本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

自然神学的な<全>キリスト教に対する宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』への道程

エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社に基づく

 

バルトの生涯――自然神学的な<全>キリスト教に対する宗教改革書『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』への道程(179−282頁)

 

 バルトは、1920年代を、「『時の間』の時代と見て、生き」た(282頁)。バルトの神学体系において、ほんとうの意味での処女作『ローマ書』第二版へ向かって成熟した彼は、今度は、「時の間」の時期に、現実と時代とに強いられて、自然神学的な<全>キリスト教に対する第二段階目の宗教改革書である『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を著わすことへと向かった。人間と自然とに「共通な規定」を「自然」に置いたフォイエルバッハに対して、自然の一部である人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動に、<非有機身体>化と<有紀的自然>化という「浸潤」し「対立」し合う「<疎外>関係」を見たマルクスにとって、すなわちフォイエルバッハを「紙一重のところで超えた」マルクスにとって、「真に亡霊のように悩ませ、巨大な壁としてかれのまえにたちふさがり、真に学ぶべき卓越した存在ととしてみえたのは……プロイセン国家哲学の反動的な巨匠ヘーゲルであった」(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」)。こうした事情は、バルトにおいても変わりはなかった。したがって、バルトにとっても、ヘーゲル哲学は、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体において、単純にしかし根本的に包括し止揚しなければならない対象であった。このことは何度もすでに述べているので、ここでは省略する。ただ、簡潔に整理しておけば、バルトは、ヘーゲル哲学に対して、次のような原理を対置させたのである――彼は、啓示(福音の歴史・神の時間・永遠・啓示の時間・救済史)と歴史(人間の歴史・人間の時間)との無限の質的差異を、主格的属格としての「イエスの信仰」(啓示の客観的現実性)の原理を、「聖霊は、人間精神と同一ではない」という原理を、神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的現実性・啓示の実在そのもの)は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義の、<彼岸・外>にあるという原理を、対置させたのである。なぜならば、自然神学における人間中心主義、主観主義、内在主義の巣窟であるヘーゲル哲学のその認識方法および概念構成は、神と人間との無限の質的差異の揚棄に基づいた、すなわち神と人間との混淆・共働に基づいた、人間中心主義的な存在の比論にあるからである――今までも、今でも、これからも、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(『カール・バルト著作集12』「ヘーゲル」)。アウグスティヌスの神学も、そのような自然神学の系譜に属する神学であった――「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カール・バルト著作集12』「カント」)。神学における思想家バルトにとっては、トマスもルターもシュライエルマッハーもブルトマン等も、またローマ・カトリック主義や近代主義的プロテスタント主義やアジア的日本的な自然思想の復古性に依拠した近代主義的プロテスタント主義の神学群とその宣教も、すべて自然神学の系譜に属するそれなのである。 
 私たちは、これまで、『バルトの生涯』を辿りながら、一切の近代主義・一切の自然神学的な全キリスト教に対する宗教改革書の第一段階目に位置づけることができる『ローマ書』第二版へと向かったバルトの道程を見てきた。今回は、『バルトの生涯』を辿りながら、『ローマ書』第二版から、自然神学的な<全>キリスト教に対する宗教改革書の第二段階目に位置づけることができる『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』へと向かったバルトの道程を探求してみたいと思う。その場合、結論を先に述べれば、エーバハルト・ブッシュの『バルトの生涯』の「W 時の間 ゲッティンゲンとミュンスターの神学教授として1921−1930年」の論述における根本的な欠陥は、その「時の間」の時期における『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』の位置づけ、すなわちその書物に対する重要性の無理解と無自覚にある、と言うことができる。なぜならば、ほんとうは、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する<全>信仰・神学・教会の宣教・キリスト教や、フォイエルバッハの正当性のある根本的な宗教批判や、ハイデッガーのブルトマン神学(その学派)における「存在者レベルでの神」・その「神への信仰」に対する正当性のある根本的に揶揄・批判を、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体において包括し止揚してそこから超出していく、現実と時代から強いられたバルトの神学における思想形成が重要であるにもかかわらず、ブッシュはそのことを理解せず・そのことに対して無自覚だからである。せめて、これくらいの説明はすべきであるからである。

 

 さて、ここからは、ブッシュの『バルトの生涯』を、時系列的に辿ってみよう。
1)1921年のゲッティンゲン大学への教授としての赴任は、バルトにとって、今までの「誤りと失敗」に満ち満ちた「運動」の終わりと、成熟としての『ローマ書』第二版の次にやってくる神学における思想の問題、すなわち現実と時代が強いてくる神学における思想の問題を扱う「仕事」の始まりを意味していた。11月の説教で、バルトは、「神学の<学問性>」は、「いっさいの人間の名前から逃走して……啓示された主の御名にに赴くこと」・「主の御名について知ること」である、と述べている(181頁)。したがって、バルトは、「非情な集中力で講義の準備に没頭した――『ほとんどたいてい徹夜で!』」。なぜならば、バルトは、「あわれな騾馬のように、まるで霧の中を自分の道をさぐりあてなければ」ならなかったし・またバルトは、「学問的機敏さが欠如していて、ラテン語の知識も不十分で、記憶力もわるいという条件の下で」、学問(神学)に没頭しなければならなかったからである(182・183頁)。『ローマ書』第二版を書いたこのバルトの正直さや誠実さを知る時、私たちは、わが日本のキリスト教的著述家のウソと出鱈目さと不誠実さに、またその知識の質の悪さと低さに、唖然と・愕然と、させられてしまうのである。そのキリスト教的著述家とは、具体的には、恥ずかしげもなく大言壮語して自ら自分を「高等教育を受けた者」と差異化し・本を一杯読破していると吹聴している佐藤優(その本についてはすでに述べたのであるが、佐藤の本3冊を読んだだけで、そのことを実感し知った)や、誤謬に普遍性の後光をかぶせて高校の倫理レベルでバルトの自然神学論を論じ・「本書(『使徒的人間――カール・バルト』)が未来の思想に関与することができればと願う」と恥ずかしげもなく大言壮語する富岡幸一郎、のことである。

 

2)バルトは赴任当時、「改革派の信仰告白文書を所有してもいなければ、……読んでもいなかった」が、バルトのその神学的思惟は、すでに「改革派的であり、カルヴァン主義的であった」。そうした中で、教授職遂行のために「相当厳しい徹夜の勉強によって」、「ますます自覚的に改革派の神学者となり、『……純粋な改革派の教理に関心を持つようになってい』」った(185頁)。

 

3)バルトは、ゲッティンゲン大学で、「ルターとフィヒテの偉大な研究家」であり、「ドイツ=国家主義的であった」エマヌエル・ヒルシュに注目した。彼らは「議論と論争をかわした」。その「議論と論争」において、ヒルシュの「一般的な宗教書としての聖書という理解に対して」、バルトは、「具体的な神の啓示の原典としての聖書という……理解」を対置した(191・192頁)。このバルトの語りは、神に聞くとは、<具体的>には聖書に聞くということを意味しているのであるが、この語りにおける神学的立場は、1934年の『啓示・教会・神学』等、すべてに貫徹されていく。

 

