本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

批評にとって作品とは何か(吉本隆明と蓮實重彦との対談)

吉本隆明『難しい話題』青土社等々に基づく

 

 

 下記のことは知っておいて損はないと考えますので、私なりに簡潔に整理してみたいと思います。先ず、吉本は、次のように述べています。
A)『悲劇の解読』「序」で、「わたしたちは現在ふたつの方向(それがほとんどすべての方向なのだが)を禁じられている。ひとつは作品の価値を測るのに政治的な色分けを使うこと、もうひとつはいままで倫理的な独白だったものを知的な探偵術、通俗的な知的な稠密さの競りあいに変えてしまうことだ。そんなことは、政治的教会か受験生にやってもらいたい」。
B)言語学は一般的に、その文法的規範と概念との構造が「表現された言語」であると規定する。この「表現された言語」が、「現象学でいう本質直観」に対応している。この表現された結果としての言語学においては、沈黙は何も言わないこと、〈非〉有意味性でしかない。その言語学は、「表現された言語というものは、それを発した人間(《その内在的な心的構造、心的規範と心的概念》)ときりはなすことはできない」ということを見ない。「それをきりはなすことができない問題が、文学自体のもんだいになる」ということに自覚的でない。それは、根本的な誤謬である。なぜなら、言語過程は表出過程(心的過程)と表現との構造としてあり、言語を発語し表現した場合、必ず〈心的〉概念と〈心的〉規範の構造の表出過程(心的過程)に反作用を惹き起こすことになるからである。この言語表現論からは沈黙は、心的過程、内在的な意識内部においては、言いたいことが一杯あってもその言いたいことを言葉として外へ出せない鬱積状態・心的亀裂状態にあることを意味している。言い換えれば、内面の鬱積状態・亀裂状態としての沈黙は、心的概念と心的規範の構造である心的領域において、発語することを思いとどまってしまうことによる「反作用」を意味している。したがって、沈黙は非有意味性ではなくて、「沈黙それ自体が言語的な意味をもつ」のである。したがってまた、もし「陳腐」に聞こえる言葉や概念があれば、それらは死語化しているからであり、表現されたその言葉の時間性と空間性が、自然時空に解体しているからである(『吉本隆明全著作集14』「人間にとって思想とはなにか」・『吉本隆明全著作集14』「幻想としての人間」・『吉本隆明全著作集14』「個体・家族・共同性としての人間」勁草書房)。
 さて、吉本は、蓮實との間にある批評の概念についての根本的な差異性を、次のように述べています。
1)言葉と作品は、作家やその資質やその生活やその信条やその思想等に帰属しなければならないのであるが、蓮實はどこにも帰属しないと考えている点にある。すなわち、蓮實は、「個人的な、社会的な、家族的な水準での『歴史』への帰属よりも」、共時態的な「環境としての言葉の配置」の探求こそが「歴史」を「なまなましく露呈させる」から、その歴史への帰属を重んじるべきであると言う――「この場合、読む主体も読まれる対象もともに消滅することで『歴史』を露呈させるわけです。つまり読むことは、主体・客体という対立を超えて運動となり行為」となるから、作品は「そうした読み方によってしか社会に帰属させ得ない」、と言う。いわば、メルロ・ポンティが主客対立を超えた場所を知覚の場所・身心相関の場所である「身体性」に置いたように、蓮實はそれを共時態としての「歴史」に置いたのである。すなわち、それは、人類史をある時代・時間で輪切りにしたそのときの現在において、私たちにそう強いてくる考え方の様式や枠組・感じ方の様式や枠組・行動の様式や枠組としての歴史のそれである。いわば、それは、歴史的現存性のそれである。しかし、知覚によって対象を「対象的に関係づけられて存在する」点に個体性の哲学の本質があるとするメルロ・ポンティとは違って、先ず以て自己関係づけの意識=自己身体がここ(空間)にあるという空間的な自己意識と、自己抽象づけ=自己身体が今現(時間)にあるという時間的な自己意識との構造において、「個体は個体として自己に関係づけられるから、はじめて」、知覚によって対象(自己身体・他者身体・環界)を「対象的に関係づけられる」という点に個体性の哲学の本質があるように、人間的存在は、共時態としての「歴史」においてのみ生きているわけでなはく、人間の存在様式の総体性(個・対・共同性)において、その個と類・その現存性と歴史性との不可避な関係性の中で生きている点にその本質があるだろう。
