断章としてのアジア的なもの――ヘーゲル、マルクス、フーコー、吉本隆明(本論――「史観の拡張 アフリカ的段階」論 その1)
断章としてのアジア的なもの――ヘーゲル、マルクス、フーコー、吉本隆明(本論――「史観の拡張 アフリカ的段階」論 その1)
――吉本隆明『アフリカ的段階について 史観の拡張』春秋社等々に基づく――
吉本によれば、日本において、現存する危機に対処し現存する危機を処理しようとするときいつも復古してくるのは、日本の自然思想の伝統である。それは、いつでも、世界史的普遍性を無視した日本の自然思想の伝統である民族性を強調する権力として復古してくる。その場合、それらを支えるのは、どんなにひどい権力の支配をも自然災害を受け入れていくように受け入れていく民衆の意識(共同幻想)であり、いつも個体性を超えていく共同体至上意識であり、反個人主義であり、中央への委任意識等である。史観の拡張論において、先ず確認しておくべきことは、文明史的観点とは、進歩発展を基調とする、自然史の一部としての人類史の自然史的過程(経済社会構成体の拡大・高度化、産業構造の拡大・高度化、科学技術の発達、感覚の鋭利化、その知識の増大、農村を包括し止揚した都市、第一次・第二次産業を包括し止揚した第三次産業、それに基づいた第一次・第三次産業を包括した第二次産業(例えば、高級車レクサス)・第二次・第三次産業を包括した第一次産業、生活的利便性の拡大・向上等)のことである、ということである――「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」 ・「この社会は、自然の発達段階を飛び越えることもできなければ、これを法令で取り除くこともできない。しかしながら、社会はその生みの苦しみを短くし、緩和することができる」(マルクス『資本論(一)』岩波書店)。「ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的(≪人類史のアジア的段階≫)である形態(≪相互扶助的なその考え方の様式・感じ方の様式・行動の様式≫)を破壊しないで、それを発展させ変形することができる」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)。このことは、フーコーが、マルクスは資本主義の分析の際に、「労働者の貧困という問題に出くわして自然の希少のためだとか計画的な搾取のせいだとかといった、ありきたりの説明を拒」んだ・なぜなら、資本主義制度における生産は、制度的必然・「その基本的法則によって必然的に貧困を生産せざるをえない」ものだからである・すなわち、資本主義制度は、「何も働き手を飢えさせるために存在しているわけではないが、かといって彼らを飢えさせずに発展することもできない」ものなのである・したがって、「マルクスは搾取を告発するかわりに、生産を分析した」、と述べた事柄である(桑田禮彰・福井憲彦・山本哲二編『ミシェル・フーコー』「セックスと権力」新評論)。また、このことは、吉本が、資本主義が悪や欠陥を持っていることは、制度的必然として原理的に自明なことである・しかし、資本主義は「人類の歴史の無意識(《自然史の一部である人類史における自然史的過程》)の生んだ……最高の出来栄えの作品」である・したがって、「資本主義が産みだした文明も文化も人類の最高の作品」である。したがってまた、資本主義には「悪」と「欠陥」・搾取・貧困があるから資本主義が産みだした「文明や文化や商品も悪」で欠陥があると資本主義を批判しその文明や文化を批判しても、その「最高の作品たる根拠を揺るがすことはできない」・すなわち、その根拠を揺るがし資本主義を超えるには、究極的総体的永続的課題としては資本制的生産様式(等価交換価値論)とは異なる新たな生産様式(新たな価値論)を構成する以外にはないし、過渡的相対的緊急的課題としては資本主義が生み出した文明や文化や商品を包括し止揚したそれらを創造する以外にない、と述べた事柄である(吉本隆明『情況へ』宝島社、吉本隆明『マルクス―読みかえの方法』深夜叢書社、吉本隆明『母型論』学習研究社)。
