本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

日本知識人論――吉本隆明と柄谷行人の差異

 両者の言葉に依拠して知識人の在り方の差異を述べれば、次のように言うことができると思います。

 

 先ずは、吉本の言葉に耳を傾けてみよう。

 

  歴史は(進歩派の)善意などで作られたためしはない 。(これは、1972年発行の『吉本隆明全著作集13』「情況とはなにか」にある言葉である)
  人類は文明の進展やエリート層のために存在しているのではない 。(これは、1998年発行の吉本隆明『『アフリカ的段階について 史観の拡張』春秋社にある言葉である)
  一般大衆が歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき反物語はたくさんあるのです。意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかりです。知識は非知識より優るとか知識人が非知識人を導くというようなかんがえ方は、絶対に転倒されなければいけないとおもいます。一般大衆が政治的政党の綱領に導かれていくこともまた転倒されるべきです。何を転倒すべきかは、おぼろげながら大衆的な規模でわかりつつあります。(中略)しかしそれを具現するためにはまだまだたいへんな段階があるのです。(これは、1992年発行の吉本隆明『大情況論』弓立社にある言葉である)
  人類の歴史あるいは自然史の必然から追い立てられるということは、いくら病気だと言おうが何しようが、まぬがれることは出来ない(中略)どんな人だって歴史あるいは自然史の必然から逃れることは不可能だというのが根本にある(中略)だからどういう抵抗をするかということだけなんだ。(中略)だめなまでもそうしなきゃいけないという、そういうところでしか個人は抵抗できない 。(これは、1993年発行の吉本隆明・北山修『こころから言葉へ』弘文堂にある言葉である)
  1952年頃『廃人の歌』という詩のなかで「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ」という一節をかいたことがある。(中略)『転位のための十篇』以後の思索を支配したのは、この妄想である。わたしがほんとうのことを口にしたら、かれらの貌も社会の道徳もどんな政治的イデオロギーもその瞬間に凍った表情にかわり、とたんに社会は対立や差別のないある単色の壁に変身するにちがいない。詩は必要だ、詩にほんとうのことを書いたとて、世界は凍りはしないし、あるときは気づきさえしないが、しかしわたしはたしかに本当のことを口にしたといえるから。そのとき、わたしのこころが詩によって充たされることはうたがいない 。(これは、2006年発行の吉本隆明『詩とはなにか 世界を凍らせる言葉』思潮社にある言葉である)

 

 吉本によれば――詩は、この世界に対する、自己自身の内在的な資質や感性における異和性の感受からか、外在的な社会的時代的情況に不可避に強いられてか、生み出されるところの自己の内面から湧出してくる人間的欲求に基づいた自己表出・表現欲求としてまずあるものである。すなわち、先ず以て、自分が自分に対して語る言葉である。そのようにして、思索し、また詩作し、そしてまた思想する。それは、自己と世界との関係の異和性の解消と和解に対する自己欲求だ。百人百様の答え方の中で、「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとうのことを、かくという行為で口に出すことである。こう答えれば、すくなくともわたしの詩の体験にとっては充分である」 。また吉本は、次のようにも述べている。

 

  戦後、時代がかわり社会は一変したかにみえたが、ただひとつかわらないことは、素直で健全な精神は、社会を占有し、そうでないものは傍派をつくるという点である。(中略)プロレタリアートのためとか、前衛党のためとかもちだされて、まともに振舞える人物に、わたしは、ほとんど出遭ったことがない。また、革命的立場にあるものを批判することは、支配者に荷担するものだという論理が擬装された信仰にすぎないことを看破できる革命的なインテリゲンチャに出遭ったことはない 。(『詩とはなにか 世界を凍らせる言葉』)
  現実の社会では、ほんとうのことは流通しないという妄想は、あるひとつの思想の端緒である。それとともに、詩のなかに現実ではいえないほんとうのことを吐き出すことによって、抑圧を解消させるというかんがえは、詩の本質についてある端緒をなしている。抑圧は社会がつくるので、吐き出しても、またほんとうのことを吐き出したい意識は再生産される。だから、詩は永続する性質をもっている。ここ一、二年詩をかくことが途絶えがちだったとき、わたしは、批評文によってできるかぎりほんとうのことを吐き出してきたといえる。(中略)ここで辛うじていえることは、詩の場合には、ほんとうのことはこころのなかにあるような気がし、批評文の場合にはある事実(現実の事実であれ、思想上の事実であれ)に伴ったこころにあるような気がすることである。だから詩作が途絶えがちであった時期、わたしは内発的なこころよりも、事実に反応するこころから、ほんとうのことを吐き出してきたということはできる 。(前掲書)

