本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルトの生涯――ほんとうの処女作『ローマ書』第2版へ向かって(その2の1)

エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社に基づく

 

2014年
4月9日(水):
バルトの生涯――ほんとうの処女作『ローマ書』第2版へ向かって(その2の1:1−85頁)
――個と類・歴史性と現存性を生きたバルトの生涯の思想を決定づけた処女作『ローマ書』第2版へ向かって:1−178頁――

 

 ブッシュの時系列的な叙述から、私たちは、『ローマ書』第2版へと向かってのバルトの歩みが――そして、事実としては、実際的に、彼の神やイエス・キリストの名に対する感じ方の様式・考え方の様式・行動の様式のベクトルは、自然神学から「超自然な神学」へというように、一切の近代主義や一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教とは全く逆向きな歩みを辿るのであるが――、先ず以て1901年から1902年((15、16歳))までの牧師ロバート・エッシュバッハーによる堅信礼準備教育への参加にはじまっていることを知ることができる。なぜならば、そこにおいて、バルトは、@「ヘッケルらの唯物主義に対する弁証と反論」、Aイエスの生と死と復活の意義、B「クッターやラガツよりはるかに前」に提起された「社会問題」への関わり、「社会生活に関する福音の要求」の「適用」が重要な現実的問題であることを教え与えられたからである。それから、そこにおいて、説教や牧会への考慮からではないが、神学者になる決意をしているからである。
 1904年9月に「化学や物理学などでは……やっと2の成績」であったが大学入学資格試験に合格した。そして、同年10月に神学部に学生登録をする。ただ、「ベルンの神学教師たち」の講義は、バルトに「なんらかの形で……訴えかけるもの」を持っていなかったから、彼にとって、その講義は「気乗り」しないものであったし、そこでの知識は「無味乾燥」なものでしかなかった。このベルンでの体験を、バルトは、次のように述べている――@「<歴史批評>学派の初期の形態を当時すでに徹底的に経験してしまった」から、その後の「後継者たちの主張」は、「非神話化」のすべてのものよりも「はるかに強いタバコ」であったが、「多少神経にさわるというぐらい」であって、「もはや私の体内に浸透したり、私の心を打ったりすること」はなかった、と。A学生時代のバルトを「本当に感動させた最初の書物は、カントの『実践理性批判』だった」から、「<古い正統主義>に反対して」「心に思い描くようなこと」、また「神の道」の「はじまり」と「目標」は「カント」にあるという主張も、「すべて会得してしまった」、と。したがって、ここでの体験の思想化は、例えばアウグスティヌスもトマスもルターもシュライエルマッハーもブルトマン等も、またローマ・カトリック主義や近代主義的プロテスタント主義やアジア的日本的な自然思想の復古性に依拠した近代主義的プロテスタント主義の信仰・神学・教会の宣教・キリスト教も、すべて自然神学の系譜に属するそれであるという認識に結実していった。言い換えれば、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」、という「超自然な神学」の考え方に結実していった(『カール・バルト著作集12』「カント」)。そして、この考え方は、アウグスティヌスの自然神学的な「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」という語り方に対して、「超」自然神学的な「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」という語り方を生んだ。すなわち、バルトのその考え方は、アウグスティヌスの考え方を紙一重で超える神学における思想の言葉を生んだのである(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、このバルトの神学における思想を理解できなかった富岡幸一郎は、言い換えればアウグスティヌスの神学を自然神学ではないと論じた冨岡は、一切の近代主義(者)や一切の自然神学に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教・神学者・牧師・著述家がそうであるように、「未来の思想に関与すること」(『使徒的人間――カール・バルト』)は決してできないのである。なぜならば、彼らは、根本的な「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語」っているだけだからである。また、バルトは、自然神学的なカントに傾聴したが、と同時に、「世界のなかにも世界の外にも、善意志を除けば何一つよいものはない、……善意志とは真理であり、私の生における神的なもの」であるというカントの「明快な知識」の在り方によって、「福音とは単純なものである」・「神の真理とは数多くの命題や意見や推測の、入り組んだ、むずかしい構築物ではなくて、どんな子供にもわかるような単純で、明快な知識である」ということを発見した。このことは、後に、『福音と律法』における単純で根本的な信仰的神学的な認識・信仰に、すなわち徹頭徹尾全面的に神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」という理解に、言い換えれば神性を本質とするイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)という認識・信仰に、啓示の客観的現実性という認識・信仰に、イエス・キリストの名のみという認識・信仰に、結実していった――「単純なものの正しい認識」を、「さらに深く、さらに明瞭に、さらに確実にすることが私の目標となった」(46−49頁)。
