バルト『教会教義学 創造論』における「神学的倫理学」の理解のために<前回の補注>
『バルト・教会教義学・解説シリーズV/4 キリスト教倫理T 序説・神の前での自由』鈴木正久訳・編、新教出版社(これ以降は『キリスト教倫理 序説』と記す)に基づく
バルト『教会教義学 創造論』における「神学的倫理学」の理解のために<前回の補注>
(ブッシュは、『バルトの生涯』533・534頁において、『教会教義学 創造論』における「倫理学」について、ほんの少しだけ述べている)
教義学は、教会の一つの機能として、教会の宣教における<三位一体論――キリスト論>的な「神の言葉」を対象とするのであるが、「どのようなものが良い人間の行動であるか」という「倫理的問題」をも包含している。この場合、神のみが「善」であるから、その善の「基準・根源」である「神の言葉」・「神の戒め」に聴従するとき、そのことが、人間の「良い良心」・「良い行い」であり、「人間の聖化」である、と言うことができる。一切の近代主義・<自然神学>の系譜に属さない、バルトの「神学的倫理学」は、<三位一体論――キリスト論>的な一貫性をもって展開されている。なぜならば、
@教会の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠としての神の啓示は、旧約聖書におけるヤハウェ・新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身の自己啓示のことだからである。
A聖書また教会の宣教においてその神は、キリスト論的集中において、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示するからである。
Bこの神の自己啓示が、教会の宣教の客観的な信仰告白と教義である三位一体論の根拠であり、「啓示の認識原理」だからである。
Cそして、神の言葉は、この三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」――すなわち、この根拠・起源・出自・原動力である第一次的な啓示の<客観的>実在そのものとしてのイエス・キリストと、また聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)――においてあるからである。
さて、「神の戒め」は、「人間に対する要求であり、人間に向かっての決断である」ことにおいて、神は「人間が<生>きるためにのみ人間の<死>を欲し給う」のであるが、その神の恵みにおける「人間に向かっての審判である」。このように、人間は、神の恵みの「裁きによって」、人間が、「聖化」され、「永遠の生命に入れられ」、「解放され」、「自由にされること」が、神の恵みの「戒め」(その要求・決断・審判)の「究極の目標」であり「固有の業」であり、「本来の意義」である。そして、この「律法の成就」者は、ただ一回限りの唯一無比の、神性を本質とする神の第二の存在の仕方(啓示=和解、その性質・働き・行為・業)であるまことの神でありまことの人間であるイエス・キリスト(神の子・神の言葉)そのものである。これは、神の側の真実、神の真実の行動――すなわち、神自身における、神のその戒めに対する神によるその戒めの厳守の行動、<客観的>な「律法の成就」である(『キリスト教倫理 序説』)。このことを、『福音と律法』に即して言えば、律法は、その福音の内容であるイエス・キリストを信ぜよ、という神の「要求と強請」であり、「恩寵への召喚」のことであるから、その福音を内容とする福音の形式のことである。このことは、私たち人間は、この律法がなければ、現実的に福音を所有することができないことを意味している。この意味で、律法は、人間を「生命に導くもの」・「神の恩寵を証しするもの」である。またこの意味で、神の律法は、人間はただの人間でしかない以上、神性を本質とするイエス・キリストを模倣することではないし、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもないのである。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、素直な感謝の応答・告白におけるその福音の証し・宣べ伝えにあるのである。したがって、神の戒めは、「決疑論的倫理学」が前提とする人間に内在する「理性的な、道徳的な自然性」や「伝統・自然法・聖書のいずれから取り出してきた」ような「一般的原則」ではないし、その「実質的適用」のために必要な「善の観念」や「断言的命令」という人間学的な概念も必要としないのである(『キリスト教倫理 序説』)。したがってまた、神学的倫理学・特殊的倫理学は、一方で神の側の真実としての客観的な面(「垂直線」の視線)と、他方でその「神の戒めによる働きを受ける人間」――すなわち「主観的な面」に対する視線との構造性・同在性を問題とする(『キリスト教倫理 序説』)。
「イエス・キリストにおいて人間に対して恵み深くありたもう神」により「聖化」された人間の神の前での「自由」・神に対する「自由」は、「従順」に対する対立概念ではなく神に対する「従順」(責任の応答)を包含した神に対する「従順の自由」・聴従の自由であり、それゆえに「真の自由」である。これが、イエス・キリストのインマヌエルの出来事における客観的な神の側の真実から見られた、「倫理的問題」に対する「神学的倫理学が与えるところの一般的解答である」(『キリスト教倫理 序説』)。したがって、決疑論者のように、「聖書の中から一般的道徳的原則……を拾い集めて、それを更に個々の事態に合わせて註釈したり適用したりすること」は、神学的「倫理学の課題」ではない。なぜならば、聖書において神の「戒め」・「命令」は、「原則・原理・根本命題・一般的道徳的真理などとしては現われて来ない」からであり、そしてその命令者は、神自身であって、「倫理学者」等の人間では決してないからであり、「全く独自で一回的な具体的命令、また禁止令また指示として現われてくる」からである。また、この神の戒め・命令を受けた人は、「単なる個人」に関連しているのではなく、「常に神が選び給うた民(旧訳ではイスラエル、新約ではイエス・キリストの教会)」に関連しているし、また「旧約の十戒でも新約の山上の垂訓や使徒の指示でも」、神の側の真実としての<客観的>なイエス・キリストにおける「契約の歴史」・「救済の歴史」の「内容」――すなわち『福音と律法』に即して言えば、その「真理性」と「現実性」の構造的・同在的な内容、啓示の客観的現実性――に関連している(『キリスト教倫理 序説』)。しかし、バルトは、『和解論T/1 和解論の対象と問題』において、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べると同時に、神性を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれていることも述べている。
神の前での「自由」・神に対する「自由」・「責任の応答」は、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、次のように言うことができる――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る<責任ある証人>となる場合、すなわちイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉としての啓示の「概念の実在」――三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、キリスト教に固有な類・歴史性――ではない。神の言葉は、「人間の現実存在の内部」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・人間の感情や理性や実存や意志・人間学的な哲学原理や認識論や世界観の中にはないのである。なぜならば、神に敵対し神に聴従し服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。