4)1922年、バルトは、フリードリッヒ・ゴーガルテンとの根本的な差異を自覚する。ハイデルベルク信仰問答やエペソ書について「正しく語ることができる前に、まず<歴史>とは何か」、すなわち「歴史概念」を理解しなければならない」と主張するゴーガルテンに対して、バルトは、ハイデルベルク信仰問答やエペソ書を「研究し、それをきっかけとして、初めて<歴史>とは何かを理解しよう」とする立場を対置した(194頁)。私たち人間における啓示認識およびそれを通した人間の自己認識――それは、神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事(神自身の自己認識・自己理解・自己規定、啓示の客観的現実性)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(神自身のその都度の自由な決断によって授与される啓示の主観的現実化・啓示信仰)に基づいて、初めて人間が人間的に所有することができる人間の啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比・啓示の類比を通して、初めて得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定のことである。ここで信仰の類比・関係の類比・啓示の類比とは、自然神学的な啓示の主観的現実性に基づく人間の啓示認識・人間の経験的普遍の直接性に依拠した類推ではなく、前述した啓示の客観的現実性に基づくその人間の啓示認識・啓示信仰を媒介とした類推のことである。バルトは、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白と教義である啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)に連帯しつつ神学的に認識し・概念構成をしているのである。しかし、このように述べる神学における思想家であるバルトは、一方で、終末論的限界という概念に基づく自己相対化の視座を持っているのである。一方通行的な往相的立場だけで述べているのではないのである。似非使徒ぶった、皮相的な佐藤や冨岡とは全くその神学や知識や思想の質が違うのである。言い換えれば、バルトの場合は、次のように述べることも決して忘れないのである――すなわち、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではない、と述べるのである。したがってまた、教義学の在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立している、と述べるのである(『教会教義学 神の言葉』)。
 1922年夏、バルトは、「三つの大きな講演で、彼の神学を明確に語」っている。すなわち、バルトは、その講演で、危機神学・弁証法神学(「神の言葉」の神学)を語ったのであるが、そのバルトの神学の「主題と方法」の内容は、3)・4)で述べたことであり、5)で述べることである――現存していた「宣教の危機的状況」の認識と自覚は、バルトにとって、現存していた「あらゆる神学の本質の解明」、すなわち自然神学の系譜に属する<全>信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の根本的な解明と批判でもあった(第一の講演『キリスト教宣教の危急と約束』)、弁証法的に「神がわれわれに然りと語ったからこそ、われわれは徹底的に……否の中に立たなければならない」(第二の講演『現代における倫理学の問題』)。この語り方は、『福音と律法』では、@「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」、と表現される。あるいはまたAルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、イエス。キリストの死と復活によって「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」。このことは終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて包括し止揚された・「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということである、等々と表現される。「われわれは神学者であるから、神について語らなければ」ならない。「しかしわれわれは人間であり、その限りでは神について語ることは」できない。したがって、「われわれは〔神学者としての〕われわれの当為と不可能の両者を知り、まさにそのことを通して神に栄光を帰さなければならない」・弁証法的に神について語ることを含めて私たち人間の語り・言語は、「『神の言葉』を語ることはできず、ただ神の言葉への示唆となりうるに過ぎない」(『神学の課題としての神の言葉』)。ここで、バルトが述べている「神学者」は、単なる職業的な神学者や牧師や著述家のことではない。なぜならば、「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」からである(『カール・バルト著作集10』「福音主義神学入門」)。また、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任」を負っているからである(『啓示・教会・神学』)。「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことだからである(『教会教義学 神の言葉』)。(198−200頁)
 弁証法的な思惟や語りの重要性について、純粋な人間学的領域における詩人であり・文芸批評家であり・思想家である吉本も、次のように述べている――一方通行的・往相的に、「いかにもマスコミ受けするような、明るくて建設的なことをいっている政治家とか知識人とか文化人とかが、一杯います」、しかし、「そんなやつらは、一番ダメで、そんなやつらこそ、一番危ないんです。いざとなった、真っ先に、『戦争をやれっ、やれっ』っていうのは、そんなやつらに決まっています」、したがって、「そんなやつらを信じちゃいけねえということだけは、確実にいえます」、と(『超「戦争論」』)。

 

5)1922年2月、バルトは、マールブルク大学の新約学の正教授のブルトマンを、マールブルクに訪ねた。ブルトマンは、バルトを誤解し曲解したまま、『ローマ書』第二版の書評において、「シュライエルマッハーやR・オットーやトレルチが、<宗教>という表題のもとで論じたことと同列において」、「全面的に賛同」した(195頁および227頁)。バルトはこのブルトマンのその神学の原理・その神学の認識方法と概念構成に対して、次のように根本的な批判を加えている――@ブルトマンのそれは、前期ハイデッガーの哲学的原理・「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された啓示・存在者・存在者レベルでの神を第一次的なものに形式変換し、新約聖書の使信・証言を、その第一次的なものに「従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの」、すなわち第二次的なものへと形式変換するものであるから、そこでの啓示認識は、その最初から「誤謬は必然」となる、と。このような「神学の主題と方法」は、「シュライエルマッハーによって育成されたタイプ」のそれでしかないものである、と。「そこでは、神学は……新しい特定の哲学にとらわれて、エジプト捕囚ないしバビロン捕囚の身になっているのを、私は見た」、と。このバルトの批判は、4)で述べた歴史的概念を<第一次化>するゴーガルテンの神学の「主題と方法」に対しても、適用されることを、私たちはすぐに理解することができるであろう(277頁)。Aブルトマンの「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」という、一方通行的・往相的に知識過程を上昇していくだけの信仰・神学・共同性は、すなわち党派的神学(知識)・党派的共同性は、近代主義的なキリスト教的教養人には受け入れ可能であっても、そのあるがままの不信や非知や非キリスト者に対しては全く閉じられていく以外にないことを知る、と。したがって、バルトは、知的に上昇する信仰・神学の往相過程しか持たないブルトマン(その学派)等に対して、「『現代人』が実際に存在するのは」、「ただ教養人の間だけではない」のであるから、そのような「実存主義への特別な拘束力が生じるべきだ」と語るのである。私たちは、自画自賛する教養人振ったよほどの偏屈者でない限り、このバルトの言葉を首肯できるであろう。

 

6)バルトは1922年から23年の冬学期の講義で、「人文主義は、一貫して宗教改革の神様にかかわりをもつことを意図していると宣言する」ツヴィングリを取り上げたが、彼の神学は「現在もある……衆知の近代的プロテスタント神学」のそれであったことを知り、失望する。また、バルトは、「宗教改革者たちの聖書理解、神理解へと導かれ」、1923年『ルターの聖餐論の出発点と意図』を書いたが、「最後にはルターに対しては、カルヴァン的留保」・「確かにそうだが=しかし」「をつけなければならなかった」。私たちは、ここで、この「カルヴァン的留保」が、1927年の『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』の神学的展開へと繋がっていくことを、そして『福音と律法』の神学的展開へと繋がっていくことを、理解することができる。バルトの「神の言葉の神学」は、「<宗教的>人間の歴史的=心理学的自己理解」における神学のことでは全くなくて、「あらゆる人間の自己理解を限定し、規定する優越的なものと新しいもの、これを聖書では、神、神の言葉、神の啓示、神の国、神の行為と呼んでいる」のであるが、絶えずくり返し、神に聞く、具体的には聖書に聞く神学のことである、すなわち、それは、終末論的限界を自覚した途上にある神学のことである。また、バルトの「<弁証法的>という表現」は、「人間に対して優越的に出会う神と人間が対話する時の指向の特徴を意味している」、すなわち、それは、神と人間との無限の質的差異を自覚した神学的思惟と表現のことである。(204−206頁)。

 

7)1922年8月、バルト・トゥルナイゼン・ゴーガルテンで、雑誌『時の間に』(この名はゴーガルテンの論文のタイトルで、編集主幹はゲオルク・メルツであった)の発行を決意する。しかし、バルトは、ゴーガルテンを「非常に疑わしく」見ていた。また、ゴーガルテンが雑誌の名を『御言葉』としようとしたとき、その名は「我慢できないほど思い上がったもの」に思えて、むしろ「『愚者の船』とでもした方がましただ」とトゥルナイゼンに語っている。バルトは、この雑誌発行の主旨と目的について、「今世紀初頭の新プロテスタント主義の積極主義的自由主義神学、あるいは自由主義的積極主義神学に対抗して、そこで聖なるものとして承認されたとかんがえられてきた人神をも、共に拒否しつつ、新しく神の言葉の神学を立てること」にある、なぜならば、「聖書は、……このような神学が必要なのだと迫ってきていると思われたし、……宗教改革者たちが一つの模範として育ててきたものだと考えたからである」、と述べている。この雑誌発行と並行して、『キリスト教世界』誌において、バルトは、アドルフ・フォン・ハルナックと神学論争を行った。この1923年『キリスト教世界』誌上なされたハルナックとの神学論争については、すでの『カール・バルト著作集 1』「アドルフ・フォン・ハルナックとの往復書簡」で論じたので、ここでは省略する。(207−212頁)

 

