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日本知識人の敗北的な存在様式(続)――安保闘争

谷川雁・吉本隆明・埴谷雄高他『民主主義の神話』吉本隆明「擬制の終焉」現代思潮社、吉本隆明『自立の思想的拠点』「情況とは何かU」徳間書店、『吉本隆明全著作集14』「国家・家・大衆・知識人」勁草書房等に基づく

 

 私は、吉本に依拠しながら(と同時に、私は、人間学の後追い知識人としての神学者の状況を引き寄せながら)、日本知識人の敗北的な存在様式が現在でも綿々と続いていることを述べてきましたが、今回はそのことを、安保闘争と大学紛争に限定して述べてみることにします。

 

その1 安保闘争
 安保条約の締結の問題は、戦後資本制の国際競争力の確立と、大規模な合理化による企業競争力の確立を目指す「国家権力の国家意志」の問題であった。その安保闘争について、吉本は次のように総括している。一国革命を評価する花田清輝のコミュンターン式インターナショナリズムを批判し、インターナショナリズムの本質は「国家権力によって疎外された人民による国家権力の排滅と、それによる権力の人民への移行―そして国家の死滅の方向に指向される」 ところにある。「それぞれの国家権力のもとでの個々の人民 のたたかいの動向の総和以外に世界史の動向とか、革命のインターナショナリズムなどは存在しない」 。ここで重要なことは、「たたかいの主体である人民とは、人民としての自分自身と、その連帯としての大衆」のことであり、世界史がなお依然として民族国家を基本単位として動いていることの自覚化にある。したがって、一国革命はもちろんのこと、政権が自民党から他の政党に移ることは、革命ではなく単なる政権交代でしかないから、「安保闘争のなかでもっとも貴重だったのはいかなる既成の指導部をものりこえ」、「いかなる指導部をも波涛のなかに埋めてしまう」「学生と大衆の自然成長的な大衆行動の渦」にあった。しかし、「国鉄労働者指導部」・「全学連指導部」・「進歩的文化人」・「国民共闘会議指導部」は、「大衆行動における大衆の意識構造を理解」しえず、「労働者大衆をイデオロギー的、組織的員数とかんがえて運動を総括」する過ちを犯した 。そのような知識人・知識人集団の在り方は、西欧的と封建的との錯綜した日本の社会構造の総体像に対する把握の放棄にあったし、知識人の自立における思想的課題である自らの知識的過程への大衆像とその大衆的課題の繰り込みの放棄にあった。戦後過程において、知識人の自立した知識の在り方の最初の試練の場となった60年安保闘争において、<生活者大衆―知識人>の関係における「〈構造〉的な変容」という思想的課題や転向問題は生かされなかった。これらのことを踏まえて、吉本は、安保闘争を次のように総括した。
 吉本は、「市民民主主義の運動を、戦後史のなかに側面から位置づけたのは丸山真男であった」として、次のように述べている。

 

  丸山真男によれば、戦争期の天皇制下に統一的に組織化されていた「臣民」としての大衆は、戦後、「民」としての大衆に還流し、(中略)ひとつの方向は、「私」化する方向で、個的な権利、私的な利害の優先の原理を体得する方向へ流れてゆき、一方はアクティヴな革新運動に流れたが、これはエトスとして多分に滅私奉公・公益優先な意識を残存しているとかんがえている。丸山真男によれば、この第一の方向の「民」は、政治的無関心のほうへ流れてゆき、支配者による第二の方向の「封じ込め」に間接的に力をかすことになった。
  戦後十五年は、たしかにブルジョア民主を大衆のなかに成熟させる過程であった。敗戦の闇市的混乱と自然権的灰墟のなかから、全体社会よりも部分社会の利害を重しとし、部分社会(社会の利害)よりも「私」的利害の方を重しとする意識は必然的に根づいていった。(中略)丸山は、この私的利害を優先する意識を、政治的無関心として否定的評価をあたえているが、じつはまったく逆であり、これが戦後「民主」(ブルジョア民主)の規定をなしているのである。この基底に良き徴候をみとめるほかに、大戦争後の日本社会にみとめるべき進歩は存在しない。ここでは、組織に対する物神感覚もなければ、国家権力に対する集中意識もない。
  このような「私」的利害の優先原理の浸透を、わたしは真性の「民主」(ブルジョア民主)とし、丸山真男のいう「民主」を擬制「民主」とかんがえざるをえない 。(吉本隆明「擬制の終焉」)

