本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

日本知識人の敗北的な存在様式(続)――大学紛争以降

 1960年代後半の大学紛争における大学知識人の在り方について、吉本は次のように総括している――戦中・戦後にかけて知識的過程を歩み、戦後過程において民主主義(市民主義あるいは進歩主義)を標榜した大学知識人は、大学紛争に直面した時、その収拾のために、「たとえ一人であっても」その自らの思想で思想的に学生たちに対峙すべきであったにもかかわらず、そのようには対応せず、もっとも安易で卑劣な機動隊導入という技術的対応で立ち向かった。このとき、大学知識人自らが、大学の自治と学問研究の自由を外在的権力に譲り渡したのである。それだけでなく、大学知識人の知識が、現実の情況と関わらせることなく、依然として知識内部で円環し、「戦後二十年を経て来た(思想の)蓄積」を果たしてこなかったことを露呈させたのである。このような事態によって、「戦後民主主義は、現在の学園紛争のなかで、思想的に完全に終わった」のである、と。また、丸山真男が『現代日本の革新思想』のなかで、吉本のような評論家等を「心情的ラジカリズムを持っている連中」として批判していることに対して、吉本は次のように批判を加えている――「大学教授が偉いとか、優秀であるとかいえるのは、自己の専門の学問の領域で、一定年数研鑚をつんだとか、そういう意味でいえるのであって、それ以外の意味では決して偉くも何ともない」。「問題は、そういう発言が自然に出て来る基盤」にあるのであって、それは、「この社会が通用せしめている特権に対して、全く自覚的でない」ということを意味している。すなわち、それは、市民社会的秩序・市民社会的価値観や常識を、無自覚的に受け入れるか、自覚的に無化させていくかという問題は、「資質の問題」であると同時に「思想の問題」でもかかわらず、その事柄を自覚的に扱ってこなかったことを意味している、と(『敗北の構造』「大学論」)。言い換えれば、 日本知識人は、大学紛争においても、戦争体験や安保闘争体験の反省に基づく<生活者大衆―知識人>関係における「〈構造〉的な変容」という思想的課題を自覚的に扱わなかったのである。したがって、そうした日本的知識人の敗北的な存在様式は、綿々として尽きることなく現在へと続いているのである。

 

  大学紛争の根底にあるのは、戦後の大学の理念として潜在してきた市民民主主義思想のなか身の問題である。かれらは学問研究の自由、思想の自由という名目のうちにある特権を、じっさいに大学が温存してきた前近代的な学閥支配体制の解体のために行使せず、「プレスティジ」のある地位を保守するために逆用してきたのである 。(『情況』「収拾の論理」)

 

