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断章としてのアジア的なもの――ヘーゲル、マルクス、フーコー、吉本隆明(本論――「史観の拡張 アフリカ的段階」論 その4) 了

断章としてのアジア的なもの――ヘーゲル、マルクス、フーコー、吉本隆明(本論――「史観の拡張 アフリカ的段階」論 その4) 了

 

――吉本隆明『アフリカ的段階について 史観の拡張』春秋社等々に基づく――
(註:『アフリカ的段階について 史観の拡張』からの引用には頁も記した)

 

 先ず結論としては、吉本は、外在的な文明史的観点の一方通行性だけでなく、マルクスの次のような考え方――すなわち「ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的(≪人類史のアジア的段階≫)である形態(≪マルクスは、歴史を退歩すること、すなわち循環と停滞にあるアジア的段階にまで歴史を遡及することが、歴史認識・概念を、「より有利にすることがありうることに気付」いたところの、人類史のアジア的段階における肯定性(「利点や優越性」)としてある、相互扶助的なその考え方の様式・感じ方の様式・行動の様式等≫)を破壊しないで、それを発展させ変形することができる」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)という考え方を読み替えて、内在的な精神史的観点から、さらにもっとそれ以前の人類史の母胎・母型・原型としての未開原始の段階(アフリカ的段階)にまで歴史を遡及して考察することで、現在においても成立できる新たな歴史認識・概念を目指した、と言うことができる。なぜならば、ヘーゲルやマルクスやモルガンやエンゲルスの西欧近代を頂点とする進歩史観においては、「歴史と言う概念は、外在(文明)史という概念と同義になってしまうからである。すなわち、その場合、歴史概念は、西欧近代を頂点とする文明史・「外在史だけに収斂してゆく」とみなされてしまうからである。したがって、吉本は、「歴史は外在(文明)史と内在(精神)史との二重性、そのずれ、乖離によって統合される」として、先の結論における歴史認識の方法に立脚した、と言うことができる。したがってまた、世界普遍的なアフリカ的段階を、人類史の母胎・母型・原型として措定することは、「モルガンの『古代社会』がいう野蛮の下層、中層、上層という類別で人類の初源状態を微進過程とする考え方を解体するだけでなく」、「ルソーやヘーゲルからマルクスやエンゲルスなどにいたる巨匠たちが、十九世紀の前半から外在(文明史)と内在(精神史)の稀な調和を前提としてつくりあげた歴史という考え方や、分類原理を解体する」ことになる。ただ、その中でマルクスは、未開・原始と古典・古代の間にアジア的段階概念を挿入した時、「外在的に進歩を追跡すること(現在から未来を考察すること・≪現在を止揚していくこと≫)が、同時に内在的に退歩を追跡すること(≪人類史の母胎・母型・原型へと遡及して考察していくこと・歴史的批判的な態度で遡及して調査し解明していくこと≫)と同義だという方法を、歴史概念にする以外にはない」ということを萌芽の形で示していた。したがって、吉本は、現在でも通用する歴史認識の方法を確立するために、マルクスの読み替えを行った。このことは、先の『先行する諸形態』の考え方から推測することができる。したがってまた、吉本は、「歴史の外在(文明)史的な未来を考察する」と同時に、もっと人類史の母胎・母型・原型としての<世界普遍的な>アフリカ的段階にまで遡及して考察する時、すなわち、このような方法で歴史をトータルに考察する時はじめて、現在でも歴史哲学は成立すことができる、と述た。そして、よしもとにとって、前者の課題は緊急的相対的過渡的課題であり、後者の課題は究極的総体的永続的課題である。吉本は、アフリカの現在的課題について、「固有アフリカのエリートたち……アフリカに植民地をもっていた西欧先進国の外在(文明)史的指導者」や「内在(精神)史的なイデオロギスト」ばかりでなく、「いまでも採取食糧でしのいでいるいちばん未明の住民たちも」、一方通行的「一様に近代主義(≪西欧近代を頂点とする近代主義的進歩史観≫)を基準として」、外在的な「文明の進歩性と遅延性との課題に単純化して」、「その政策や利害の追及」をしているだけであって、したがってトータルな歴史認識の方法と歴史の究極的総体的永続的な課題を自覚して「その政策や利害の追及」を行っていないから、それでは全くの片手落ちである、と述べている(61−74頁および107−120頁ならびに142−145頁)。
