本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』:イエス・キリスト(その3)

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

神の言葉の受肉――イエス・キリスト(その3 啓示の客観的可能性 51−92頁)

 

 「イエス・キリストの実在は事実、人間に対し示される神の啓示であるということを聖書を通して確かにわれわれに向かって語らしめる」――このことを、「われわれは……前提とする」(55頁)。このことは、@三位一体論の唯一の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の第二の存在の仕方、すなわち神の自己啓示である神性を本質とするイエス・キリストの名(啓示の実在そのもの)と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類・歴史性)に信頼し連帯することを意味している。バルトは、この場所に立脚して、一方でその信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に、個性や時代性を刻んだのである。A言い換えれば、このことは、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の実在であるイエス・キリストの名と共に、聖書を、教会の宣教における原理、とすることを意味している。Bしたがって、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならない」、ということを意味している。「われわれは、啓示そのもの中で、啓示そのものを通して、前提され、基礎づけられた、そして啓示そのものからして、啓示そのもの中で、認識される可能性を(≪、すなわち、神の不把握性と終末論的限界の下でであるが、啓示に固有な証明能力である、神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく、人間が人間的に所有する人間の啓示認識の可能性を≫)問うのである」(『教会教義学 神の言葉』)。
 聖書の証言によれば、神自身においてのみ「実在であり真理」である他在であって自在としての自由、その神の第二の存在の仕方における人間へと向かう他在性、すなわち「神がわれわれのために自由であり給うということ」は、神性を本質とする「人間の歴史的形態」であるイエス・キリストの名・「イエス・キリストにあっての事実である」。、したがって、イエス・キリストの名について語らなければならない「最初にして最後のこと」は、「彼はまことの神にしてまことの人間であるということ」である。「神がこの人間(≪存在≫)であり、この人間(≪存在≫)が神である」、ということである。「この意味の単一性の中で彼は神の啓示の客観的な実在」である。そして、これは、「受肉の概念の説明」である。このことは、『神の人間性』では、イエス・キリストは、「神の神性において(≪自在性・対自的存在として、すなわち全き自由の神の存在の本質である単一性・神性・永遠性において≫)、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性(≪他在性・対他的存在として、すなわち人間へと向かう全き自由の神の第二の「存在の仕方」・神の子・神の言葉≫)もわれわれに出会う」、と表現される。いずれにせよ、イエス・キリスト――「啓示の客観的可能性」は、自在性としての単一性・神性・永遠性を本質とする、人間へと向かう他在性としての神の「存在の仕方」(神の子・神の言葉)である(51頁)。イエス・キリストの名――啓示の客観的な実在から喚起される問いは、神性を本質とするイエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事によるその啓示に固有な証明能力(「事実原理」)に基づく啓示の「知解」に関わる問い(「事実質問)である。バルトのよれば、アンセルムスにおける「知解」の概念は、次のように理解できる(『知解を求める信仰』)――アンセルムスの本来的な意図は、「証明する(probare)ではなく、むしろ知解〔認識〕スル(intellegere)」という点にあった、「知解スル者が(intelligens)が求め、見出す根拠〔理由〕そのもの」に、その「信仰の根拠(ratio)」そのものに、「有用さ」だけでなく、「美」も「喜び」も含まれている(11−12頁)、「信じるが故に、知解シヨウと欲する」のであって、信じるために「知解シヨウ」とするのではない。「信じるということ」は、「神の自存性」・「自足性に参与すること」・神自身においてのみ「実在であり真理」である神の自由に参与することである(14頁)、「神学的に問う者」は、「自分の信仰について」、「たとえ……自分が信じていることを理性ニヨッテハ全ク理解デキナイとしても」、「神の先行的恩寵ニヨリ」、「その〔信仰ノ〕堅持カラドノヨウナモノモヒキサクコトハ出来ナイ」ということを「確信している」、したがって、「神学的問いには、その対象である真理そのものに対する「敬虔さが残る」のである(15頁)、「知解を要求するもの」は、「実存(Existenz)ではなく」、神性を本質とするイエス・キリストの出来事と聖霊の注ぎに基づき主観的に生起し授与される「信仰の本質(Wesen)である」。