このようなわけであるから、神学的倫理学は、前述したような<客観的>な問題と解答に基づいて、<主観的>な「神の戒め(その要求・決断・審判)のもとで行動している人間」・その人間の「聖化を問題」とする。この問題は、「神の戒めが彼の中に最も具体的に尖鋭化して現われてくる、その命令に対して彼が服従するかしないかにある」(『キリスト教倫理 序説』)。したがって、バルトの神学的実存の在り方は、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った」福音の言葉の「一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になっていった」という在り方にあった。
このように、神の戒めとしての神の言葉は、理性的・道徳的な「自然性」、人間によって管理される恣意的独断的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」等としては存在していない。また、それは、「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことではない、「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進することではない、「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進することではない(『福音と律法』)。神と人間との無限の質的差異を揚棄し「神の座」についた倫理学者の自由事項としては存在していない。「良心が不安になる事態が生じて疑惑が生まれた場合に、それに応じた適当な判定を下して問題を解決してやる方法」――教会史上での「法則的・組織的」な「決疑論」的倫理学としては存在していない。この決疑論的倫理学は、カトリックにおいては「イエズス会教団で最高頂に達した」が、宗教改革は「このようなものを斥けて行動の規準としてただ神御自身の言葉をあげ」「キリスト者の自由」を重んじた。しかし、「十六世紀後半に至ってプロテスタント教会の中にも」法則的・組織的な決疑論的倫理学が「次第にはっきりと現われてきた」。ここでの問題点は、ただの人間に過ぎない倫理学者やそれに類する者が、神と人間との無限の質的差異を揚棄して「神の座」に就き、その倫理学者の説が共同性を獲得したとき、法則的・組織的な決疑論的倫理学が成立してしまう点にある。すなわち、そこでの問題は、<自然神学>における問題として総括できるのである。「カルヴィンは、……神のみが唯一の立法者であり、神の意志だけがすべての義と聖の完全な原則であり、神だけがわれわれの霊魂を支配し給う」と、決疑論に反対した。バルト自身は、決疑論を拒否する根拠を、イエス・キリストにおける福音に――「神が福音の恵みある神でありたまい、キリストにおける神でありたもう」という点に置いた。そして、このキリストにおける神に対して人間は、「その戒めを行うときさえも、受ける者・贈られるもの・全くの初歩者として対している」と述べた。なぜならば、このような、神の側の真実である<客観的>な「自由な恵みの出来事」を根拠・起源・出自・原動力とする「実践的決疑論」においては、<自然神学>的な法則的・組織的な決疑論とは決してなり得ず、徹頭徹尾、<自然神学>的な「人間の思い上がりや出しゃばりは排除される」からである。したがって、バルトは、このような「実践的決疑論」を展開して、人間的自然に基づく法則的・組織的な決疑論に対しては、徹頭徹尾、根本的包括的な批判を加えた。したがってまた、バルトは、この神の自由な恵みの出来事を受けた人は、「神に対して自由に服従する」・聴従する、と述べた。すなわち、神に対する「従順」を包含した「従順の自由」を認識し自覚する、と述べた。ここから、「良い良心」と「良い行い」が出てくる、と述べた(『キリスト教倫理 序説』)。
さて、この場合、神の戒めは、「人間の具体的な意欲・決断・行為・行動の領域」に、どのように介在してくるのか? 神学的倫理学・「特殊的倫理学」はどのようにして成立するのか?
神学的な特殊的倫理学は、「神の具体的な戒め」(指示)と「人間の具体的な服従」(従順の自由)または不服従(不従順)は、神のその都度の自由な決断による「あの時と状況に応じ」た「新たな」「啓示」の出来事と「信仰(あるいは不信仰)」の出来事を惹き起こす「聖霊の権威と指導と審判を人びとに」指し示し想定させる、ものである。この特殊的倫理学は、「人間の具体的な意欲・決断・行為・行動の領域に神の戒めが触れ」た時における――すなわち、垂直線が水平線上に交叉した時における、「神の具体的な戒めと人間の具体的な服従または不服従」について理解する点にある。したがって、特殊倫理学は、「あの時と状況に応じて常に新たに啓示と信仰(≪あるいは<自然神学>的な神と人間との「混淆」・「共働」を目指す「暗黒への跳躍」である不信仰≫)の事件になってくる聖霊の権威と指導と審判を人々に想定させる」点にある(『キリスト教倫理 序説』)。
このことは、次のように言うことができる――イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する(『教会教義学 神の言葉』)。ここにおいて、特殊的倫理学は、水平線を包含した垂直線から規定されてくる神の命令に対して、人間の行動の恒常性と連続性における「形をなした指示」を持つものとなる。そしてその場合、その指示が、「神の言葉によって啓示せられた確実さを持っているかどうか」が問題となる。もっと具体的に言えば、その「形をなした指示」が神の言葉――すなわちイエス・キリストにおける福音を内容としたその形式であるかどうかということが問題となる。
<自然神学>の系譜に属するエミール・ブルンナーの倫理学は、次のようなものである。
@決疑論を斥けていることは正しいとしても、個人倫理の領域においてのみ、「神の戒めはその時々に聞きとられるもの」である、としている。
A神の「戒め」と「諸秩序」を区別するのであるが、彼にとって神の戒め(命令)は、「われわれの行動以前に存在している」「神の『諸秩序』」(「創造の諸秩序」)――すなわち、「神に創造されたこの世の現実性」・「事実性」・人間的「現実性」の「中にわれわれを置く」、というものである。
したがって、このブルンナーの諸秩序、「人間的現実性」、神と人間との「交わりの諸秩序」・<共働>の諸秩序という概念は、人は誰であれ、不可避的な歴史的現存性(・類)のただ中に生誕し、それとの不可避的な関係性の中で、個の現存性を生きる、という概念と全く同じである。したがってまた、このブルンナーの考え方は、人間学的にも神学的にも非自立的で中途半端なものである、と言うことができる。なぜならば、人間学的にも、とは、ブルンナーは、その歴史的所与(「家族・経済・国家」)の概念について、その歴史的現存性(・類)の出自とその展開の仕方とそれぞれの次元の差異性とその思想的課題を考察の対象とは全くしていないからである。また、神学的にも、とは、ブルンナーは、「諸秩序」の概念を、唯一一回的な、唯一無比な、イエス・キリストにおける神の啓示にのみ信頼し固執して規定するのではなく、それゆえに神学的倫理学における「正当性」と「確実性」の根拠・出自・起源・原動力を棄揚してしまって、恣意的独断的に「人の心の中に内在的に記されてあり・知られている」「自然法」に基づいた「家族・経済・国家と規定して」いるからであり、そして「恵みの神から啓示される戒めは、ただ個人倫理の領域に関係するだけのもの」にしてしまったからである(『キリスト教倫理 序説』)。
