日本知識人の敗北的な存在様式――吉本隆明の「転向論」について
吉本の「転向論」は、次のように言うことができると思います。
吉本は転向論の展開において次のように述べている。転向論は一般的に、長期投獄か死かの選択を強いる権力の弾圧によって「共産主義者が、共産主義をすてて、主義に無関心になることや、すすんで他の主義に転ずることをさしており、もっと狭義には共産党員が組織から離脱」していくところで展開されていたと述べている。しかし、吉本の転向論の考え方は、それらとは異なっており、「弾圧と転向とは区別しなければならない」として、「むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである」と述べている 。つまり転向論の中心的課題は、思想にとっての普遍的な価値基準としての社会的存在の自然基底である大衆原像、生活過程と知識過程の内部構造(自然性と意志性)や関係性(知識・非日常とは、生活・日常からの逸脱としての自然的な知識的上昇過程に想定できる)や生活過程(知識人の知識やメディア情報を鵜呑みにしたり模倣したりすることをしない、意識的な自立した生活思想の構成)と知識過程(意識的な往還思想の構成)における自立の課題、人間の個・対・共同性という三つの存在様式の総体構造に対して思想的に自覚的であったかなかったかにある。吉本は次のように述べている。
転向とはなにを意味するかは、明瞭である。それは、日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思考変換をさしている。したがって、日本の社会の劣悪な条件にたいする思想的な妥協、屈服、屈従のほかに、優性遺伝の総体である伝統(≪その歴史性・時間的連続性・自己表出性・帰属意識・集団的無意識≫)にたいする思想的無関心と屈服は、もちろん転向問題のたいせつな核心の一つとなってくる。
私のかんがえでは、『非転向』的な転向も、『無関心』的な転向もありうるのだ。近代日本の転向は、すべて、日本の封建制の劣悪な条件、制約にたいする屈従、妥協としてあらわれたばかりか、日本の封建制の優性遺伝的な因子(≪その歴史性・時間的連続性・自己表出性・帰属意識≫)にたいするシンパシーや無関心(≪覚えているでしょうか? 吉本と蓮見重彦との対談で露呈したこの点に関する蓮見の無関心についても吉本が批判していたことを≫)としてもあらわれている。このことは、日本の社会が、自己を疎外した社会科学的な方法では、分析できるにもかかわらず、生活者……の観点からは、統一された総体を把むことがきわめて難しいことを意味している 。(吉本隆明『吉本隆明全著作集13』「転向論」勁草書房)
ここで特殊な「日本の近代社会の構造」の「総体のヴィジョン」とは、次の事柄を意味している――それは、アジア的な日本的特殊性の自覚に基づいて日本の状況について、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」(『世界認識の方法』)と吉本が述べている、このことである。したがって、、日本においては、西欧的危機の課題とアジア的・日本的特殊性の課題を構造として・総体として扱う必要がある、ということである。しかし、「日本の封建制の優性遺伝的な因子」に対して日本知識人は、「シンパシーや無関心」において向き合うだけであったから、その課題を思想において解明することに失敗したのである。
さて、その日本の封建制の課題を、はじめて自覚的に転向問題のなかに取り出し、それに対して対峙的決意を表明したのは、中野重治の「村の家」である。吉本は、この作品の根幹は、正直者の小役人で、地位も大金もないが二人の息子を大学に入れた、平凡な庶民である父親孫蔵の次の言葉に象徴されている、と述べている。
転向と聞いた時にゃ、おっ母さんでも尻餅ついて仰天したんじゃ。(中略)今まで何を書いてよが帖消じゃろがして。(中略)本だけ読んだり書いたりしたって、修養が出来にゃ泡じゃが。お前がつかまったと聞いた時にゃお父つぁんらは、死んでくるものとして一切処理して来た。
今まで書いてきたものを生かしたけりゃ筆ア捨ててしまえ。そりゃ何を書いたって駄目なんじゃ。今まで書いたものを殺すだけなんじゃ。