 1906年10月、バルトは、ヘブライ語には「苦労した」が、「哲学と宗教史と教会史と聖書学の知識を十分備えていること」が必要とされる神学初級試験に「第一級」の「優秀な成績でパス」した。そして、バルトは、ほんとはマールブルクに行きたかったが、ベルリーンに行くことになった。ベルリーンでバルトは、「古代の教理は……福音の地盤の上になったギリシャ精神の一つの自己表現である」というハルナックの講義を傾聴した。バルトの、最終的な、自由主義神学者ハルナックとの訣別と、ハルナックとの根本的な差異性については、「アドルフ・フォン・ハルナックとの往復書簡」ですでに論じているので、ここでは省略する。また、ベルリーンでバルトは、カントの『実践理性批判』と『純粋理性批判』の「『徹底的研究から』、シュライエrマッハーに出会」い、彼から距離をとることをしないで、「全面的に、見境ノナイ信頼デ信用する」ことになった。バルトの、最終的な、近代主義的プロテスタント主義者シュライエルマッハーとの決別と、彼に対する根本的な批判は、「シュライエルマッハーからリッチェルに至る神の言葉」において論じているので、ここでは省略する。ただ、要約して述べれば、次の通りである――ヘーゲルにおいては、哲学は「本質的にキリスト教の正統的教義と一致する」。この時、「キリスト教のもろもろの根本真理」は、その「哲学によって維持され保管されることになる」。なぜなら、ヘーゲル哲学において啓示は、「意識に対して存在するものすべてのものが、意識にとって一つの対象となる時のような仕方において」現われるからである。この場合、啓示・神は、人間の直接的で理性的な自己認識と混淆されてしまい、人間自身の自己意識が「捕えた虜囚」でしかないものとなってしまう。したがって、バルトにとって「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、人間中心主義的な「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」・「神の自由を認識していないという事態」にあるのである――「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(『カール・バルト著作集12』「ヘーゲル」)。こうした位相のシュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言うのである。またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識の意味的世界、自分自身の恣意的なプログラム・「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる。これらは、バルトの根本的なシュライエルマッハー批判である(『教会教義学 神の言葉』)。このバルトは、「自由主義神学やその他の悪しき神学に対抗するための最良の薬」は、「そのような神学から遠ざけようとする」ところにあるのではなく、「そういう神学を大きなバケツで汲み上げて」みさせるところにある、と述べている。バルト自身は、「ずっとのちになって」であるが、1907年に出会ったクリストフ・ブルームハルトを契機として、「独自の力で自由主義のよどみの中から脱出した」、と述べている。すなわち、バルトは、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し止揚する、という神学における思想的な在り方で、一切の自然神学から単純に根本的に超出したのである。具体的に言えば、「(≪私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派・教派・宗派・思想傾向・時流や時勢・社会的政治的な言説や運動・独り言の私語や戯言や意味的世界≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」、という在り方で、一切の自然神学から単純に根本的に超出したのである(『教会教義学 神の言葉』)。(53−62頁)
 さて、バルトは、1907年4月に再びベルン大学に入学する。そこで、レージィ・ミュンガーという少女と出会い初恋を体験する。しかし、彼らの両親たちは、「親しくすることにも、婚約にも」反対したため、1910年レージィと別れた――「私は、この少女を――彼女は1925年に亡くなったのですが――決して忘れることはできませんでした」・「彼女は思い出の中では『なんども繰り返し現れ、もの問いたげに、しかし親しみをこめて、愛らしく立っていたのです』」。この理性的なバルトの語り方にもう少し言葉を付け加えれば、バルトにとって、この初恋の、世界中でもっとも美しいもっとも可愛い少女の喪失は、全世界の崩壊に匹敵する体験であったにちがいない。老いてからもバルトは、その時すべてを捧げてもいいと思った少女との出会いの鮮烈さ、ある日ある時の少女の仕ぐさや表情や言葉を、ときどき思い出していたにちがいない(60頁)。