それに対して、D・ボンヘファーにおける、神の戒めと人間の行動の恒常的要素とは、次のようなものである――「神の言葉」、すなわち「イエス・キリストに啓示されている神の戒め」から、具体的には「聖書」から、「委任統治論」を展開し、神の戒めの歴史的な恒常的形態を、「キリストが世を支配し給うことの具体化」である、それゆえに世も「このことを通して……キリストに向かう」ところの、「全人」・「万人に関係している」@「労働」とA「結婚生活(家族)」とB「政治的権威」とC「教会」とD「文化」とに置いた。しかし、この「委任統治」は、「『歴史の中から発生した』ものではなく、『上から世界の中に降下してくるキリストの事実の区分』である」から、それを委任された者たちは、@からDの歴史的な恒常的形態において存在する神の戒めを完遂することであり、「人間の意志を遂行するのではなく、神から負わされた委託を遂行する」ことである。したがって、これを「誤用・悪用」する場合、それは、神と人間との「上下関係を乱すこと」になる。それは、「悪魔の力にまどわされることであるから」、「イエス・キリストに啓示されている神の戒め」に依拠して、それらと闘わなければならない。この場合、神学的に明確でないことは、彼の挙げる神の戒めの歴史的な恒常的形態である五つの領域の根拠・出自は何かという点である。また、この五つの領域の規定は、「北ドイツの家長制が発する臭いが多少まじってはいないか」、という点である(『キリスト教倫理 序説』)。ボンヘファーは、ブルンナーと同じように人間学的弱点を持っているのであるが、神学的には、観念の共同性を本質とする<不可避性>としての政治的概念の不在にあると言うことができる。その証左は、例えば国家論の思想的課題――過渡的国家の問題や究極的な国家の無化の課題を持たずに、ヒトラー暗殺計画への参画とその権力闘争に向かってしまった点にある。この場合、その政治的実践がもし成功していたとしても、それは、大多数の被支配としての一般大衆の社会的現実的な人間的解放をもたらすものでは決してなく、支配は被支配を逆立した鏡とするという新たな政治権力の構成でもって終わってしまうものでしかなかった。このようなボンヘファーとは違ってバルトは、神性を本質とするイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済・平和(史)にのみ信頼し固執して、「スイス(≪スイスの、人間の、世界の、人類の自由≫)をナチズムからまもるために」、そして「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」という信仰的神学的決断と実存において、「軍隊に参加」したわけであるが、一方で、彼は、「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」ことによって、全人間・全世界・全人類の救済・平和を、「国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内」に求めなかったし、それゆえに東西イデオロギー・権力に対しても、いかなる国家や文化に対しても、徹頭徹尾、与することなく両者から距離をとる<第三の道>を歩んだのである。
神学的倫理学・特殊的倫理学の<三位一体論――キリスト論>的な構造
このことは、倫理学は、教義学に包含されていることによっている。
「倫理的事件」(倫理的出来事)の「二つの因子」についてであるが、それは、第一には、人間に対して支配的に戒め(「要求・決断・審判」)を与える神であり、第二には、その神に対して「受身の客体としてある人間」であり、「神の相手にされる」ことにおいて「行動的主体」である人間である。これは、神の命令と人間の行動との倫理的事件における恒常性・持続性・連続性である。そして、この二つの因子である「神の言葉において出会う神と人間」は、聖性(隠蔽性)としての神や、直接的な「人間の能力やその完遂の基礎の上には現われない」のであるが、神性を本質とする神の第二の存在の仕方、その性質・働き・行為・「業」である神の子・「神の言葉、イエス・キリストの内に現われている」。これは啓示の弁証法における「公開の秘密」であって、神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事における隠蔽性と顕現性である。したがって、神学的倫理学は、この神の側の真実としてのみある<客観的>な啓示の実在、「肉体に対して肉体の中にある言」、「イエス・キリストにおける神と人との出会い」という教義学的前提を認識根拠・認識原理としなければならないのである。このように自己啓示する神は、イエス・キリストの父(「創造者」)、子としてのイエス・キリスト自身(「和解者」)、父と子の霊である聖霊(「救贖者」)、であり、「父として被造物の全能の主であり、子としてこの被造物に自己を与えたまい、聖霊としてこの被造物をすべての真理に導き全うしたもう神である」、という三位一体の神であるから、<三位一体論――キリスト論>が、神学的倫理学の根本的包括的な認識原理である。したがって、神学的倫理学における神の戒めは、<三位一体論――キリスト論>に基づく、また隠蔽性と顕現性という啓示の弁証法に基づく、「創造者」(命令者)・「和解者」(命令者)・「救贖者」(命令者)という神の三つの存在の仕方(性質・働き・行為・業)における人間に対する神の戒めでもある(『キリスト教倫理 序説』)。
その神に対して「受身の客体としてある人間」であり・「神の相手にされる」ことにおいて「行動的主体」である人間は、この<三位一体論――キリスト論>に基づいて初めて、その三つの形態において認識し把握することができる(『福音と律法』におけるその「真理性」と「現実性」論を参照)。したがって、バルトは、「神の言葉に聞く限り、創造者なる神は、和解者・救贖者なる神と切り離しては認められない。その関係から切り離して創造思想をつくりあげ、それを、現実性を解明する鍵にしようとしたり」する場合には、「多くの『秩序の神学』の代表者らがしたように……(≪少なくとも半分は人間の自主性・自己主張によって恣意的独断的につくりあげられた<自然神学>的な≫)虚偽の創造者に向かって歩むことになる」、と述べたのである。したがってまた、現実性(「倫理的事件」・倫理的出来事の場所)と歴史(その事件・出来事の時間性)は、<三位一体論――キリスト論>を基軸として考えなければならない。すなわち、「神は創造者・和解者・救贖者でありたも」うということに基づいて、「それに対応して人間も被造物・恵みの教授者・約束への参与者」として、私たち人間の類・歴史性――個・現存性の「自己展開」をなすことができる。「この倫理的事件においては、それがいつ・どこにおいてであれ、神が、系統立てられ・また相違している行為をなしたもうのであり、また人間が、それに対応して、この神に向かって系統立てられ、また相違している在り方をするのである」(『キリスト教倫理 序説』)。
これらのことを「理解することが、特殊倫理学の課題である」(『キリスト教倫理 序説』)。
さて、「神の戒めに直面する人間」は、@「神の被造物また契約の相手」(無神性の人間が生きるためにのみ神はその死を欲し給うのであるが、その神の戒めに対する答えに聴従しない罪人)であり、A「恵まれている罪人」(主格的属格としての「イエスの信仰」においてイエス・キリスト自らが、その神の答えに徹頭徹尾聴従し・「律法の成就」・律法を完成した。また、この「律法の成就」者であるイエス・キリストに対しても信頼し固執しない真実の罪人とその罪をもイエス・キリストはその死と復活において究極的包括的総体的永遠的に止揚し・克服した)であり、B「現在においてすでに将来の永遠的なものを保証されている神の子」(そのイエス・キリストの啓示の出来事を人間の側に主体的主観的に現実化させるために、すなわち啓示認識・啓示信仰を授与するために聖霊を注ぎ、そのイエス・キリストにのみ信頼し固執させる「生命の御霊」・聖霊を授与する)である(『キリスト教倫理 序説』)。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、<神の側の真実>であるイエス・キリストにおける啓示の出来事、その死と復活、啓示の<客観的>実在、啓示の<客観的>現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、この事柄は、神の側においてのみ<客観的>な事柄であるから、「ある人が自分をもはやキリスト者であるとは考えられないような時においても、事情は変わらない」のである。したがって、「創造者・和解者・救贖者」なる神は、「信仰者の神であるとともに、また不信仰者の神でもありたもう。人間が彼を知る・知らないによらず、人間はこの神によって、規定され・秩序づけられているのである」。この意味で、この事柄に基づく神学的倫理学・特殊倫理学は、「歴史への注解書」と言うことができる(『キリスト教倫理 序説』)。
歴史と現実性の問題