「『私ハ知解スルタメニ信ジマス』とは、……私の信仰それ自身が、私にとって知解するようにとの呼び出し(Aufruf)であることを意味している」(17頁)、「神はご自身を、彼〔アンセルムス〕の理解〔知解〕に対して対象として与え給うた。また神は彼を、神が彼にとって対象として理解〔知解〕しうるようになるために、〔光によって〕照らし出し給うた。この出来事なしには、神の存在の、すなわち、神の対象性の、いかなる証明もない。しかし、この出来事によって、感謝に値する証明がなされた。真理が語ったのである。信じたいと欲する人間が語ったのではない。人間は、ただ、信じたいと欲することさえできないであろう。人間は、また常に、愚か者であることができるだけであろう。(中略)しかしまた、彼がそのような〔愚か〕者であるとしても、タトエ私がアナタノ存在スルコトヲ信ジルコトヲ望マナクテモ、真理は語ったのである」、ここに、「いかなる哲学的な前提とも比較されることができず、また神学的・体系的にも把握されえない基礎」、認識・信仰の基礎、神学の基礎がある」、そして彼は、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「神を理解〔知解〕することができた」(224・225頁)、と。この意味での「知解」・認識・信仰は、一般的な知識とは位相が異なるのであって、それは次のように言うことができる――すなわち、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示に固有な証明能力を通して、「神の言葉」を聞き・「知解」し・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「知解」・認識・信仰である。その時初めて、神の言葉は、私たち人間に対して「実在」となり、また私たち人間も人間的にそれを「実在として理解」することができる。したがって、人間学的なただ「単なる知識」に過ぎないある理念・ある概念の実体化・「最高存在」・「最モ完全ナ存在」としての啓示概念は、神の言葉・啓示の「概念の実在」ではないのである(『教会教義学 神の言葉』)。バルトが、この「事実原理」・「事実質問」の先行性と、その「事実原理」・「事実質問」から「了解原理」・「了解質問」への不可避性を語る場合、その「了解原理」・「了解質問」は、先ず、三位一体論の唯一の類比としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストの名(啓示の客観的な実在そのもの)と、また、「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(類・歴史性)への信頼と連帯を意味しているのである。したがって、バルトは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と言うのである(『教会教義学 神の言葉』)。そして、バルトは、この「了解原理」に基づく「了解質問」において、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程(≪教会の客観的な信仰告白と教義≫)の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」るのである(『啓示・教会・神学』)。したがって、この先行的な「事実原理」と「事実質問」」に続いて「了解原理」と「了解質問」を持たない場合、その「事実質問は誤った仕方で立てられ、答えられることになる」し、啓示の実在に対して、「怠惰さ、無意味さ、参与しない態度」をとることになる。したがってまた、預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事についての「言葉、証言、宣教、説教」であり、子なる神、イエス・キリストに関わる、旧・新約聖書は、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての神の啓示の客観的な実在(イエス・キリストの名)と共に、教会の宣教における原理であり、その「聖書こそ」が、教会に宣教を義務づけているのであるから、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」(『教会教義学 神の言葉』)。(53・54頁)。
 さて、バルトは、「われわれに向かって既に語られていることを前提」として、すなわち啓示の実在そのものが「ひとつの問いに対して答えている」ことを前提として、イエス・キリストの実在における啓示と和解の業・働きについて問うのであるが、その場合、バルトにとっては、「現にあり給うままのイエス・キリストが、明らかに啓示と業と働きに関して必要なこと」を認識・自覚させられるのである。このことは、次のように言うことができる――「最も単純な形」において「神の啓示の実在を問う」問いに対する「新約聖書の答え」、すなわち聖書の証言・証しとしての啓示の「概念の実在」は、「永遠なる神性」を存在の本質とする「まことの神」であり「まことの人間」である・言い換えれば「神の人間存在」であり「人間の神存在」である、隠蔽性と顕現性の秘義としての「イエス・キリストの名」(神の言葉・神の子・神の第二の存在の仕方)だけである。