 それでは、戦争体験や転向問題や安保闘争や大学紛争を経由した現在の知識人はどういう位相にあるのであろうか? 吉本は、蓮見重彦の「物語の時代」で述べた言葉を引用して、蓮実の「一般大衆」に対する感性的異和の在り方について述べている。すなわち蓮見は、「マスとかいわゆる一般大衆とかいうものとは関係なしに生きたいと思う瞬間というのは、……私には完全にあるわけです」。10パーセントの雨の確率予報に「ごく忠実に慎ましく傘をかかえ」「電車のホームをうずめつくしている。これがまず気に入らない」、という「一般大衆」に対する感性的異和について述べている。「主義として」ではないが、「排除と差別への誘惑の程度」で、「ああいう連中と同じ電車に乗るのは絶対に恥じであるから家に帰ろうと思うわけです」、と述べている。このような蓮実に対して、吉本は批判的に次のように述べている――すなわち、吉本は、「左翼と認め」てもらいたいために「共産党や社会党を応援する」蓮実における「一般大衆にたいする隔離の願望」は、左翼における「エリート官僚による一般大衆支配」と一致している、と述べてうえで、自分自身(吉本自身)は「主義主張以前に、理屈ぬきで『一般大衆』とか『マス』とかが好きで、そこにまみれてまぎれて生きたいという願望を我慢して、耐えながらそこから逸脱を余儀なくされている」から、知識人としての場所から一般大衆を「応援」している、と述べている 。ここで吉本の「理屈ぬきで『一般大衆』とか『マス』とかが好きで、そこにまみれてまぎれて生きたいという願望を我慢して、耐えながらそこから逸脱を余儀なくされている」という在り方の表明は、自己解放・自己慰安・自己救抜の欲求、また生活者大衆の社会的現実的人間的な究極的総体的永続的救抜の欲求、そしてまた情況に強いられて、<不可避>に知識人として登場せざるを得なかった、ということを意味しているのである。そして吉本は、フーコーの「権力と戦略」を引用して、フーコーには権力を分析するために、「平民的」なものからの視点があるが、蓮実は一般大衆を最初から放棄してしまっていて一般大衆を自覚的に自らの知識過程に包括していく視点がない、と述べた (『情況へ』「情況への発言 雑多な音響批判」)。私も、こうしたフーコーについて、「批評にとって作品とは何か(吉本隆明と蓮實重彦との対談)」において書いたのであるが、その時私たちは、フーコーがフランス革命から探し求めなければならないことは、その革命に「加わっているわけではないがそれを見つめている、それに立ち会っている、そして最良あるいは最悪の場合、それに捉えられてしまっている観客によって大革命がその周辺で受け入れられるその仕方」の根にあるものの解明にあるというように述べた時、それは、フーコーの「平民的」なものへの視点を意味していることを知ることができた。また、バルトの、教義学的知識の頂からその還相過程において、「町や村や料理屋や宿屋の人間の現実的生活」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)・「貧しい、低きにいる民」(『説教の本質と実際』)の現実的生活に意識的に下降し、その民衆像と民衆的課題を、すなわちその究極的包括的総体的永遠的救済の課題を、その神学の認識方法と概念構成に繰り込むという神学における思想的立場も、吉本やフーコーの思想的な在り方と同じである。この思想的な在り方は、神学者のバルト、哲学者のフーコー、文芸批評家の吉本等、世界的な思想家に共通しているものである。
 吉本には「日常のある日に、突然」やってくる自問自答がある。それは、次のようなものである――「文学というのは、生きて生活を繰り返し、妻子をもち、生涯のおわりまで職業的人間の場所を離れないでは生きることができないというこの現実の成り立ちの根拠を認める限りは、成立不可能なのではないか」という自問自答である。吉本は「電車にのりあわせ、買い物に出かける」。「そこで出逢う人々は」、自分(吉本)と「まったく変わらない見かけをもっている」。しかし、「そこで交わされている会話は」、自分(吉本)にとって「何か不可解で、這入りこめない別世界のようにおもわれたりする」。自分(吉本)は「覚悟をつくり変え、そして生活者の世界に何気なく這入りこむ。するとこんどは<書く>という世界は、はるかに遠く」、自分(吉本)がその世界に従事する必然はなくなる 。そのただ中で吉本は、今度は次のように自問自答する――「わたしは、……文学の世界に身を寄せても文学者の世界に身を寄せることはもっとも少ない人間である」、「思想の世界に身を寄せても、思想者の世界に身を寄せることのもっとも少ない人間である」。しかし、自分(吉本)は「日常生活の世界に身を寄せて」も、ほんとうに「日常生活者の世界に身を寄せ」ている人間だろうかと自問する。この自問において、自分(吉本)は、意志的に「日常生活者の世界に、もっとも多く身を寄せよう」とする。これは、大衆迎合・大衆同化・大衆啓蒙とは全く違う、吉本の思想における倫理的態度である、言い換えれば、吉本の意志的な思想の往還の在り方である。「ここで、わたしにとっての日常生活の意味は必然的に転倒されなければならないという思想的課題に直面する」。したがって、その思想的課題である「日常生活の意味」の「転倒」は、繰り返しの日常的な生活世界を「無価値」や「無意味」や「死」と位置づけ、非日常的な知識世界への登場や知識的世界や富や名誉や権威・権力や社会的地位に価値があるとする意味づけや物語化や思想的立場を転倒させることを意味する。このことは、思想にとっての客観的で普遍的な価値基準を社会的存在の自然基底である大衆の原像に置くこと、すなわちその時代によって変容する大衆像と大衆的課題を、非日常的な知識世界に繰り込むことを思想的立場とすることを意味している(『吉本隆明全著作集4』「なぜ書くか」勁草書房) 。
 人間は、「日常性」(市民社会における管理された経済的社会的生活や家族的生活)の中で、現実的具体的に生き生活している。また人間は、「非日常性」(観念的世界における観念的行為を本質とする「政治」・「文化」・「宗教」・「芸術」)の中で、観念を駆使して生き生活している。このように、「人間はたれでも日常性と非日常性に領有されていることにかわりありませんから、日常性と非日常性とは反対概念でも、<あれか、これか>でもありません。……その関連と選択のおき方とが問題なだけです」。したがって、非日常性としての思想とか政治運動等が、なぜ日常性(大衆原像、すなわち時代によって変容するその大衆像と大衆的課題)を繰り込まなければならないのかといえば、それは、第一に、「情況的には、日常性を考慮しない」思想や「政治運動」は、「<閉じられた倒錯>か<背離>を体験せざるをえない」からであり、第二に、「理念的には、日常性の代名詞のようなものである〈大衆の原像〉を繰り込みえない非日常性の思想は、<閉じられた円環>に入りこむほかないことは、原理的に明瞭」だからである(『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」筑摩書房) 。

 

  ぼくは日常性の中では、市民社会の法律に違反しないように生きていますが、精神の表現の世界では、法律なんか一切考慮していません。精神の違法性≠ニいいましょうか。際限なく違法性があるのが人間性≠セと思っています 。(『超20世紀論』)
  「日常性」のなかに深淵を、裂け目を、背信や裏切りや殺人や退廃を視る眼をもっているつもりです。亭主が早くしんでくれたらとか、女房を殺してやりたいとか、友人を奈落の底に蹴落して、素知らぬ貌をして土に埋めるとか、いうことが、「日常性」のなかの〈眼に視えない〉(それは「非日常」の特徴ですが)劇として行われていることを視ることができるつもりです。また、「非日常性」のなかに、〈眼に視える〉「日常性」の存在を視ることもできます 。(『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明対談集』「思想の基準をめぐって」)
  「日常性」が現在の世界で国家の秩序に荷担したものでしかないことは、たれにとってもその通りで、これを摘発しても、しなくても、免かれることはできません。……だからこそ「非日常性」の思想をもつことを、人間は<強いられる>のではないでしょうか。また、その共同性がもとめられるのではないでしょうか。(中略)「日常性」と「非日常性」は、人間の総過程として<在る>もので、あらためてそれを見直すかどうかという意味は、「日常性」のなかに「非日常性」を、「非日常性」のなかに「日常性」を<視る>ことができるかということで、市民社会の具体的な場面に政治的な意味づけを与えようとすることではありません 。(前掲書)