 1908年、バルトは、マールブルクに移った。そこで、バルトは、カント主義者であり初期シュライエルマッハーに依拠していたヴィルヘルム・ヘルマンの講演『われわれに対する神の啓示』を聞くと共に、レオンハルト・ラガツの「<神は今日、社会主義において人間と出会う>」というテーゼを聞いた。しかし、バルトは、ヘルマンを「うのみにすること」なく、ヘルマンの「キリスト中心主義」だけを受けとめた。ヘルマンの「神学は、古い自由主義神学からも、しかしまたあらゆる<正統主義>とあらゆる<積極主義>からも、確かに区別されるものでした。われわれも、この両側の神学に深い軽蔑の念をいだいていました。左に対しても右に対しても、われわれは自由だと感じていましたし、この両者の対立を超えて」、「(≪私は≫)狭い道を歩み始めていたのです」。この実感と自覚の萌芽を持ちつつ、バルトは、「シュライエルマッハーとリッチュルの示唆を受けて、キリスト教とは、一方で歴史批評的に研究されるべき歴史上の現象であると共に、他方では優れて道徳的な性格をもった内面的体験の事柄であると解釈」していた。また、バルトは、<近代>学派のマルティン・ラーデが責任編集する『キリスト教世界』にどっぷりとつかってその編集助手となって働いた――「私の学生生活の最後の時期に、私は当時の<近代>神学を信頼に満ちて承認することで、私の同時代の者のだれにも劣らなかった」(66・71頁)。また、バルトは、「カントとシュライエルマッハーの綿密な研究によって……神学の基礎を確立しよう」としていた。そして、このマールブルクでバルトは、牧師資格最終試験に「第二級の成績で合格」するとともに、ルドルフ・ブルトマンと知り合い、また「今日まで友人(≪学生会ツォーフィンギアで知り合っていた≫)であり、今後も友人でありつづけるであろう」エドゥアルト・トゥルナイゼンとヴィルヘルム・レーヴとも会った。トゥルナイゼンによれば、当時バルトは、ドイツ人大家のヘルマンよりも、「エルンスト・トレルチから、強い印象を受けていた」、と述べている。いぜれにせよ、彼らは、私的な勉強会や読書会や討論会において、話題の中心をトレルチに置いていた。その中でバルトは、「宗教的個人主義と歴史的相対主義」ということを主調音としていた近代神学の「自覚的支持者」であったと同時に、トレルチに対して、「のちに気づくように」彼の「信仰論は、果てしのない、とりとめのない無駄話に終わってしまいそう」なものでしかない、という実感と自覚の萌芽をも併せ持っていた。この実感と自覚の萌芽を持っていたバルトは、1915年頃のことであろうか、神学における思想家にはいつかやってくるであろう不可避的な「超自然な神学」へのベクトル変容の必要性と重要性に対する確かな実感と自覚を持つことになる――「『キリスト教世界』誌にかかわった私の年月のおかげで」、「シュライエルマッハー時代の末期の空気と精神を十分に呼吸し、それに対して若き日の全面的な信頼を捧げたからこそ、それから7年後に、彼の時代はほんとうに終わったのだという発見をなしえたのでした」。「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道(≪「超自然な神学」の道≫)に踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」(J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし 1968年」)。(63−71頁)
 さて、バルトは、1909年にジュネーヴの州教会所属のドイツ語教会の副牧師に就任した。バルトは、このジュネーヴの人々にも、「宗教的個人主義と歴史的相対主義」を啓蒙し押しつけていた――「私がジュネーヴの人たちに……押しつけたあらゆる歴史主義と個人主義については、あとからはずかしい思いにとらわれずにはおれませんでした」・「私は当時信仰と歴史に関するかなり大きな論文を発表したが、これは今にして思えば、印刷されなかった方がよかった」(78・79頁)。いずれにせよ、このジュネーヴの教会でもバルトは、「学問的」で「自由主義的」な「説教の準備に非常な努力を傾注し、……説教を一語一語注意してていねいに準備した」。と同時に、例えば、「神を認識しうるより先に、まず自分自身を認識しなければなりません」・「ゲーテの『ファウスト』は疑いもなく真のプロテスタント」である、という説教も行った。また、「神とは何か、またわれわれが何になるべきかがわれわれに明らかになるならば、その場合にはわれわれは信じているのであり、われわれが自由な、喜びに満ちた人間になるために必要な確証と根拠づけとを持つのである」、ということを「復活節随想」で述べた。そしてまた、バルトは、『キリスト教信仰と歴史』においては、自由主義的な恣意的自由において「カントとシュライエルマッハーをくりかえして引用し、ゲーテとシラーまで保証人として言及」し、「パウロと並んでアジアのアシジのフランチェスコとボールデンシュヴィング、メケランジェロとベートーベンに至るまで『啓示の源泉』だと主張した」。