ここで、神の隠蔽性の啓示認識は、その啓示認識に依拠した信仰の類比を通して、人間の神に対する「盲目性」の認識・概念・自己理解を喚起させる。啓示自らが、「神を永遠からいます主、創造主、和解主、救済主として啓示し、人間を被造物、罪人、死の手に引き渡されたものとして特徴づけ」・証明している事柄は、すなわち神と人間との無限の質的差異、「神の不把握性」・人間の理性が「神に関して……全く闇に閉ざされていること」は、人間論的人間学的な「一般的な真理」ではなく、「啓示の真理であり、信仰の真理」なのである。言い換えれば、これらの事柄は、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてのみ得られる真理である。このバルトの原理・認識方法と概念構成から言えば、「懐疑論者や無神論者」の否定する神は、もともと神ではない神を否定していることになるし、したがって彼らの神の不在性の主張も神の不在性ではないことになる。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその「存在」は神性を「本質」としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、神と人間との仲保者・仲介者「イエス・キリストは神の子」・神の言葉・神の第二の「存在の仕方」なのである。そして、そのキリストの神性は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解(「存在の仕方」)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である神性性が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである。このイエス・キリストは、教会の信仰告白・教義における「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」である。したがって、教会の「教義」は、私たちに対して「人間的な教育的な威厳」はあるとしても、「いかなる神的な威厳」も持ってはいない。これは、神と人間との無限の質的差異、神の隠蔽性、神の不把握性、終末論的限界における言表である。この自覚のもとで私たちは、使徒たちや古代教会の「教義が言っていることを、そのまま言うことができるし、言わなければならない」のである。したがって、「イエス・キリストの十字架と復活を仰ぎ見」ることから視線を逸らして、神性を本質とするイエス・キリストにおける「啓示と並んでもろもろの啓示の可能性について、あるいは二重の啓示について語る」場合、そのことは、「持続的なあるいは一時的な、しかしいずれにしても根本的な無能力から生じてくることができるだけの饒舌でしかない」のである。(55−63頁) 
 したがって、私たちは、啓示の客観的可能性を、イエス・キリストにおける「啓示の実在」から・その啓示の「概念の実在」から「読み取」り・「注釈」しなければならないのである(63頁)。
1)私たちは、「神が事実歩み給うた道のあとに続いて思惟」しなければならない。その時、次のように言うことができる――神は、「ただ単にご自身の中ばかりでなく」、「われわれの間にあっても、神であり給う」という、神自身においてのみ「実在であり真理」である自由において、「被造物へとご自分を低くされること」・「卑下し給うこと」・「われわれに対してご自分を伝達しようと欲せられること」・「(≪神ご自身が≫)ご自分の仲介者となり給」うということ、このことは、「われわれにとってどうしても必要なこと」であった、と。神性を本質とするまことの神でありまことの人間である「イエス・キリストにおける神の愛」は、神自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。啓示の真理によれば、人間は、自主性・無神性を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である。この人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避する人間が生きるためにのみ、その死を欲する。しかし、人間はその神の要求(律法)に対してさえも、聞き従おうとはしない。したがって、「福音と律法の真理性」における福音の内容は、神の自由な愛によって、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリスト自身が、その神の要求に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)ところにある。すなわち、このインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということを内容としている。言い換えれば、福音の内容は、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」のことである(『福音と律法』)。イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」において、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する。したがって、私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する(『教会教義学 神の言葉』)。(ルター)「神性ヲ除イテハ仲保者ナル人間ハナイシ、人間性ヲ除イテハ仲保者ナル神ハナイ」(65頁)。神性を本質とするイエス・キリストにおいては、神自身においてのみ「実在であり真理」である自在であって他在としての自由において、「神がこの人間(≪存在≫)であり、この人間(≪存在≫)が神である」――このように、神性を本質とするイエス・キリストが、「これら両方のものであり給うこと」が、イエス・キリストにおける啓示の客観的可能性であり、「神の言葉の受肉の、イエス・キリストの名の、イエス・キリストの神存在と人間存在の、最も一般的な意味である」。(63−66頁)
2)神の「われわれのための自由」における、「神の言葉、あるいは神の子」が「人間となり給うという命題」は、父なる神と聖霊なる神が「人間となり給うのではない」し、父、子、聖霊なる神の「本質と区別」における区別を意味しているのではなく、子の父や聖霊との存在の仕方の相違にもかかわらず、「神がその全き神性の中で、人間となり給うたということ」を意味している。すなわち、この命題は、『神の人間性』において、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」、と表現される。この場合、「人間となり給うた」のは、神性を本質とする神の第二の存在の仕方における「神のひとつの本質である」。したがって、「神であり給う言葉が人間となったのであって、決して神性それ自体が人間となったのではない」。言い換えれば、「神の神性において、」における神の存在の本質である単一性・神性・永遠性が人間となったのでは決してなく、そうではなくて、「また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性も」とは、<三つの存在の仕方>の「間の内的単一性」、すなわち「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」という<三つの存在の仕方>の「間の内的単一性」が、「ただ子」においてのみ、「人間性をとり給うということである」。すなわち、「父、子、聖霊に共通的な、人間となるというこの業の中に含まれている秩序」は、「父はいわば神的な誰を、子は神的な何を、聖霊は神的な如何にを、それぞれ代表しているということである」。したがって、この秩序は、「この業が含みをもっている共通性の中で、父についてではなく、霊についてでもなく、ただ子についてだけ」、「人間性をとり給うたという」点にある。そして、バルトは、この命題を、終末論的限界の下で、すなわち「われわれは、……聖書の中に証しされている啓示の事実的な実在との関わりの中でそのような啓示の事実的な実在によって制約されながら、理解することで……満足する」、と言うのである。バルトは、最も良質な神学における思想家として、それ以上言ったら、神学的論理としては危なかしいことをよく自覚しているからである。(67−72頁)
3)神のわれわれのための自由において、神の子あるいは神の言葉が「(≪われわれの「熟知している形態」・≫)既知の形態を……とり給うということ」・「神が人間となる」・「可見的」になるということ、その神性を本質とするイエス・キリストの「人間存在」、その「人間の歴史的形態、イエスの名」・「受肉」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、神の顕現のための、神の隠蔽・「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」であり、「啓示の手段である」。これは、啓示自身に固有な啓示の弁証法である。神性を本質とするイエス・キリストは、(アウグスティヌス)「神人であり給い、まさにそのような方としてワレワレニ対スル神ノ愛ノアラワレである」(75頁)。「われわれが熟知しているこの形態の中で神はご自身をわれわれに啓示することができた、そのようなわけで神はそのことをなし給わなければならなかったし、まさにそのことをこそわれわれは必要としていた」と結論づける場合、「神が実際になし給うたことを感謝を以て振り返り見つつ語ることができる」ということが顧慮されなければならない。なぜならば、私たちは、人間の理性の力や想像力や人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍の第一次化に基づいて、すなわち「既に前もって見てとることのできる存在ノ類比に基づいてそのことを語ることができるわけではない」からである。啓示の<後>から、すなわちイエス・キリストにおける「啓示の実在」から・その啓示の「概念の実在」から「読み取」り・「注釈」しなければならないのである。近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教・キリスト教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白」を信用しない場合、それは、その原理・認識方法および概念構成それ自体が、人間論的人間学的身体性に依拠した「視覚的錯覚」・人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍・存在の類比に依拠しているからである。