 

 吉本にとって、<革命の可能性>あるいは<革命の不可能性>を定めるのは、先ず以て、「<原像>としての<大衆>」である。「日常性」が「現在の世界で国家の秩序に荷担したものでしかない」から、国家に加担しない共同性を求めるのであるが、その共同性もあくまでも過渡的形態としてあるものであり、したがってその共同性は必ず大衆に開かれた共同性であるべきであり、究極的には止揚され・無化されるべき共同性である。言い換えれば、外部世界としての共同性は、自己や大衆に対して完全に開かれているべきであり、また自己や大衆の内部世界は、価値を外部世界の共同性に置くのではなく、あくまでも内部世界の自己や大衆に価値を置いて、その外部世界の共同性に対してはそれを過渡的形態としてのみ把握し、したがって究極的永続的にはその共同性の無化の契機を持っている必要がある(「思想の基準をめぐって」)。

 

  人間の生き方、存在は等価だとすれば、その等価の基準は、大衆の〈常民〉的存在の仕方にあるとおもいます。(中略)一般的には、生まれ、成長し、婚姻し、子を生み、……賃金を獲得し、(≪子を育て≫)、老い(≪て死んでいく≫)という生涯について、人々は<空しい生>の代名詞として使おうとします。けれど、(中略)どんな時代でも、こういう平坦な生き方を許しません。大なり小なり波瀾はどこにでも転がっていて、個人の生涯に立ち塞がってきます。だから、人間は大なり小なり平坦な生き方の〈原像〉からの逸脱としてしか生きられません。この逸脱は、まず、生活圏からの知的な逸脱としてあらわれ、また、強いられた生存の仕方の逸脱としてあらわれます。そうだとすれば、かつてどんな人間も生きたことのない〈原像〉は、価値観の収斂する場所として想定してよいのではないでしょうか。 (吉本隆明『思想の基準をめぐって』深夜叢書社)

 

 吉本は、「<自己の生活圏から行動においても思考においてもでてゆかない存在>とは、それ自体が原基である存在」であり、原像としての生活者大衆である。したがって、「<行動においても思考においても>」、意志的に「自己の生活圏を下降する方向を課せられたとき、転倒された、「価値」の過程がかんがえられる」、と述べている。「自己の生活圏から行動においても思考においてもでてゆかない存在」と、「事があればワツとウルトラにゆきすぎる存在とは、いわば<価値可能性>の両面とみるべき」である。大衆の後者の面は、自然発生的なものであって、「<政治力>が身近にやってきたとき、たしかにまず<大衆の原像>と<知識人>とが、何ごとかの可能性に向かって力を集中する」。しかし、自然発生的な大衆の後者の面は「ここでいう<価値>」ではない。なぜなら、そこには価値への意志や自覚がないからである。それに対して、大衆の前者の面は、生活者大衆自体が自己の生活圏に向かって生活思想的に下降していくという、生活の意志的過程、すなわち生活の価値過程を包括している。「大衆が大衆自体の<生活圏>に向かって思想的に下降したとき、また、知識人が<大衆の原像>を繰りこむという課題に向かって出発をはじめたとき、すでに<政治力が身近>に来るか、<政治力>に向かって接近するかどうかにかかわりなく、<政治力>はすでに手中に包括されてある」。そこに、<開かれた>政治力がある。そこに、自覚的に自立した大衆と自立した知識人による開かれた政治力、開かれた政治、開かれた共同性がある 。
 日本の大衆は、「日本の社会が西欧型の高度資本主義社会に高度成長して変化したとき、言語と映像の世界の水位の上昇と氾濫で、完全に浸されてしまった。だから、非言語的、非映像的な存在としてはなくなってしまった」 。大衆は、自分の意志においてではなく、外部の世界の方から無意識的に、知識的大衆として知識的世界に、あるいは知識人として知識的世界に登場させられることになってしまった。岩井克人は、「上っ面の言語の世界からまったく無傷なかたちで、しかしながら確固とした生活実感をもっている」ような「大衆の原像」が、「高度成長期にほぼ実体として消えた」と吉本を批判した。それに対して吉本は、次のように批判を加えている――岩井の大衆原像が「確固」としたものではなくなったという言い方は、当然なことを意味ありげに述べているに過ぎないことは、常民が転向したらどうなるかといった柄谷とおなじように思想的な無知によるものである。すなわち、転向を考える必要がないから「常民」なのであり、「常民」とは「支配制度の経済社会的な構造に対応する無意識の深層として、いつも制度の経済社会的な構造と一緒に変化しつづける大衆をさしている」、と。そして、それが、「思想の自立する根拠であることは、いまでも確固としたことだ」 、と。そしてまた、「支配の制度があるかぎり」 、思想の自立の拠点としての大衆原像は、知識人における自立の課題としてたえず繰り込んでいくべき対象としてある・「大衆の原像にしか、反権力、非権力の理念が包括すべきものは存在しない」・反権力、非権力、反体制の理念は、「原像としての大衆」を包括していなければ成立し得ない、なぜなら、そうでなければ、支配が被支配を逆立した鏡として成立している支配の在り方を超えることはできないからである、と(『吉本隆明全著作集13』「情況とはなにか」勁草書房)。
 既存の知識人・政治集団における大衆像とその大衆的課題の把握の在り方について、吉本は次のように述べている。

 