さて、吉本は、ヘーゲルが旧世界として文明史的に除外したアフリカ的世界は、「内在の精神史からは人類の原型にゆきつく特性」を有しており、そのアフリカ的世界は、内在の精神史においては「天然は自生物の音響によって語り、植物や動物も言葉をもっていて、人語に響いてくる。そういう認知は迷信や錯覚ではない仕方で、人間が天然や自然の本性のところまで下りてゆくことができる深層をしめしている」と述べている 。人類史のアフリカ的段階において、「歴史の胎内にくるまれて人間」は存在していたし、そうした母胎で形成された歴史の無意識の核は現在でも払拭されてはいない。したがって、超西欧的・超資本主義的・高度消費資本主義的「現在に肉薄していくということ(≪未来を考える現在論、すなわち現在を止揚していくこと≫)は、母胎がはらんでいる問題に肉薄していくこととおなじことを意味する」(吉本隆明『ハイ・エディプス論』言叢社)。人類史の母胎であるアフリカ的段階は、地域アフリカを意味するだけではなく、世界中のどこにでも、西欧(例えば、フレイザーの「樹木崇拝の名残り」)にも、日本(縄文、アイヌ、南島)にも存在していた世界普遍性としてある。同じように、人類史におけるアジア的段階概念は、地域アジアを指定しているだけでなく、それぞれの地域のある段階において、アジア的な考え方の様式・感じ方の様式・行動の様式が世界普遍性を獲得していたことを意味している(地域西洋はこの段階をすぐに抜け出し、地域アジアはこの段階に長期にわたって停滞していた)。そして、世界史の段階を、連続的であると同時に断続的であり、空間的地域的な概念であるとともに時間的世界史的な概念でもあるとして、アフリカ的段階、アジア的段階、西欧的(生産資本主義)段階、超西欧的(消費資本主義)段階という四つの段階に区分して、各国や各地域、経済的社会構成や宗教等はいずれかの段階に属するとした吉本は、アジア的段階を、アフリカ的段階の次段階であり、西欧的(生産資本主義)段階の前段階として位置づけた。断続性、偶然性、空間性、地域性・特殊性にだけ依拠すれば、差異的・対立的観点だけが生じるから、吉本はそれと同時に、歴史的な連続性、必然性、時間性、世界性、普遍性という軸を挿入することで、世界史的な共通性としての段階という観点を手に入れるのである。この世界史的な普遍性としての段階概念を成り立たせるためには、それ以前またそれ以後の契機(連続性と断続性の構造である段階)を包括し止揚していなければならない。したがって、本居宣長が、『古事記』にあらわれた8世紀以降の日本を問題にしたように、また天皇制に文化的な価値観(漢学的な美意識)を収斂させていった三島由紀夫のように、「歴史的に<天皇制>を問題とするとき、歴史時代的にこれを問題にしたらだめで歴史時代以前の視点を包括する眼で問題にしなければ、在日朝鮮人問題や南島問題や島嶼住民俗の問題を包括する」ことはできない。神であり人であり、尊ばれると同時に蔑まれた神人は、差別用語ではなく、非農耕民を総称した呼び方であり、そしてその非農耕民は村のはずれで、手厚く処遇されたそれである。処遇からすれば、天皇も神人の一人であった。ただ天皇は、政治的には専制君主として権力を有していた。天皇族の祭儀は、それより古い中国や南島の祭儀に基づいたものであり、儒教や仏教の知識も農耕技術も多くは大陸からの輸入によるものであった。すなわち、祭儀ひとつとっても、天皇族独自の祭儀はなかった。このことを根拠づけることができれば、天皇制の根拠を無化することができる。この無化の課題は、日本においてまだ山の民と海の民と陸の民の相互変換が可能であった共同体の水準、「<法>が法以前の<宗教>的な<威力>であったときの共同体」の水準、「国家が国家以前の共同体」の水準であった時期にまで鳥瞰図の時間軸を拡張させて遡及し考察していく点にある。なぜならば、天皇制という「歴史時代の一国家の歴史は、千数百年」に過ぎず、「そういうものに、人類的にも生活的にも文化的にも価値を収斂させるわけにはいかない」からである 。そのような作業において、地域としての南島や在日朝鮮人やアイヌの問題は、世界普遍的な課題に連帯させることができる(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」筑摩書房)。