 吉本によれば、構造主義もポスト・構造主義もマルクス主義を変成させた世界認識の一つの方法である。構造主義は歴史的に累積された現在としての時間よりも、現存的な横への拡がりとしての空間性(共時態)を重視する。それゆえ、社会、文化、歴史をその起源と経緯(時間累積・時間的連続性)から問わないで、歴史をある時代・時間で輪切りにしたそのときの現在を系列的に把握しようとする。そうすると、例えば19世紀的な思想的枠組み(知の考古学的地層)は、一方に近代経済学があり他方にそれと対抗する革命的なマルクス経済学が存在していたという構図・枠組となる。この意味で、マルクス経済学は、19世紀の思想の枠組の中では真理であり批判的機能という存在意義はあったとしても、その枠組みの外に出れば無効ということになる――「マルクス主義は十九世紀の思考において水のなかの魚のようなものであって、それ以外のどこででも呼吸するわけにはいかなかったろう」(ミシェル・フーコー『言葉と物』渡辺一民・佐々木明訳、新潮社) 。この考え方からすれば、現在でも通用し得る経済学は、例えば主観の入らない産業構造を解明する産業経済学となる。そして、この産業経済学からすれば、現在は第三次産業中心の消費資本主義段階として規定されることになる。蓮實は、この考え方に依拠して、「意識するとしないとにかかわらず、超えられない枠」組・帰属意識・「ある時代のディスクール」(フーコー)や、「ある時代のエクリチュール」(ロラン・バルト)、すなわちある時代のパラダイムがあるから、「小林秀雄的なもの」は、「もはや現実として機能していない」、と言う。
2)蓮實の言う「文化的な制度を超えた、作品を具体的に読むという行為が支える言葉の環境への帰属感」は、「言葉」は「作者に帰属」させてはいけないし、「批評」も「批評家に帰属」させてはいけないし、「意味の中心」も「遠ざけなければ」ならない・意味の中心を探ることをしてはいけない・意味を解釈しないというフーコーの考え方を根拠としている――蓮實自身は、「フーコーからではなく」、「フローベルの小説」からと述べている。この場合、どこにも帰属しないわけだから、蓮實の『「私小説」を読む』の批評の方法は、「結局『読む』以外に取りえのない人たちしか取り上げていない」ことに、すなわち「意味」なき人たちだけをとりあげることになってしまう。しかし、ほんとうは、こうだろう――「作品があって作者がいる」。その「作品」は、ある資質等を持った「作者に帰属する」。その「作者」は、「生活に帰属する」。その「生活」は、現実的な「家族」に、また支配構成や社会構成や文明や文化の時代水準という「事実の世界に帰属する」。すなわち、蓮實は、「社会」や「生活」に対する「帰属意識」を揚棄する形で、共時態的な「言葉という環境への帰属意識」・「言葉の力」を「深化」させようとしている。
 ここで、言語の意味の本質は、次の点にある――時枝誠記において、言語の意味の本質は、「客体に対する主体の意味作用そのものである」。すなわち、「主体の中に対象に対する意味作用があって、それが次に言語となる」。このように、時枝は、主体の働きと言語の意味を架橋した。しかし欠陥は、次の点にある。すなわち、例えば「馬鹿だなあ」という言葉には、ある場面では「愛情やいたわりの意味」をもち、ある場面には「非難の意味を持」っており、このことを説明できないからである。三浦つとむは時枝の欠陥を修正し、概念そのものは意味ではなく、意味を形成する実体である、とした。意味は話し手・書き手の側にはなく、言語そのものに客観的に存在する。主体の意味作用は、言語に固定された客観的な関係にあるのだが、その背後にはその主体の認識が対応している。この場合も、先の意味のわからなさの問題を解決できない。したがって、この問題の解決において必要なことは、「現在のどんな文学的な表現の尖端をも包括できる意味概念」にある。すなわち、言語の意味概念は、「言語の本質」から決定されなければならない――言語の本質は、自己表出と指示表出の構造である、この言語本質論からすれば、先の問題を包括し止揚し解決することができる。