お父つぁんな、そういう文筆なんぞは捨てるべきじゃと思うんじゃ 。(中野重治『歌のわかれ』「村の家」新潮社)
この、知識と生活、個人的自己、個人と家族、個人と社会、個人―家族―社会とを地続きに捉え、政治的には国家に過剰に加担し、「公」や共同や全体に重きをおきそこへ価値を転移させる構造のうちに語りかける父親孫蔵に、生活者大衆における日本封建制の優勢遺伝的な時代意識を読み取ることができる。この父親孫蔵は、主人公の勉次に、家父長として語りかける(吉本隆明『吉本隆明全著作集14』「国家・家・大衆・知識人」勁草書房) 。したがって、主人公勉次が、父親孫蔵に象徴されるそうした大衆像を、自らの思想に繰り込め得なかったところに転向問題の本質があった。すなわち、そうした大衆像からの「孤立化」のために・ある時代水準にある大衆像に対して無自覚であったために、言い換えれば、思想がそうした大衆像の繰り込みにおいてはじめて得られるところのリアリティーを持ち得なかったために敗北したのである・大衆から閉じられた思想として敗北したのである、知識過程それ自体において・その往還思想において、知識(知識人)をそのあるがままの生活(生活者大衆)に完全に開けなかったために敗北したのである。マルクスが述べているように、「物質的な力は物質的な力によって倒さねばならぬ。しかし理論もまた、それが大衆をつかむやいなや、物質的な力となる」 (マルクス『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説』城塚登訳、岩波書店)。逆に言えば、大衆像やその大衆的課題を繰り込み損ねた思想は、「物質的な力」とはなり得ず、知識内部でだけ自己満足的に円環し架空性として浮遊するのである。したがって、バルトは、神学の思想において、「すべての大学社会の神学、何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)・それに類する神学、すなわちリアリティなき神学を、根本的に批判したのである。また、吉本は、中野重治の「敗戦前日記」を引用して、「ヤーイ共産党」と揶揄されいじめられる「子供の病弱」や「妻との不和と葛藤」等において、中野のなかで「現実におこっている事実が理念の物語よりも重たく、理念の物語のほうは事実よりも軽い事実にほかならないという背景の感覚、あるいは感覚の背景の転倒が感受されている」(吉本隆明『大情況論』弓立社)、と述べている 。言い換えれば、このことは、観念の共同性を本質とする国家よりも、人間の存在様式の総体性を生きる現実的な社会の方が規模が大きいように、人間にとって部分的である25時間目から始まる観念的な非日常の知識よりも、人間にとって全体的である24時間の現実を生きる日常の生活の方が規模が大きい、ということである。そして、吉本は、「よく分かりますが、やはり書いていきます」、と答えることによって、主人公の息子勉次は「あらためて認識しなければならなかった封建的優勢との対決に、立ちあがってゆくことが、暗示せられている」、とも述べている。そしてまた、吉本は、「暗示」の水準としてではあれ、この中野の思考転換(転向)を、戦前における優位性 として評価したのである(『吉本隆明全著作集13』「転向論」)。
しかし、中野は、戦後再び、二段階転向(思考転換)により大衆原像の繰り込みという思想的課題を放棄してしまった。吉本は次のように述べている――「<大衆>的動向にとって」敗戦は、権力の「外発的な強制を解かれて、<大衆>がはじめて内在的な自身の政治社会意識だけで自立した状態である」、独占資本主義は、敗戦によって機能を低下させたが、それは「退化」ではなく「損傷」であって、補修により「高度の機能を回復しうる性質のものであった」。中野重治の「批評の人間性」 に象徴される「戦後のプロレタリア批評史の復活は、このような敗戦による具体的な社会底流の交錯を、とらえること」ができなかった。そして、「敗戦直後の社会的動向が、平和のうちに歩まれる人民民主主義革命への平坦路であると錯覚した」。このような「非転向のプロレタリア文学批評をそのまま戦後蒸しかえさせてくれた」のは、「人民大衆の強力な支持ではなく、占領軍の上からの要請であった」。