  現在にいたるまで、知識人あるいは政治的集団である前衛によって大衆の名が語られるとき、それは倫理的かあるいは現実的な拠りどころとして語られている。大衆はそのとき現に存在しているもの自体ではなく、かくあらねばならぬという当為か、かくなりうるはずだという可能性としての水準にすべりこむ。大衆は平和を愛好するはずだ、大衆は戦争に反対するはずだ、大衆は未来の担い手であるはずだ、大衆は権力に抗するはずだ、そして最後にはずである大衆は、まだ真に覚醒をしめしていない存在であるということになるのだ。(中略)こういう発想はまったく無意味である。(中略)大衆は平和を好まないはずだ(中略)大衆は未来の担い手でないはずだ(中略)といってもおなじだからである。あらゆる啓蒙的な思考法の動と反動はこのはずである存在を未覚醒の状態とむすびつけることによって成立する 。
  大衆は政治的に啓蒙されるべき存在にみえ、知識を注ぎこまねばならない無智な存在にみえ、自己の生活にしがみつき、自己の利益を追求するだけの亡者にみえてくる。これが現在、知識人とその政治的な集団である前衛の発想のカテゴリーにある知的なあるいは政治的な啓蒙思想のたどる必然的な経路である 。
  しかし、わたしが大衆という名について語るとき、倫理的なあるいは政治的な拠りどころとして語っているのでもなければ、啓蒙的な思考法によって語っているのでもない。あるがままに現に存在する大衆を、あるがままとしてとらえるために、幻想として大衆の名を語るのである 。(『吉本隆明全著作集13』「情況とはなにか」)

 

 ここには、知識人・政治的集団が、あくまでも経済的社会構成や支配構成の時代水準の中で生き生活する「あるがままに現に存在する大衆」を、<抽象>することで得られる大衆像や大衆的課題において語らず、架空性において語っていることが述べられている。すなわち、知識人・政治的集団が、大衆を当為や可能性や「未覚醒」の状態からの覚醒において語り、したがって、啓蒙すべき対象として語っていることが述べられている。このとき、価値転倒が行われている。すなわち、そこでは、大衆原像や生活過程から知識人や知識過程の方への価値の転倒が行われている。吉本は、トロツキーの自叙伝を引用して、「無鉄砲に発火しない」し、「容易に生活上の欲求をはみだして強大な専制権力にたいして蜂起することはない」という思惑を超えた自然発生的なロシアの大衆の蜂起について述べている。つまり、「大衆の存在様式の原像は、これをどんなに汲みとろうとしても、手の指からこぼれおちてしまうものをもっている」。「どんなに考えても考えすぎることはないといったふうに存在している」。「しかも、大衆はまたどんなに意味をつけようとしても、意味のつけようがといった矛盾をも裏面にはらんでいる」(『吉本隆明全著作集13』「情況とはなにか」) 。こうしたアモルフ(amorph)な大衆の存在様式を、吉本は次のように述べている。

 

  たとえ社会の情況がどうあろうとも、政治的な情況がどうであろうとも、さしあたって『わたし』が現に生活し、明日も生活するということだけが重要なので、情況が直接にあるいは間接に『わたし』の生活に影響をおよぼしていようといまいと、それを考える必要もないし、かんがえたとてどうなるものでもないという前提にたてば、情況について語ること自体が意味がないのである。これが、かんがえられるかぎり大衆が存在しているあるがままの原像である。
  大衆は社会の構成を生活の水準によってしかとらえず、けっしてそこを離陸しようとしない理由で、きわめて強固な巨大な基盤のうえにたっている。それとともに、情況に着目しようとしないために、情況にたいしてはきわめて現象的な存在である。もっとも強固な巨大な生活基盤と、もっとも微小な幻想のなかに存在するという矛盾が大衆のもっている本質的な存在様式である 。
  大衆がその存在様式の原像から、知識人の政治集団の方へ知的に上昇してゆく過程は、レーニンやトロツキーの考察とはちがって、じつはたんなる自然過程にしかすぎない。したがって『倫理的威容』の問題ではない。もし現実的な条件がととのっていると仮定すれば、大衆から知識人への上昇過程は、どんな有意義性ももたない自然過程である。(中略)大衆が国家の幻想性によって制約されずに(世界)連合が可能であるという根拠は、社会の構成を生活過程の水準をはなれてはかんがえることがないという点にみとめられる。社会の構成のおもな過程が世界性としての経済過程であるため、生活水準としてけっしてそこからはなれられない大衆の(生活)思想は、世界性という基盤をもっているのだ。これが、労働者に国境がないということの本質的な意味である 。(『吉本隆明全著作集13』「情況とはなにか」)

 