すなわち、その場合、言語の意味は、人間的意識の指示表出から見られた言語構造の全体の関係である。言い換えれば、言語の意味を考える場合は、「指示性としての言語の客観的な関係をたどりながら」、不可避な・「必然的な自己表出性を含めた言語の本質的構造の関係をたどること」になる。文学芸術は表現であるから、人間的意識の表出という概念は、表出(創造)と表現(享受)の構造としてある。すなわち、言語表現としての芸術は、「対象的な意識としての言語」=文学の成立によってはじめて成立する。言語をその指示表出によって人間的意識が外界に関係をもとめたものとしてみるとき言語の意味が現れ、指示表出と自己表出を構造とする言語の全体を、自己表出により意識からしぼりだされたものをみるとき言語の価値が現れる。先にもあったように、言語の表出は、人間的意識の自己表出と指示表出の構造である。ただ、人間的な意識はこちら側にあるのに、言語の価値は、表現された言語に現実的に付着して成立する概念である。言語の価値とは、人間的意識の自己表出から見られた言語構造の全体の関係のことである。「指示表出からみられた言語の関係は、それがどれだけ云わんとする対象を鮮明に指示し得ているかという有用性ではかることができる」が、「自己表出から見られた言語の関係は、自己表出力という抽象的な、しかし、人間的意識発生いらいの連続的転化の性質を持つ等質な歴史的現存性の力を想定するほかはない。各時代とともに連続的に転化する自己表出のなかから、おびただしく変化し、断続し、ゆれうごく現在的な社会と言語の指示性とのたたかいをみているとき、価値を見ているのである」。そして、「言語にとって美である文学が、マルクスのいうように『人間の本質力が対象的展開された富』の一つとして、考えられるものとすれば、言語の表現はわたしたちの本質力が現在的社会とたたかいながら創りあげている成果、または、たたかわれたあとに残されたもの」である。
 フーコーは、『思考集成]』「カントについての講義」で、人類史をある時代・時間で輪切りにしたそのときの現在性において、「歴史における徴しの価値を持つ」ような「出来事を取り出すことが必要」である、と述べている。したがって、私たちがフランス革命から探し求めなければならないことは、「革命のドラマ」、その「革命が成し遂げたこと、またそれに付随した興奮状態ではない」、革命の「成功」や「失敗」のことではない(革命の成功や失敗は、進歩の徴しでも、進歩が存在しない徴しでもないから)。すなわち、それは、私たちの現在性において、「見かけ上は意味もなく、価値もないものへわれわれが探し求めている重要な意味や価値を与えることを可能とするような解読に取り組む」点にある。言い換えれば、「それに加わっている(≪文学で言えば作家≫)わけではないがそれを見つめている、それに立ち会っている、そして最良あるいは最悪の場合、それに捉えられてしまっている観客(≪文学で言えば読み手≫)によって大革命がその周辺で受け入れられるその仕方」にある。蓮實の批評の方法は、こういうものと考える。そして、それは、具体的には、「こうした経験の反復」をもたらす「自由に選ばれた政体」と「戦争を避ける政体」という「人間の本性にひそむひとつの心的傾向、進歩する能力」の現在性にある。したがって、これは、「いつでも旧来のわだちへと落ち込んでしまう危険」性を有しているとしても、「永続的な潜在可能性」・「進歩に向けての歩みの連続性そのもの」との連帯性、「永続」的な「啓蒙のプロセス」である。
 また、フーコーにとっては、他者から作為され規制された身体(欲望)の解放が重要な事柄であるが、ここでフーコーの身体(欲望)の解放とは、自己配慮・自己認識を介した意志的で倫理的な実践的態度であり自己節制ということであり、フーコーにとってはそうした自己節制が自由に属するものである。したがって、フーコーにとっては、節制なき欲望は自由に属する事柄ではなかった。自由とは、欲望する身体を肯定しながら、自己節制するところにある。したがって、フーコーは、「自由を待ちのぞむ性急さに具体的なかたちを与えることが出来る忍耐強い仕事を必要とする」 、と述べた。