 

 人間は社会的生活がより良い方向へと円滑に行われるために諸制度を作るのであるが、それは、社会構成の時代水準に規定されて変遷し拡大し高度化していくし、人間の意識を変えていく面をもつと同時に、人間を強制し抑圧する面をもつものでもある。人間が自己意識を有する生理的な自己身体を不可避に風土的な自然環境に関わらせることで不可避に風土的な自然環境に影響を受けるように、自己意識を持った人間は自らが不可避に疎外した諸制度から影響を受けとる――「人間が環境をつくるとおなじように、環境が人間をつくることになる」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)、「人間は環境と教育との所産である」(マルクス『フォイエルバッハ論』)。このことからいえば、戦後の自由主義国家〈制度〉や資本主義〈制度〉の成熟がもたらした「私」的利害の優先原理(意識)は、共同体至上意識(共同幻想)が個体性を侵蝕していくという戦前の「滅私奉公・公益優先な意識」に基づき縦へ、すなわち国家権力へと集中していった、忠君愛国の政治的ナショナリズムや、立身出世の社会的ナショナリズムという大衆における大衆ナショナリズムを解体させていったということができる。この事態は、関係意識の横への拡散・関係意識の希薄化は、共同体の統括力や企業組織等への帰属意識の拡散・希薄化・衰退だけでなく、地域や家族における関係意識の拡散・希薄化・衰退をもたらすことにもなった。少し古いが2006年6月12日の読売新聞の全国世論調査によれば、関係意識の希薄感や喪失感は、大都市部だけでなく小さな町村部にまで及んでいることが分かる。すなわち、「社会の人付き合いや人間関係が希薄になっていると思う人は、2000年7月の前回調査よりも7ポイント増え、80%に達した。希薄になっていると思う人は、大都市よりも、中小都市や町村で急激に増えており、人のつながりの喪失感が大都市部だけでなく、全国的に広がっていることが浮き彫り」となっている。
 吉本は、丸山と異なって、「公」や社会の利害よりも「私」的利害を優先する原理(意識)を、戦後的価値として、すなわち「真性の『民主』(ブルジョア民主)」の確立や大衆の自立の契機として把握する。なぜならそれは、ブルジョア民主を包括し止揚(無化)し本当の民主を構成し得る物質的基礎(契機)となるものだからである。またそれは、日本の大衆がはじめて共同体至上原理という共同幻想の呪縛から解放される物質的基礎(契機)となるものだからである。したがって、それは大衆の無意識(共同幻想・共同的無意識・集団的無意識)においてあったとはいえ、「私的利害の優先原理」を、真性の「民主」(ブルジョア民主)への契機として評価しない限り、ブルジョア民主主義を超えることはできないという把握の在り方に、知識人における自立的思想の課題はあったのである。吉本は、この「真性の『民主』(ブルジョア民主)」の確立や大衆の自立へと向かい得る意識を、戦後的価値として評価するのである。なぜなら、この「真性の『民主』(ブルジョア民主)」の確立や大衆の自立へと向かい得る意識に基づく政治思想は、前衛を相対化し、「組織官僚主義」に左右されない全学連の独自な行動を生んだからである。また逆に、丸山真男や竹内好のいう市民民主主義の運動は、社共や国民共闘会議の指導から自立することができなかったからである。
 しかし、吉本は、この知識人における事態の総括と同時に、あるサラリーマンの次のような手記についても総括している。吉本は「実務の中の思想」の会の「ビルの内側から」(『思想の科学』七月号)にあった、「五月二〇日の朝、私は新聞を見てがく然とした。興奮状態のまま満員電車に揺られ、話し相手を求めて会社にかけ込んだ。ところが……私の職場ではタダの一言も今回の政府の暴挙は話題にならなかった(中略)全くいつもとかわらぬ日常業務に浸った。(中略)ゆっくりとペンを走らせるのが、一番自然に思えてくるのだ。一言でいえば、企業体のもつ一種特有なムードに押されてしまったということだ」と書いたサラリーマンのレポートを引用して、次のように述べている。