8)1923年、「ルール紛争」(ドイツのルール地方へのフランス軍による侵入と占領)が起こって、ドイツに「熱狂的愛国主義」が燃え上がった。「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である、したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)。こうしたバルトは、フランスに対して「はげしい憤激と激昂」を抑えることができなかった」が、同時に、「同僚教授たちのドイツ的ナショナリズム」・「熱狂的愛国主義」に対しても「憤慨」しそれを拒否した。バルトは、「ドイツ人の教授たちは、残忍な行為を、きわめて精神的、倫理的、キリスト教的に理由づけることにかけては、まさにほんとうの達人です」、と述べている。バルトは、このルール紛争を契機に、「自分をドイツ人として感じ始め」た。ルール紛争時における「同僚教授」・知識人の知識の在り方は、ドイツに限ったことではない。日本でもまさしくその通りなのである。吉本は、往相的に上昇していく知識の還相過程において、意識的に大衆原像(ある時代水準に規定された大衆像と大衆的課題)を自らの知識に繰り込めずに大衆から遊離していく時、その知識人は、「国家の政策を、……あらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、大衆を支配(国家・政治的権力)へと直通させて行ったし・させて行くことになる、と述べている。ここで、知識の還相過程における大衆原像の繰り込みとは、大衆迎合・大衆同化・大衆啓蒙とは全く違うことは、何度も述べている通りである(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。(213・214頁)
 バルトは、Tコリントの手紙の中心は、15章にあると見なしたことに対して、ブルトマンは反対する書評を書いた(214頁)。なぜならば、ブルトマンの神学にはそのあるがままの全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和という観点がないからである。人間学的に言い換えれば、国家の止揚・無化を伴う人間の社会的現実的な究極的総体的永続的解放という観点がないからである。そのブルトマンの神学では、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『宮沢賢治全集第12巻』「農業芸術概論綱要」)とか、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』とかの課題に対して、究極的包括的総体的永遠的な解決の方途を指し示すことはできないのである。すなわち、ブルトマンには、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わる」ところの大学社会の学問・知識(K・バルト『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)はあっても、神学における思想がないのである、往還思想がないのである。バルトが、Tコリントの手紙の中心は15章にあるという場合、彼は、例えば改革派の信仰告白のように、「行為によってではなく信仰によって義とされるということに強調点をおくのではなく、むしろこの義認を遂行するのは、神であって人間ではないことに重点を置」くことを意味しているのである(215頁)。福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと向かっている。このキリストの復活・成就の時間・神の時間・啓示の実在の時間は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造(啓示の客観的現実性)におけるそれであり、「新しい世」のはじまりである。私たちは、この啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識において、終末論的限界と啓示の弁証法の下で、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」=成就の時間であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され・克服されて「そこにある」ことを認識し信仰する、と同時に、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることをも認識し信仰する(『教会教義学 神の言葉』)。

 

9)1923年から24年にかけての冬学期に、「かつてよく読み親しんだ改革派の神学者でもあるフリードリッヒ・シュライエルマッハーを取り上げた」。シュライエルマッハーに対するバルトの総括は、彼は、「役にも立たない後続の近代人たちだったら愚かしく、不手際で、首尾一貫しないまま、おずおずとやるようなことを、知的に、啓発的に、また堂々と行った」人物である。しかし、いずれにせよ、シュライエルマッハーの神学は、「比類のない大ペテンであり、人がしばしば怒りの声をあげたくなるような」位相(水準)のものでしかない。(217・218頁)
 また、バルトは、パウル・ティリッヒとの根本的な差異について、次のように述べている――@両者にとって、「キリストは救済史そのものである」。しかし、Aティリッヒにおいてはキリストは「客観的所与」として、「常に至るところに現存し、認識できる啓示の……象徴でしかない」が、バルトにとっては、「神(神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事=啓示の客観的現実性)によってのみ開示され、われわれが神に知られることによってのみ知りうる(神自身のその都度の自由な決断に基づく聖霊の注ぎによる啓示信仰・啓示認識の出来事)ような、最も特殊な出来事」なのである(219頁)。

 

10)1924年春、バルトは、ヘッペの書物に出会って、そこへ復古・「逆行」するというのではなくて、それを包括し止揚する形で、「聖書の啓示証言の中心的指標へと向かう形体と実体を同時に備えた教義学を見い出した」。すなわち、この時、バルトは、「教会の学の領域内にいることを知った」。そして、「正統主義的」でもない・「スコラ的」でもないところの、教義学の構成を目指した。バルトは、その教義学の第一節で、次のように述べている――「教義学の問題は、啓示において神によって語りかけられ、聖書において預言者と使徒によって再び伝えられ、今日のキリスト教の説教によって語られ、聞かれる、またそうなるべきである神の言葉に対する学問的自覚である。この対象と、この自覚の必然性とその道筋についての原理的了解の試みのことを、われわれは教義学序説と呼ぶ」、と(221−223頁)。このことは、バルトにはまだ時間を必要としたのであるが、ほんとうは、次に引用する『教会教義学 神の言葉』のように、言うべきなのである――神の言葉は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られた神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の実在・啓示の客観的現実性)そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)においてある、と。したがって、バルトは、一方で、啓示の「概念の実在」を媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程(≪客観的な信仰告白と教義≫)の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」(『啓示・教会・神学』)ながら、また他方で、現実と時代から強いられてその信仰・神学に、個性や時代性を刻んだのである、と。

 

11)1925年夏学期の終わりに、ミュンスター大学のプロテスタント神学部から、「教義学と新約釈義の教授として」の招聘の報せを受ける。その最初の学期に、@前述した教義学の最後の部分である「終末論を取り上げ」、「神の言葉を構成する啓示そのものが終末論的である」のであり、その対象は、再臨のイエス・キリストである、と述べた。このことは、『教会教義学 神の言葉』に即して整理すれば、次のように言うことができる――聖書によれば、「啓示の出来事の中での主観的側面」である聖霊は、その都度の神自身の自由な決断に基づくその注ぎにおいて、神性を本質とするイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性を啓示認識させ・啓示信仰させるところの、すなわち私たち人間において主観的現実化させるところの、私たち人間の「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけでなく、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また、「父および子とともに創造主なる神」でもある。したがって、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての<いまだ>であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。したがって、私たち人間が現存する場所は、この終末論的な<すでに>と<いまだ>における、すなわちイエス・キリストの復活(想起の時間)と再臨(待望の時間)の中間時、すなわち和解と救贖・完成の中間時における、終末論的限界と啓示の弁証法における、場所なのである。したがってまた、この啓示とは、「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解」という言葉・概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味するから、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖・完成は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない客観的現実性である。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。
 同じ学期にバルトは、「正規の演習」をカルヴァンの「『綱要』について行った」。ブッシュは、バルトが「しばしば何週間ももっとも悪質な抑うつ症に陥って」、「スイスの田舎牧師にでもなって逃げ出したいとの思い」を懐いていたこと、「教皇もカルヴァンもシュライエルマッハーもいないところに行って、ただ<ひたすら沈黙し>ていたい」と願っていたことを述べているが、ほんとうにそうだったのだろう。現在、キリスト教世界の中で、果たして、これくらい真剣に誠実に正直に身も心も尽くして、学としての神学と思想のとしての神学に打ち込んでいる神学者や牧師や著述家がいるだろうか……。第一次的には売るために、メディア受けだけを狙っているのではないだろうか? なぜならば、彼らのその知識と発言と行動の、@軽率さとA質の悪さと低さが目立つからである。
 バルトは、ミュンスターでは「ローマ・カトリックの神学教授たちと交際するようになり」、「カトリック主義を知」ることとなる。そして、そこで得たローマ教会に対するバルトの確信――それは、ローマ教会においては「根本的な誤謬を犯している場合にも、何らかの仕方で実質はわれわれの場合よりもよく保持されており、……通常行われているのとは全く異なった古典的な対話となる」ということであった。
 ブッシュは、バルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』について、その書物の重要性を理解せず・論じないで、簡潔に、次のように説明している――@バルトは、シュライエルマッハーの神学を『宗教と啓示と神関係を、人間に従属する述語として理解できるように』する試みだとみなした」。Aまたバルトは、フォイアーバッハの「反=神学を『神学がすでに以前から人間学になってしまっている』という当時の神学の『隠された秘密』を、はっきりと口に出してしまった『眼の鋭いスパイ』の仕事だと理解した」。(229頁および235−240頁)
 これでは、バルトにとって宗教改革書の位置づけ・役割を有した『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』について、何も言わないのと同じである。したがって、私たちは、「時の間」の時期の1927年に出版された『ルートヴィッヒ・フォイルバッハ』の重要な点について、再度、整理しておきたいと思う。
ア)この書物は、バルトにとって、自然神学的な<全>キリスト教に対する、根本的で究極的な宗教改革書の一つである。したがって、私たちは、このことが理解できなければ、バルトを単純に根本的にトータルに理解することはできない。
イ)バルトは、この「時の間」の時期に、一切の<自然神学>的な神と人間との混淆論・共働論を包括し止揚して「超自然な神学」へと超出するためには、『ローマ書』における「時間と永遠との『無限の質的差別』」という概念だけでは不十分であることを明確に自覚した。すなわち、自然神学的な<全>キリスト教の根本的かつ究極的な第二段階目の宗教改革書が必要であることを明確に自覚した。それが、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』である。
ウ)バルトは、『福音と律法』の前に、先ず以て、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものである、ルターの信仰論と受肉説の問題点について、根本的に批判し・包括し止揚し・そこから超出していく課題を、神学における思想の課題として、自らに課したのである。バルトは、次のように述べている。
  (≪神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまった、神と人間との混淆論・共働論において、人間の自己意識によって対象化された神・信仰・神学は≫》)、……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(≪それには≫)あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは≫)、人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その≫)信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)「神性の創造者」と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を「神は人となり、人は神となる」という定式で簡明に表現し(≪たが、それは≫)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に―人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地・神と人間を?倒する可能性を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係だということ―そのことについて、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……。(『カール・バルト著作集4』「ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ」)
  市民的啓蒙という観念、(中略)……社会民主主義の無神性は、教会にとって、(中略)現在でも警告であって、(中略)教会がフォイエルバッハの問いの前に晏如となることができるのは、教会の倫理が古いまた新しい実体やイデオロギーに対する崇拝から根本的に分かたれるときである。そ
のときにこそ人々は、教会の告げる神も幻想ではないのだという教会の言葉を信ずるであろう。そのときまでは、そのようなことを決して信じはしないのである。 (前掲書)
  ……神と人間を同一視する神学(中略)「人間の中なる神について」の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない。われわれは、かれと共に「その世紀の忠実な子」なのである。 (同書)