吉本は、人類史のアジア的段階における日本的特殊の問題について、次のように述べている。
(中略)レヴィ=ストロースなら母系制なんてない、見方いかんの問題だというでしょうけど、僕の考えでは(≪母系制の名残りというのは、≫)氏族制社会の名残り(≪残存度≫)をどれだけ保存していたか、あるいは未開原始の社会がどれだけ残っていたかという問題と同じような気がします。(『吉本隆明が語る戦後55年 3』三交社)
日本の場合、たしかにアジア的という分類に入るのですが、天皇制以降の、国家らしい国家……律令国家ができた時には、母系制の流れはまだいっぱいあったわけです。この母系制の名残りはアジア的というよりも、(≪人類史における≫)アフリカ的な段階がどれだけ残存しているかというニュアンスをもっていて、日本が本当にアジア的となってきたのは、近世以降のことではないかと思います。(前掲書)
(中略)だから、日本というのは、たぶん、アジア的とアフリカ的の混合物じゃないかと僕は思います。人種的、言語的にもそうだと思いますし、いろいろな制度の幻想的基礎も両者の混合物だと思います(≪特殊日本の問題がある。したがって、アジア的なものだけでなく、日本的特殊の問題も扱う必要がある≫)。純粋なアジア的なものではない。生粋のアジア的と言うならば、オリエントや中国を取ってくるしかしょうがないと思います。(同書)
日本は(中略)国家的見地からすると、……象徴天皇制を頭に頂いた(≪また市民社会の経済社会構成から言えば≫)高度資本主義国家(≪高度消費資本主義国家≫)です……。(同書)
日本国は国民主権の国家だと……一方で規定しながら、他方では広い範囲で王権の権威の存在(≪象徴天皇制≫)を許しています。(同書)
この「象徴」という言葉の定義はとても広い範囲にとれます。宗教に近いような、あるいは俳優に対するファン心理に近いようなものともとれますし、政治行為に近いこともやる存在だという意味にもとれます。(同書)
また、宗教性としての天皇制の世界史的段階・人類史的段階における課題について、吉本は次のように述べている。
(≪天皇制は、≫)世界宗教から言えば(≪人類史のアジア的段階における≫)アジア的宗教とオセアニア的宗教、それから理念としては、アジア的専制と未開原始の社会までもっていたオセアニア的な氏族制度の宗教性とが混合したものに、いまで言えばキリスト教的なものも融合して(≪皇后のキリスト教的なものも許容して・包括して・接木して≫)日本の天皇制の宗教は成り立っていると思います。(≪世界史・人類史の≫)世界宗教的に言えばそうなると思います。(『吉本隆明が語る戦後55年 7』)
これはそのまま地域的には存続するでしょうが、……世界宗教として意味をもつとはとても考えられない。日本における仏教とキリスト教(≪例えば、滝沢克己や北森嘉蔵や日本人カトリック神父等≫)とは、独特の日本的な要素を含みながら信仰されていますし、神道も独特な仕方で信仰されています。(前掲書)
天皇制以前の問題を……(≪日本列島の≫)弥生時代より縄文時代だとしてそれを掘っていく(≪縄文時代まで遡及して考察していく≫)だけだったら、日本におけるアジア的・オセアニア的混合状況が、あるいはキリスト教的問題を加味した日本における天皇制を含めた宗教が、(≪世界史・人類史の≫)世界宗教の問題に到達するとは思えません。(≪したがって、この現在に立脚して、≫)天皇制以前の土俗性を掘ること(≪縄文時代まで遡及して考察していくこと≫)と、高度資本主義社会(≪高度消費資本主義社会・情報科学や情報技術の発達した高度情報社会≫)はこれからこうなっていくに違いないという問題(≪未来を考える問題≫)を掘ることが、同一の方法でなされなければ駄目だというのが僕らの歴史的な考え方です。そこのところまでいかないと、日本に流布されている宗教性が世界的に開かれていって、その一部分になり得ることはないと僕は漠然と考えています。(同書)
……現存する日本の社会は、……アジア的な社会に西欧的な社会の問題が混淆しているとか、西欧的な社会という構造のなかに原始未開の社会、アフリカ的な社会の構造を引きずっているとか、いろいろ言えると思いますが、現存する日本が、国家的にも、社会的・制度的・人種的にも、(≪世界史・人類史の≫)アフリカ的世界(≪縄文的世界≫)を含んでいるとしたら、それを徹底的に追及していくことが、日本のこれから先の問題を導いていくことと同じでなければ駄目だということです。(『吉本隆明が語る戦後55年 6』)