したがって、私たちは、「神の啓示の出来事の中で明らかになってくる」、「神の事実啓示された意志、神の定められた可能性」・神が「われわれに向かって語られたところのこと」を、「後につづいて語」り、「後につづいて語りつつ」、「必然的として受認することが許され、受認しなければならない」と言うことができる。そのために、私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰を必要とする。その啓示認識に依拠した信仰の類比・関係の類比・啓示の類比を通した自己認識を必要とする。いずれにせよ、神と人間との無限の質的差異、「キリストの神性」についての教義は、一切の近代主義・一切の自然神学・一切のヘーゲル主義に抗することができ、またそれらを包括し止揚してそこから超出できる、神学における思想的武器である。(73−77頁)
4)神の言葉が人間となること、「受肉」、「僕の姿」、「受難、卑下」は、「神的尊厳さの喪失を意味しない」、「それどころか、(≪神性と共にそのことは隠されているのであるが、≫)……それこそまさに神的尊厳の勝利を意味している」。イエスの死は、「永遠の言葉が自ら肉となる際に、進んで身に受け給うた『断念』」・隠蔽である。それに対して、「死人からのイエスの甦えり」、あるいは「イエスの生涯の言葉と行いがイエスの甦えりのしるしである限り、それらすべての言葉と行い」は、「あらわにする働き」・顕現である。したがって、受肉は、神性を「覆い隠すこと」であって、「神性の放棄」や「減少」ではない。神の啓示は、隠蔽と顕現という、この啓示に固有な啓示の弁証法における出来事性である。したがって、「われわれは」、この啓示の客観的可能性を、「啓示の必然的な形式である」と言う。(77−82頁)
5)神の啓示の客観的可能性は、神の子あるいは神の言葉が、「肉」、「人間」、「人間性」、「人間存在」となること、そういう仕方によって可能となる。三位一体の神は、神の子あるいは神の言葉としての神の第二の存在の仕方の中で、すなわちイエス・キリストの実在の中で、「人間存在を、……とり給うた」。「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」・「この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けた」(『福音と律法』)、また神は徹頭徹尾全面的に真実の方であるから、「神の子は罪を犯し給うことができなかった」――これが、神の子であるイエス・キリストにおける人間存在である。「まことの人間」・「神の前に立つ人間」である。この点が、「われわれの人間存在」とは「違う唯一の点である」。(82−84頁)
 神の言葉――イエス・キリストが、「人間であり、人間が神の言葉である」ことが、「啓示の客観的可能性」である。そして、それが啓示の客観的な可能性であるということは、「そのことが実在であるということに基づいて……理解することができる」。神は、隠蔽性と顕現性の啓示の弁証法において、人間へと向かい給う。「神の啓示の客観的な実在」――「イエス・キリストの名」は、人間のためなる他在としての「神の自由」、すなわち神の第二の「存在の仕方」である。この神的行為としての神性を本質とするイエス・キリストの人間性は、「謎であると同時に」、その「謎の解明である」。「神はまことの人間として死ぬことを欲し給う、それは同じまことの人間として三日目に死人の中から甦えり給うためである」・「馬ぶねと十字架から甦えりと昇天へ」である。ここで、この「神の永遠の御言葉」としての人間は、『福音と律法』によれば、「神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う」神のこの「救いの答え」に対して、「われわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れ」給うた、すなわち「肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって」受け入れ給うたところの、「肉である人間」のことである。神は、「われわれのために」、「人間となること」・「言葉の受肉」・肉となることにおいて、自己啓示し給う。このことは、神の第二の存在の仕方における、人間のためなる他在としての「神の自由」の行為・「神の恵み」の行為・「神のみ心にかなった」行為である。したがって、この「肉である人間」は、「何らかの人間論の人間」ではない。したがってまた、神の隠蔽性・「謎であると同時に」、神の顕現性・「謎の解明である」、「肉である人間」・「肉存在」、神性を本質とするイエス・キリストの人間性は、私たち人間の、その個・現存性と類・歴史性の生誕から死までの総体性すべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」唯一の場所である。