 

 吉本にとって、現実的事実や思想的事実に対して対象的になるところで成立する批評文の領域における重要な課題は、知識人における自立の課題であり、党派性・党派的思想・党派的共同性の止揚の課題であり、転向論の総括の課題であり、安保闘争の総括の課題であり、大学紛争の総括の課題であり、経済的社会構成の時代水準によって変容していく大衆像や大衆的課題を自らの思想に繰り込んでいく課題であった。言い換えれば、戦後過程における知識人の成熟過程のその成熟度の問題であり、その思想の自立度の問題であった。
 さて、吉本の論争の対象であった党派的思想・党派的集団(共同性)や同伴知識人や大学知識人について、村瀬学は、党派性とは「それぞれの分野」が「そこで通用する概念だけで成り立っている」共同性であり、それぞれの分野が主観的に己の分野に真理があるとする在り方である、と述べている(村瀬学『次の時代のための吉本隆明の読み方』洋泉社) 。しかし、吉本の思想の理解のためには、それだけでは不十分なのであって、党派的な思想とは、その思想が大衆原像(経済的社会構成の時代水準によって変容していく大衆像と大衆的課題)に対して閉じられていく思想である、と言うべきである。次に党派的な政治的知識的集団とは、その集団構成が、大衆原像に対して閉じられていく共同性のことである。また同伴知識人とは、諸政党・市民主義集団等に対して、シンパシーをもって同伴する知識人のことである。また大学知識人とは、市民社会的な常識や価値観に依拠しながら、社会的に特権的地位を与えられそれを享受し、学問・研究の自由の場である大学を構成している知識人のことである。
 吉本は、一方で、、自らの戦争体験を自省することによって得られた知識人の敗北の在り方を、「国家の政策を、知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配(国家・政治的権力)に直通していく大衆の存在様式を把握できなかった点においた。この体験思想を介した吉本の自立的知識人論は、こうである。@世界をトータルに把握できる「世界認識の方法」を持つことが必要である。A庶民が出征時に町内会の見送りを受けて「〈家〉からでてゆくとき、元気で御奉公してまいります」と挨拶する「紋切型」の重たさの意味を把握できる往還思想の構成が必要である。そして、そのためには、「支配の制度」がある限り、その知識の認識方法および概念構成において、知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準を、時代とともに変容する社会的存在の自然基底としての大衆原像に置くことが必要である。なぜなら、知識人は、この価値としての大衆原像から知識的に上昇し逸脱していく知識の自然的な往相過程に成立する概念だからである。したがって、知識人の自立的思想は、その知識の自然的な上昇過程から再び意識的・自覚的に下降する還相過程において、価値としての大衆原像を、すなわち大衆の生活基盤である社会構成・支配構成・文明・文化の時代水準を確定し、その経済的社会構成の時代水準によって変容していく大衆像と大衆的課題を、自らの知識に繰り込んでいくところに成立する。このことは、「支配の制度」がある限り、高度情報社会下で言語的・映像的マス・メディアの発達によって、生活者大衆が、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなり、量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場せざるを得なくなったとは言え、そうなのである。また、そうした知識の往還においてはじめて、観念としての知識は、物質的基礎を得るのであり、そのリアリティを獲得することができるのであり、反体制的でもあり得るのである。したがって、この知識の往還は、大衆迎合や大衆同化や大衆啓蒙とは全く違う位相にあるものである。他方で、B吉本は、敗戦時に、自分たちを戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層に対して、徹底的な抗議や反抗をすることなく、むしろそうした権力を天然自然の災害と同じように受け入れていく在り方に、大衆の敗北の在り方を見たのである。この吉本に依拠して言えば、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民が、知識人の知識やメディア情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、あくまでも自らの生活実感と身近な生活圏・生活過程の考察に基づいて、自立した生活思想を構成していくことが必要である、と言うことができる。また、ここに、大多数の被支配としての一般大衆・一般市民の世界的連帯の根拠と可能性があるのである。なぜならば、「歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即時体験と体験思想を逆さにもって、大衆を抑圧する強力とすること」にあるからである。(『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」、『自立の思想的拠点』「情況とは何かVI」、『自立の思想的拠点』「日本のナショナリズム」、『マス・イメージ論』福武書店)。