過去や歴史的現在を考える考察と、現在的歴史と言いましょうか、現在から先の歴史を考える考え方が違う方法であったら意味がない。(≪その場合、≫)歴史という概念自体が、成り立たないと僕らは原則的に考えているわけです。僕らが……「日本語以前の日本語(≪奈良朝前の日本語≫)」と言っているのは、それをはっきりさせる方法がないと、これから後(≪未来≫)の問題は本当はよくわからないんじゃないかという感じ方が実感的にあるからなんです。(前掲書)
……日本人とは、縄文人(≪「プレ・アジア的段階で、大陸を離れた」多くの旧日本人≫)と新日本人との混血であるということになります。(『吉本隆明が語る戦後55年 9』)
芹沢俊介は、吉本が「未知への認識を展いていこうとするためには、現在を起点に未来と過去のふたつの方向へ同時に追いつめるべきだという」歴史認識の方法をくりかえし語っていると述べている。そして、次のように読み替えをしている。「合理性のあくなき追求は非合理性のあくなき追求によって補正されなければ、追求された合理性は正当性を主張しえない」(芹沢俊介『主題としての吉本隆明』春秋社)。言い換えれば、このことは、人為性・秩序性・論理性・体系性を追求することは、自然性・混沌性・非論理性・非体系性を追求することと同じ方法である必要がある、また自然性・混沌性・非論理性・非体系性を追求することは、人為性・秩序性・論理性・体系性を追求することと同じ方法である必要がある、ということである。人類史における未開原始とは、「人間の個体の発生でいえば、胎内的な段階」のことである。この胎内的段階は、仏教でいえば「前世」のことであるが、科学的には「胎内体験」のことである。したがって、人類史における未開原始における「言葉(≪表意的言葉≫)以前の心の世界」あるいは未開社会・「原始社会のコミュニケーションの世界」は、胎児期や1歳未満の乳児の心の世界あるいは内コミュニケーションの世界や無意識の世界を考察することと同じである(吉本隆明『心とは何か』弓立社)。例えば現在、ある個体史に心の異常があるとすれば、その個体の意識世界が形成された幼児期以降から現在を眺め現在を超えていくという観点だけでは、その個体の無意識の核が形成された乳児期や胎児期の世界を除外してしまうことになるから、その場合、その個体の異常の起源を把握できず、したがってその個体の心の異常の究極的総体的永続的な解決とはならない。それと同じように、人類史の現在の課題を解決するためには、すなわち現在から未来を考えるためには、人類史を文明史的観点からのみ扱うことはその人類史の過渡的相対的緊急的課題を扱うだけになるから、したがって文明史的観点から扱うと同時に、その人類史の母胎・母型・原型にまで遡って考察しなければ究極的総体的永続的な解決とはならない。
さて、吉本は、発生学者・三木成夫の研究成果に依拠しながら、次のように述べている――人間には三つの器官が備わっている。まず、@生体の植物的機能器官、植物神経系に属する自律神経器官、呼吸器官・循環器官・消化器官等「植物器官」としての「内臓器官」である。次に、A生体の動物的機能器官、動物神経系に属する視覚・聴覚等の「動物器官」としての「感覚器官」である。ここに、アロマセラピーや森林セラピー等植物セラピーや犬やイルカ等動物セラピーの科学的根拠をおくことができる。このことは、ヘーゲルが旧世界として文明史的に除外したアフリカ的世界は、実は「内在の精神史からは人類の原型にゆきつく特性」を有しているおり、そのアフリカ的世界は、内在の精神史においては「天然は自生物の音響によって語り、植物や動物も言葉をもっていて、人語に響いてくる、という認知が迷信や錯覚ではない仕方で、人間が天然や自然の本性のところまで下りてゆくことができる深層をしめしている」(吉本隆明『アフリカ的段階について 史観の拡張』春秋社)。