 

 神と人間との無限の質的差異やイエス・キリストの神性性(「存在の本質」)を揚棄してしまったところで信仰を得た人間の自由な自己意識の類的本質は、「神的実体」や「神性の創造者」となり、人間の神化・神の人間化・神学の人間学化を生じさせる。フォイエルバッハにとって、そうしたキリスト教・神・啓示・神学の本質は、対象化された人間の自己意識による自己認識・自己理解・自己規定・意味的世界であり、また「実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われる」(E・トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)人間自身の恣意的な人間自身が管理するプログラムでしかないものなのである。このキリスト教批判は、正当性のある根本的な批判であって、この批判を、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成において包括し止揚してそこから超出するところに、近代以降における神学における思想の課題はあるのである。バルトは、その課題を担ったのである。
 上記のア)・イ)・ウ)に基づいて私たちは、神学者や牧師や著述家の、その知識や発言や行動の、@軽率さとA質の悪さと低さに対して、次のような根本的な批判を構成し行うことができる――『人類の知的遺産 バルト』で、バルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』にある「人間の精神や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか、ということを問われなければならない」という言葉を引用し、私たち読者にそのことへの注意を喚起した神学者が大木英夫である。そしてそのバルトの言葉は、ほんとうは、@『神の存在――バルト神学研究』を書いた自然神学的なエーバーハルト・ユンゲルの神学やそうした神学群を包括し止揚した神学における思想の言葉であるにもかからず、大木は、根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて、そのバルトの言葉とは全くベクトルが逆向なユンゲル神学について、「バルト後を確定した」とか「誰もがそこを回避出来ない一つの道を決定した」とかと出鱈目なウソを、私たち読者に対して平然と語ったのである。Aそれが誰であれ、「バルト後を確定」するためには、バルトの「超自然な神学」のその神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体を、自らのそれによって根本的に包括し止揚しなければならないのにかかわらず、大木は、その思想の原則を理解していないし・自覚もしていないのである。こうしたユンゲルと大木を根本的に批判するのではなく、称賛しているのが、佐藤優である。そう言えば、この佐藤は、富岡幸一郎の『使徒的人間――カール・バルト』も推奨図書として称賛していたのではないだろうか。2008年8月20日のヤフーブログの「キリスト教徒であり真正の保守」という記事に、冨岡が「国家のために殉難した人々を追悼し顕彰することは、国民として当然のこと」という考え方から、「8月15日に靖国神社に参拝」したという記事があった。また、2007年4月17日の喜八ログには、佐藤の「天皇擁護」と「護憲」論について述べられていた。これら両者の記事内容が事実だとしたら、そして、この市民社会の精神は「私利」・「私意」にあり、またそこは資本制と自由主義国家の水準に規定されて私的利害と恣意的自由の優先意識が支配した社会であるから――したがって、人間的側面としての教会も、人間そのものとしてのキリスト者も、即自的・事実的にはそうした市民社会の縮図を不可避的に生きるであろうから――、そのような発言も行動も自由であるとしても、佐藤や冨岡は、自らで、自らのその知識や発言や行動が、軽率そのものであること・最低の質の悪さと低さの只中にあることを、自己暴露したのである。また、佐藤や冨岡は、自らのその知識・神学の原理、その知識・神学の認識方法と概念構成その自体において、不可避性としてある、天皇制無化等の課題や、戦争論・平和論の課題や、国家の止揚・無化を伴う人間の社会的現実的な究極的総体的永続的解放の課題、したがってその課題解決の方途の探求の課題を理解しない・自覚しない・持たない、言わば不可避性としてある、現在を止揚する課題や、<原>日本(人)にまで遡及して考察する課題を念頭に置いた吉本および梅原が考察対象とした人類史の母胎・母型・原型としての南島やアイヌや縄文(人類史のアフリカ的段階における内在の精神や贈与制)にかかわる課題を理解しない・自覚しない・持たない、次に述べるようなただ単なる質の悪いヘーゲル主義者である北森嘉蔵の亜流でしかなかった、ということを自己暴露したのである。言い換えれば、具体的には、佐藤と冨岡は、すべての知識人に課せられた、下記のような戦後過程における課題を何一つ理解もせず・自覚もせず・持ってもいないことを、自己暴露したのである。マルクスや吉本が言うように、「無知が役にたったためしはない」のである。佐藤と冨岡の知識・発言・行動は、迷妄性の最たるものである。迷妄性と迷妄性から超出していく道程についての、具体的例示――
@柄谷行人は、天皇制を無化・相対化する試みとしての吉本の南島論の取り組みに対して、「天皇制を相対化すると称して、それ以前の多元的状態に遡行しようとする、もっと根源的”な企ては他にもある。それは柳田と同様に『南島』に向かうことになる。ある者は文字どおり『南島』に向かい(吉本隆明)、ある者は縄文文化やアイヌ(梅原猛)に向かう。南であれ東であれ、また天皇制を否定しようと肯定しようと、この種の『内省』は何ももたらさない」と述べている(柄谷行人『終焉をめぐって』、福武書店)。しかし、柄谷の説明とは違って、吉本の場合は、アジア的段階の考察(田の神中心論、稲作農耕中心論、晩期柳田)から、さらに人類史の母胎・母型・原型であるアフリカ的段階、あるいは縄文的段階・アイヌや南島にまで遡及して考察しようとするものであり、そしてそのことによって、経済社会構成体を農耕に置くアジア的段階に根拠を持つ天皇制を無化・相対化していこうとするものである。吉本の南島論の試みも、それであった。それはなぜかといえば、吉本には明確な問題意識があるのであって、アジア的段階論で天皇制の無化・相対化の課題を扱えば、尖端と土俗の対立論、先進性と後進性の対立論、西欧と東洋あるいは第三世界の対立論で終わってしまうからである。なぜならば、西欧は、人類史の段階として世界普遍的なアジア的段階を、そしてそれが世界普遍性をもっているがゆえに西欧自身もそのアジア的段階を経由したのであるが、西欧は速やかにその段階を痕跡もなく超えていったから、文明史的な尖端性にあることを自覚していた西欧にとっては、東洋というのは異質で未発達な地域であり、そうした思考の対象であり、啓蒙の対象であり、経済的政治的には西欧の経済的市場や資源確保の対象であり、したがって、後進地域への帝国主義的な植民地支配の対象でしかなかったからである。この西欧のアジアに対する未発達性や異質性の記述は、例えば次のようなものとしてある。西欧にとって、四季のさまざまな風物に対して、論理によってではなく心情によって無常や喜怒哀楽を感じとっていく自然思想や、普通の人たちがある悲しみを短歌の韻律に載せて表現し得る豊かな情緒性は異質として映った。したがって、写生を重んじる俳句は西欧でも受け入れられるが、豊かな情緒性が必要となる短歌は受け入れられるのは難しいのである――釈迢空(折口信夫)は、「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」を「自歌自註」して、「もとより此歌は、葛の花が踏みしだかれてゐたことを原因として、山道を行った人を推理してゐる訣ではない。人間の思考は、自ら因果関係を推測するような表現をとる場合も多いが、それは多くの場合のやうに、推理的に取り扱うべきものではない。これは、紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処を歌った」と述べている。「歌」は上の句から下の句の方へと意味が流れ下るといわれているのであるが、折口の情緒性にとっては、「紫の葛の花が道に踏まれて、色を土や岩などににじましてゐる処」に、「色あたらし。」と「切れ目」を入れざるを得ないほどの「新しい感覚」を体験したのである。この折口の詩歌の在り方に対して、ヘーゲルの芸術美(理性的論理的合理的な秩序美)は、「芸術美は精神からうまれ、くりかえし精神からうまれる美であって、精神とその産物が自然とその現象よりすぐれているのに見合って、芸術美も自然の美よりすぐれているのです。……精神こそが一切をそのうちにふくむ真の存在であって、すべての美は、すぐれた精神とかかわり、すぐれた精神のうみだしたものであることによって、はじめて本当に美しいといえるのです」、という位相のものである(ヘーゲル『美学講義 上巻』長谷川宏訳、作品社)。農耕を経済的基盤とするアジア的段階の特徴を述べたものとしては、次のような資料がある――「春のはじめに皇帝は犠牲を捧げ、豊年を祈るために親耕を行う。皇帝が土地を耕し、皇后が糸を紡ぐのはシナの政治の根本方針です」(『イエズス会士中国書簡集 4社会編』平凡社、矢沢利彦編訳)。現在の日本においても、テレビ映像で見ることができるように、天皇が豊年の農耕祭儀を行い、皇后が養蚕し糸を紡ぐ在り方は遺制として残っている。また、東洋の技術や知識については、西洋では版画術からすぐひき続いて印刷術が起こったが、シナ人は「版画の技術をもちながら印刷術をものにすることができなかった」・「大砲用の火薬をもっていたのに、大砲を空想する」ことができなかった(中国の医学と技術』平凡社、矢沢利彦編訳)・中国人は「ヨーロッパ人より先にいろいろと知識を得ているが、知識の応用のしかたを知らなかった。磁石や印刷術などがそうです。……火薬の発明もヨーロッパ人より早かったが、大砲の鋳造はイエズス会士の手」をかりなければならなかった・「ラプラスは、中国に月食や日食の古い報告や記録があるのを見て、中国の天文学をほめたたえましたが、それはむろん学問の体をなしていない」(ヘーゲル『歴史哲学講義 上』岩波書店)。
A天皇制無化・相対化の課題を旧日本語の問題として扱うこと――それは、日本「民族あるいは種族としての言葉以前、つまり種族語になる以前の言葉」にまで遡及して考察することである。「種族語になる以前の言葉」すなわち旧日本語は約「30%から40%くらいの割合で、南と北の方の言葉にのこっている」。例えば「琉球語とか、もっと先の八重山語というふうに限定してもいいんですが、そこでは三母音……『あいう』しかないと考えます」。「例えば『雲(くも)』という言葉は五母音(中略)だけど、三母音だとしたら『O』がないから『くむ』になるわけです。琉球語では『雲』のことを『くむ』と発音します」(吉本隆明・北山修『こころから言葉へ』弘文堂)。吉本は、「三母音の言葉の方が古くからあり、日本語の基層になっている」、と述べている(吉本隆明他『吉本隆明の文化学』三交社)。「奈良朝以後に、漢字を借りて表意的、また表音的に文字に表されて古典語とか近代語とか呼ばれているものを日本語とかんがえると、日本語という枠組みからはみだしてしまう表意や表音」があり、「それは『記』『紀』の神話や神名のなかに、また『万葉』や『おもろさうし』や『アイヌの神話』や日本列島の『地名』のなかに、遺出物のように保管されている。そこで文字表記がなされなかった以前まで遡行して、日本語とはなにかを考える必要がある」(吉本隆明『母型論』学習研究社)。