 大衆の「あるがままの原像」・大衆の「本質的な存在様式」は、「社会の構成を生活過程の水準をはなれて」考えることはないし、社会的・政治的な情況に「着目」しないために、それら情況に対して「現象的な存在」としてあるところにある。このことから、「強固な巨大な生活基盤」と「微小な幻想」に生き生活するところにある。ここで考慮すべきことは、第一は、知識的に上昇して、大衆から知識的大衆へ、知識的大衆から知識人へと逸脱していく過程は、意味ではあっても価値ではないところの知識における自然過程であって、「どんな有意義性ももたない」ということであり、第二は、社会の構成の中枢にある経済的社会構成における経済過程は世界性を有しているから、大衆が自らの生活の充足度の水準によって、社会構成の時代水準を自覚的に思考し、判断し、評価していくところで獲得していく生活思想は、「世界性」を有しており、民族国家の幻想的な枠組みを超えて「世界連合」が可能となる、という点にある。ある国家において生活者大衆が貧困と格差と飢餓に困窮しているとすれば、それは、その民族国家(政府)自身・支配上層の社会構成の失敗によるものであり、その民族国家(政府)自身・支配上層の責任である。それはなぜかといえば、「この世界に、(中略)実在するのは、少数の支配層と多数の被支配層との差別と矛盾だけであり、この実在する矛盾は、現在のところ各国の国家本質の実体(≪政府≫)のもとにあり、それ以外のところには存在していない」 からである。したがって、国家の無化・止揚を目指す知識人・知識的集団・政治的集団における「大衆がたえず噴出させる」大衆的課題の把握は、「ただここから源泉をくみ、ここから出発」しなければならないのである。そして、生活者大衆の方は、自らの思考や知的関心を、知識的過程に向けず、すなわちメディアの知識・情報や知識人の知識・情報や政治的集団の知識・情報を鵜呑みにしたり模倣したりすることなく、貧困と格差と飢餓に困窮する自らの生活過程を凝視し、現存する社会の構成を判断し、その社会構成・支配構成を批判していくところで生活思想を構成していく時、民族国家の幻想的な枠組みを超えて「世界性」を獲得し世界の生活者大衆と連帯でき得るのである。なぜなら、現在、高度情報社会下で生活者大衆は、言語的・映像的マス・メディアの発達によって、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなってしまい、生活者大衆は量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場する知的大衆へと大きな変容を受けてしまったとは言え、「歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即時体験と体験思想を逆さにもって、大衆を抑圧する強力とすること」にあるからである(『自立の思想的拠点』「日本のナショナリズム」徳間書店、『マス・イメージ論』福武書店)。
 レーニンやトロツキーが、国家は階級支配の道具であると述べたのに対して、その前に国家がなければ階級はないというところに国家の思想的な問題があるとして、吉本は次のように述べている。

 

  思想の問題としての国家は、あるがままの大衆の存在様式の原像からうみだされた共同的な幻想として成立し、そこから大衆の生活過程と逆立し矛盾するにいたったものとして規定される。それゆえ、知識人の政治集団としての前衛が、大衆的な課題に接近しようとするとき、大衆の社会生活としての存在と逆立し、しかも大衆の幻想の共同的な鏡である国家と必然的に衝突し、それを第一義的な課題としてふまえざるをえないのである 。(『吉本隆明全著作集13』「情況とはなにか」)

 