そのフーコーにとって現代性とは、ある瞬間における一つの態度である、ここで態度とは、昨日に対して今日の現実的な状況に対する関わり方の様式(考え方の様式・感じ方の様式・行動の様式)のことである、その課題は、私のその存在・その思考・その実践における今日の昨日に対する意志的・倫理的な一つの選択・決断・差異化にある、すなわち私自身の意志的で倫理的な決断と実践による、価値としての新たな自由な主体の創造にある(『思考集成]』「啓蒙とは何か」)。フーコは、昨日ではない今日この時において、さまざまな個別的問題における危険に対して、倫理的でもあり政治的でもある意志的な責任ある決断を行っていくという哲学的態度において、新たな主体や自由や価値を希求し掌中に収めようとした。
3)時代の無意識が生み出した「作品が作者をつく」ってしまうと考える蓮實にとっては、「ものを書いてしまった漱石」・作品化された漱石が規模が大きく総体的で、あるがままの漱石は規模が小さく一部分である、と考える。しかし、吉本はあるがままの漱石の方が規模が大きく総体的でる、と考える。したがって、吉本にとっては、その「あるがままの漱石に批評の言葉は帰属する」ことになる。したがって、蓮實の場合は、その「括弧」に入れられた作家しか問題とならなくなり、その「括弧」に入れられない総体的なあるがままの漱石、作家として生計を立てている漱石・生活者としての漱石は重要でなくなる。言い方を換えれば、作品を書かない漱石はただの人ということになる。すなわち、知識人、作家としての漱石には価値はあるが、ただの生活者としての漱石には価値がない、ということになる。知識の課題を知の自然的な上昇過程に価値を置くエリート主義になる。25時間目に構成される非日常における知識(人間にとって部分性)の頂きから、再び24時間の生活日常(人間にとって総体性)に意識的に下降する知識の還相的な課題を放棄することになる。蓮實は、「わたくしは批評をごく日常的な体験の側に引き寄せ、特権者の贅沢にしてはならないと思う」と言葉としては語っているのですが、その実姿は、知識の自然的な上昇過程しか持たない知識人にある。言い換えれば、その「部分の表現の方から全体が再現できなければ」、すなわちそうした総体的な批評がなされなければ、それは批評の本質から言って、あるいは知識の課題から言って、一方通行的・一面的な批評でしかない。したがって、吉本は、例えば川崎長太郎に対しては、蓮實は「初めから届かないところに自分の生活の根拠」と「生活の帰属意識」を置いているから、蓮實のその批評の「言葉の波長は届かない」だろうと述べる。
4)蓮實にとって、あるがままの漱石・「生身の漱石」を「再現することはすべて悪だ」と言う、「欲望の退廃だ」と言う、「生活は具体的な現れの世界」であり、その「再現は逃避だ」と言う。なぜなら、「われわれが漱石と同じ時空(≪一回性を本質とする自然的時空≫)を共有していないという現実の前に無効」だからである。したがって、「歴史的なある一時期を再現するということ」も無効である。蓮實は、歴史を共時態において視る立場をとっている。人間の存在様式の総体性を、個と類、現存性と歴史性との構造として視ようとはしない。
5)言葉の表現者であっても、それを読む人にとっても文学の領域に足を踏み入れるモチーフは、体験的には他者から自分の「行為や言葉」が正しく理解されたためしはない・他者を正しく理解できない・自己と他者との間の齟齬や異和・バルトで言えば「誰が誰を知っているのであろうか」というこの「一種の不可能性の予感」・意識を「どこかでそれを解消したい」という自己解放・自己慰安の欲求が文学の根源性としてある。そうした人間にある「悲劇」性から、それの表現者としてあるいはそれを読む人として、「人は文学に吸い寄せられる」。したがって、「表現されたもの」・「作品からその作者」・そうした対象化された作者を再現できなければ、「文学に吸い寄せられた自己なり他者なりというものの意味がなくなってしまう」。また、この場合の「再現」は、「本当に」という「絶対値」の確定をすることではなくて、そうした再現の自己解放や自己慰安の「欲望とか、志向性」のことであり、このことは確かに成立している。蓮實の『夏目漱石論』は、「漱石の人間的な意味、生活の意味、あるいは漱石の登場人物たちが述べている意味」を拒絶して、作家の「言葉の価値だけを提起して」いると言うことができる。いわば、言語の自己表出性を探求していると言うことができる。

 