B天皇制の無化・相対化の課題を日本における宗教祭儀の問題として扱うこと――それは、南島・琉球の視点から宗教的祭儀を調べ、その新しい形態とその古形を調べることで、天皇制固有のものとされてきた宗教祭儀を無化・相対化することである。宗教性の基本的性格は、ひとつは、祖先を信仰するという、南島に「宝庫のごとく保存されている一種の祖霊信仰」にある。この宗教性の段階では,「宗教性の観念が、少なくとも家族の共同性から逸脱しないで出てくる」。もうひとつは、「海の向こうには神の国」・「常世の国」・「ニライカナイ」があって、「そこから神がやって来て村々にお祝いをしてまた帰って行くという、来迎神信仰」があり、その本質は「それが共同宗教だという点」にある。この「来迎神信仰にともなって、まず田の神信仰、稲作到来信仰が現れる」。それが共同宗教という意味で、それは支配へと至るところの、マルクスのいう宗教から法へ、法から国家へと登りつめる権力としての宗教である。前者の祖霊崇拝と、後者の来迎神信仰との混在として現れたのが、「日本の<本土>でいえば、近代国家における天皇制、あるいは天皇における世襲祭儀、つまり大嘗祭」の中にある。そうした「宗教的威力、権力が、どのように継承されるかというのが、大嘗祭の問題」である。世襲祭儀には、氏族共同体から前氏族共同体の範疇を出ないところで成立していた南島のノロ継承祭儀、琉球王朝における制度的表現であったノロの最高位としての聞得大君になるための<御新下り>儀式、天皇の世襲大嘗祭の儀式があり、その「共同宗教としての祭儀の中に、農耕祭儀的な要素が見え隠れする」ところに三者の共通性がある。「ノロや聞得大君の継承の祭儀と天皇の大嘗祭の祭儀に共通するのは、あくまでも宗教的<威力>の授受なのですが、同時にその祭儀には、農耕祭儀、稲作祭儀のあり方が、潜在的に見え隠れしていること」が分かる。そして、「地域的な相異は時間的な相異に変換できるという考え方からゆきますと、田の神行事とかノロ継承の行事のほうが、天皇の世襲大嘗祭や聞得大君の御新下りより、(中略)時間的に古形を保存している」といっていい。ところで、近代国家を〈政治的国家〉として捉えるということは、資本主義社会を前提とするということである。つまり現在、産業構造的には天皇制の基盤であった農耕・農耕村落共同体は解体されているから、政治権力としての天皇制・制度としての天皇制ファシズムはほとんど解体していると言える。それだけではなく、戦後憲法の象徴天皇制の規定により、憲法上も政治権力としての天皇制の問題は終焉していると言える。しかし、天皇制は「現在、資本主義の〈影の部分〉」として、「〈政治〉的な標的としては副次的なものに過ぎない」が、「〈歴史〉的に根底をつきくずさなければ」「一木一草にまで染みついているという問題は解決」できない、すなわちその問題を止揚し無化することできない。政治的権力と宗教的権力を有した天皇制が成立していたのは奈良朝以前の初期天皇制の時期だけであり、天皇制的な専制君主が、「機構化されたのは律令官制による」が、「日本的なデスポットとしての天皇制」の特徴的威力は、「政治的権力に直接たずさわっているときも、間近にあるときも、遠ざかって棚上げされているときも、<天皇制>が一貫してその背後に〈観念〉的な〈威力〉を発揮していたという事実にある」(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」筑摩書房)。すなわち、国家を共同幻想の一形態と考えず、土台−上部構造論において天皇制の問題を扱えば、戦後資本主義の成熟と高度化、すなわち市民社会の成熟によって天皇制の問題はほぼ解体・終焉したことになるが、天皇制のもうひとつの側面である宗教的権力(宗教的威力)・共同幻想としての天皇制は観念的遺制として今も残存しつづけているのである。宗教性としての天皇制は、観念的遺制として残存しつづけているから、いつでも、日本の自然思想の伝統である世界普遍性を無視した民族性を強調する権力は復古してくるだろうし、また自己と異質な外部的な産業的思考や個人主義的思考に対しても「権力」として復古してくるだろう。したがって、その起源である大和朝廷が成立した以前にまで過去を遡及して考察し、そうした自然思想の伝統を無化していく必要があるのである。
 宗教性としての天皇制の根強さは、次のような事態をみれば分かる。長谷川美千子という埼玉大学教授は、生き神様としての天皇の憲法への規定を復古的に語り、憲法の象徴天皇制の規定は「曖昧な言葉」だとして、その実質を天皇の寛容な「祈る者」としての宗教的側面におくべきことを生真面目に論じている(『文芸春秋3月特別号』文芸春秋)。すなわち、天皇陛下は「われわれのために祈って下さる存在である。このような祈りは、また、皇室の方々の全員が心を一つにしてはげみ祈られているものでもある。その意味では、お一人お一人が天皇陛下と同様の『無私』の心を持っておられるのである。しかし、この『無私』(中略)の境地に達するまでには、ほとんど禅の修業にも似た困難な道のりがあらう。或る意味でそれは、旧来の自らの「人格」(と自ら思い込んでいたもの)を捨て去る過程でもある。(中略)そこをくぐりぬければ、まさに本来の我――「無私」なる自己――がいきいきと甦る、ということになるのである」。この教授の問題は、世界史的観点も持たず、8世紀以前の日本(起源としての日本)への遡及的考察も行わずに、8世紀編纂の『古事記』に固定的に依拠しながら、平然と、宗教的側面としての天皇の祈りを人類のための始源的な祈りだ・天皇を中心とした日本が世界のすべてだ、と錯誤していくところにある。この教授と同じように、失政時における免罪符の要として、自民党憲法試案検討委員の政治家・中曽根元首相は「天皇元首制」を表明し、森元首相は「天皇神格化」を表明しているのである。また、教育現場では、愛国心教育が取りざたされている。これらの事態は、社会の危機のとき日本においていつも生起する復古的傾向である。ここでいう日本における愛国心は、西欧における認識と異なる。ヘーゲルは愛国心について、真理に基づかない「主観の思いこみ」ではなく、また「異常な犠牲や行動へとむかう気持ち」でもなく、「自由を原理」とする理性的な「真理に根ざした」主観的確信であり、個人の確信であり、「共同体的なもの」へ参画する、あるいは「共同体的なものと一体化する」、自己意識の対他性としての政治意識である、と述べている(ヘーゲル『法哲学講義』作品社)。すなわち、自己意識による自己了解を介するという意味で、共同体至上意識がいつも個体性を越えていくアジア的段階の日本におけるそれとは異なるものである。日本における愛国心を、愛社心と置き換えてた場合も同じ事態を惹き起こす。例えば日本の経済界に眼を向ければ(「中日新聞 朝刊」、2005年3月4日、「落日の王国(第2部西部「総帥」の実像)」)、前西武鉄道社長の自殺や「株問題の核心を知る」コクドの総務部次長の自殺は、自己意識による自己了解を介さないがゆえに、個体性が企業の共同性から侵蝕されたことによる死であると言える。それは、共同体至上意識がいつも個体性を越えてしまうアジア段階における日本的な心性に根拠を見出すことができる死である。
 さて、私たちは確信を持って、次のように言うことができる――バルトを論じるのに、高校の「倫理」レベルで自然神学を論じていた、『使徒的人間――カール・バルト』を書いた冨岡やその書を推奨する佐藤が、バルトやマルクスを根本的にトータルに述べれられるわけがないだろうし、マルクスの述べた「無知が役にたったためしはない」という原則からすれば、彼らは「馬鹿げた使徒」(例えば、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」ということを理解できず・自覚せず・思想的課題として保持しない、うわべだけの似非使徒)として、「それにききいる馬鹿げたロバをつくりだすだけ」なのである。寺園喜基の『バルト神学の射程』によれば、北森は「徹底したバルト批判者である」、北森の『神の痛みの神学』において「福音の心」とは「神の痛み」のことである、この痛みは、日本の庶民の「つらさ」や「痛み」に通底しているそれである、「このつらさは、『他者を愛して生かすために、自分を苦しめ死なしめ、もしくは自己の愛する子を苦しめ死なしめる』」それである、その「つらさ」や「痛み」は、浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の『寺子屋』における「主君の子供を救うために、自分の息子を身代りに殺させた松王丸が、息子の死を聞いたときにいった、『女房喜べ、悴は御役に立ったぞ』という言葉」で表現できるそれである、ということである。このことから私たちは、北森の『神の痛みの神学』が、日本における<ナショナルなもの>である<滅私奉公>的な人間の在り方と、対象化された北森自身の恣意的な自己意識の自己認識・自己理解・自己規定・意味的世界における神の痛みの概念とを、混淆・折衷させた自然神学的な<土俗的>神学にしか過ぎないことを知ることができる。この北森の語りも、迷妄性の最たるものである。このような皮相的な北森が、そして批判の原則を理解し自覚しない北森が、バルトを根本的に批判できるわけがないのである。この北森の『神の痛みの神学』をモルトマンは評価していると紹介している神学者が喜田川信である。また、北森は「『神の痛み』は(≪直接的な≫)『神の愛』とは別の事実でなければならぬ。即ち『神の痛み』は『神の愛』に一旦既に背いた者への愛である。『神の愛』は直接的な『神の愛』をば否定的媒介契機として自己の中に止揚しているものであって、『神の愛』より一段高次のものである」・「この『神の痛み』は北森によれば、十字架における神の愛」のことである、と寺園は紹介している。私たちは、この直接的な神の愛とそれより「一段高次」の否定的媒介契機における神の愛、という北森の語り方に自然神学的なヘーゲル哲学の亜流性を見ることができるのである。なぜならば、バルトの三位一体論における神の「存在の本質」(単一性・永遠性・神性)・神自身において「実在であり真理」である他在であって自在としての神の自由というその神学の原理・その神学の認識方法と概念構成においては、神の「存在の仕方」の差異性はあっても、低次の神の愛と高次の神の愛という段階的概念は、本質的に成立できないからである。言わば、北森には、神学における思想としての良質な三位一体論と神性を本質とするイエス・キリストにおける「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造的把握(「イエスの信仰」の主格的属格理解・啓示の客観的現実性の理解)がないのである(『教会教義学 神の言葉』・『福音と律法』)。
 1926年の夏学期、演習でカンタベリーのアンセルムスの『何故、神ハ人トナリ給ウタカ』を取り上げ、「<なんらかの意味で>、彼の語るところは確かに正しい」、と述べている(240頁)。