また「非転向のプロレタリア文学批評」の在り方について、吉本は次のように批判的に述べている――戦争中の「反戦的、反ファシズム的気分をもっていた知識層」は、そうした知識層の孤立の根拠を、大衆が「ファシズムと戦争に反対しなかったばかりか、かえってこれを支持」したからであり、大衆にある「古代的・封建的文化の残存」と、「知識層」に移植された「ヨーロッパ文化」とが分裂状態にあったからである、というように責任転嫁的に自己弁明した。したがって、そうした知識層は、「文化革命の課題」は「大衆と知識層の文化的断絶」の止揚にあると結論づけた (吉本隆明『吉本隆明全著作集4』「近代批評の展開」および『民主主義革命期の文学論』)。この場合、外部注入的な大衆啓蒙や大衆同化や大衆迎合に向かうほかないだろう。いずれにせよ、そうした知識層の「文化革命」は、知識人の意識内部にある封建的残像の内省と、<知識人――生活者大衆>における「<構造>的な変容」という思想的課題を放棄したまま行われた。
さて、中野の「アプリオリなマルクス主義的視点を導入することによる芸術的価値一元論」によれば、「地主階級の階級意識を擁護した」トルストイの芸術は、「政治的マイナス価値ではなく芸術的マイナス価値」となるが、吉本は、それは錯誤でしかない、と批判する。なぜなら、と吉本は、トルストイの芸術作品を創造過程(表出過程)において視れば、「階級的必要」からではなく「人間的な必要を内容としている」し、「人間的必要から生み出」されているからであり、ここに、芸術作品の「内在的価値」があるからである、と述べている。また、と同時に、と吉本は、芸術作品が表現され・「文字または印刷物として社会的諸関係」のなかにおかれたとき、それは客観的な対象物として上部構造性を獲得して百人百様の享受の対象となるのであるが、そこにおいては、「階級の必要を代表して、芸術を享受することはできる」、と述べている。すなわち、あくまでもそこにおいて、芸術作品の「社会的価値」の問題があらわれることになるからである(『吉本隆明全著作集4』「文学の上部構造性」) 。しかし、そうした思想的課題に対する内省なき日本の知識人は、自らの思考や知識の<構造>的な変容の課題を自覚化できなかったために、「日本の封建制の優性遺伝的な因子」を解明する視点を持ち得ず、日本近代社会の「総体のヴィジョン」を把握することに失敗したのである。ここに、日本の知識人の敗北的な存在様式が明らかとなったのである。この日本の知識人における敗北の存在様式は、60年安保闘争をとおしても、大学紛争をとおしても、現在においても、断ち切きられることなく綿々として続けられているのである。私は、吉本と蓮見重彦の「批評にとっての作品とは何か」の対談を読んでいて、蓮実に日本の知識人における敗北の存在様式を感受したのであるが、それは、「過剰」な感受なのであろうか?
吉本は、もっと具体的に、日本の知識人がたどる思考の経路には典型的に二つあることを述べている。第一に、高度な西欧近代的要素(現在でいえば、消費資本主義段階としての超西欧的要素)と封建的要素が矛盾したまま複雑に混在 し、合理的に論理化できない日本の社会構造の総体を思想的課題として内在的に掘り下げるのではなく、その課題を自らの思考対象や対決対象から外して、思考や知識をインターナショナリズムや、科学主義・資本主義等のグローバリズムへと逸脱させていく経路である。この立場では、現にある資本制的な日本の「社会の現実構造」を社会科学的に把握はできても、特殊日本における優性遺伝的な封建制に対して無自覚であるから、その課題を本質的に提起することはできないのである。第二に、「広い意味での近代主義(モデルニスムス)である。日本的モデルニスムスの特徴は、思考自体が、けっして、社会の現実構造と対応させられずに、論理自体のオートマチズムによって自己完結する」ところにある。すなわち、それは、思考や知識を、知識内部で円環させていくものである。したがって、そこでの思考や知識は、<日本>の特殊な「社会の現実構造」にある西欧近代と「日本封建制の錯綜した土壌との対決」をすることなく、いつも架空の知識において円環していくことになる。したがって、日本近代社会の「総体のヴィジョン」を捉え損なうために、そこでは、ある原理を社会の構造に適用するだけとなるのである。したがってまた、ある支配構成や社会構成や文明や文化の時代水準に生き生活している大衆像や大衆的課題を自らの知識に意志的に繰り込んでいく知識の課題を放棄していくことになるのである。ここに、「現実と接触なしに完閉する論理的サイクルの固執」の姿がある(『転向論』) 。この両者に「共通しているのは、日本の社会構造の総体によって対応づけられない思想の悲劇である」(吉本隆明『自立の思想的拠点』徳間書房) 。吉本は次のように述べている。