 

  大衆の原像をくりこむことを、思想の課題として強調するという考え方を、今度は体験的な云い方からひき出してみます。戦争中に、国家の政策を、知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進するという様式が、なによりも敗戦後の反省の材料でした。それならば、戦後は、昨日あらゆるこじつけで国家の政策を広宣した知識人が、左翼思想や市民主義思想に乗りうつり、国家の欠陥をあげつらい、大衆が知的にそれを模倣し、行動的には模倣以上のことをするという様式は、まったく、国家に迎合することの逆ですから肯定されるべきでしょうか。これは大変な疑問におもわれました。そこには〈構造〉的な変容がなにもないからです。大衆が国家を〈棄揚〉するためには、知識人を模倣することをやめるほかないとおもいました。知識人を模倣することをやめた大衆は、その知的な関心をどの方向にむければよろしいのでしょうか。いうまでもなくその〈生活圏〉自体の考察へであって、どんな政治的な、あるいは知識的な上昇へ、ではありません。(『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」)
  「党派性の止揚という問題」に関連して、わたしが考えたことは、おおざっぱにいえばふたつの方向がありますが、そのひとつは、いま申述べたところに帰します。この方向をつきつめていったとき、どんな問題がでてくるのでしょうか。〈閉じられた〉共同性から、たえず、〈大衆の原像〉をくりこんだ〈開かれた〉共同性へ、ということです。もうひとつは、「価値」そのものの転倒が、〈大衆の原像〉を志向するというその思想性(≪知的大衆や知識人が、自立的思想にとっての普遍的な価値基準である社会的存在の自然基底である大衆原像を、すなわち経済的社会構成の時代水準によって変容していくその大衆像と大衆的課題を、その知識の還相過程において意識的・自覚的に自らの知識に繰り込むこと≫)にあります 。(前掲書)

 

 この後者の引用は、知識人・知識的集団(文学・学問・社会・政治等)における、「党派性の止揚」・「<構造>的な変容」の課題を扱うべきことを述べている。ここで「<閉じられた>共同性」とは、次のことを意味する――知識人は、経済的社会構成の時代水準を生きるあるがままの大衆像や大衆的課題を自らの知識過程に繰り込まず、生活者大衆から逸脱していくその知識の自然的な知識的上昇過程において、国家の共同性(法的言語や諸政策)を介して知的世界を構成するのであるが、そうした知識人や知識的集団(共同性)の場合、国家の共同性と同じように、書かれた歴史には登場しない大多数の生活者大衆を、騙し、裏切り、惑わし、扇動し、困窮させ、死なせる悪しき党派性や党派思想や党派的共同性を構成していくことになる。このとき、そうした知識人や知識的集団(共同性)は、国家の共同性としてある法や法に基づく諸政策を、大衆から遊離し閉じられていく知識や共同性において合理化し、国家の共同性に加担していくことになる。何故そうなってしまうかと言えば、知識人が、知識における「<構造>的な変容」の課題を意識的・自覚的に扱わないからである。作家・詩人であり、セゾンコーポレーションの会長でもあった堤清二(辻井喬)は、「『伝統』をはき違えるな」の新聞記事(「朝日新聞・朝刊、2003年3月30日)のなかで、本居宣長等の詩歌を例に挙げて次のように述べている。

 

  中学のとき、(中略)「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」という歌を習いました。教師は、国のために忠誠を誓って潔く散れと宣長も言っている、だからそういう国民になれ、それが日本の伝統だ、と繰り返した。でも宣長は、大和心とは「もののあわれ」を知ることだといいたかったのであって、「潔く散るのが大和心」と伝えたのだとは、私は思わない 。

 