このことは、次の事柄を喚起させる――@「人間となる」ということが神の自己啓示であるということは、人間の「起源的な良さの確認であり、回復」であるが、だからと言って、このことが「存在ノ類比」の正当性を保証するわけでは決してない。バルトは、『バルトとの対話』で、「神はすべてのものを見られ、はなはだ良しとされた」がゆえに「その本性は良い」、しかし、その「良い本性に対抗してわれわれが罪をおかしている」がゆえに、「私は人間の内にある『善性のこり』については語らないのだ」、と述べている。なぜ、バルトはそのことを語らないのか。それは、バルトが、近代以降の世界において、その「善性ののこり」や神の残像を語れば、すぐに神と人間・神学と人間学との混淆論や共働論や「神人協力説」に基づく人間の啓示認識、それに依拠した存在の類比を通した人間の自己認識という自然神学的な原理・認識方法および概念構成に直通していくことをよく自覚していたからである。したがって、バルトは、「人間の理性等々」、人間の対自的で対他的な自由な自己意識の無限性、人間の想像力、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍に「照らしてわれわれが啓示の中での神の行為を計り、それによってわれわれが神の啓示を前もって理解できる」とするところの存在ノ類比に対して、ベクトルが全く逆向きの信仰の類比・関係の類比・啓示の類比を語り、それを、彼の「超自然な神学」の原理・認識方法と概念構成としたのである。したがって、バルトは、この原理・認識方法と概念構成に基づいて、「起源的、本来的にはただイエス・キリストだけが肉であるところの人間であり給い、それから派性的に、副次的な意味で、聖霊を通し信仰の中で、イエス・キリストとともに〔ひとつの〕肉であるところのものたちが、肉であるところの人間であるということを言う」のである。したがって、神の「啓示の客観的可能性」としての「肉は、まったくただ」、神性を本質とする「イエス・キリストご自身だけの可能性である」。ここでも、バルトは、一切の近代主義や一切の自然神学的な原理・認識方法と概念構成を、その紙一重で超えているのである。このバルトの神学における思想性を理解できなければ、バルトを単純にしかし根本的にそしてトータルに理解することができないのである。したがって、例えば自然神学的な近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、人間学の後追い知識としてあるいは時流や時勢の後追いとして、皮相的で場当たり的な語りや言説の陥穽に陥り、自然時空に死語化していく以外にないのである。私たちは、その事例を、エーバーハルト・ユンゲルや大木英夫や佐藤優に、滝沢克己や八木誠一に、富岡幸一郎に、ベルトルート・クラッパートや寺園喜基や北森嘉蔵に、倉松功に、ルドルフ・ボーレンやエンゲマンや佐藤司郎や小泉健に、喜田川信やモルトマンに、ブルトマンに、見てきた。(84−91頁)
 さて、神の「啓示の客観的可能性」としての「肉は、まったくただ」、神性を本質とする「イエス・キリストご自身だけの可能性である」という証明・説明は、一般的な人間論的人間学的説明においては不可能であるから、「徹頭徹尾、キリスト論に基づき、キリスト論とかかわらしめられて」初めて可能である。したがって、それは、このことを前提とした証明・説明である。神自身の自由における、神の言葉が客観的可能性となるための人間に対する配慮である、神の「啓示の客観的可能性」は、根本的には、「何故神が人間ニ〔ナリ給ウタカ〕という問いの答えは、〔ワレ〕知解センガタメニ信ジルというプログラムを正当な仕方で実行に移す」という点にある。すなわち、それは、
1)「神がイエス・キリストにおいて神ご自身とは異なる実在になり給う卑下」ということ、
2)イエス・キリストは、神の子であると共に神の言葉であるということ、
3)イエス・キリストは、私たちのこの世界や歴史や社会の中に「生まれ、死に、甦られた」のであるが、その「われわれに知られた実在世界」に属しているということ、
4)「いささかも減少されない仕方で」、イエス・キリストは、単一性・神性・永遠性を本質とする、神自身であるということ、
5)イエス・キリストの「人間存在」・「肉存在」ということ、
である。この啓示の客観的<可能性>の概念は、神の不把握性と終末論的限界の下での、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識の可能性を意味しているのであるが、単一性・神性・永遠性を存在の本質とする「自己を覆い隠す」・隠蔽性・「聖性」・秘義性としての神の観点から言えば、他在性における神の第二の存在の仕方、すなわち神性を本質とする「人間の歴史的形態」であるイエス・キリストの名――このイエス・キリストの啓示の出来事がなければ、また聖霊の注ぎという信仰の出来事がなければ、すなわち神自身が私たち人間に対して自己啓示され・神自身が神と私たち人間とを架橋されないならば、神に敵対し神に服従しない私たち人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないから、また全く不信仰で罪に穢れた私たち人間は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義をさえ持つことはできないから、この神の自己啓示は必然であった、と言うことができる。(91・92頁)