 

  このレポートは、ビルの内側の動かない部分を遅れた部分とし、安保行動に参加した部分を進んだ部分とし、前者を傍観者とみることの不当性を指摘している点で、市民・民主主義のどの思想家の擬制をもこえている。しかしこのような実感的な「民主」を身につけながら、ビルの内側が現実の日本の経済を担った実務のプログラムが進行している場所であり、責任をとる場所であるというように……このレポートの筆者は実感的な私的優先感が、擬制の「民主」に傾いているちょうどそれだけ、自分の生活の生産を資本家的な公益優先のなかにのめりこませているのだ 。(吉本隆明「擬制の終焉」)

 

 ここでは、大衆が、本当の民主主義の契機となり得る民衆主体の「私的優先感」を実感しながら、その「民主」に擬制の「民主」を残存させている分だけ、企業組織内部で「公益」を「優先」させていく生活者大衆について語られている。生活者大衆にも自立の課題があることが語られている。大衆が国家を死滅させるためには、「知識人を模倣することをやめるほかない」し、「公」よりも「私」を、共同性よりも個体性を、知識人や政治家よりも自らを含めた「民衆」を優先させていくことが必要なことが語られている。
 戦後知識人は、第一に「民主化の契機をもつがゆえに現行の憲法は擁護」されるべきだと考え社共の周辺に群がった「戦後民主主義者」と、第二に「『自由』の契機が少ないがゆえに、より『自由』な意志によって憲法は改定」されるべきだと考え自民の周辺に群がった「自由民主主義者」に大別できる。「戦後民主主義」知識人の丸山真男を、吉本は次のように述べている。「現在の制度から提供されている機会を享受し、その可能性を最大限に活用する能力のない」丸山によれば、大衆には未来を担当する能力がないとされている。しかし、その大衆は、「現在の制度を越える可能性を行為と理念によって持ちうる」し、その大衆は「幻想」をはなれた具体的な生活過程においては、「丸山を凌ぐ優れた現実認識者であり得る」のである(吉本隆明『自立の思想的拠点』「情況とは何かU」) 。丸山の思考法は、知識人の思想的課題であり、また戦争があたえた最大の教訓である「大衆の原像をたえず自己思想のなかに繰り込む」という知識人における思想の自立の課題を放棄すると同時に、それゆえに知識や知識的集団を大衆から閉じていく戦前期の様式に復古していく在り方である(吉本隆明『自立の思想的拠点』「情況とは何かU」) 。丸山は、戦前の知識人の存在様式を越えることなく、知識人における思想の自立の課題から遠ざかったのである。つまり、知識を学問的知識として知識内部に閉じたのである。竹内好の市民民主主義については、吉本は次のように述べている。

 

  岸政権による安保単独採決からとつぜん独裁という概念がとびだす。そして、これに対立する概念として民主主義がとびだす。ブルジョアジーは独裁のために議会民主主義をひつようとするということは、採決が紳士的におこなわれようが暴漢的におこなわれようが、それとは無関係であるという最小限度の常識がここでは奇妙な混乱をしめした。竹内好はここで独裁という概念と民主という概念に実体をつけずにひきまわしている。(中略)独裁とは具体的にどのような実体としてあらわれ、民主とはどのような実体としてあらわれるかという問題はぬけおちたのである 。(吉本隆明「擬制の終焉」)

 