 ここには、宣長が「もののあわれ」とは、例えば『古事記』神話をそのあるがままに受け入れることであり、それゆえ詩歌の起源は『古事記』に最初にでてくる「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」(次田真幸全訳注『古事記(上)』講談社) にあると述べたのに対して、それに異を唱えた宣長の師・賀茂真淵や折口信夫を介して詩歌の起源を論じた吉本とはまた別の問題が述べられている。ここに登場する教師に代表されているものは、共同体至上意識が個体性を超えてしまうアジア的日本的な負の心性や、国家の共同幻想 から対象的になれずに、そうした国家の共同幻想(教育政策等)に侵蝕された教師の自己意識・自己幻想・自己思想の敗北した在り方にある。すなわち、その知識の敗北的な在り方は、思想の自立の根拠である大衆原像(ある時代水準によって変容する大衆像や大衆的課題)を、自らの自己思想に繰り込んでいく回路を持たなかった在り方にある。それに対して、堤(辻井)の自立的な思惟・思想の在り方は、被支配を逆立した鏡とする共同幻想(支配)を逆立させていく在り方を示している。すなわち、第一義性・価値を、その共同幻想からこちら側に取り戻し自己回収していく・正立させていく在り方を示している。
 さて、吉本の思想に依拠して言えば、知識人・柄谷の知識の位相は、次のような点にあるということができる。
1)「未明の時代や場所の住民」(大衆)にとっては、統一国家の最下層を構成する狭小の閉ざされた村落共同体が世界の全てであり、その「共同の禁制でむすばれた共同体以外の土地や異族は、いわばなにかわからぬ未知の恐怖がつきまとう異空間であった」。また、そのような村落共同体に生きる大衆にとっては、支配上層とその共同性は遠く隔てられた「恐怖の共同性」として「恐れの対象」であった。と同時に、「王」、「族長」、「異族」、「敵」、「死者」、「婚姻」、「思想」、「人格」、「異郷」、「異空間」、「村落共同体からの〈出離〉」に対する「禁制がある」ところでは、両価性を本質とする「未開の心性」においてそれらに対する「つよい願望」も存在していた。このような「未開の心性」が大衆の意識を覆っているとき、大衆は「〈制度〉的な禁制」(共同幻想)に支配されているということができる 。例えば初期天皇制国家において、最下層にある狭小の閉ざされた村落共同体に生きる大衆にとっては、高度な文明や文化、すなわち農耕〈技術〉や、あるいは法、制度、儒教、仏教等の知識的(観念的)世界の全てを占有していた支配上層とその共同性は、遠く隔てられた「異空間」であり、「異族」であり、「恐怖の共同性」として「恐れの対象」であると同時に「願望の対象」でもあった。したがって、「禁制が支配している共同性は、どんなに現代めかしていて真理にたいしてラディカルにみえても、じつは未開をともなった世界」(共同性)なのである 。すなわち、現在でも知識人や大衆がもっとも恐れるのは、「共同的(制度的・慣習的)な禁制からの自立」であり 、したがって世間体や学問的世界の枠組みや左翼性等からの自立的な離陸である。柄谷が「大衆からの孤立を転向の原因とした吉本は間違っている」 と述べたとき、その知識人の枠組みに囚われた柄谷は知識人にもあるこの「未開の心性」に対して無自覚なのである。そしてその分、柄谷は、知識人における知識的世界の枠組みや既存の知識人の在り方から自立的になり得ないのである、知識における「<構造>的な変容」の課題を放棄してしまっているのである(『吉本隆明全著作集11』「共同幻想論・禁制論」勁草書房)。
 この「両価性の心性」・未開の心性を天皇制的な意識構造として規定すれば、佐藤優の高等教育を受けた者と受けなかった者とに分けて信仰・神学・知識の差異性を語る語り方、また「牧師の選任」基準を「外国留学」と「学位」に置いている教会の在り方は、一方で口先だけで反天皇制を標榜しながら、他方でその根底においては天皇制的な意識構造を生きている、と言うことができる。