 さて、人類史のアフリカ的段階においては、「鳥や獣が人の言葉を喋る土地があったり、木が人間のように歩きまわったり、口をきいたるする」、また「人間の髪の毛が生えている木」がある。ここで、鳥や獣や木や花や自然の無機物も言葉を持っているのであるが、そのことは、人間が「言葉を持っている差異を自覚」し、「母音を意味あるものとしてみ」ていて、鳥や獣や木や花が動いた時に「発する音を言葉だと思い、同列の存在として扱」っていたことを意味している(122頁)。@「髭を抜いて放つと杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと桧になった。尻の毛は槙の木になった。眉の毛は樟になった。……『杉と樟……の木は舟をつくるのによい。桧は宮をつくる木によい。槙は現世の国民の寝棺を造るのによい。そのための沢山の種子を皆播こう』」(『日本書紀(上)』「神代 上 八岐大蛇」宇治谷孟訳、講談社)。A「(中略)東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。男女親子の中の区別もなく、冬は穴に寝、夏は木に棲む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは獣のようであるという。恩は忘れるが恨みは必ず報いるという。(中略)仲間を集めて辺境を犯し、稔理の時をねらって作物をかすめ取る。攻めれば草にかくれ、追えば山に入る。それで昔から一度も王化に従ったことがない」(前掲書「景行天皇 日本武尊の再征」)。@においては、人間は天然自然と区別されたり分離されたりせず、天然自然と同化して、身体が「自然の樹木と対応」させられている。Aは、人類史におけるアジア的段階にあった「中央王権」・大和朝廷における、外在(文明)史的な観点からする蝦夷に対する認識である。この認識の在り方は、現在でいえば、人類史における西欧近代を頂点とする外在的な文明史的な観点(進歩史観的な観点)からする、アジア的段階やアフリカ的段階に対する認識の在り方と同じである(125・126頁)。
 ここで、吉本は、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(高梨健吉、東洋文庫)について論じている。
1)イザベラ・バードは、日本人の家とは似ていない、「ポリネシア人の家屋に似ている」アイヌの「高床式の住居」から、アイヌを「南方起源」にみている。また、アイヌ人を「他のどの民族よりもエスキモー人のタイプに近い」、と考えている。
2)祖先が、自然の存在は無生物も生物もすべて「神と呼んだから」、天然自然の個々の存在、すなわち自然現象から山川草木に至るまですべて神とみなしている。星は崇拝しないが、「哀願や懇願などの」「精神的な行為」としてではなく、「単に酒を捧げたり」「腕をふり両手をふることだけ」で、太陽や月や森や海や熊を崇拝する。すなわち、その自然は「崇拝されているという意味」ではない、「宗教になっていない自然の宗教性」のことである。人間は天然自然と区別されたり分離されたりせず、天然自然と同化している段階におけるそれである。したがって、「宗教的な信仰の概念」はない。「じぶんとおなじ水準の存在とみなしている」自然に対する崇敬は、「樹木や川や岩や山」等の自然を「漠然と……神と同格のものと感じ、海や湖や森や火や太陽や月を人間に善や悪をもたらす力があるものとかんがえている」それである。
3)「災いや災難に出逢うごとに、木を削ってつくった神体の象徴である」「神道の御幣……に類似した」「イナウを投げてはらう習俗」も存在した。
4)人類史における世界普遍的なアフリカ的段階の外在(文明)史と内在(精神)史の在り方の地域的・時代的な固有性は、その地域の「天候、地勢、地形など」の自然条件に規定される。
5)いずれにせよ、自然に対する最大限の利益の享受と感謝の念が浸透し・人と樹木や動物との情念の交流ができ・山川草木に霊が宿ると考える内在的な精神は、人類史のアフリカ的段階においては世界普遍性として存在していた。
6)この書物は、内外のアイヌ人に関する文献の中で、「いちばんいいもののひとつ」である。