 対幻想の共同性としての〈家〉は、「習俗、信仰、感性の体系を、現実の家族関係と一見独立して進展させることはあっても」、社会の共同性や国家の共同性をまねきよせることはしない。しかし、社会や国家は、家族の成員の社会的幻想の表出を逆立した姿でかすめとっていく。「ここでもまた、大衆の原像は、つねに<まだ>国家や社会になりきらない過渡的な存在である」。しかし、「すでに国家や社会もこえた何ものかである」 。この大衆の原像は、価値観の収斂する場所であると同時に、それを繰り込むことによってはじめて、思想が現実性をもち得る場所でもある。吉本は、ヘーゲルの『精神現象学』に依拠して、次のように述べている――夫・妻の関係は互いに認め合う相互認識関係・相互了解と相互承認の関係であるが、それは自然的認識の水準にあるもので人倫的認識ではなく、精神の可能態であっても精神の現実態ではない。したがって、この関係は、子供という他者において現実となる。ここでは、「個人は市民としてのみ現実的であり、家族の一員としては非現実的で無力な幻想である」。しかし、事実は逆である。「人間は<家>において対となった共同性を獲得」し、ただ自然的関係である「家において現実的であり、人間的であるにすぎない」。市民の概念は、「<最高>の共同性としての国家の理念なくしては成りたたない。それゆえ、国家の本質をうたがえば、人間の存在の基盤はただ〈家〉においてだけ実体的なもの」であり、「ただ大衆の原像においてだけ現実的な思想をもちうるにすぎない」 (『自立の思想的拠点』「情況とはなにかY」徳間書店)。それに対して、知識人とは、大衆原像からの自然過程的な知識的上昇による知識領域への逸脱において成立する大衆のことであり、国家の共同性に基づいてしか知的世界を構成できない大衆のことである。したがって、例えば知識人の後者の問題で言えば、知識人は、大衆の家の問題を扱う場合にも、経済的社会構成の時代水準を生きるあるがままの大衆像や大衆的課題を自らの知識過程に繰り込まず、民法規定等を媒介にしてしか知的世界を構成できないのである。つまりそうした知識人は、刑事犯罪や少年犯罪の増大に対して、罰則規定の強化や少年法の改正に依拠して、すなわち法的言語に依拠してしか知的世界を構成できないのである(『自立の思想的拠点』「日本のナショナリズム」)。
 このように、国家の共同幻想の意志(具現化)である法制的中枢にある憲法、刑法、民法等の法的言語に対して、知識人・知識的集団は知識の自然過程である知識的言語で対峙するが、原像としての大衆は「沈黙の意味性というもので対峙」し、「沈黙の意味でもって服従」する。この「沈黙の意味でもって服従」するとは、「けっして唯々諾々として服従していることとは」違う。すなわち、大衆が沈黙して服従していることの意味は、心的な「亀裂」を内包させているということである。つまり、心的には行動している事態である。その心的行動は、叛逆的でもあり得る。吉本は身体的行動(身体の反射行動)を人間的な「〈行動〉の初原的な形態」とはみなさない。吉本は、「心身の<行動>に意味や価値を与えることができるのは、人間が他の動物とちがって、まず心的に<行動>し、つぎに身体的に<行動>するということを、おなじ対象性にたいしてなしうるということにのみ依存している」 と述べてから、次のように論じている。「人間のもっとも初原的な<行動>の形態は、身体が行動しないことである。ここで身体が行動しないことはふたつの境界を暗示する。ひとつは心的な行動もないことであり、もうひとつは心的な行動だけはするということである。この身体が行動しないことに伴う、心的な世界の分裂は、わたしたちに心身の相関する領域における観念的あるいは唯物的一元論が、観念的あるいは唯物的二元論とともに成りたたないことをおしえている」(『詩的乾坤』「メルロオ=ポンティの哲学について」国文社) 。吉本は、意味的行動とは現実の場で身体的行動だけがなされることであり、価値的行動とは現実の場で心的行動だけがなされ身体的行動はなされないことであると規定して、心的行動が非行動ではなく価値的行動として価値性を有する根拠を次ぎのように述べている。「価値的行動では<行動>が現実の<場>と一義的な関係をもたず、そこに予想されるものは、いつも<場>との多義的な関係である」 からである。したがって、「国家の共同幻想にたいして対決しうる唯一のものは」、それと本質的に逆立する文学等の「個人幻想である」が、知識人・知識的集団(共同性)が「国家の共同幻想にたいして反体制的あり得る唯一の可能性」は、大衆の「沈黙の意味」である価値的行動としての心的「亀裂」を、自らの思想に繰り込んでいくところに思想的な課題を置く点にあるということができる。そうしない限りは、「知識人の集団というものは、いわば反体制的には存在しえない」のである(『吉本隆明全著作集14』「自立的思想の形成について」勁草書房) 。
 「思想の問題としての国家は、あるがままの大衆の存在様式の原像からうみだされた共同的な幻想として成立」するというのは、「あるがままの原像」としての大衆は、社会的・政治的な情況に「着目」せず、<生活>の自然過程において情況に抗し得ない分だけ、そこで疎外された共同幻想は、逆立した形で国家の共同幻想に加担せざるを得ないものとなるということである。したがって、「社会の構成を生活過程の水準をはなれてはかんがえることがない」生活者大衆の<生活>思想は、大衆の逆立した鏡としての国家の共同幻想(国家の共同性・法・制度)と「逆立し矛盾する」ことになる。例えば、この事態は、公共の福祉に基づく土地収用法を適用し、強制的に農民の土地を収用していったところの国家の共同幻想と、土地は農民の生活的基盤であるとする農民の<生活>思想とが逆立していく関係にみることができる。沖縄の基地問題も、ここでの農民を沖縄の当該住民に置きかえれば、ここでの問題と通底してくる問題としてある。したがって、知識人・政治的集団は、逆立した形で国家の共同幻想に加担せざるを得ない「大衆の社会生活としての存在と逆立」しながら、「しかも大衆の幻想の共同的な鏡である国家と必然的に衝突」していくところに、第一義的な思想的課題を置かざるを得ないのである。ここでいう「第一義的な課題」は、知識人・政治的集団が、自覚的に自らの知識内部に、大衆の原像と、「いつも経済社会的な構造と一緒に変化」しつづけ、生活している生活者大衆の像とその大衆的課題を繰り込んでいくところにある。そして、革命の一方での究極的永続的課題は、国家を止揚し無化していくことで、大衆を歴史の主人公・主体としていくところにある。他方で緊急的過渡的課題としては、国家の過渡的形態としては社会を第一義とする社会的国家主義にあるが、国家の共同性を頂点とするすべての共同性を、生活者大衆にどこまでも開いていくところにある。これらのことを、現在において考えるとすれば、例えば、知識人・政治的集団が、自覚的に自らの知識過程に、国民国家(具体的には、「政府」)や資本制「企業」に拮抗しうる、消費資本主義段階が付与した潜在的な経済的権力を備えた消費者大衆の像とその大衆的課題を繰り込み、それを国家無化の契機としていくところにある。また、法的中枢としての憲法(国家意志、国家の共同性・法・制度)を開くという問題は、憲法改正時における国民投票だけでなく、例えば、日本の生活者大衆がテロの標的になりかねないところの日米同盟に基づく自衛隊のイラク派遣の問題にあるように、生活者大衆の生命や生活の持続や安全に関わる法案については、<国民投票>を実施する旨、憲法に〈国民投票〉条項を付加していくところにある。議会に対する解散請求等憲法へのリコール権の規定は、「議会制民主主義に対する異議申し立ての手段」であると、吉本は述べている。リコール権があれば、「国家は国民に対して開」かれるから、国家の権力性の無化の課題としてある「次の段階に移行できる」物質的な「条件を持つこと」ができる。つまり、一部の支配上層に国家の権力性を閉じさせないことが重要なのである。そうした制度的・物質的基礎の上に、共同幻想の書き換えの問題が登場してくる(『遺書』角川春樹事務所) 。
 さて、「人間の生き方、存在」における等価な基準としてある「大衆の〈常民〉性」は、一対の男女から「生まれ、成長し、婚姻し」、「予め計算できる賃金を獲得し」、「子を生み」、育て、子の青年期初葉等に反抗され・「背反され」ながら老いて死んでいく、という平凡で「平坦な生き方」に終始する「原像」としての大衆=大衆原像にある。この大衆原像が、思想にとっての普遍的な価値基準となり得るものである。しかし、経済的社会構成の時代水準に生きる個人的自己としての人間は、教育制度等さまざまな現実的諸条件によって、大小の差異はあっても、この大衆原像から不可避に逸脱してしか生きられない。したがって、かつても今も生きられたことがないところの「大衆の〈常民〉性」としてある大衆原像を、「人間の生き方、存在」における普遍的な等価な基準、「価値観の収斂する場所として想定」し得る。この思想的立場からは、「価値の極限を〈巨人〉の生き方、仕事」において書かれた歴史に登場する「知的な巨人、政治的な巨人、権力的な巨人」は、逆に思想にとっての普遍的な価値基準・「価値の源泉」である大衆原像からの大きな逸脱過程にある者として規定できることになる。すなわち、知識人における「人間の生き方、存在」を「価値」としてではなく「意味」として規定し直す必要があることになる。ここでは、価値観の転倒が惹き起こされる。吉本は、自らの思想的立場として「平坦な生き方」・「平坦な生涯」を持つ原像としての大衆・大衆原像に「権威と権力を収斂させ」、大衆が歴史の主人公・主体となり、自己解放・自己救抜を含めて生活者大衆が社会的現実的人間的に解放されるところに、歴史の究極像をおく。「『大衆の原像』にしか反権力、非権力の理念が包括すべきものはない」 。しかし、経済的社会構成の時代水準等に規定されてしか生きるほかはない「常民」性における大衆は、その生活の自然過程においては、思考や知的関心を自らの物質的精神的生活の充足度によってその社会構成の水準を判断し批判していくのではなく、「その時代の権力に過不足なく包括されてしまう存在」である。したがって、大衆的であることそれ自体では、「物神化すべき意味」はなにもないのである(『情況へ』「雑多な音響批判」)。