アフリカ的段階は、地勢的には田畑が多いアジア的段階とは異なり草原が多い段階であり、宗教的には「自然がまだ宗教になっていない段階」であり、自然との離陸の度合からいえば「動物と人間が環境(中略)に対してあまり違った感じ方とか、振舞い方ををしていない段階」である。つまり、個体史でいえば「胎内的な段階」である。「人間も動物と同じように、そこに何か食べ物があったら」狩猟や採取したりして食べた段階である。自然と人間は一体化していて「矛盾がないように振舞」っていた段階である。言い換えれば、人間は「自然を自然宗教として自分の外に取り出すこと」ができなかった段階である。現在、西欧でも日本でも、「時間的な巨視化」の課題を取り上げなければならない状況になってきた。つまり、文明史的観点と同時に、「未開野蛮の時代より以前」、「動物や他の生物なども視野」入れることができる鳥瞰図における時間軸の拡張をなし得る歴史認識の方法が必要となっている(吉本隆明他『吉本隆明が語る戦後55年』)。最後に、B「内臓器官」と「感覚器官」に関わる「心・精神」としての「人間固有の器官」である。この「人間固有の器官」である「心・精神」は、感覚に依存する「心・精神」(外在の精神)と内臓に依存する「心・精神」(内在の精神)との構造としてある。また感覚に依存する「心・精神」の働きと内臓に依存する「心・精神」の働きの起源は、筋肉などの「体壁から神経がつながっている感官器官」と、植物系の神経で動かされている「腸とか肺とか胃とか心臓とか」の「内臓器官」とが分離されたところにある。さらに遡って言えば、原始的な感覚器官である臭覚機能が、内臓器官の一つである呼吸器官から分離されたところにある。人間の「心・精神」の働き(内面の構造)は、内蔵器官に依存した「心・精神」の働きによる表出と、感覚器官に依存した「心・精神」の働きによる表出の構造としてある。このことと、言語理論とを結びつけると、心的過程、内部構造、表出過程における言語は、植物系神経(自律神経器官)・内臓器官に依存した「心・精神」の働きに対応した言語の「自己表出」と、運動系・動物系神経(感覚器官)に依存した「心・精神」の働きに対応した言語の「指示表出」との構造としてある。
吉本は、自己表出と指示表出の差異について分かり易く述べている。吉本によれば、言語の本質は、自己表出(その度合)と指示表出(その度合)の構造である。胃痛で「うっ」と発語された場合、それは、反射的に発せられたもので、表現された〈結果〉として周りの人に伝わるかもしれないとしても、その第一義性は他者との外コミュニケーションを目的としてはいない。ここに、他者への伝達目的によるのではない、自己自身の「内側だけ」から惹き起こされ自己自身の「内側だけ」に反響している表現である自己表出の本質がある。それは「自分自身との交通の欲望及び必要から発生した」ものである。この「価値」としての言語の自己表出性に関わる対自的な「人間の精神や心」は、科学技術の発達や知識の増大や経済的社会構成の高度化にともなって発達はせず、「ギリシャ・ローマ時代や万葉時代から」変化をしていない部分として今もある。現在でも一人の女性が、ある男性の心臓の鼓動を高まらせたり、ある男性にとってその女性が世界の全てであり、その関係の破綻がある男性に自死をもたらしたり、現在では殺害等をもたらしたりすることがあり得る。これらのことは、万葉集の時代に生きた人も現代人も変わらないこととしてある(吉本隆明『老いの流儀』日本放送出版協会)。この自己表出は、大脳を中枢としない植物神経系(大腸・肺・心臓・血管等)・自律神経系に関わる「人間の内臓の働き」と、それに基づく情緒・情感・情念等「心(精神)の動き」とを基盤としている。しかし、そうした自己表出も、外化され表現されれば表現された結果として、第二義的であれ他者にも伝わるから指示表出性も持つということができるが、その場合、あくまでも、指示表出性を第一義的な目的とはしていない点に、すなわち指示表出の本質である外コミュニケーションを第一義的な目的としていない点に、自己表出の本質がある。それに対して、指示表出の本質は、風物を視覚(感覚)的に受け入れ了解し「美しい」と感じたことを表現し他者に伝達するところに第一義的な目的がある。すなわち、指示表出の本質は、他者に「何かを指し示す」こと・意味や物語を構成することを第一義的な目的とする点にある。