2)吉本の大衆原像や知識人論や自立論等を意識し、それらに対して<否定的>な異論を唱えたのは、『終焉をめぐって』(福武書店)を著した柄谷行人である。柄谷は、吉本だけでなく、ミシェル・フーコーの「知=権力」論も時代錯誤だとして、知識人という言葉は死語ではないが死語に等しいとしながら、「知識人を攻撃し嘲笑する言葉だけはあいかわらず続いている」と不平不満を漏らしている 。そして、知識人とは、「<知識人>をどこかに想定しそれを批判することで自らを意味あらしめようとするタイプ」と規定し、したがって、吉本やフーコーのような「知識人はその最初から、『知』に対して否定的であり、その外部に生活、大衆、常識、あるいはイノセンスを想定している」と述べている。すなわち、柄谷は、自分のような知識人こそが、「知性」ある本来的な知識人である、ということを言いたいのである。そして、柄谷の言う「知性」ある本来的な知識人とは、知識の自然的な往相過程をその頂きにまで知識的に上昇し続けていく知識人のことである。いわば、<生活者>大衆から「遊離」した、すなわち自らの知識に大衆原像(経済的社会構成の時代水準によって変容する大衆像と大衆的課題)を繰り込むという知識の意識的な還相過程を持たない、一方通行的な知識の自然的な往相過程のみを日常とする知識人のことである。この知識人論は、吉本における知識人論とは全く異なったものである。柄谷は、吉本の大衆原像論や知識人論や自立論等を超えたつもりで、「大衆から遊離しないような『知』があるだろうか。知は、大衆=自然と遊離しているがゆえに、知である」、と述べている。また、「吉本隆明は、知の課題は、知の頂を極めそこから『非知』に向かって静かに着地することだといっている」、と述べている。そしてまた、「しかし、(中略)知識人(知)は大衆(自然)の自己疎外態であり、それゆえ大衆=自然=無知にたどりつくことが知の課題である、というような円環はロマン派的なものだ」、と述べている。柄谷の「知識人(知)は大衆(自然)の自己疎外態」という言い方は首肯できる。しかし、柄谷は、吉本のいう「非知」を、いつのまにか「無知」と同一化してしまっている。ここに、「大衆から遊離」した「知性」ある本来的な知識人である柄谷の知識の<質>を垣間見ることができる。
 確かに吉本自身、非知といっても無知といってもいいが、という言い方をしている場合もある。また吉本は、無知に静に着地できることが理想である、とも述べている。しかし、現在状況自体が、そのようなことを生活者大衆にも許さないし、また「支配の制度」がある限りは、知識人は、あくまでも<意識的>・<自覚的>に大衆原像(経済的社会構成の時代水準によって変容する大衆像と大衆的課題)に向かって還相的に下降(着地)していくところに思想の自立の課題を設定するほかはないのである。そして、そうした意識的・自覚的な知識過程の在り方に、思想の自立の根拠と、知識の<有意味>性や価値的構成を置くことができる。そしてまた、その在り方に、知識における「<構造>的な変容」の課題解決の方途がある。この思想的立場によれば、生活者大衆から「遊離」し逸脱していく知識的上昇は、知識にとって自然過程でしかないものであり、その過程で得られる知識は<意味>として位置づけられることになる。これらのことから、吉本の思想は、決してあるがままの「大衆=自然=無知」と同化・迎合することとは無縁なものである。それらのことに対して無自覚な分だけ、柄谷の吉本に対する批判は的外れなものとなっている。「あなたたち(≪日本知識人≫)はあなたたち自身(≪日本知識人自身≫)の歴史に耐えることができるのか?」(ミシェル・フーコー『思考集成]』「知識人と権力」)。
 吉本は、田山花袋の『一兵卒』と丸山真男の「一等兵」体験を比較考量して、次のように述べている。花袋が描いた「日露戦争の一兵卒が『満州』の地で、野戦病院からぬけだし、前線の原隊にたどりつこうとして、途中で『脚気衝心』でたおれたとき、末期の眼にうつしたものは、母の顔、妻の顔、欅で囲まれた郷里のおおきな家、うらの磯、あおい海、漁夫の顔」であった。それに対して一等兵の丸山が敗戦直後に抱いた感情は、「『どうも悲しそうな顔をしなけりゃならないのは辛いね』という余裕であった」。この一兵卒体験の差異は、時代的な差異によるものではない。この差異は、「生活によって大衆であったものと、思想によって知識人であったものとの抜きがたい断絶を象徴」している。