  ひとつの作品は、ひとりの作家をもっている。ある個性的な、もっとも類を拒絶した中心的な思想をどこかに秘しているひとりの作家を。そして、ひとりの作家は、かれにとってももっとも必然的な環境や生活をもち、その生活、その環境は中心的なところで一回かぎりの、かれだけしか体験したことのない核をかくしている。まだあるのだ。あるひとつの生活、ひとつの環境は、もっとも必然的にある時代、ひとつの社会、そしてある支配の形態のなかに在り、その中心的な部分は、けっして他の時代、他の社会、他の支配からはうかがうことのできない秘められた時代性の殻をもつ。
  このようにして、ある時代、ある社会、ある支配形態の下でのひとつの作品は、たんに異なった時代のちがった社会の他の作品にたいしてばかりでなく、同じ時代、同じ社会、同じ支配の下での他の作品にたいして決定的に異質な中心をもっている。そればかりでなく、おなじひとりの作家にとってさえ、あるひとつの作品は、べつのひとつの作品とまったく異なっている。言語の指示表出の中心がこれに対応する。言語の指示表出は外皮では対他的関係にありながら中心で孤立している。
  しかし、これにたいしては、おなじ論拠からまったく相反する結論にたっすることもできる。つまり、あるひとつの作品は、たんにおなじ時代のおなじ社会のおなじ個性がうんだ作品にたいしてではなく、異なった時代の異なった社会の異なった個性にたいして決定的な類似性や共通性の中心をもっているというように。この類似性や共通性の中心は、言語の自己表出の歴史として時間的な連続性をなすととかんがえられる。言語の自己表出性は、外皮では対他的な関係を拒絶しながらその中心で連帯している(『言語にとって美とはなにか』)。

 

 蓮實の批評は、ある時代を輪切りにした時間(蓮實の言う「一つの時代への帰属」)におけるある作家の共時態的な時代の無意識が生み出す「環境としての言語」の問題、言語の価値の問題(「読む主体も読まれる対象もともに消滅することで『歴史』を露呈させること」)にある。
6)近代批評を確立した小林秀雄の日本語の批評の概念は、「作品をだしにして自分を語る」こと、すなわち「作品を作者に還元し、作者を自己に還元する」ことである。言い換えれば、日本語の批評の概念は、蓮實のような「歴史を必要としていない」。「ぼくがある作品を先入観なしに読んでどう感じたかということを言葉にすれば、それが批評」である。「誰がどう書こうと、……書かれた批評」は、不可避に必然的に「批評の言葉の『歴史』のなかに入ってしまう」。この意味で、「読まれる作品と読む人のなかには、もはや責任」の問題はない。したがって、批評における「歴史」は、小林の批評の言葉から、すなわち「作品を作者に還元し、作者を自己に還元する」という批評の言葉から、「どれだけ言葉を連ねているのか」・「どれだけ突出したのか」という連続性と断続性との構造としてある。
 したがって、吉本にとって、「日本語を言語の概念として最初に確立した人は、時枝誠記」であるが、それと三浦つとむの『日本語とはどういう言語か』を経由させた吉本自身の言語の概念が、時枝や三浦の言語概念から突出でき得ているかが、「『言葉』の、また『歴史』の、また同時に帰属の問題」である。言い換えれば、言語概念の包括と止揚の、連続性と断続性の、超出の問題である。時枝は、意識が対象に向かう対象的側面(ノエマ)と意識が意識自体として持つ作用的側面(ノエシス)との構造として把握したフッサールの意識を、「主体とおきかえて主体のなかに(≪言語の≫)意味作用がある」と考えた。この受け取り方に対して蓮實は、「粗雑」と考えた。それに対して吉本は、その粗雑さの根拠を、時枝の言語学を不可避に拘束している・無意識に拘束しているのは、「近世以来の……国学」の言語・「国語の考察の歴史」・「帰属性」である、と述べる。「歴史とは個々の世代(《個体的自己の成果の世代的総和》)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(《媒介・反復》)する」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)。言語に関してもそうである。したがって、時枝は、「フッサールを誤読した」わけではない。