な一般受けがする読者を煙に巻く言葉)は、フォイエルバッハの宗教批判や「存在者レベルでの神への信仰」=<宗教>に対するハイデッガーの揶揄・批判を根本的に理解していれば、決して出てこない言葉なのだ。そのことが理解できていない佐藤は、そうした<宗教>の水準に立脚して、あのような馬鹿過ぎる皮相的な発言をしているのである。ほんとうは、思想にとって重要で根本的な問題は、その信仰・神学のその原理・その認識方法と概念構成にあるのだ、その根本的な内容の構成にあるのだ。このことが、創造力や構想力のない、ただ単なる事実的皮相的一面的外在的なメディア的な一般受けすることだけしか考えていない・目指していない、もの書きの佐藤には分からないのである。
キ)「キリスト教の神様の趣味っていうのはジェノサイド(人類抹殺)ですから。ジェノサイドにしてやるという形で、すぐ怒るんですね。そうすると預言者が出てきて議論すると。それで、今までのところ、人間と神様の議論は百戦百勝で人間が勝っているんですよ。そうじゃないと人類は滅ぼされていることになっているんですから。そこでいろんな屁理屈とかを見つけてくると。だから、論理っていうのは人類が生き残るために不可欠だ、という感覚が、ユダヤ教社会、キリスト教社会にあるから、必然的に理屈とかが発展するんですよね」。これが、佐藤の言う論理、知識、インテリジェンス、エリート、一流、天才の水準というものである。ほんとうは、「人類にとって重要な課題は、……『全き自由(完全な自由)の社会』は実現できるか」、人間の社会的現実的な究極的総体的永続的解放は実現できるか、にある。なぜならば、「人類の歴史、世界史とは……本当をいえば、個々人の生活史や精神史の総和」にほかならず、したがって、書かれた歴史には登場しない「『大衆』という理念を欠いた人類の歴史、世界史というのは意味がないということになる」からである。この観点から言えば、現在、政治的近代国家・民族国家の一国性と経済の世界性という動きの中で、日本と欧米、日本とロシア、日本と中国の問題等が惹き起こされているのであるが、アメリカのためになることをするにはどうしたいいのか・「アメリカの報復戦争に協力するにはどうしたらよいのか」等々という問題は、「人類の歴史にとって最低の課題」でしかないものであるし、また「アメリカの言い分に振り回されて、有事法制をつくろう」等々という問題も、「人類の歴史にとって最低の課題」でしかないものなのである(吉本隆明『超「戦争論」下』)。佐藤の場合、その書いていること・発言していることを見てみれば、ほんとうのところは、いつも、そうした最低の課題にだけ関わっていることが分かる。「政治」、「政治」である。その場所で「宗教」も語ったりするのである。
神学における思想家のバルトは、神の側の真実としての「イエスの信仰」の主格的属格理解、神性を本質とするイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済(史)、啓示の実在・啓示の時間そのもの、啓示の客観的現実性、というその信仰と神学の原理・その認識方法と概念構成、という一貫性を持っている。バルトは、佐藤のような恣意的で出鱈目な人間中心<主義>、内面<主義>、主観<主義>に対して、例えば、神と人間との無限の質的差異の概念、終末論的限界の概念、神の不把握性の概念、神の隠蔽性の概念、イエス・キリストのにおける啓示の客観的現実性、キリストの<神性>という概念を置くのであり、そしてそれらの原理・概念は、佐藤のような自然神学的な著述家や神学者や牧師に対する神学における思想的武器なのである。バルトは、そうした神学における思想的武器によって、一切の近代主義や佐藤のような一切の自然神学的な著述家や神学者や牧師たちの宗教・神学・発言を根本的に批判し止揚して、それらから超出しているのである。
ク)佐藤は、「日本にはやはり、日本の土着の神々がいるわけだし、土着の精神があるわけなんですね。そこのところっていうのを明らかにする作業があって、それで、キリスト教はその中で土着化していかないといけないんですよね」、と述べている。この場合、日本における神学では、北森嘉蔵みたいに、日本におけるナショナルなものへの復古という近代の「退行的超克」になってしまうのだ。また、佐藤は、「僕みたく軸足をキリスト教にもっていっちゃうとですね、その一番重要な、日本の中にある根源的なところにあるものを探究するという作業ができなくなっちゃうんですよ。これは、いきがかりだからどうしようもないんですけれども」、と述べている。出鱈目なウソを言ってはいけない。ほんとうは、佐藤がキリスト教的著述家と言うのなら、天皇制や国家を止揚し無化し・相対化していく課題を強いられているのだ。それらの課題を、引き受けなければならないのだ、担わなければならないのだ。しかし、佐藤は、本土日本と沖縄の「音韻や和歌などのリズム・感覚の違いについても、本来気づかないといけないはずなんですよね」・「そうすると、沖縄との問題なんかも、リズムが違う人たちなのだから、これは なかなかかみ合わないと」・「 要するに、沖縄は天皇信仰がない日本の領域です。そういう所を日本は包摂しているんだっていうことを考えた場合に、沖縄は、やはり特殊な対応をしないといけない。これは異なる神話共同体だと」、と言うだけなのである。これでは、何も言わないのと同じなのだ。これらの問題については、私は、すでに、“バルトの生涯」の「自然神学的な<全>キリスト教に対する宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』への道程、そして、バルト読みのバルト知らずたち――佐藤優、富岡幸一郎等々」”において述べているので、ここでは省略する。また、これらの課題の詳細については、私は、すでに、“<吉本隆明『読書の方法 なにを、どう読むか』「批評と学問 西欧近代化をどうとらえるか」>”等において述べたので、ここでは省略する。
最後になったが、佐藤の記事を、どのように読んでも、どれだけ読んでも、何も得ることがないことが分かる時、徒労を感じるのであるが、と同時に、やっぱり、吉本が、批判の対象として佐藤には全く目もくれなかったことも納得できる。私は、佐藤の本を図書館で借りて読んだのは、1年くらい前からで、バルトとの関わりにおいてであった。わが日本のキリスト教界において、もてはやされていたことも理由の一つとしてある。いずれにせよ、佐藤は自分をエリートだと勘違いしているところがあるのだが、彼の本や発言自体は、その水準から言って、必ずや自然時空に死語化していくことは時間の問題としてあるだろうことは、確実なことである。ただ、佐藤の書物がある程度売れて採算が取れている間は、商業資本のメディアは佐藤を支えることもまた確かに違いにない。したがって、私は、馬鹿馬鹿しくて徒労を感じるのではあるが、バルト読みのバルト知らずの佐藤の恣意的で皮相的で出鱈目な知識や発言に対しては、今後は、機会があるごとに、私が知り得た限りにおいてであるが、そうした佐藤に対しては根本的な批判を<余談の余談として>加えていきたいと思う。
今回の最後の最後に、批判は、ほんとうは、ある対象を、根本的に包括し止揚することだということ・否定的に媒介するというということだという――このことを、全く認識せず・理解せず・自覚しないまま、批判は「つまり、全面的に賛成だという場合も批判なん」だと出鱈目なことを平然と語る気違い染みた、根本的な誤謬に「普遍性や」ある「組織性の後光をかぶせて語」る、馬鹿げた似非使徒の佐藤の危険性について追記しておくべきだと考え、そうすることにした。