このように指示表出は、大脳を中枢とする動物神経系・反射神経系に関わる感覚器官の動きと、それに基づく感性→悟性→理性へと上昇する「心(精神)の動き」との結びつきである。もちろん、他者とのコミュニケーションを第一義的な目的とする指示表出も、花を視て反射的に美しいと自己自身の心(内観的作用による内在化された対象の空間化としての感情)を第二義的に動かす自己表出性を持つのであるが、その場合も、指示表出の第一義的な目的はあくまでも他者への伝達のための意味や物語の構成にある。このように、「人間の身体は植物部分、動物部分、そして人間固有の部分(≪内臓器官に依存したそれと、感覚器官に依存したそれとの、二重構造としてある心・精神≫)」を含んでいる。そして、それらは、それぞれの固有性と、胃腸・心臓等の内臓病で顔にその表情が出るように、大脳と内臓との相互規定性とをもっている(言葉の起源:吉本隆明『詩人・評論家・作家』メタローグ)。
また、吉本は、個体の発生について発生学者の三木成夫の『胎児の世界』(中央公論)に依拠しながら次のように述べている――人間の胎児は、「生物の歴史を胎内」で体験する。胎児は、「受胎してから36日(受胎してからとは、妊娠してからとは違う)」前後に、魚類の「水棲動物の段階」から爬虫類・両棲類の「陸棲動物の段階」に移行する。それは、「上陸」と呼ばれる。このとき胎児の顔は、魚類的な顔から爬虫類的な顔になっていく。この事態は、母親のつわりと母親の「こころ・精神」の変調とともに始まる。受胎から3ヶ月ほどたつと胎児は「レム睡眠の状態」で夢をみはじめる。5、6ヶ月になると、胎児は触覚・味覚という感覚能力が備わるが、ここに感覚に依存する「心・精神」の働きの起源がある。6ヶ月以降になると感覚器官の全部が揃い、聴覚によって胎児は母親の心臓音や母・父や親族の声を聞き分けるようになる。そして受胎後7、8ヶ月になると、意識が芽生える (『詩人・評論家・作家のための言語論』)。胎児はこの「心・精神」の働き獲得してから、母胎内で母親との内的な「内コミュニケーション」をはじめる。母親の恐怖感や夫婦喧嘩による心理的打撃や憂鬱や怒りや苦悩や悲しみや出産したくないという胎児への拒否感情や愛情の無さ等、そのような母親の精神状態、心の状態、感覚や感情の変化はすべて胎児に伝わり、胎児の「心・精神」に刷り込まれていく。この、胎児が母親の「心・精神」状態に反応したり「萎縮」等したりすることは、超音波映像によって医学的に確かめられている。ここで「内コミュニケーション」とは、「一歳未満まで、人間は言葉というものを持っていない」のであるが、「言葉を介さずに、思いや考えが伝わる伝わり方」のことを言う。それは、胎児期と乳児期において獲得される。受胎後5、6ヶ月で、胎児と母親との母胎内における表意的な言葉によらない内コミュニケーションは成立し、胎児期から1歳未満までに「相手の考えやイメージを察知する能力」、すなわち表意的な言葉によらない内コミュニケーション能力の原型や「内コミュニケーションの過敏さ、鋭敏さ」の「原型」が形成される。ここで、察知能力とは思い込み能力のことである(『詩人・評論家・作家のための言語論』)。これは巫女における託宣能力の根拠となるものである。母胎内では、世界の全てである母親と胎児との間で「栄養の交換、感情の交換、こころの交換」が行われている。乳児にとっては、「栄養摂取、排便、睡眠の世話」をしてくれる「母親あるいは母親代理」との関係が世界の全てである(『詩人・評論家・作家のための言語論』)。
さて、人類史における未開原始は、「人間の個体の発生でいえば、胎内的な段階」のことである(『詩人・評論家・作家のための言語論』)。したがって、人類史における未開・原始における「言葉(≪表意的言葉≫)以前の心の世界」あるいは未開・「原始社会のコミュニケーションの世界」は、胎児期や1歳未満の乳児の心の世界あるいは内コミュニケーションの世界を考察することと同じである(吉本隆明『心とは何か』弓立社)。そして表意的な言葉を覚えて以降は、「内コミュニケーション」から「外コミュニケーション」へと移行していくことになる(吉本隆明『人生とは何か』弓立社)。