本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

3月30日:バルトの生涯の思想を決定づけた彼の処女作は何か?

エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社に基づく

 

2014年
3月30日(日):
 個と類、歴史性と現存性を生きたバルトの生涯の思想を決定づけた彼の処女作のその位相とは何か?

 

 ブッシュは、「はじめに」で、表出と表現における創造(表出)と享受(表現)の問題に依拠しながら、次のように述べている――「バルトの生涯のさまざまな段階の中でどの段階が決定的な、最も重要な段階であるかという問いは、……問う者の関心やそれぞれの時代の精神によって違った答えが与えられるであろう」、と。したがって、「ある人たちは、……ドイツ教会闘争へのバルトの参加が彼の伝記を解く鍵である」・「ある人たちは……弁証法神学の『青春時代』がその鍵である」・「ある人たちは……ザーヘンヴィル時代の活動にその鍵がある」等々とするだろう、と。この語りだけに目をとめると、ブッシュは、共同性統括力の衰退した時代状況における表出と表現における表現(享受)の問題に依拠しながら、百人百様の多様性があってもいい、という思想なき叙述の仕方をしているように読める。もちろん、それだけでなく、ブッシュは、一方で、バルトのその生涯におけるそれぞれの段階は、それぞれの「固有の重要性をもち、……それぞれの固有の認識を伴って」いる、とも述べている。そして、バルトのそのそれぞれの段階の「固有な重要性」と「固有な認識」は、「相関性と連続性をもつ」、とも述べている。ここで、バルトにおけるその固有な「重要性」・「認識性」・「相関性と連続性」は、
1)「聖書の主題であり哲学の要旨」である神と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)、
2)主格的属格として、ローマ3・22およびガラテヤ2・16等の「イエスの信仰」(啓示の客観的現実性)――すなわち、徹頭徹尾全面的に神の側の真実としてのイエス・キリストにおける完了された全人間・全世界全人類の究極的包括的総体的永遠的救済(史)、
3)「聖霊は、人間精神と同一ではない」・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合」も、聖霊は決して「人間精神の一形姿」とはならない・聖霊によって更新された理性も聖霊ではない、
という「超自然」な信仰・神学(思想)・教会の宣教・キリスト教の根本的な、原理、認識方法と概念構成にある、
と言うことができる。そして、これら三つの事柄は、1)の『ローマ書』における「超自然な神学」の原理・認識方法と概念構成が、バルトの生涯の思想に踏襲されていること・バルトの生涯の思で手離されてはいないことを示している、と言うことができる。すなわち、その原理・認識方法と概念構成が、バルトの生涯の思想に時間累積されている、と言うことができる。また、その水準は、時代性を超えて歴史の中に時間累積されていく位相にあるものである、と言うことができる。いずれにせよ、ブッシュにおける、前者の問題は、享受における百人百様の受け取り方の問題であり、後者の問題は、創造におけるバルトの神学思想の根本的な原理の問題・認識方法と概念構成の問題である。この構造性を無視して後者の問題を軽視する場合、バルト読みのバルト知らずとして、天然自然や人間的自然や人間学的な哲学原理・認識論・世界観に依拠する自然神学的立場に立脚して、「超自然な神学」であり思想家でもあるバルトのその信仰・その神学・その思想について、根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」ることになるのである。
 重要な事柄は、次の点にある――すなわち、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」である(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」筑摩書房)。したがって、神学における思想家バルトも、(≪私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派・宗派・教派・思想傾向・時流や時勢・社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」、と述べるのである(カール・バルト『教会教義学 神の言葉』)。すなわち、その立場において、その原理・その認識方法と概念構成それ自体において、バルトは、信を・キリスト教を・その共同性を、そのあるがままの不信や非キリスト者に対して、その共同性に対して、完全に開くのである。
 さて、「千年に一度しかあらわれない」巨匠マルクスと、「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした」「無数の大衆」・人間との「価値はまったくおなじ」であって、歴史は、その等価性を「ひとつの<時代>性として抽出する」・したがって、巨匠とは、幻想(観念・知識・思想)領域において、「意識の行為」としての知識・思想を、時代性を超えて歴史の中に時間累積させた者のことである、と吉本は述べるのである。そして、吉本は、「マルクスの思想体系は、二十代の半ばすぎ、1843年から44年にかけて完成したすがたをとっている。これは、『ユダヤ人問題によせて』、『ヘーゲル法哲学批判』、『経済学と哲学とにかんする手稿』によって象徴させることができる。もしも個人の生涯の思想が、処女作にむかって成熟し、本質的にそこですべての芽がでそろうものとすれば、これらはマルクスの真の意味での処女作であり、かれは、生涯これをこえることはなかったといっていい」(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」勁草書房)。私たちは、カール・バルトを、「千年に一度しかあらわれない」ような神学における思想家として認め得るのであるが、その場合に、マルクスにおけるような意味でのバルトの処女作は何かと、単純にしかし根本的にそしてトータルに問えば、@「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、……彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである」・「わたしは専ら歴史的なものの裏に聖書の精神を洞察しようと心がけた。聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」、A「私が<方式>なるものをもっているとすれば、それは」、「聖書の主題であり哲学の要旨」である神と人間との無限の質的差異である、と書いた『ローマ書』、と答えるほかないであろう。そこで見出した<方式>・認識方法と概念構成を、その時代性の刻印と共にその時代性を超えて時間累積させた著作が、根本的なルター批判である第一の宗教改革書としての『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』であり、一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰や神学や教会の宣教やキリスト教に対する根本的な批判である『ヘーゲル』であり、『知解をもとめる信仰 アンセルムスの神の存在の証明』であり、『教会教義学 神の言葉』であり、全キリスト教に対する究極的で根本的な批判であり・「イエスの信仰」の主格的属格理解において全キリスト教に対して究極的根本的に宗教改革を迫る第二の宗教改革書としての『福音と律法』であり、『教義学要綱』であり、『神の人間性』であり、『教会教義学 和解論』であり・その他の『教会教義学』であり、『ルドルフ・ブルトマン』であり、『福音主義神学入門』であり、シュライエルマッハー選集『あとがき』等である。これらの著作は、時代性を刻印していると同時に、時代性を超えて歴史の中に時間累積させた位相にあるものである。