 

  常識的な歴史の記述は、知的な巨人、政治的な巨人、権力的な巨人を、より多く記述のなかに登場させます。これは、価値の極限をこういう〈巨人〉の生き方、仕事においているからです。しかし、これらの〈巨人〉は大なり小なり価値の源泉からの大きな逸脱に過ぎません。この大きな逸脱は、平坦の反対であり、ただ資質の必然、現実の必然という要素を認められるとき、はじめて許されるようにおもわれます。つまり、人間は求めて波瀾を手にすることもできなければ、求めて平坦を手にすることもできない存在です、ただ、〈強いられ〉て、はじめて生涯を手に入れるほかないものです。
  歴史の究極のすがたは、平坦な生涯を〈持つ〉人々に、権威と権力を収斂させることだ、という平坦な事実に着せられます。しかし、そこへの道程が、どんな倒錯と困難と殺伐さと怪奇さに充ちているか、は想像に絶するほどです。
   大衆は、その〈常民〉性を問題にする限り、その時代の権力に過不足なく包括されてしまう存在です。だから大衆的であること自体はなにも物神化すべき意味はないとおもいます。そしてこのような存在であることは、そのままその時代の権力を超えてしまう可能性に開かれている存在であることをも意味しています。つまり権力に抗いうる可能性というよりも〈権力に包括され過ぎてしまう〉という意味で、権力を超える契機をもっている存在ということです。だからあらゆる〈政治的な革命〉は、大衆の〈され過ぎてしまう〉から例外なく始動されてゆきます。
  このような大衆の存在可能性を〈原像〉とかんがえれば、そこに価値のアルファとオメガをおくよりほか、ありえないとおもいます 。(「思想の基準をめぐって」)

 

 吉本は、「常民」概念を例示して次のように述べている――「〈帝力我に於いて何か有らんや〉」=「支配者がどうかわろうとそんなことはおれに関係ない。おれはきょう耕してそれで収穫し、あすまた耕して収穫し、それで自分が食べていければ政治がどうなろうと、そんなことおれの関知するところではない、というところにある、と述べている。この柳田國男の常民概念は、「大衆の原像」の意味と一致する。しかし、差異は次の点にある。大衆の原像は、@時代的な変容を受ける、A不可視な「権力の網の目のなかに」入ってしまう保守性、すなわち、納税行為や住民票・戸籍登録等において無自覚に権力の網の目にはめ込まれていく。それは、戦中の出征時における「元気で御奉公してまいります」という紋切型の挨拶のように権力を無自覚に受け入れていく保守性と同じである。他方で、自分の生活圏のなかに「政治力」が「直に肌にさわ」ってくれば、反権力に走る革命性をもっている。当然にも、不可視な「権力の網の目のなかに」無自覚にはまり込んでいるあるがままの大衆は、「物神化すべき意味はない」ことは自明なことである。したがって、思想の課題は、経済的社会構成や支配構成の時代的水準によって変容を受ける大衆像やその大衆的課題を自らの思想に自覚的に繰り込んでいく点にある (『マルクス―読みかえの方法』深夜叢書社)。

 

  歴史の動因でありながら、歴史の記述のなかにはけっして登場することのない貌が無数にある。これを捉える方法は、大衆路線でもなければ、民族路線でもない。また、逆に、大衆それ自体を、文化のなかにひき入れる啓蒙主義でもない 。(『自立の思想的拠点』「日本のナショナリズム」徳間書店)

 

 さて再度、戦争体験や転向問題や安保闘争や大学紛争を経由した知識人における知識の在り方は、現在(綿々として尽きないから、こういうことができる)どのような位相にあるのだろうか? 吉本は、次のように述べている。