このことは、先述したように、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」、ということを意味している。したがって、このことは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」というように視・注解することを意味する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」というように視・注解することを意味する(『教会教義学 神の言葉』)。したがってまた、私たち人間の、その類・歴史性――個・現存性の生誕から死までのすべてを包括し止揚し克服した、その神の側の真実としての啓示の<客観的>実在であるイエス・キリストにおける啓示・キリストの復活における「成就された時間」の場所は、一切の近代主義・<自然神学>的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだか≪暗号≫にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」(ゴルヴィツァー編『バルト 和解論 ヨブ』)ことが見渡せる場所であるばかりでなく、私たち人間の、その類・歴史性――個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せる場所であり、それゆえに「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」(『教会教義学 神の言葉』)場所でもあるのである。この場所が、「倫理的事件」「具体的な神と具体的な人間との出会い」の場所である(『キリスト教倫理 序説』)。
「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就の時間は、「新しい世」のはじまりである。したがって、「敗北者」である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・「成就された時間」であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ところの「古い時間」である。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」である。聖書における神の啓示は、「神の時間」・「まことの実在の時間」の中で遂行されたイエス・キリストの出来事における「和解の善き業」・「唯一」の「恵みの契約」のことである。そしてこの「契約の仲保者」は、神性を本質とする「人なるキリスト・イエスである」。したがって、キリストの誕生・死と復活の宣教における「福音の歴史の正しい考察」・正しい歴史認識の方法は、「啓示は歴史の賓辞ではない」、「歴史が啓示の賓辞である」という点にある。すなわち、人間の歴史は、「神的自由の行為」としての啓示となることはできない。言い換えれば、神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の実在・神の実在の時間・超歴史・救済史・永遠は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・時間・歴史の、彼岸・外にある・彼岸・外にあり続ける(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、両者の混淆や共働は、本質的にあり得ないのである。この事柄が、「具体的な神と人間との出会い」の「倫理的事件」・倫理的出来事、福音を内容とする福音の形式としての神の戒め、その要求・決断・審判の出来事における、その「テキスト・内容原理・平野」・現実性、歴史、その「関連・配分・相違」を形成する(『キリスト教倫理 序説』)。
「具体的な神と具体的な人間との出会い」としての「倫理的事件」・倫理的出来事は、そしてそのことに規定される「特殊的倫理学」は、唯一回的・唯一無比な、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の出来事が、私たち人間の、類・歴史性――個・現存性に「降下」してくる場所において「発見」され・「形成」され・「構成」される。なぜならば、まことの「現実性」は、「啓示の客観的現実性」そのもののことであるからである。したがって、「啓示の客観的現実性」が、人間の類・歴史性――個・現存性の生誕から死までの総過程を見渡したり・「発見したり・構成したり・定義したり」することができる場所なのである(『キリスト教倫理 序説』)。
先述したのであるが、このことは、『福音と律法』の言葉に即して、次のように言うことができる――恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音の形式である律法が建てられる。なぜならば、この律法(神の人間に対する要求・命令)がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのである。したがって、この神の律法は、人間はただの人間でしかない以上、神性を本質とするイエス・キリストを模倣することではないし、またそれは、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもないのである。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」(イエス・キリストにおける「律法の成就」・律法の完成)から考えられなければならないから、@主格的属格としての「イエスの信仰」による神の義にのみ信頼し固着すること――すなわち、その神の義としての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」にのみ信頼し固着することであり、素直な感謝の応答であり、その告白・証し・宣べ伝えにある。A「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ことにある。B「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れる」ことにある。したがって、これらの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。
この誡命を人間に対しておくことによって、イエス・キリストの出来事は、この「福音と律法の真理性」の「現実化」を目指している。すなわち、全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済(史)は、徹頭徹尾全面的に、主格的属格としての「イエスの信仰」・キリストの死と復活という神の側の真実(啓示の客観的現実性)においてのみ成就されることを目指している。そのためには、福音の形式である律法が、「真実の罪人」の手に、「にもかかわらず」与えられたら、どのような状態になるのかを、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事に即して論じられなければならないから、バルトは、「福音と律法の真理性」における場合とは違って、イエス・キリストにおける啓示の出来事と信仰の出来事に基づいた啓示認識を通して、人間の「真実の罪」を明確にしつつ、そしてその「真実の罪」がキリストの復活において根本的包括的に止揚され・克服されたことについて――すなわち完全な「福音の勝利」について、「福音と律法の現実性」においては、ルターと同様に、律法→福音という順序で語るのである。ここからは、決して、例えばルターのような<自然神学>的な論述の仕方は、生じてはこないのである・惹き起こされることはないのである。
また、このことは、『教会教義学 神の言葉』に即して、次のように言うことができる――神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる。神の言葉は、「その都度の、全く特定の一回的な、独一無比」な言葉である。しかしまた、神の言葉は、「神の口を通して語られて、同時的」である。このことは、神の言葉は一つであること、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味している。この神性を本質とするイエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである。すなわち、そのイエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」において、バルトの「特定のココデイマ」は、預言者や使徒たちの特定の時空と交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」。言い換えれば、そこにおいて、バルトの現存性は、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯するのである。『ローマ書』に即して言えば、「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」、というように言うことができる。