したがってまた、「主体の意味作用が意味」であるとした時枝は、「『てにをは』……は主体的表現であり、名詞のようにある事物や、対象性を指し示すものは客体的表現」であると把握した。また、蓮實が、吉本の言語における自己表出と指示表出という差異概念も、「ソシュール以降の言語学の差異という概念――示差というふうに日本の人は訳していますが――、……ということを中間におかなくては表出」にならないから粗雑であると述べていたことに対して、吉本は、その粗雑さの根拠を、上記と同じところに置いていることを述べた。そして、吉本は、例えば欧米一辺倒の「日本の外国文学者や外国哲学者」は、欧米の「最新の思想」を持ち込めば日本のすべてが分かるとか・日本固有の問題を解決できると考えてしまうところに、錯誤と誤謬がある、とする。したがって吉本は、、アジア的な日本的特殊性の自覚に基づいて日本の状況について、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」、と述べる。西洋人のミシェル・フーコー自身は、日本のフーコー研究者・著述家とは全く違って、限定的な西洋の場で哲学し思想しながら世界性を獲得していることが分かる――「私に興味があるのは、西欧の合理性の歴史とその限界です……」。「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」。そうした中で、「時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです」。バルトの場合も、フーコーと同じように、西洋を神学と思想の場としながら世界性を獲得していたし、その神学の原理、その認識方法と概念構成において、徹頭徹尾全面的に、一切の近代主義や人間学的神学や、バルト主義者やバルト教を否定し拒絶していた。
 しかし、欧米一辺倒・欧米主義の日本の学者や著述家たちは、ヘーゲル主義やマルクス主義やフッサールの現象学やハイデッガーやメルロ・ポンティやアメリカ経済学等々を第一次化してしまう点に問題がある。神学領域において例示すれば、大木英夫と佐藤優が一辺倒にエーバーハルト・ユンゲルを称賛し、佐藤司郎と小泉健が一辺倒にルドルフ・ボーレンを称賛し、寺園喜基が一辺倒にベルトールト・クラッパートを称賛し、喜田川信が一辺倒にモルトマンとメルロ・ポンティを称賛し……、ということになる。フッサールにおいては、本質直観を知覚における感性的認識と感情作用との総合として見なされているだろう。しかし、それは違うだろう――「わたしたちが〈知覚〉作用に感情的な選択の衣を着せる訳にいかないのは、直観本質を人間の存在の本質的な仕方と考えないのとおなじである。わたしたちはけっして対象の知覚がいつも科学者の経験の仕方に似ているとはいわない。それが歓びや悲しみや選択をともなうことをしっている。しかし、このような感情作用は〈知覚〉そのものに伴うとしても〈知覚〉とはかかわりないものである。感情作用は一般に対象の了解そのものを対象となしうるという〈内観〉的作用(《内在化された対象の空間化》)に属している」(『吉本隆明全著作集14』「個体・家族・共同性としての人間」勁草書房)、からである。しかし、日本の学者や著述家たちは、第一次的に、一方通行的に・一辺倒に・一面的に、メルロ・ポンティーの身体性等々の・欧米的なものに、あるいはその対極にあるものに・アジア的なものに・土俗的なものに救いを・諸課題の解決の方途を求める。
7)上述したように、蓮實は「意識するとしないとにかかわらず、超えられない枠」組み・帰属意識・「ある時代のディスクール」(フーコー)や、「ある時代のエクリチュール」(ロラン・バルト)、すなわちある時代のパラダイムがあるから、「小林秀雄的なもの」は、「もはや現実として機能していない」と述べている。その場合、その批評の仕方では、そうした「括弧つきの『作家』ではなく、作家そのもの、人間そのもののところまで、どうしても拡張せざるを得なくなった場合」、批評ができなくなる。したがって、吉本は、蓮實の批評は、どの作家を扱う場合も、「同じ切り取り方だし、規模も同じ」だし、「見方」も「思考の規模」も同じになってしまう、と述べている。言い換えれば、このことは、蓮實には、人間の存在様式の総体性における、個と類、現存性と歴史性の構造的把握の観点がない、ということであろう。