内コミュニケーション」に対して、表意的な言葉を覚えて以降の「外コミュニケーション」は、現実の世界と意識領域との関係における、感覚に依存する「心・精神」の働きによる外コミュニケーションである。したがって、冷たい接し方や冷たい言葉を「持続的にある期間」繰り返し受けた場合、その人間の「心・精神」は大きな傷を受けることになる。逆に、温かく優しい接し方や温かく優しい言葉を受けた場合、感覚に依存する「心・精神」の働きによる外コミュニケーションは、相互了解や相互理解を生み出し得ることになる。すなわち、感覚に依存する「心・精神」の働きによる外コミュニケーション世界において心に傷を負った者は、「心・精神」の傷の原因となった外コミュニケーションの改善によってその病を治癒させることができる(吉本隆明『心とは何か』弓立社)。しかし、人間は感覚に依存する「心・精神」の働きが疎外する意識領域だけでなく、内臓に依存する「心・精神」の働きが疎外する無意識領域をもっているのであるから、感覚に依存する「心・精神」の働きによる外コミュニケーションを円滑に行うだけでは、相手の「心・精神」を掴むことはできないので、相互に「心・精神」を通い合わせ相互了解し相互理解することはできない部分も有している。すなわち、相手の「心・精神」の無意識の層やある場合には無意識の「核」にまで遡及していかなければ、本当は相手の「心・精神」は掴めず、相互了解し相互理解することは不可能なのである。したがって、ある個体の無意識の「核」に「心・精神」の病や異常がある場合は、その「核」にまで遡及し考察しなければ治癒することは不可能なのである(『心とは何か』)。人間の「心・精神」の世界は、「意識領域」と、「核」・「中間層」・意識領域と接した「表層面」によって構成される「無意識領域」との総体的構造としてある。その総体的構造において、「現実世界」と関係している。そして、無意識領域が「現実世界」と直接的に接しているのは、人間の心・精神のうち、意識領域との境界にある無意識領域の「表層面」である(吉本隆明『人生とは何か』弓立社)。三層で構成されている無意識領域の出自は、胎児期と生まれてから1年間の乳児期における母親との関係の在り方によって形成される。この無意識領域の構造的把握は個体の問題や家族の問題を扱う上で重要なものである。なぜならば、例えば家族問題の著書の多くは、家族問題を無意識の表層面だけで論じたり、表層面と中間層とを混同して論じているからである。すなわち、人間の心・精神における部分を全体として錯誤しているからである。統合失調症(精神分裂病)における作為体験としての妄想・幻覚は、「思い込み」の過剰・体系化(幻覚の占有)として、「内コミュニケーション」の異常によるものである。この「幻覚」と同時に、顔を水の中につけて、顔をあげずにそのまま死ぬことができるという「意味の異常」がある。つまり精神の異常は、幻覚というイメージの異常か意味の異常としてある。正常な人間でも神経過敏な人は「対手が何を考えているか表情ですぐ分かる」ことができる。男性は、愛する対手の女性に対して、思い込みを含めて、女性が何を感じているかを表情や仕種の変化で感じ取ることができる。そうすることができ得る根拠は、胎児期や乳児期における「母親との内コミュニケーションの体験」を根拠としている。すなわち、現在を生きる個体の考え方や感じ方や行動の仕方の原型は、胎児期や乳児期における母親との「内コミュニケーション」の体験に依拠している。同じように、このことを人類史に敷衍すれば、現代を生きる人間の考え方や感じ方や行動の仕方の原型は、人類史の原型である「未開・原始の時代」の人間に依拠している。例えば現在においても、テロにおいて残虐な斬首や皮剥が横行しているとすれば、それは、その実行者における意識や思考や認識や行為が「未開・原始の時代」における意識や思考や認識や行為に<退化>しているかあるいは自分が生きている地域が依然としてそういう人類史の段階を残存させているかである。またそうした行為に対して<酷い>、<耐えられない>、<理解できない>と意識したり・思考したり・感じたりする場合は、そういう残虐性を払拭すべく社会の構成を意志してきた人類史の尖端性にある意識や思考や認識や行為に依拠しているからである。このような場合を考えれば理解できるように、現在から未来を考える場合、西欧近代を・現在を包括し止揚することは、その人類史をアフリカ的段階にまで遡及し考察することではあるが、天然自然や未開原始の状態等を即自的に肯定したり理想化したりすることでははないのである。