 

  僕はこの三者(田川健三、宮内豊、土井淑平、彼らに代表される神学思想、エコロジー、左翼思想)に対して、全面否定を展開しようと思ってどっかに時間があったら、してみようと思ってきました。
  (中略)三者に共通しているところ(中略)それは何かっていうと、一つは、(中略)大多数の一般大衆といいましょうか、市民社会といいましょうか、その動向が不満であれ……市民社会の大多数を占めている一般大衆の考えている事柄を自分の思想に繰り込むという考えが全くないことです。だから、(中略)こんなものはほんとは市民社会に通用しないっていうことです。この人たちに共通しているのは、(中略)大衆はこうであるに違いないという先験的な理念に左右されていることです。
  それからもう一ついいますと、この人たちが持っているのは、一種の党派的思想なんです。(中略)現在本当に党派的思想が成り立つのは、世界党派(世界権力)に対してだけだと思っています。
  一般大衆の党派性とは何かといえば、世界権力に対する党派性です。それ以外にない。それは一般大衆によって体現される究極の党派性です。この段階の課題は何かっていったら、大衆につくことです 。(『いま、吉本隆明25時』弓立社)

 

 一国革命は単なる政権交代にすぎず、革命の究極像は大多数を占める一般の生活者大衆自らが歴史の主体・主人公となるところにある、また、知識人が自らの知識の中に大衆原像を、すなわち経済社会構成や支配構成の時代水準に生きる大衆像やその大衆的課題を繰り込んでいくところにある。なぜなら、大多数を占める生活者大衆の生活の不可避性、生活の普遍性にしか、究極の党派性は存在しないからである。したがって、吉本は、次のように述べるのである。

 

  (中略)国家と資本が対立した場面では、資本につくっていうのがいいんです。分かりますか。だから、国鉄が民営化分割されるっていうんだったら、原則としてその方が正しいんです。その方が大衆的なんです。
  (中略)今度は、資本と労働者、つまり組織労働者(総評みたいのでいいのですが)対立するときには、労働者につかなければいけないわけです。
  その先に、もう一つあります。組織労働者と一般大衆の間に利害の激しい対立が生じた場面では、一般大衆につくのが、左翼思想の究極の姿なんです。そういう原則的なことすら全然わかっていない(中略) 。(『いま、吉本隆明25時』弓立社)

 

 人間の存在様式の総体性にとって、規模の小さい観念の共同性を本質とする国家よりも、その規模の大きい現実的な社会に付く方がいいように、思想にとっての普遍的な価値基準である大衆原像からの知識的な逸脱過程にある組織労働者よりも、その大衆原像に近似的な一般の生活者大衆に付く方がいい。次のようにも言うことができる――生活者大衆も経済社会構成体の高度化等に伴って大衆原像からの逸脱を強いられているが、組織労働者はさらに知識的大衆から知識人・知識的集団へと大衆原像から逸脱していくからである、と。したがって、現在第3次産業の就労者数が大多数を占めた消費資本主義段階へと産業構造が高度化した中で、政府や企業に対して消費者大衆が、無意識の潜在的な経済的権力(政府や企業を包括し止揚し得る物質的基礎・契機)を有していることを繰り込め得ない知識人の知識は、架空性として「現実的な力」とはなり得ない。そしてまた、そうした思想は、党派性を超えた究極的な左翼思想、すなわち究極的な革命思想とはなり得ない。

 

  既に、大都市が出現して、大都市が膨張収縮を繰り返している段階で、この人たちが理想としている社会、理念社会、争いのない社会は、宮内豊のばあい東洋的な自然認識を現在に入れたら、和やかな社会が出現するということです。それが、宮内豊の反核の理念です。
  それから、土井淑平っていう人の、理想社会は(中略)一種の小都市で、農村と、自然と、調和がとれる生産と、差別のない社会、調和のとれる都市と科学と生態系とそういう社会が理想だって書いてあります。(中略)東京のような現在の大都市を土井淑平の理想社会とする小都市と農村の姿にするためには、全部このビル街を破壊するほか実現できないわけです。(中略)破壊したとき、一般大衆はなくなるわけですよ。(中略)理念の倒錯の最大のものです。(中略)すでに存在している政権を一挙に壊す政治革命は、過去にもありますが、すでに存在する文明の所産を壊す革命など、反動革命いがいに存在しないのです。
  田川健三も同じです。僕にいわせれば、退行社会が(彼らの)理想のイメージにあるっていうことなんです 。(『いま、吉本隆明25時』弓立社)

 

 「すでに存在する文明の所産を壊す革命など、反動革命いがいに存在しない」――なぜなら、このような革命思想は、個と類、歴史的現存性と現実的現存性の交点で構成されるこの社会で現に生き生活している大多数の被支配としての一般大衆の大衆像と大衆的課題の繰り込みがないからである。理念だけが虚空に浮遊しているだけだかである。それと同じように、国家間の戦争が最悪であるのは、歴史を一部権力者の支配の歴史として考え、大多数を占める一般大衆を歴史の主体・主人公として意志せず、一般大衆を殺し合わせ、「すでに存在する文明の所産を壊」し、大衆の生存と生活を脅かしたり破壊したりするからである。前述した三者の思想は、大衆原像・時代によって変容する大衆像や大衆的課題を繰り込んでいく知識の課題を放棄したところでなされた構想、すなわち農耕社会を基盤とする東洋的な自然や、退行社会や、エコロジカルな天然自然主義でしかないものである。