8)小林秀雄のランボー受容時の差異の自意識は、「時代」的な水準からやってくるそれである。しかし、その自意識は、「漱石にも」・「横光利一にもあった」、「時代の言葉の末端まで全部届いていた」それである。「異常だとか病的だとか」「悲劇だとか」という、ある生理的なあるいは観念的な「資質」が、「ある時代の総体的なイメージ」・「ある時代はこういう時代」であるという「イメージ」に「届く」場合、「それは認めざるを得ない」・「共有せざるを得ない」ものである。したがって、小林とは違って現在を生きる蓮實の場合には「フーコーやドゥルーズやロラン・バルト」受容時における差異意識はないにしても、その「フランス文学や哲学」の受容に際しては、一方で、必ずや人類が歴史的に時間累積させてきた西洋近代・西洋的なものとアジア的なもの・日本的なものとの「断層」の問題が横たわっているだろう。したがって、その「断層」の認識・自覚が必要なのである。したがってまた、西洋近代・西洋的なものを全部分かったという一方通行的・一面的な言い方は、眉唾ものでしかない。
9)西洋近代に属するカール・バルトに依拠し、ヘーゲル哲学に依拠してバルトを批判したという北森の「神の痛みの神学」の根底にあるものは、日本におけるナショナルなもの、すなわち滅私奉公の意識・滅私奉公的な人間の在り方であった。したがって、北森の説くキリスト教は、土俗的な北森教的キリスト教なのである。同じように、骨肉にまで受け入れた近代主義者の佐藤優の神学的知識の在り方は、すなわち佐藤の高等教育を受けた者と受けなかった者とに分けて信仰・神学・知識の差異性を語る語り方は、天皇制的な意識構造に?がるものである。ここで、天皇制的な意識構造とは、吉本に依拠して言えば、次のことを意味する―支配・天皇族の占有する外来の文明や文化(大陸の農耕技術等、律令・儒教・仏教等の制度・知識)が、被支配から遠く隔絶されていればいるほど、被支配の関係意識にとってその支配・天皇族は、強力に「願望の対象でありながら、恐れの対象であるという両価性」の心性=「未開の心性」を持つことになる。そして、そこには、その「両価性」の心性=「未開の心性」に基づく「〈制度〉的な禁制」(共同幻想)が存在することになる。すなわち、支配・天皇族は、外来の文明や文化の占有による格差の関係性に基づいて権力の構成を行った。そしてその関係性において、被支配は、複雑に重層化され隔絶された天皇制的な諸観念(最下層の共同幻想である自然規定、風俗・習慣、心性、文化等を包摂した天皇制的な宗教、儀礼、法、制度等)を、自らが所有してきたそれ以上のものとして共同的に錯覚することにおいて無意識のうちに支配に取り込まれていくことになった。そうした国家や天皇制的な意識構造を無化するという場合、私たちは、それを武力的に打破することはできないから(その本質は、観念の共同性にあるから)、思想・観念によって、その内的本質である共同幻想の出自にまで遡って、歴史的批判的に調査・解明しその観念を自己還帰させる以外にない。そこに、還相的な究極的永続的課題がある。したがって、そのような天皇制的な意識構造に対して自覚的でない場合、その意識構造は、神性を本質とするイエス・キリストにのみ信頼し固執すべきキリスト教会においても、外来の、近代以降は欧米の、文明や文化や知識や情報を有した神学者や牧師や著述家と、そこから隔絶された信徒・求道者等の関係意識の在り方に転移し、両者共に、天皇制的な意識構造を日常的に構成することになるだろう。現在、確かに情報科学と情報技術の発達は、生活者大衆を知的大衆化し知識人と大衆との境界を溶解させているとしてもそうである。なぜなら、現在は横へと拡散しているとはいえ、東大信仰・欧米先進国信仰・欧米知識・情報信仰等は、そうした「両価性の心性」・「未開の心性」に基づく関係意識の在り方を根拠として残存しているからである。関田寛雄は『「断片」の神学』において、「後任牧師の選任」基準を、「外国留学」と「学位」においている教会があることを批判している。この「後任牧師の選任」基準における意識構造も、佐藤の高等教育を受けた者と受けなかった者とに分けて信仰・神学・知識の差異性を語る語り方も、まさしく未開心性として天皇制的な意識構造に通底しているものである。