その3:ほんとうの考え・うその考え 了
賢治にとって「最高の倫理」とは
宗教的ではない賢治の倫理的情操は、法華経20章常不軽菩薩品における、「坐禅や修行をしない」釈迦の前世の姿である常不軽菩薩の心・在り方にある。吉本は、『銀河鉄道の夜』に登場する異質な人物、すなわち信仰も持たない・ものごとも真剣に考えない・親切そうで・愛相のいい・ジョバンニの「天上……、どこでもかってにあるける通行券」に感嘆する・赤髯の背中のかがんだ・ずるさも持っている・「ごく普通の人」・「鳥を捕る人」に接する際のジョバンニの心を、それでいいのかと、反省的に問わせるものが、常不軽菩薩の心・在り方である、と述べています。人は、自分に厚意をもって接してくれる人に対して、逆に感謝することや親切にすることを怠り・軽んじて「侮るような感じを持」つことがある。そのことに気づいて自己反省しても、またそのことを忘れてしまう、ということを繰り返している。そして、その人が離れ去ってしまった後に、ほんとうに、ああ! もっと感謝をもって親切に接しておけばよかった、と自己反省をする。この日常的な体験は、「弱小な人に同情する」ということではない。その自己反省は、釈迦の前世の姿である常不軽菩薩は、他者を常に軽蔑しない心を持った者、すなわち他者を常に敬う心を持った者、へと向かうことだとすれば、この常不軽菩薩の心に基づいてやってくる自己反省である。この自己反省の心が、賢治にとって、法華経の常不軽菩薩品から超出した倫理、すなわち「人間のもちうる」「最高の倫理」である――ジョバンニは、鳥を捕る人にお菓子をもらって食べているのその人を「ばか」にしている自分を自省し、その人を「きのどく」に思う。そして、ジョバンニは、「わけもわからずに、にわかにとなりの鳥捕りがきのどくでたまらなくなり(中略)もうその見ず知らずの鳥捕りのために、……持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸になるなら、自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、……ほんとうにあなたのほしいものはいったい何ですかと訊こう」と「ふり返って見」たら、もうその時には鳥捕りはいなくなっていた。ジョバンニは、非常に後悔して、「僕はどうしても少しあの人に物を言わなったろう」「僕はあの人が邪魔な気がしたんだ」と嘆いた。また、ジョバンニにとってザネリは、自分をいつも軽蔑する心を持って接してくる者である。この場合、常不軽菩薩は、いつも軽蔑される者という意味に転化される。
賢治の「到達した宗教の考え」
西洋近代の科学的知識を身につけた賢治にとって、仏教(法華経)の前世・現世・来世という「死後の世界との連続性」の問題は、賢治に科学と宗教とを架橋する課題を突き付けた。また、賢治に「ほんとうの考え」と「うその考え」を見分ける方法の課題を突き付けた。そして、いずれにせよ、賢治は「芸術から宗教へ、芸術家から宗教家へさり気なく移る、そういう移り方を見つけた」。
死んで天に召されるキリスト者の弟妹と付き添いの青年がそれぞれの「神」・「ほんとうの神」を語る場面について、吉本は、「神と名づけるかどうかはべつとして、それぞれの人はそれぞれの神をもっている」、と述べています。このことは、誰でも首肯できることでしょう。しかし、その神が、宗派・党派・学派の神、思想や理念としての宗派・党派・学派の神である場合、神の問題について解決は決してつかないでしょう。なぜならば、その場合、それぞれが、絶対的思想として・党派的思想として、自分の神こそがほんとうの神だと考えるからです。すなわち、この問題は、その信仰・その神学・その思想の認識方法と概念構成それ自体において、そのあるがままの、不信に対して、非知に対して、他の宗派に対して、完全に開かなければ、そうした絶対的思想・党派的思想・宗派的思想・学派的思想等を包括し止揚して、そこから超出していくことはできない、ということを意味しています。