わが国では、(中略)なかなか死滅しない土俗的な言葉が地中にひそんでいる。この土俗的な言葉の百年ちかくもかわらなかった象徴を〈天皇制〉という語で象徴させることができる。わが国で思想の問題というばあい、その時代の尖端をゆく言葉の移ってゆく周期を追うことであり、(中略)二〇年代には〈プロレタリアートへの階級移行〉という思想を体験しながら、四〇年代には〈八紘一宇〉や〈東亜共同体〉に移り、現在では〈社会主義〉と〈資本主義〉の対立と共存という課題にとびうつるということを一生涯に体験できるほどである。また、一つの時代の尖端的な言語が死滅するのは、思想の内在的な格闘によるのではなく、外部の情況によるだけだから、いったん埋葬された思想は、十年あるいは二十年まてばふたたび季節にむかえられて新しい装いで再生することができるほどである 。
マルクスは〈プロレタリアート〉や〈階級〉をみちびきだすのに、社会的人間と経済社会の構成とのあいだからはじめる直接性から出発していない。かれは周到にも、人間と自然との相互規定性という媒介と、宗教・法・国家というような、社会的人間の幻想的な疎外の性格という媒介をもうけ、その両端からおもむろに人間の社会的な存在の像を浮かびあがらせている。じじつ、このような媒体がなければ〈プロレタリアート〉や〈階級〉は、思想の言葉として成立しないのである。
「社会的存在の客観的現実性」としては(≪私利・私意を精神とする個別的私的現実的生活の場である市民社会においては≫)、人間はたかだか無数にちがった境涯にばらまかれた知識や貧富や地位やらのちがいとして存在し、このちがいによってさまざまにちがったかんがえをもち、幻想をうみだしているだけである。(≪私利・私意を精神とする個別的私的現実的生活の場である市民社会においては、私人として≫)、プロレタリアートもある場面でブルジョワジーであり、ブルジョワジーもある場面でプロレタリアートである。都市民と農民だけが自然との関係で普遍的な位相のちがいとして存在しているにすぎない。Aという人物にとってBが社会的特権人であるように、BにとってCは社会的特権人だという関係しかない。(≪天上の観念的非日常性である政治的共同性、すなわち法・政治的国家において、制度としての資本家階級が現れる。したがって、マルクスは、『資本論』において、「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」、と言うのである≫) 。(吉本隆明『自立の思想的拠点』)
最後に、次の事柄を付加しておくべきであろう――現在、高度情報社会下で生活者大衆は、言語的・映像的マス・メディアの発達によって、状況的に「非言語的、非映像的な存在」として存在することを許されなくなってしまった。言い換えれば生活者大衆は、量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場する知的大衆へと大きな変容を受けてしまった。とは言え、現在でも社会的存在の自然規定であるその存在は、「支配の制度」がある限り、知的大衆や知識人の自立の根拠である思想にとっての普遍的な価値基準であって、時代状況によって変容していくその大衆像と大衆的課題を、自らの神学・知識に繰り込み包括していくところに、知的大衆や知識人の自立思想は成立するのであり、その知識のリアリティを獲得できるのであり、その知識が反体制的でもあり得る、ということを付加しておくべきであろう。なぜなら、「歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即時体験と体験思想を逆さにもって、大衆を抑圧する強力とすること」にあるからである(吉本隆明『自立の思想的拠点』「日本のナショナリズム」徳間書店および『マス・イメージ論』福武書店)。