したがって、バルトは、啓示に関わることについて、いつも一貫性を持って、<自然神学>の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教におけるように「自分勝手に発見したり・構成したり・定義したりしてはならない」、と言うのである(『キリスト教倫理 序説』)。終末論的限界を自覚せよ、と言うのである。『教会教義学 神の言葉』でバルトは、その信仰、その神学、その教会の宣教の語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではない」、と言うのである。また『福音と律法』でバルトは、恣意的独断的な神に対する「熱心さの無知」は、「神の要求」・誡命を、人間が管理できるプログラムに変え、曲解された「十戒・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものに変えてしまうから注意せよ、と言うのである。
さて、バルトは、「神の意志と戒めは(≪「イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊」というその存在の本質である単一性・神性・永遠性から言えば≫)常に一つであって、(≪また、その人間へと向かう三つの存在の仕方から言えば≫)創造者・和解者・救贖者としての業を行う」のであるから、その<三位一体論――キリスト論>に基づいて、諸区域・諸領域・諸関係(諸秩序)は、「可見的に」「規定され」る、と述べている。すなわち、人間も、その<三位一体論――キリスト論>に基づいて、「三一の働きに対応しつつ」、「同一人でありながら多様の形式」を持って存在しているのであって、「同一人」として、対自性と対他性の構造・同在性を、そして個・対・共同性の存在様式を生きている、と述べている。したがって、神の戒めも人間の行動(服従あるいは不服従)も、「神がそこで命じたまい・人間がそこで従ったり従わなかったりするところの」場所・現実性(イエス・キリストにおける啓示の客観的現実性)、諸区分・諸領域・諸関係(諸秩序)を「無視して、これから遊離して起こることはない」、と述べている。神学的倫理学・特殊的倫理学の奉仕の課題は、「神の戒めとそれに対応する人間の行動についての指示に、いやます緊迫と責務の意識をもって迫って行こうとする運動にある」から、「神の戒めの内容と、人間の行動の善・悪について決定する」ことにあるのではなくて、前述したような「倫理的事件の特別な真理の一般的形態を知ること」・この倫理的「事件が演じられる諸区域を知ること」にある。したがって、それは、審判・「究極の判断は神に任せられているのである」から、倫理的事件についての「解答自体を・規定を・決定を与えない」。それは、「各人が神の戒めと良い人間的行動の認識に接近するように手引きを提供し、指図を・多くの指図をする」ことにある。したがってまた、特殊的倫理学においては、<自然神学>的な、「決疑論的倫理学」――神と人間との無限の質的差異を揚棄し、ただの人間の倫理学者が神の座において神の意志として立法する誤謬、および、<三位一体論――キリスト論>的な現実性、諸区域・諸領域・諸関係・諸秩序に対する無自覚、による「神の戒め」の「一般原則」化・「一般的真理の遵守」化――や、「点的倫理学」――垂直線の観点だけで、垂直線と水平線とを交叉させる観点がない――、への退行・逆行はあり得ないのである(『キリスト教倫理 序説』)。
「創造者なる神の戒めを理解することは、創造者なる神がまた人間に対する命令者でもありたもうことを理解することである」(『キリスト教倫理 序説』)。「信仰箇条の第一項と第三項はただ第二項からだけ理解されるし、また第二項はただ第一項と第三項の前提と展開においてだけ理解される」・この事柄は、「神の戒めにも妥当する」。このことは、聖書また教会の宣教において、イエス・キリストの啓示の出来事・「インマヌエル」の出来事は、神は罪深き私たち人間と「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」ということであり、また神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する、ということである。したがって、創造者なる神の戒めは、<三位一体論――キリスト論>的に認識し理解することができる事柄であって、またそれは、「イエスの信仰」(ロマ3・22、ガラテヤ2・16等)および「神の御子の信じる信仰」(ガラテヤ2・19以下)の主格的属格理解から認識し理解することができる事柄であって、先ず以て神は、神の恩寵を人間が所有できるために人間に対して神の律法(その要求・決断・審判)を授与する方であり、また「神の恩寵を嫌悪し回避する」「神なき者」・人間・全人間が「その状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」方である。しかし、それに対して、自主性・無神性を本質としている人間は、その「神の恩寵を嫌悪し回避する存在」である(『福音と律法』)。しかしまた、このことは、「福音と律法の真理性」が「福音と律法の現実性」との構造・同在において認識され理解されなければならないように、「創造者なる戒めに並んでさらに他の和解者なる神の戒めが、またさらに第三の救贖」者の戒めが存在するという」ことではない。すなわち、「神の戒めは、唯一の・全き神の全き戒め」である、と同時に、「三つの領域」・区域・関係・秩序も「混同したり・混合したり・同一視」してはならず、「区別しなければならない」のである。すなわち、「倫理的事件において神が命令し人間が行動する」ということは、「この三つの領域」・区域・関係「すべてで常に一緒に起こることなのである」(『キリスト教倫理 序説』)。例えば、「古い世」の終わりであり「新しい世」のはじまりである、キリストの「死と復活」の出来事は、「罪と死の法則」(律法)から「生命の御霊の法則」(福音)への回復であり、「力と愛と慎との霊」である聖霊の授与である。
先述したことであるが、新約聖書によれば、この聖霊の注ぎ・授与、そしてこの神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。したがって、「われわれは今・ここ」においては、すなわち「来るべき神の国の究極的啓示のこちら側」においては、啓示に関わることについて、神認識について、終末論的限界の下で、<三位一体論――キリスト論>的に「なしうるに過ぎない」のである。この意味で、「神学も、今・ここでは『旅人らの神学』である」(『キリスト教倫理 序説』)。このことを、ドストエフスキーは、『罪と罰』において、その文学の言葉で――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」、とマルメラードフに語らせたのである。『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、啓示とは、「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解」という言葉・概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖・完成は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない神の側の真実としての<客観的>な現実性である。キリストの「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。