 

12)バルトは、1926年から27年の冬学期と1927年の夏学期に「再び聖書釈義をテーマとする講義」を行い、「まずは(最終的な形での)『ピリピ書』の講解」を行った。バルトは、「強烈な『宗教改革の』響き」を、この「ピリピ書」の主調音として見出した。バルトは、「人間から見れば、信仰とは、……自分自身の能力と意欲のあらゆる試みが必ず挫折するという絶対的必然性の洞察である」・「義は……心理学の内容とはならず、いつまでも神の御手の中にある」、と述べている。この語り方は、『福音主義神学入門』では、「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する」、という表現になり、『福音と律法』では、「我々のために」、「その地上における全生涯にわたって」、神性を本質とするイエス・キリストは、「全く端的に信じ給うたのである(ロマ書3・22、ガラテヤ書2・16等の「イエスの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」、という表現になる。このバルトとは全く異なっている一つの事例が、バルト学者でありながら自然神学の系譜に属するの寺園喜基である。この寺園は、自然神学者として、「イエスの信仰」を目的格的属格として理解しているために、言い換えれば恣意的で主観的な信仰しか持たないために・啓示の主観的現実性に依拠するために、すなわち恣意的で主観的な一方通行的な信や知の上昇過程の場所しか持たないために、常に自分を信や知の立場において思惟する・発言する。したがって、寺園は、往相的な一方通行的な信の上昇過程の場所から、諸民族は「イエスキリストを信ずる信仰へと呼びかけられている」のであるから、諸民族をその希望である「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ところに、キリスト者とキリスト教会の責務がある、と述べてしまう。それに対して、バルトの場合は、すべてのキリスト者とすべてのキリスト教会を含めて、諸民族は、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ、すなわち神性を本質とする「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」にのみ・啓示の客観的現実性にのみ、信頼し固執するように「呼びかけられている」のであるから、キリスト者やキリスト教会や諸民族は、徹頭徹尾全面的に、天然自然や一切の人間的自然に左右されない、全人間・全世界・全人類の救済・平和の希望であるそのイエス・キリスト(啓示の客観的現実)にのみ信頼し固執していいのだ、と宣べ伝えるところにキリスト者とキリスト教会の責務がある、という語り方になるのである。(243頁)

 