 ここで吉本は、第一に、「民主」の「実体」は生活者大衆にあることを述べているのである。第二に、戦後における法制的中枢である憲法が自由主義国家制度を標榜し、経済的社会構成が資本主義制度を成熟させていく過程で、その制度が生活者大衆の意識内部に、「公」や「社会の利害」よりも「私」的利害を優先させていく「私」的利害の優先原理(その意識)を浸透させていったことを述べているのである。それは、究極の革命像としてある、国家の無化・死滅への契機ともなるものである。そのような日本の大衆の成熟を戦後的価値として、知識人が自らの思想に繰り込むべきところに思想の課題があることを述べているのである。ここにおいては、吉本は、私的利害の優先原理を過渡的に評価しているのだし、ある時代水準における大衆像や大衆的課題、すなわちそうした物質的基礎(契機)を媒介しない限りは、現在を包括し止揚して、そこから超出していくことはできないということを述べているのである。市民主義的知識人は、「個人の原理はすべてに優先する」と言う。そして、その「個人の原理」は国家の原理を超えると言う。しかし、そのような、人間の存在様式の総体構造や個と類・歴史性と現存性の構造や観念の共同性としての国家に無自覚な思想は、国家を原理的に超えられることはない。なぜなら、例えば、個人原理は「恣意性のうえに成りたった個人原理、恣意的自由、(中略)のうえに成りたつ自由であるから、市民社会における個人の特殊原理を尊重するというのは、まさに(中略)近代国家の意識というもの、つまり近代国家というものを想定せずしては成りたたないもの」である。「そういう個人原理が近代国家の原理を超える」ことはあり得ない。近代国家なくして個人原理はないからである(吉本隆明『吉本隆明全著作集14』「国家・家・大衆・知識人」勁草書房) 。政治的法的に信教の自由が保証された政治的近代国家の段階において、国家の問題は、現世的問題、すなわち政治的近代国家の批判の問題となる。なぜなら、人間は社会的現実的に自由でなくても・解放されていなくても、観念の共同性・共同幻想である国家は自由主義国家であり得るからであり、その場合そこにおいて人間は、恣意的に自由であり得るだけだからである。また、人間は、経済的社会的な不平等や格差があっても、法的には平等であり得る。このように完成された政治的近代国家の場合そこにおいて人間は、その思惟や現実的生活において、天上の観念的非日常性(政治的共同性)と地上の現実的日常性(市民社会生活・個別的私的現実的生活)との二重の生活が強いられる。人間が諸矛盾や諸利害の対立のある現実的な市民社会の中でその社会の本質を観念的な法的政治的共同性として疎外する時、すなわち自己還帰しない逆立した疎遠な共同的観念・法・制度によって現実的社会的諸矛盾・諸利害の対立を止揚する時、人間は現実的社会的にと観念的政治的にとの二重の生活を強いられる。言い換えれば、具体的に私人として、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争いの生活、利害共同性との対立・争いの生活と、一方であたかもそうした対立や争いのない法的政治的共同的観念によって統一された公的共同性の一員・公民としての生活との二重の生活を強いられる。完成された政治的近代国家は、人間の物質的生活に対する人間の類的生活(逆立した観念の共同性における観念的生活)を本質とする。宗教は、政治的共同体がまだ整備されていない段階では、人間の自己意識の類的本質としての自己を至上のもの(価値・第一義性)と考える人間の自己意識の表象であるが、政治的共同体が整備された近代国家では、宗教は、法(逆立した観念の共同性)を至上物(価値・第一義性)と考える人間の自己意識の表象となって現われる。この完成された政治的近代国家における国家の問題は、観念の共同的形態である国家と個別的私的現実的生活の場である市民社会との問題として現われる。したがって、ここで、国家の問題は、人間の社会的現実的総体的永続的な解放の問題として現われる。すなわち、それは、一切の価値・第一義性を、対自的であって対他的でもある現実的な個の現存に自己還帰させる問題として、そしてその個を媒介とした社会の構成の問題として現れる。この国家の無化を伴う解放の問題は、革命思想にとって還相的な究極的総体的永続的課題である(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」勁草書房)。