イエス・キリストにおける啓示の出来事、イエス・キリストの誕生・死と復活の出来事、イエス・キリストにおける「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造・同在が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」であるから、そこにおいてはじめて、「神の一つの戒め」を、根本的包括的に、「部分的」・「全体的」に、断続的・連続的に、「創造者なる神の戒め」・「和解者なる神の戒め」・「救贖者なる神の戒め」として、認識し理解することができる。「創造者なる神の戒め」は、単一性・神性・永遠性を本質とする「イエス・キリストにおいて人間に対して恵み深くありたもうところの神」――それゆえに「万物の創造者・万物の主でありたもうところの神」の、すなわちこの神を「前提」・根拠・起源・出自とする「一つの戒め」であるから、一つの「神の戒めであるだけでなく、また人間の創造者の戒め」でもある。それは、「人間の聖化であるだけでなく」、「まさに人間の被造物的行為と行動の聖化でもある」(『キリスト教倫理 序説』)。このことは、バルトの三位一体論における父なる神(創造主としての神・永遠の父)論を念頭において考えてみると、根本的包括的に認識し理解できる。神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、「父なる名の内三位一体的特殊性」としての父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊・「父ト子ヨリイズル御霊」は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。また、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、神の「存在の本質」から言えば、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。この神が、「人間に対して恵み深くありたもう」方として、人間へと向かうその三つの「存在の仕方」(性質・働き・行為・業)において、「創造者」であり、「和解者」であり、「救贖者」である。イエス・キリストが父として啓示する神は、「われわれの生を、死を通して永遠の生命に導くために死を欲し給う」神である。したがって、私たち人間を永遠の生命に導くために、「ゴルゴダにおいて、イエス・キリストにあって、イエス・キリストと共に、われわれすべてのものの生命が十字架につけられた」のである。と同時に、完全な「福音の勝利、恩寵の勝利」としてのキリストの復活において、神の側の真実としてのみ、<客観的>に、「私たちの召命・義認・聖化」、「罪の赦し」・「肉の甦りと永遠の生命」を現実化したのである。したがって、バルトは、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)、と述べたのである。
バルトは、<自然神学>の系譜に属する神学における、神の命令と人間の聖化が起こる「現実性」について、次のように要約している――すなわち、<自然神学>は、神の命令と人間の聖化が起こる「現実性」を、「完全ではないが、なお充分な確かさと明らかさをもっ」たところの神が創造した「各人の自然理性」の存在に置いており、この「現実性」によって、人間は「神の被造物であることを啓示し」、またこの「現実性」が「創造の秩序、あるいは多様な創造の諸秩序」として、神の命令に対して人間がそれに「対応する行為と行動」をなし得る「一つの基盤・舞台・枠のようなもの」として存在している、と考えている。こうした考え方の「最も注意すべき代表者」は、エミール・ブルンナーである。なぜならば、ブルンナーは、このことは「自然的人間には、正しく知られず・信仰によってのみ初めて真実の意味で知られるもの」であると述べるのであるが、彼にとっては「神の意志」は、人間の「罪によっておおわれて……いるが、……無くなって」しまってはいないのであって、「罪人や異邦人に対しても『行き渡っている普遍的道徳意識』」・「生命の律法」・「被造物に与えられている秩序」を通して、「人間に知らされ、『純粋に理性的な認識』の対象となって」いる、と述べているからである。そして、それは、「キリスト者に命じられている『心からの兄弟愛』(≪「神の啓示により・信仰によって遂行されると称する愛の業」≫)の生活の枠をなしているものであるから、われわれはこれに『結合』しなければならない」、と述べているからである。
このようなブルンナーの考え方に対して、バルトは、根本的包括的な批判を加えている――典型的な<自然神学>的なブルンナーの考え方は、<三位一体論――キリスト論>的なそれでないから、もっと言えば、キリスト教に固有な類・歴史性である三位一体論の唯一の啓示の類比である「神の言葉の三形態」に基づいたものでないから、首肯することはできない。第一に、「創造の秩序」としての「漠然とした『現実性』」を基盤・舞台・枠組みとした神の命令とそれに対応する「人間的能力に対する安易な信頼」による人間の認識と行動というブルンナーの概念は、「啓示せられた神の言葉から遊離して」しまうから首肯することはできない。第二、その創造の秩序の枠組みで「説かれている……神の戒めは、贖罪神の戒めと相違しているだけでなく、……分離して」おり、「イエス・キリストの福音による戒めと一つのもの」として「受け取られていない」から、それゆえに「人間の聖化も行われない」から、首肯することはできない。第三に、「創造者と人間との関係」について、それは、「漠然とした『現実性』」という恣意的独断的な概念によって、人間に「内在的に存在し・また啓示されており」、それゆえに「『普遍的道徳意識』によって認知されるところの『創造の秩序』」である、と言うのであるが、この場合、神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまっているから首肯することはできない。言い換えれば、ブルンナーのその考え方は、「信条(≪ニカイア・コンスタンティノポリス信条≫)の第一項」――すなわち、「我は信ず、唯一の神を……」を揚棄してしまっているから首肯することはできない(『キリスト教倫理 序説』)。
このようなわけであるから、ブルンナーのそれは、「啓示をも信仰をも必要としない」――すなわち、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要としない、「一般的な生活の法則または存在の法則といったようなものが、『現実性』の名のもとに示されているにしか過ぎない」、と言うことができる(『キリスト教倫理 序説』)。
したがって、バルトは、「漠然とした『現実性』」の概念を根本的包括的に批判して、「啓示された神の言葉自体」、啓示の実在そのものである「イエス・キリストにおいて人間(≪「全人間」≫)に対して恵み深くありたもうところの一つの神」を根拠・前提・出自として、その「神の一つの戒めがまた人間(≪「全人間」≫)の創造者の戒めでもあり、それゆえにまたまさに人間(≪「全人間」≫)の聖化」・「被造物的行為と行動の聖化でもある」、と述べたのである。もちろん、このことは、「我信ず」という「領域の秘密を真実に尊重」する「括弧の中において」見られることである――すなわち、神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、しかも終末論的限界の下で、見られることである。このことから、次のように言うことができる――イエス・キリストにある神の恵みは、「創造と創造者の戒め」を包含している。この「キリストにある恵み」(「赦罪・死人の復活・神の国の恵み」)が、「創造の認識根拠である」。すなわち、このキリストにある神の恵み(啓示)を「認識するとき」(啓示認識を授与されるとき)・信仰するとき(啓示信仰を授与されるとき)だけ、「われわれは創造とは何であるか、人間に対して立ち現われていたもう創造者はいかなる方であるか、この創造者の被造物であるとはいかなることか、を確かに認識する」ことができるのである。「創造者は、人間を、既存の形で召したもうのではなく、無から有へと・存在へと呼び出し、その意志のままに……真正の現実性を、与えたもうところの主・父・王でありたもう」。また、「キリストにある恵み」(「赦罪・死人の復活・神の国の恵み」)は、「創造の実質根拠でもある」。「創造に先立ち、これを可能にし・必然的にしたところの神の永遠の聖旨は、まさに、イエス・キリストにおける人間の恵みの選び」――すなわち、それは、「人間に向かっての神の恵みの契約」であって、「これこそ創造の内的根拠である」(『キリスト教倫理 序説』)。言い換えれば、それは、「神の恵みの選び」における、すなわちイエス・キリストにおける「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造・同在性そのものである。「予定説」は、「イエス・キリストにある救いの自由な表現」そのものである。したがって、私たちは、「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方」であるから、「神の放棄」を、その「イエス・キリストの十字架」において認識することができる。