13)この時期のバルトの「努力と集中」は、「主として教義学講義の二度目の全過程を完遂するのに向けられた」。『ローマ書』と共に、この教義学は、「『近代プロテスタント主義に対する抗議(残念ながら、その全体に対する抗議というのには、多少の例外はあるが)』を含んでいた」。また、今まで「見落としてしまっていた多くのことが、今や視野に入って」きた。それは、「古代の教義学にとって現存していた思想上の問題や次元であった」――「『ローマ書』の時代に出発点とした神と人間の理論的・実践的隔離を放棄するのではないが、単純にその地点にとどまっていることもできないという事態を、この二回目に学び直さねばならなかった」・「ゲッティンゲン時代」の教義学を、包括し止揚しなければならなかった。バルトは、その教義学「序説を直ちに『神の言葉論』の論述の形で書いて行った」。このことは、終末論的限界の下での完成形である『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、バルトは、神の言葉のテーゼを、「神の言葉」は、三位一体論の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストの啓示の出来事(啓示の客観的現実性)=啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(キリスト教に固有な類・歴史性)においてある、というところに置いたということである。私たちは、バルトが、『ローマ書』第二版の原理だけでは駄目であることを認識し・自覚して、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』を経由させた『福音と律法』の根本的・究極的な原理(神の側の真実、神性を本質とするイエス・キリスト、啓示の客観的現実性――キリスト論的集中神学、「神の言葉」の神学)を獲得しなければならなかったことを、理解することができる。したがって、バルトは、「私はイエス・キリストを理解して、(≪そのイエス・キリストを≫)私の思考の周縁から中心へと移動させなければならなかった」、と述べたのである。したがってまた、バルトは、現実と時代に強いられて、「私は主体性を真理と認めることはできないので、キルケゴールとは、短い接触の後に……離れざるをえなかった」のである、と述べたのである。そして、「キルケゴールを越えて」(包括し止揚して)、「イエス・キリストを中心に置く道に立った」書物が『福音と律法』なのである。この書物によってバルトは、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体で、一切の近代主義・一切の自然神学に属する<全>信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を包括し止揚し、そこから超出したのである。この書物によってバルトは、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体において、神学における思想の課題としての、信と不信、知と非知、キリスト者(教)と非キリスト者(教)とを架橋したのである。このように、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体において、信、知、キリスト者(教)を、そのあるがままの不信、非知、非キリスト者(教)に対して完全に開いたバルトの場合は、またそのことによって党派性・党派的思想・党派的共同性を止揚したバルトの場合は、即自的・事実的なエキュメニカル運動や宗教間対話や大衆同化・大衆迎合・大衆啓蒙は、本質的に、全く必要がないのである、またそのようなことを主張し・語ることも、本質的に、全く必要がないのである。したがって、@神学は教会の学か、公共の学という議論があるが、「公共性の神学を主張する人は、思考が不十分であるか、不誠実であるか、双方」であるかのいずれかだ、なぜなら、公共性の場で行うのは、「宗教学」や「宗教社会学」や「宗教哲学」だからだとか、A「自分と異なる見解を排除するというのではなく、むしろ、神学は自らの教派的出自にとらわれるものなのだ。そういう考え方に踏みとどまる人たちがまっとうな神学者なのである」、と党派性・党派的思想・党派的共同性(党派主義的多元主義)を「まっとう」だ、と語る佐藤のような考えや主張は、バルトから出てくることは決してないのである。いずれにせよ、バルトは、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体において、神学における思想の課題としての、例えば宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とか、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』等の課題に対する解決の方途の言葉・神学・思想を獲得したのである。したがって、思想の往還も持たず・自覚もせず、したがって根本的な誤謬に普遍性の後光をかぶせて断定的に語る佐藤優の「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」という即自的・事実的に受けの良い尤もらしく聞こえる言葉――その言葉は、ほんとうのところは、部分を全体とする、往相的な、一方通行的な、形而上学的な、薄っぺらで皮相的な、一面的な言葉に過ぎないものなのである。
 1927年の春、バルトは、「古い、宗教改革の問題」、すなわち「信仰の業」・「倫理の問題」を「神の言葉の認識によって……解明する」ことを主題とした、@『義認と聖化』とA『戒めの遵守』という講演を行った(248頁)。『説教の本質と実際』・『教会教義学 神の言葉』・『福音と律法』に依拠して整理すれば、次のように言うことができる――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」=イエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」の宣教であって、「人間の行為と業の宣伝ではない」(248頁)。すなわち、それは、人間の「思想」や「最高の習慣、最良の見解」の宣伝にあるのではない。またそれは、「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」ことや「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことや「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進することや「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進することを宣伝することではない。バルトは、この「認識から出発した」。なぜならば、福音を内容とする福音の形式である律法(神の律法・神の人間に対する要求)は、人間はただの人間でしかない以上、神性を本質とするイエス・キリストを模倣することではないし、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもない。したがって、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、その福音に対する、素直な感謝の応答・告白・証し・宣べ伝えにあるのである(『福音と律法』)。「義認と聖化」は、「共に、人間に対する〔神の〕『恵みの行為』であって、それ故義認が神の行為であって、聖化が人間の行為だというのではなく、両者が共に『人間に対する神の行為』なのである」・「したがって、神が義認し、聖化するのである」。A「人は神の約束と一緒にのみ神の戒めを聞くことができる」・「戒めの違反者であるわれわれは、義認をうけた罪人としてのみ」、すなわち・その授与された啓示認識・「信仰においてのみ」、前述した『福音と律法』におけるように、「戒めを遵守することができる」(249頁)。この場合、重複するが、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、神性を本質とするイエス・キリストの使徒復活によって「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」のである。このことは終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて包括し止揚された・「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということである(『福音と律法』)。 1927年の夏、教義学が教会の一つの機能であるとすれば、最終的には現存する『教会教義学』とならざるを得ないのであるが、いずれにせよ、「今のところ、われわれのもとには、真の教義学は存在しない」ことを認識し・自覚していたバルトは、終末論的限界の自覚の下で、「独行者」として・「試論的」教義学として、「包括的な教義学」を目指していた。しかし、バルトは、「試論的性格」を払拭するために、「『キリスト教教義学』の第一巻につづく巻を出さず、その後のミュンスターでの教義学講義は出版しないままになった」。(244−251頁)

 