ここで、バルトにおける神や啓示は、まさしく自然神学的な神(偶像)であり、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものの神・啓示であり、ハイデッガーが「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい」と揶揄した「存在者レベルでの神」・啓示(対象化された人間の自己意識の類的本質・理念の象徴)である(木田元『ハイデッガーの思想』岩波書店)。後に、バルトは、この一方通行的に知識的上昇を目指す知識の往相的在り方と自然神学的在り方から、その神学の原理・その神学の認識方法と概念構成それ自体において超出していくのであるが、この説教の準備に対する態度については生涯変わらなかった――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」である神性を本質とするイエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である。したがって、説教者にとって、「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」・インマヌエルということである。そこにおいて、説教は、「会衆」、「特定の場所と時における全く特定の現在の人間」の生活、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ること」である。その場合、説教者は、説教の言葉の<往還>において「『貧しい、低きにいる民』に下っていかなければならない」。この場合、「下って」いくとは、迎合したり・同化したり・啓蒙したりすることとは全く違うのであって、それは、そのあるがままの不信・非キリスト者・一般大衆に対して、その説教の言葉を完全に開いていくということである。また、説教者は、説教として語る場合、聖霊や聖霊の言葉を説教者の自由事項や独占事項にする神学者・小泉健のように、「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」のであって、「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である(『説教の本質と実際』)。また後に、バルトは、キリストの誕生・死と復活の宣教における「福音の歴史の正しい考察」・正しい歴史認識の方法は、「啓示は歴史の賓辞ではない」、「歴史が啓示の賓辞である」、という啓示(福音の歴史・神の時間)と歴史(人間の歴史・人間の時間)との無限の質的差異という根本的で明確な概念を持つことになる(『教会教義学神の言葉』)。(71−80頁) 
 1911年にバルトは、「大きな影響」を与えられた「二つの出来事」に遭遇する。第一の出来事は、学生運動指導者の「ジョン・モットがジュネーヴに来たことである」。バルトは、モットの持つ「福音の宣教、人類はイエスのため、イエスは人類のため、というメロディ」に「深い感動」を覚えた。バルトに「ショックを与えた」第二の出来事は、「数千人のジュネーヴ市民が、連邦政府のギャンブル禁止に反対して」、「休むことのない口笛と叫び声と怒号」をもって行われた「デモ」と、「無思想」な「国の指導者たち」の「宗教に敬意を抱いているが」、宗教によって「わずらわ」されるのは御免だ、という発言であった。したがって、バルトは、両者から距離をとった上で、ほんとうは「アルコール中毒、拝金主義、リベルタン主義」に本質的な問題があるという考え方から、ギャンブル禁止に対しては、賛成する立場をとった。そして、この出来事によって、バルトは、「徹底的な否定によって神の国の現実性を明らかにすること、これが今<教会>が何よりも先ず為すべきことである」ということを学んだ。この年に、バルトは、「最初の年の彼の堅信礼教育の生徒の一人であった」ネリ・ホフマンと婚約した。また同年にバルトは、それは自然神学的な「宗教の本質である精神の実践的高揚」とは関わりはないものという考え方から、形而上学は「神学にとって稔りのない、しかも危険な企て」であると述べて、『神学における形而上学の再登場』と「批判的に対決」した。そしてまた、バルトは、「お互いの無関心と至高の存在に対する無関心とから、相互の、また共同の探求が生まれるにちがいない。……すなわちキリスト教の共同体(教会)が、本当に成立するにちがいない」、という説教も行っている。この説教の語り方からは、「至高の存在」という自然神学的概念を温存させながらも、「至高の存在に対する無関心」という語り方で、自然神学から超出していこうとしている萌芽も見出すことができる。(80−84頁)
 最後に、私たちは、これまでの叙述からだけでも、バルトのそれぞれの歩みが、先ず以て一切の近代主義や一切の自然神学に対するアンチ・テーゼとなり、単純で根本的な批判となる、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」、「超自然な神学」における神と人間との無限の質的差異の原理の明確化と明言化としての処女作『ローマ書』へと向かっている、と言うことができる。