また、「神の選び」を、その「イエス・キリストの復活」において認識することができる(『福音と律法』)。「神はまさにこの選びと契約のゆえにこそ、天と地と人間とを造りたもうたのである。神は一切をイエス・キリストにおいて造りたもうた。すなわち、イエス・キリストこそ一切の創造の意義であり・意図」であり・「創造の内的根拠」である。したがって、創造は、「神的然りの形体」・「神の自由な恵みのみわざ」である(『キリスト教倫理 序説』)。この神の自由において、創造は、「契約の外的根拠」――すなわち、「恵みの契約のための場所設定」である。それに対して、恵みの契約の歴史は、「創造の内的根拠」――すなわち、創造の目標であるその契約の始原であり、中心であり、終極である「イエス・キリストご自身」である(『教会教義学 神の言葉』)。このことから、「人間に与えられた神の一つの戒めが、またその創造者の戒めでもある」という前提が得られる。神と人間との無限の質的差異を揚棄し恣意的独断的に考え出された「漠然とした『現実性』」という概念ではなく、「イエス・キリストにある神の恵みの現実性」という認識・概念を得られるのである。この場合、この、キリストにある恵み」・「福音の光と力」に包括された「創造の領域」・区域・関係・秩序において、人間に対する神の命令は、「人間の友人」・「いつくしむ者」として「命じたもうものに他ならない」。したがって、その神の命令に対する人間の行動も、「神の友」・「神のいつくしみの享受者」として、その神の命令に聴従し「行動することに他ならない」。このように、「創造における神と人間との関係は、……神の恵みと人間の感謝との一形体である」(『キリスト教倫理 序説』)。
イエス・キリストこそが、「人間の主また審判者である」から、そして全人間・その被造物的実存・その人間の被造物的行為と行動も包含した「キリストにある恵み」(「赦罪・死人の復活・神の国の恵み」)の下で、人間に対して与えられた神の戒めは、「その創造者の戒めとして、まさに人間の被造物的行為と行動の聖化でもある」。また、イエス・キリストにある神の恵みは、人間の被造物的存在の「認識根拠」であり「実質根拠」である。言い換えれば、人間自身の自己認識・自己理解・自己規定は、イエス・キリストにある「神の恵み」・インマヌエルとしてのイエス・キリストの啓示の出来事(と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく啓示認識)を通して(そして、信仰の類比・関係の類比に依拠して)だけ可能なのである。「人間とは、イエス・キリストにおいて神がこれに対して恵み深くありたもうところの実体である」・「この認識は、これらの諸仮説(≪芸術・医学・社会学・民俗学・諸科学等によって対象化された人間的自然・人間学的真理・世俗的真理≫)の意味を無くさないだけでなく、これらを仮説としての正しい位置におく」のである。このことは、私たち人間の、その類・歴史性――個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、(≪恣意的独断的なそれではなく、知識としても思想としても正当性のある≫)世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の場所だけである、ということを意味しているのである。したがって、このようにバルトが述べた、神性を本質とする「真実の神が真実の人間の中に現在していたもう」イエス・キリストにおける啓示の場所は、状況論なき思想なきその停滞した中世的思考に依拠したルドルフ・ボーレンやその亜流の小泉健や佐藤司郎の、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な<自然神学>的な人間学の後追い知識に過ぎない折衷的神学・人間学的神学とは、全く次元が異なっているのである。すなわち、バルトのそれは、彼ら三人の言う、神と人間との無限の質的差異を揚棄した恣意的独断的な「聖霊論的出発」の概念に基づいた「<神学の優位性>を否定することなく」「人間学的局面にもその位置を正しく与える」とか「<神学の優位性>を確保しつつ」「人間学を正当に評価する位置を与え得る」とかという、「何らかの抽象で以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」・空想ではないのである。だいたいが、神と人間との無限の質的差異の下で、対象が全く違う学問について、どちらに優位性があるとかないとか、という外在的な恣意的独断的な思惟や規定の仕方自体が間違っているのである。彼ら三人のような思惟や規定の在り方は、唯物<主義>、経済<決定>論、科学<主義>、天然自然<主義>、平和<主義>、時流や時勢にのっかかった科学と神学・エコロジーと神学・民族と神学・フェミニズムと神学等々非自立的で中途半端な折衷的神学における思惟や規定の在り方と同類なのである。したがって、バルトは、例えば聖書のある箇所を拡大鏡にかけて取り出し、エコロジーやその極限的形態の天然自然<主義>、道徳<主義>、理性<主義>、科学<主義>や文明家<主義>、政治的行動<主義>、社会的行動<主義>、フェミニズム等を根拠づける、そうした思惟や規定の在り方に対して、根本的包括的な批判を加えたのである。そういう思惟や規定の在り方は、人間学的領域においても、根本的包括的な批判が加えられるべきものである。例えばフェミニズム神学について言えば、その課題を扱うのであれば、現在を止揚する課題と同時に、人類史をその母型・母胎・起源にまで時間を遡及して考察し追究しなければ、法・制度の整備や政策の問題に終始してしまうだけだからである。したがって、バルトは、「イエス・キリストの中に住みたもう神の栄光を認識(≪信仰≫)したものは、同時に、人間を――十字架の死にいたるまで自らをひくくし・また神によって永遠にたかめられている人間を認識(≪信仰≫)するのである。これこそ真実の人間・人間自体であり、イエス・キリストにある神の人間に対する恵みの鏡によって知られるところのものである」、と述べたのである(『キリスト教倫理 序説』)。
聖書によれば、ほんとうは、人間であるとは「神の前で応答してゆくこと」である、この神に対する応答とは、神に聴従することである、したがって、「真実の人間」とは、この「応答の責任」において存在している人間のことである。単一性・神性・永遠性を本質とする第一の神の存在の仕方である「創造者なる神の戒めが、人間に求める」ものは、「人間のすべての行動に共通」な、「深き」神の恵みであるキリストの死と復活による「人間の聖化」に基づく「神の前での自由」・「神に対する自由」としての「応答の責任」である。この共通性において、例えば、神は人間に対して、「ただ時間全体だけでなく、一つの特別な時(≪人間に関わる時間の中断と神の関わる時間・「特別に神に所属」する時間・「安息日」・「主の日」・通俗的には日曜日を覚えること≫)を要求したもう」のである。この「神への愛は一切の倫理性の根本」であるから、バルトは、「一体われわれは祝日をあらかじめ理解しないで、どうして仕事日や隣人愛を理解できようか」・「あらかじめ福音を聞くことなしに、どうして律法を聞き得ようか」・「あらかじめ神の戒めによって休み、神のみ顔を仰いで祝い・喜び・自由にされることなくして、どうして自分の仕事と対人関係の意義を見出せようか」・「祝日の戒めは、人に自分の仕事を休むという行為を命じ、福音にあずかる在り方をさせる。神の戒めは命令することにおいても福音なのである。そこからして人間の生活全体が始まり得る」、と述べたのである。したがって、バルトは、「神への愛と隣人への愛は水流と河、木と実のような関係」にあるから、「神への愛によって義務づけられた人間への愛(≪隣人愛≫)の領域だけ」があると主張したブルンナーに対して、根本的包括的な批判を加えたのである(『キリスト教倫理 序説』)。