14)1927年7月、キリスト論において「一致できない」「カトリックの教会論との明確な、ほとんど峻厳なまでの対決」の立場をとるバルトは、『教会の概念』と題して講演を行い、オットー・ディベリウスの『教会の世紀』について、「誇張せずに言って下らない書物」と評した。バルトは、カトリック神学における、人間である「われわれが神の恵みを自由にしようとする試み」に対して、根本的な批判を加えている。そのカトリック神学と同類なのが、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものである、近代主義的プロテスタント主義神学である。また、ハイデッガーが語った、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」、という正当性のある根本的な揶揄・批判の対象そのものである、ブルトマンやその学派や近代主義的プロテスタント主義神学等である。
 1927年10月、バルトは、「いうまでもなく、悪しきシュライエルマッハーの息の根をとめてしまうための主題」『シュライエルマッハーからリッチュルまでの神学における神の言葉』を題目として講演した。このことについては、すでに述べているので省略する。
 1927年11月・12月、バルトは、『神の啓示とキリスト教会の教理』を題目として講演し、「神が私のもとに到来し給うたことによって……私は、神について語らなければならないから、語ることができ、また語ってもよいのです」、と述べた。1928年春、バルトは、『プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリック主義』の題目で講演した。このことについても、すでに述べているので、省略する。
 1928年の夏学期、バルトは、聖書釈義の講義をとりやめ、「ヤコブ書講義の『改訂版』を講じた」。この時期、バルトは、彼には「『一つの』倫理学が立てられていない」という批判に答えるために、「倫理学の問題領域に集中することとなった」。この神学的な倫理学の問題は、13)の2段落目で述べた事柄にかかわっていることである――「〔神学上の〕倫理学において」は、「教義学は神の行為」を扱い・「倫理学は人間とその行為」を扱うという伝統的な考え方を揚棄した、「神の言葉の考察」、すなわち「人間に要求する神の言葉」が主題とならなければならない。「善」は、神に「聞くことから生じ、それ故に神の語りかけから生じる」。バルトは、@「生の戒めとしての」「創造者の戒め」・A「律法の戒めとしての」「和解者の戒め」・B「約束の戒めとしての」「救済者の戒め」というように、倫理学を三一論的に論じた。このことを、『福音と律法』に即して言えば、@は、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼(≪人間≫)の死を欲し給う」ということである。Aは、その神の答え(人間に対する神の要求・律法)を、神性を本質とするイエス・キリストご自身が、「その地上における全生涯にわたって」、「我々のために」、「全く端的に、信じ給うた」ことによって成就されたということであり、その福音を内容とする福音の形式である律法(その「イエスの信仰」の主格的属格としてのイエス・キリストにのみ信頼し固執せよという神の人間に対する要求)のことである。これが、「〔神学上の〕倫理学」、すなわち「人間に要求する神の言葉」・人間に対する神の要求の総括的表現であり・「戒めの内容」である。Bは、この福音を内容とする福音の形式である律法において初めて、その律法は、「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられる、ということであり、「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられる、ということである。イエス・キリストこそが、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ固着させる霊である(「信仰」)。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊・感謝の霊のことである(「愛」)。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として見・神に聞くよう促す霊である(「希望」)。このことからすれば、「バルトが語る<神の人間性>とは」、「たとえ人間が」「神を神とすることを止めて自らを神とし、神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということ」である(『「神の人間性」に見る後期バルトの神観』)と書いた牧師は、バルトを論じながら、バルトとは全く異なって、自らは「神学上の倫理」を持っていないということを、自己暴露したのである。
 1928−29年冬学期の演習で、カトリック主義の問題を追及していたバルトは、「トマスのテキストの講読」(『神学大全』第一巻)を行った。1929年2月、イエズス会士エーリッヒ・プシュヴァラが訪問し、バルトとは全く異なって、自然神学的な「人間の中にあり=人間を越える」「神」と「存在の類比の平和」について述べた。2月と3月に行った『神学における運命と理念』と題した講演で、バルトは、「キリスト教神学は、人間の思考の二つの基本形式である『現実主義』と『理想主義』を用いざるを得ないが、……神を運命の中に求め、見出すか、あるいは神を理念の中に求め、見出すかのいずれかである」ということは許されない、と述べた。このことは、『教会教義学 神の言葉』に即して整理すれば、次のように言うことができる――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」・「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」・またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」・キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」・また、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」・言い換えれば、神と人間との混淆論や共働論に基づく、存在の類比の基づく、自然神学的な人間学的神学は、神学としても人間学としても非自立的で中途半端なものでしかない、と述べた。また、バルトは、『バルトとの対話』においては、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・すなわち、神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」、と述べた。「哲学は神学ノ奴婢ではなく、神学も哲学と共に、教会の奴婢、キリストノ奴婢であろうと欲しうるだけである」(277頁)。
 1929年10月、「しっかりした教育を受けた赤十字の看護婦」のシャルロッテ・フォン・キルシュバウム(愛称ロロ)が「助手の役割を果たす、忠実な協力者」として、「バルトの家に……加わった」。「バルト自身は、このようにして始まった事態に対する責任と負い目を引き受けることをためらわなかった」が、この男女間の三角関係の事実は、「実際多くの人たちに、……躓きを与えた」。なぜならば、「バルト夫人ネリにとっては、厳しい自己放棄を強いられる結果」になることは、誰の目にも明らかなことだったからである。吉本は、人間の三つの存在様式について、次のように述べている――「人間の観念がうみだす総体の世界をおさえ切るということが、それだけで人間を救済するわけではない」が、「それぞれ異なった次元を構成する観念の総体性をおさえることは、それをのっぺらぼうの世界とみなすことからくるすべての錯誤から、人間を脱出させることは確か」なことである。したがって、「錯誤から脱出するということは、すくなくとも現在の課題としては、ほとんどすべての課題の発端である」ということができる(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。例えば、老人問題は、外在的な経済的生活問題という意味からは社会的問題であり制度的・行政的問題である。しかし、それだけではなく、それは、対幻想の共同性(家族)にあった親孝行という観念が衰退している現代家族の内在的な問題でもある。と同時に、それは、子どもと一緒に暮らしたい、孫と一緒に暮らしたい、夫婦で暮らしたい、一人で暮らしたい、畳の上で死にたいという自分の死の迎え方の問題等として百人百様の老人個々人の内面の問題でもある(『伝統と現代 33号』「吉本隆明・鮎川信夫対談 家族とは何か」昭和50年5月号)。したがって、制度的・行政的解決は部分としての解決でしかないから、老人問題の究極的解決のためには、人間存在の三位相の差異性と関係性を自覚的に扱う必要がある。人間存在は、「個体であり、それから家族であり、そしてまた共同体の一員であるというふうに存在」している(『吉本隆明全著作集14』「個体・家族・共同性としての人間」)。そして、人間は自己意識をもった存在であるから、個体の自己意識・「<個体の観念>」 は、自己が自己自身に関係する自己関係や、一対の男女の対関係およびその対関係の共同性である家族関係や、社会における共同的関係において、自己幻想・対幻想・共同幻想を生み出していくことになる(『マルクス―読みかえの方法』)。@第一に、自己が自己自身に関係する<個体>的個人の世界がある。それは、「他人には理解できない内面を含めた、その人の心のもち方」の世界である。またそれは、他人と通じ合うことは第二義的な個体の内面世界のことである。この内面世界は、自己意識の対自的な世界であり、吉本言語論で言えば自己表出の世界である。『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、バルトが人間の対自的意識に関わる言葉で、「われわれ人間の間の伝達は――われわれが人間一般として互い相対立して立つ限り――事実いかに問題的であるかということを念頭におくならば」、「一体、誰が誰を知っているのであろうか」、と述べた世界のことである。したがって、この世界においては、他者の意見は参考にしかならない。A第二に、個体的自己が社会と関わる「<社会>的な個人」としての世界がある。具体的には、仕事・納税・消費・選挙行動等において自分はどう振舞うかという世界である。この領域に関わる国家を含めた集団構成の問題は、集団の基本単位である三人の集団構成から類推していくことが必要な世界である。B第三に、個体的自己が一対の男女(性)として振舞う世界がある。また、その対幻想の共同性である「<家族>の一員としての個人」として振舞う世界がある。この対幻想において注意すべきことは、それは、習俗や制度(共同幻想)としての家族ではなく、個体の対幻想であるということである。なぜならば、人間は、個人として、まず自分を〈他者〉(対象化・客体化)とすることによって、はじめて他の個人に知られ、他の個人を知るという位相(水準)を獲得できるからである。すなわち、差異性を認識し自覚できるからである。これら人間存在の三位相は、次元が違うものであるから、それぞれの世界における問題の究極的包括的永続的解決の方法にも差異性があるが、老人問題の例のように、人間存在の三位相の差異性と関係性を自覚的に扱う必要がある。いずれにせよ、このBの世界が、バルトの三角関係の問題の世界である。対関係は、二人の関係を本質としているから、三角関係になれば、必ず本質的な二人の関係へと収斂させていくような軋轢が生じてくる。すなわち、誰かが排除されていくことになる。おそらく、バルトの場合、その心は、キルシュバウムに傾いていたに違いなから、夫人ネリにとっては、非常にキツイ日常を強いられたに違いない。したがって、夫人ネリには、押し殺したそれであれ、人間である以上は、情念の問題、愛像の問題、嫉妬の問題が生じていたに違いない。また、バルト自身も、ネリとキルシュバウムとの三角関係の中で、心の中で、情念と意志の葛藤を演じていたに違いない。私は、この体験の思想化が、『福音と律法』における、罪の本質は人間の自主性・自己主張・無神性にあるのであって、「余りに性急に、余りに熱心に、念頭に置いて来た」「性的リビドー」(「『死んでいる』罪の成果の一部」)にあるのではない、という言葉になってあらわれていると思う。すなわち、この神学における思想においては、バルトは、自らの三角関係に、一応の決着をつけたのだと思う。したがって、バルトとキルシュバームとの対関係が日本では封印されていることを、「火宅の人、バルト」などと受けだけを狙って得々と意味ありげに述べていた佐藤優は、本質論なき、思想なき、薄ぺらで皮相的な往相の信仰・神学・知識の人でしかないのである。
 1930年、バルトは、『聖霊とキリスト教生活』を出版した。この書物についてもすでに述べているので、ここでは省略する。(251−269頁)

 

15)1920年代末の状況――@1929年秋、空軍大尉ヘルマン・ゲーリンクが「大学の神聖な講堂で歓迎を受け、……二時間に及ぶ熱弁をふるった」。Aバルトが「神学者として所属していた」「ドイツ福音主義教会」は、人間の「尊大な自己意識」が管理するプログラムに基づいて「明瞭」に「反動〔ナショナリズム〕」へと「傾斜」していった。Bバルトは、『時の間に』誌の「グループの一員に数えられていた」、「自然神学」の「可能性を改めて考慮に入れようという」エミール・ブルンナーの「要求を拒絶した」。Cバルトの自省――バルトは、『キリスト教教義学試論』の「周知の誤った出発」を自省すると共に、『教会と文化』や『教義学序説』にも「正当な自然神学」の痕跡・名残りがあることを自省した。すなわち、バルトは、まだなお、自分自身にもあった自然神学の痕跡・名残りを認識し・自覚し・自省して、それを完全に払拭すべく歩みを前に進めた。この自省とこの自覚の下に、バルトは、神と人間との無限の質的差異の原理(『ローマ書』)に加えて、現実と時代とに強いられて、神学における思想として、
◎「イエスの信仰」の主格的属格理解(『福音と律法』)、
◎「聖霊は、人間精神と同一ではない」・聖霊によって更新された理性も、聖霊と同一ではない(『教義学要綱』)、
◎自由・主権は、神自身においてのみ「実在であり真理」である(『教会教義学 神の言葉』)、等々
という原理を置いていくのである。
D『時の間に』誌の「屋台骨がきしみ始めていた」。1930年代への移行期において、「すでに<弁証法神学>の代表者たちのグループ内には、根本にまで達する対決と分裂が現われてきた」。E「当時私が根本的に間違っていたのは、すでに台頭し始めていた国家社会主義が、その理念や方法、その指導者の人物たちは私には当初から不条理なものに思われていたにもかかわらず、やがて危険なものになるとは見抜けなかったことである」。
 1948年、バルトは、次のように書いた――「六〇〇万人のユダヤ人が殺され……ありとあらゆる恐怖と困窮が人間を襲い、しかもすべてはちょうど風が……花の上を吹くように来て、また去って行った。……草や花はしばらく身を曲げる。しかし風が静まれば、また身を起こす。……ある近代劇(<近代以降の、神と人間との混淆論・共働論に固執した自然神学的な神学者・牧師・著述家、またその教会の宣教・キリスト教>)」が『私たちはまた逃げおおせた』という言葉でこれを言い直しているように」、と(『バルト神学入門』)。まだあるのだ。第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」・「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した・「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」、と(『バルト自伝』)。私たちには、現存する神学者や牧師や著述家の神学(知識)・発言・行動を眺めていると、さらに悪化しているように思えてならない。