 吉本は、一方通行的な外在的な文明史的観点だけでなく、内在的な精神史的観点も持ってアイヌ人を論じているイザベラ・バードの在り方を評価している。このことで、吉本は、「著者のいう『高貴で悲しげな、うっとりと夢見るような、柔和で知的な顔つき』は、現在でも琉球人とアイヌ人のなかに片鱗を見ることができる」、と述べている。また、吉本は、イザベラ・バードにおける、アイヌ人が「動物にちかいようなひどい生活をしながら、アイヌ人の精神性が高貴だということを見抜いているだけでも見事なものだと言っていい。この……見識はわたしたちが身につけたいととかんがえているもののひとつだといっていい」、とも述べている(127−150頁)。付言すれば、イザベラ・バードは、アイヌ人について、@彼らが使っている煙草入れや煙管入れを二ドル半で買いたいと言うと、「それらは一ドル一〇セントの値打ちしかないから、その値段で売りたい」と言った。儲けることはアイヌ人の「ならわし」ではなかった。A「ある一軒の家が焼け落ちた」場合には、村の男たちが総出でその家を建て直すことを「ならわし」としていた。B明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」。「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」。C彼らは雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供してくれる。D彼らには互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない。すなわち、軍事部門を立ち上げようとする意志・国家形成の意志をもたない。E彼らは善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている。総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」、と述べている(『日本奥地紀行』(金坂清則訳、平凡社)。
 吉本は、ロバート・ノックスの『セイロン島誌』における「王の残虐な人格や横暴な個人的な性向」に依拠した絶対専制(アフリカ的専制)の記述について、そのことは、「王の人格や性向」や「欲望の産物」や「政治制度というよりも」、ほんとうは、チベットの「ダライ・ラマ(男性の生き神)」やネパールの「クリマ(幼女の生き神)」や日本の「天皇の生き神的な存在の仕方」から類推して、人類史の母胎・母型・原型であるアフリカ的段階における「宗教制度の政治支配の様式」と理解する方が「妥当」性がある、と述べている。したがって、例えば「国はすべて王のもので、王は領土を金ではなく役務を見返りに貸し付けている」という記述も、「王が欲張りで武力を背景に領土はすべて独占しているというようにうけとるべきではなく、宗教的な意識がそうさせている国土の全所有者」と理解すべきである、と述べている。また、吉本は、王は一般的に夜に政務を行う、すなわち「大使たちと謁見し、手紙を読み、ある廷臣を罷免し、別の者を昇進させ、それ以上生かしておきたくない者に死刑の宣告を与える」という王の有り様の記述については、日本の初期天皇制の有り様と通底している、と述べている(『隋書』)――すなわち、王が「用心深い」からではなく、「倭王(天皇)は天を兄とかんがえ、太陽を弟とかんがえているから、天がまだ明けない夜中に政治を聴聞し、太陽が出て明るくなるときには、政務をやめて、弟である太陽の支配にまかせようと云うしきたりをもって」いた、というように。このように、「セイロンにおける絶対王権と日本の初期天皇制」は、同じ「宗教的な政治習俗をもっていた」。このような「宗教制度の政治支配の様式」や「宗教的な政治習俗」は、「王がその共同体とともに圧政的につくり出すものだともいえるが、住民が自然につくり出すものともいえる」――「人々もかつて王を神と呼んでいた」。この場合、王は、「自然の精霊の代理者として住民(臣民)によって据えおかれる」。したがって、と同時に、この絶対王政の王は、「疫病が猛威をふるったり、自然現象が度重なる異常な災害をもたらしたり、凶作と飢餓に見舞われたりすれば、……自然の精霊の代理者として降位させられたり殺害されたり」した。いずれにせよ、日本においては、チベットのダライ・ラマのように「男性の宗教王(諏訪の大祝)」である場合も、ネパールのクマリのように「女性の宗教王(卑弥呼や聞得大君)」の場合もあった――このことは「確言」できる(151−166頁)。       了