このようなブルンナーの、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な<自然神学>的な人間学的神学に対しては、人類史的観点からも根本的包括的な批判を加えることができる――人類史におけるアフリカ的段階・縄文的段階においては、隣人愛の実践を義務的意志的に課さなくても、自然感情(意識)から、アイヌにおいては、@「ある一軒の家が焼け落ちた」場合には、村の男たちが総出でその家を建て直すことを「ならわし」としていた、A彼らは雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供した、B彼らには互いに殺し合う激しい争乱の伝統がなかった、C彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っていて、総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやり」があった。また、白人進出以前の二万年前から先住した、征服併合された被支配民である北米インディアンにおいても、@収穫物の平等な分配がされていた、A長老たちによる合議制による社会で、国家形成を目指さず、部族共同体あるいは部族連合にとどまる平和な種族であった、B独立革命以前のイングランド系移民である「コロニスト」(植民者)や「セトラー」(定住者)は、インディアンや同国人の死体を食すくらいに飢餓や疫病の流行等の困難を極めた植民であったが、インディアンはそうした彼らに対して平和的で親切であった。しかし、日本におけるアイヌに対する支配の在り方もそうであったが、初期入植者の子孫である白人主義・アングロサクソン・プロテスタント(正当なアメリカ人としてのWASP)による北米インディアンに対する支配の在り方は酷いものであった。黒人に対する支配の在り方もそうだった。いったい、どちらが本来あるべき「隣人愛」の在り方と言えるだろうか。「われわれが最も激しく非難する全体的、非人間的強制にしても、遠い昔から西方の自称自由社会や自由国家にもほかの形で出没したことはなかったであろうか」(『バルト自伝』)。このようなわけであるから、「神に対する正しい関係は隣人に対する正しい関係の基礎であり、根本であるということを、あまり分かりきったことと考えてはならない」のであり、また「人間への愛が増大していても、それがはたして神への愛から出て来たものであるかどうか」を吟味しなければならないのである(『キリスト教倫理 序説』)――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼の対象化された自己意識である意味的世界としての彼自身が管理するプログラム≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである」(『啓示・教会・神学』)。良質な優れた思想家は、そうした党派性・支配性・独断性・迷妄性をすぐに見抜くのである。その証拠に、阪神・淡路大震災の時、電話で吉本隆明に、「武器を持って神戸市役所かどこかに押しかけて行って、被災者の住めるような建物をすぐにつくってくれと、職員を脅かした」ということを自慢げに話してきた牧師に対して、吉本は、逆に「そんなの、ちっともよくない」と全面的に否定したのである(『「ならずもの国家」異論』)。
「イエス・キリストにおける人間存在を通して知られる」「神の被造物としての人間」について、次のように言うことができる(『キリスト教倫理 序説』)。
@人間は、「被造物の歴史の中における存在である」。そのような存在として「神によって選ばれ・召され」・また「自己を神の前で……示してゆく能力を与えられている」。
聖性・隠蔽性としての神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態、イエスの名」・「存在の仕方」において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
A人間は、「人間の我と人間の汝との出会いにおける」存在である。人間は、「連帯的人間的であることにおいて人間的であり、そのことにおいて、神の像である」。このことは、『バルトとの対話』では、「共同性ということが、人間が神に似ていることの根拠だ」と語られている。また、『和解論T/1』では、「イエス・キリストにおいて客観的に起こった和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」。それだけでなく、神性を本質とするイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」・「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信・非知・非キリスト者(教)、全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれている、と述べられている。
父と子(神的対関係)は、「父ト子ヨリイズル御霊」・聖霊において、愛に基づく完全な共存的関係(神的共同性)においてある。
B個としての人間は、「神の霊によって、素材的有機体の霊魂、身体の霊魂」・「魂と体」・「身体的存在と理性的存在」との構造において存在する。 「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」という神の恩寵としての「答え」を、神性を本質とする神の永遠の御言葉(神の第二の存在の仕方である神の子、イエス・キリスト)が「肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって」「引き受けたということ――これが神の恩寵本来の業である」(『福音と律法』)。
C人間は、個としても・人類としても、終末論的希望の下で、生誕から死までという「時間的に」限定づけられた存在である。
私たち人間が現存する場所は、終末論的なすでにといまだにおける、すなわちイエス・キリストの復活と再臨の中間時、和解と救贖・完成(終末)の中間時、「聖霊の時代」である。啓示とは、「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解」という言葉・概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖・完成(終末)は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていないしかし神の側の真実においては<すでに>という<客観的>現実性である(『教会教義学 神の言葉』)。すなわち、人間の「被造物としての構造」は、「全くの罪人・恵まれた罪人・希望において神の子である者」である。したがって、「啓示と信仰の秘密において」――すなわち、「イエス・キリストにある神の恵みが、そのみ言によってわれわれに啓示されたもの」であり、それゆえに、そのイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて認識(信仰)させられたこの「創造の秩序」は、「一般に」、<自然神学>の系譜に属する「人々が他の所で」、神と人間との無限の質的差異を揚棄し・恣意的独断的に「『創造の秩序』と呼びならわしているもの」とは根本的包括的に全く異なっているものであり、「和解し得ぬもの」なのである(『キリスト教倫理 序説』)。
この<序説>論に基づいて読めば、その倫理学を、根本的包括的に認識し理解することができる、と言える。このことは、『教会教義学』総体を理解するためには、神論の構成要素や啓示の「認識原理」である『神の言葉』論――その序説、その三位一体論、その三位一体論の唯一の啓示の類比である神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち言葉の受肉(キリスト論)、聖書論、教会の宣教論、の理解を必要とするのと同じである。したがって、佐藤優の『創造論』「だけは」「読んだ方が良い」というのは、全くの誤りである。なぜならば、その場合には、バルトを単純に根本的に包括的に理解できないから、根本的な誤謬に普遍性やメディア的組織性あるいは教団的教会的組織性の後光かぶせて、独断的皮相的にしかバルトを論じられないからである。バルトの自然神学論を、高校の倫理レベルの知識で論じていた冨岡幸一郎のように。
「理論」が「実践」の方へ「必然的につれてゆくようにできあがっていた」マルクスは、「もっともらしいこと」を言って「ひとびと」を扇動する「<目覚めた労働者>の使徒」「ヴァイトリング」に対して、「はっきりした基盤のうえにたたず労働者(≪ここを、信仰者、非信仰者と読み替える≫)を扇動することは、馬鹿げた使徒と、それにききいる馬鹿げたロバをつくりだすだけだ」・「無知が役にたったためしはない」と、「テーブルをひとびとがとびあがるような勢いで叩いて叫んだ」、という(吉本隆明『カール・マルクス』)。