吉本は、アフリカ的段階にまで史観を拡張をしようとした問題意識について、次のように述べている。
どうかんがえても奈良朝以後に、漢字を借りて表意的に、また表音的に文字にあらわされて古典語とか近代語とか呼ばれているものを日本語と考えると、日本語という枠組みからはみだしてしまう表意や表音があるのではないか。(中略)そこで文字表記がなされなかった以前まで遡行して、日本語とは何かをかんがえる必要があるのではないか。(吉本隆明『母型論』学習研究社)
わたしがいまじぶんの認識の段階をアジア的な帯域に設定したと仮定する。するとわたしが西欧的な認識を得ようとすることは、同時にアフリカ的な認識を得ようする方法と同一になっていなければならない。またわたしがじぶんの認識を西欧的な帯域に設定しているとすれば、超現代的な世界認識へ向かう方法は、同時にアジア的な認識を獲得することと同じことを意味する方法でなくてはならない。(中略)わたしはじぶんが西欧的かアジア的かアフリカ的かについて選択的である論議の不毛さに飽き飽きしているし、現状で理解できる表面の共通性で、国際的という概念の範囲を定めている国際的と称する認識にも同調する気はまったくない。(前掲書)
文明化を歴史の生理とみるかぎり、自然のままの成り行きにまかせるほか方途はありえない。それが現在のアフリカの問題の根本にひそんでいる。この根本にある課題は文明的な環境が早く進んだ地域と遅く後を追っている地域とが、いずれにせよ均等化するところへ集約されることでは解決にならない。なぜならアフリカ的な段階には人類の原型的な課題がすべて含まれていることを掘り起こしえなければ、たんに進みと遅れ、進歩と停滞、先進と後進の問題に歴史は単純化されてしまうからだ。人類は文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない。(『アフリカ的段階について 史観の拡張』)
現在の世界史についてのわたしたちの哲学がどうあるべきかはおのずからあきらかなことだ。内在(精神)史としてのアフリカ的段階をおなじ眼の高さから内在化する課題が、同時に外在(文明)史的な未来を認知することと同義である方法を、史観として確立することだ。(前掲書)
アフリカ的ということを段階として設定することは人類の原型的な内容を掘り下げることが永続課題だとすることと同義である。(中略)わたしたちは現在の歴史についてのすべての考察をアフリカ的な段階を原型として組み直すことが必須だとおもえる。アフリカ的な段階のあらゆる初原的な課題を、すべて内在(精神)史化することが、同時に未来的(現在以後の)課題を外在(文明)史として組み上げることと同義と成す方法こそがこれに耐えうるとおもえる。(同書)
先ずここで、人類史のアフリカ的段階にある内在の精神の在り方をその段階にまで遡及し考察して掘り下げるという場合のアフリカ的世界とは、現在最貧・飢餓・対外債務過剰等の様々な問題を抱えた固有な地域アフリカだけでなく、「南北アメリカの固有史」、縄文系統の「原型的な固有性をのこしているアイヌや琉球や本土の固有の古典史」等にも存在しているそれのことでもある。また、現在私たちは、「ヘーゲルの時代の精神よりも、自己を発展させたとは到底いえないが、発展ではなく深化の過程にたいしての認識を加えられるようになったため、過去の野蛮、未開、原始にたいする理解はいまでは深層にひろがったといえる」((『アフリカ的段階について 史観の拡張』))。この、現在私たちは「ヘーゲルの時代の精神よりも、自己を発展させた」とはいえないが、「深化の過程にたいしての認識を加えられるようになった」とは、アフリカ的段階に対する「理解はいまでは深層にひろがった」、言い換えれば、現在私たちは、個体発生に関わる三木成夫の研究成果、南島語やアイヌ語の研究成果、南島やアイヌの宗教の研究成果等によって、アフリカ的段階の内在の精神を迷妄性においてではなく科学的に取り出し把握できるようになったということである。