「生活」に重心をおくことによって大衆であるとき、「その『思想』を現実的な体験のうしろにおしかくす」。逆に、知識・「思想」に重心を移行させることによって知識人であるとき、「その現実的な体験を『思想』のうしろにおしかくす」。「わたしたちはたれも大なり小なり総体的な存在(≪生活的日常と観念的日常を生きる存在≫)である。そして、大なり小なり『思想』か、あるいは『生活』かによって生きる」。私たちは現在、日常と非日常、生活と観念(知識・思想)の総体を生きることを強いられているが、生活に重心をおくか知識に重心をおくかという差異性を持つ。知識・「思想」の場所でそれに重心をおいて生きる心から「悲しそうな顔」ができなかった丸山の敗戦直後に抱いた感情は、「『生活』によって大衆であった無数の『一兵卒』の血まみれた生活史」と丸山自身の「自己の生活史」からの「断絶と隔離」のうちにある知識人・丸山を象徴している 。この知識人の姿は、先の知識人・柄谷の姿と重なるのである。(『吉本隆明全著作集12』「丸山真男論」勁草書房)
 さて、話を柄谷の吉本批判に戻せば、吉本は「大衆=自然=無知にたどりつくことが知の課題」であるとは一度も述べていない。逆に、「大衆=自然=無知にたどりつく」ところに知の課題はないと何度も述べている。すなわち、吉本の思想からは、あるがままの大衆への同化(大衆同化)も、俗物化も、大衆物神も、大衆至上主義も、大衆迎合も、大衆啓蒙も出てこないのである。このことは、吉本の親鸞論における「非僧・非俗」論や「往相廻向・還相廻向」論等を辿ってみても明らかなことである。「非僧」は、「還相廻向」による「非知」への下降であっても「無知」との同化ではない。「非僧」は、思想の自立の根拠である大衆原像(時代によって変容する大衆像や大衆的課題)の知識過程への意識的・自覚的な繰り込み、すなわち知識の意識的・自覚的な還相的な下降過程による「非知」化であって、「無知」との同化を意味しない。したがって、それは、大衆同化でも、俗物化でも、大衆至上主義でも、大衆迎合でも、大衆啓蒙でもないものである。
 吉本に依拠して言えば、柄谷の求める知識こそが、知識の自然的な往相過程にある<観念>の自体構造・その自己増殖過程における知識なのである。その知識は、自己意識を有した人間にとって<意味>や<意味の集積>としての物語の世界を構成するが、知識における有意味性・<価値>的世界を構成しない。柄谷には、自己資質や、自己慰安、自己解放、自己救抜を含めた生活者大衆の解放と救抜への欲求や、状況等に強いられて<不可避>的に知識過程に登場するという契機が抜け落ちているのである。また柄谷には、知識の<有意味性・価値的構成>の根拠である自らの知識過程に、意識的・自覚的に大衆原像(時代によって変容する大衆像や大衆的課題)を繰り込んでいくところに成立する思想の自立への契機も抜け落ちているのである。言い換えれば、柄谷は、知識の自然過程における知識的上昇の頂から意識的・自覚的に下降することによって得られる「還相廻向」による「非知」化の課題を放棄しているのである。したがって、その柄谷の思想は、大衆原像(経済的社会構成の時代水準によって変容していく大衆像と大衆的課題)に対して閉じられていく思想である。したがってまた、それは、党派的思想であり、知識における<構造>的な変容の課題を放棄した思想である。
 柄谷にとって、知性ある本来的な知識人とは、大衆から遊離した、職業人としての学者であり、スピノザのような「哲学者(知を愛する者)」のことである。したがって、知識人における「『大衆からの孤立感』を転向の原因とする」吉本は間違っていると述べるのである 。それに対して、吉本の方は、自己資質、自己慰安、自己解放、自己救抜を含めた生活者大衆の解放と救抜の欲求や、状況に強いられて<不可避>的に知識過程に登場し、知識を大衆から遊離させず、大衆原像(時代によって変容する大衆像や大衆的課題)を、意識的・自覚的に自らの知識過程に繰り込んでいくという思想の自立の課題を自らに課して思想する知識人である。すなわち、吉本は、思想の往還を自らに課している知識人であり、知識における<構造>的な変容の課題解決の方途を指し示した知識人である。