その1:ほんとうの考え・うその考え
宮沢賢治は、『銀河鉄道の夜』(角川書店)において、「やさしいセロのような声」をしたブルカニロ博士に、次のように言わせています。
(中略)おまえは化学をならったろう、水は酸素と水素からできていることを知っている。いまはだれだってそれを疑やししない。実験してみるとほんとうにそうなんだから。(中略)みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう(中略)それからぼくたちの心がいいとかわるとか議論するだろう。そして、勝負がつかないだろう。けれども、……実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も科学と同じようになる。
賢治は、信仰あるいは化学の一方にだけ加担する考え、恣意的主観的に自分の考えだけが正しいとする考え、また口先だけの許容や折衷的な考え、そしてまた絶対主義的思想・党派的思想は「うその考え」であって、信仰と化学(科学)を架橋することができる考えこそが、「ほんとうの」考えである、と述べています。いわば、賢治は、例えば信仰の側は、信仰と化学(科学)を架橋することができる、その信仰・その神学における認識方法と概念構成を必要とする、と述べています。このことは、科学の側も同じである。したがって、近代以降の宗教性としての科学<主義>は、人間の・世界の・人類史(世界史)の総体性から言って決して正しいわけではなく、そしてその意味でそれは「うその考え」である。したがって、例えばその信仰・その神学における認識方法と概念構成において、人間の・世界の・人類史(世界史)の総体性を包括していなければならない。ここに、賢治の童話(文学)における思想があります。
吉本は、『日本近代文学の名作』(毎日新聞社)において、次のように述べています。
賢治の童話は、「日蓮宗の在家教団である田中智学の国柱会に加入した」東京在住時、法華経の布教のために、「布教活動と印刷所などのアルバイトの合間」に書かれた、という。このため、作品全体に流れる「宗教的な雰囲気」が、賢治の童話の「特徴」となっている。その代表的な作品が『銀河鉄道の夜』である。賢治は、童話を、「宗教や道徳を子供に植え付けるような書き方」をしていない。すなわち、賢治の童話は、宗教を超えた「一個の文学」の位相にあるものであるが、それが宗教的雰囲気を持っている、ということができる。また、漱石や芥川の作品の特徴が、その「自然観や社会間は東洋的」で、その「人間観や倫理観は西欧近代」との「共通性」を持っている点にあるのに対して、、賢治の作品の特徴は、「宗教的情操」・「作品の倫理も自然観」も「仏教的」であるにもかかわらず、その「作品の全体性はエキゾチズムの要素」を持っている点にある。仏教では、その死を含めて万物の無限とも言える劫における輪廻転生を説いているが、人間も文学作品もそれと同じだとみなす「根本的な人間観」・「文学観」、「作品は過渡的なものだという理念」、を持っている――「理解を了えばわれらは斯る論をも棄つる。畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考えがあるのみである」・「永久の未完成これ完成である」(『農民芸術概論綱要』、吉本から引用)。
さて、『銀河鉄道の夜』の乗客は、「それぞれ自分が最も執着のある駅」で「みんな途中で降りていく」。「永久に降りない」(吉本)ジョバンニだけが、「ほんとうの天上さへ行ける切符」・「どこでもかってにあるける通行券」持っている。この意味について、吉本は、次のように述べています――「カムパネルラを含めて人々が降りていくことが象徴しているのは、皆がそれぞれの宗教(≪教派、学派、党派、科学第一主義、経済第一主義、政治第一主義、科学第一主義の対極にあるエコロジー、世界史における西洋近代の段階、世界史におけるアジア段階等々≫)を信じている」、ということである。それに対して、主人公のジョバンニは、「党派的、宗派的になって他を排斥するような宗教(≪宗教思想、党派的思想、絶対主義的思想≫)は駄目だという宗教観(≪思想的立場、考え、その認識方法と概念構成≫)を示している」。すなわち、賢治は、あらゆる宗教を包括し止揚できる信仰・その知識の認識方法と概念構成を目指していた。
また、吉本は、『ほんとうの考え・うその考え』(春秋社)の「序」において、次のように述べています――「信仰」を「すべての種類の<信じ込むこと>」・絶対的考えや思想・党派的な考えや思想と解するとすれば、現在まで綿々として尽きない「諸宗教やイデオロギー」や「政治体制などを<信じ込むこと>」、そうした「宗教性」として解することができる。これらの考えの場合、架橋の思想や思想の往還や自己相対化視座を、その思想の認識方法と概念構成において持たないために、いつも絶対的思想・党派的思想として、相互憎悪・相互対立・「相互殺戮」に「踏み込む」ほかはないであろう。賢治も吉本も、そのことに対して自覚的なのです。したがって、、絶対的思想・党派的思想を、例えばその信仰・神学の認識方法と概念構成において包括し止揚して、そこから超出していくところに、神学における思想の問題がある、と言えます。
信と不信、信仰者と不信者を架橋することができる考え・認識方法と概念構成が「ほんとうの考え」である。カンタベリーのアンセルムスは架橋させようとしたし、バルトは架橋させた。親鸞も架橋させようとした。知と非知、知識人・知的大衆と生活者(思想にとっての普遍的な価値基準である社会的存在の自然規定である大衆原像、その社会構成や支配構成等の時代状況によって変容する大衆像と大衆的課題)を架橋することができる考え方・認識方法と概念構成が「ほんとうの考え」である。吉本の人間存在の三様式もそれを目指すものである。吉本の史観の拡張論の試みもそれを目指すものである。したがって、ただ単なる口先だけの容認の語りも、一方通行的な一面的部分的な考え・認識方法と概念構成も「うその考え」である。第一次的な主格的属格としての「イエスの信仰」に媒介されない(基づかない)、寺園喜基の目的格的属格理解に依拠した、一方通行的な信の上昇過程の場所しか持たない考え・発言・神学は「うその考え」である。佐藤優の「神学研究の本質と教会の責務は、「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」、という部分を全体とする一面的形而上学的な考え・発言・神学は「うその考え」である。また、現在教会組織は佐藤や・時流や・時勢や・マスコミに媚びっているのか、牧師も神学者も誰一人として反論・批判をしないのであるが(私が知る限り)、佐藤の「神学がなくても信仰は成立しますが、高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなったわれわれには神学(《知識》)が必須です。われわれは『天にいる神』をほんとうに信じていませんが、ほんとに信じていないことを口にしてはいけないというのが、キリスト教信仰の第一の前提です。だからこそ神学(《知識》)が不可欠なのです」、という恣意的一面的考え・発言・神学は、「うその考え」である――否、それは、ただ単なる、神学における思想としての良質な三位一体論等を持たない戯言である。人間学的に言えば、知識の往相過程と還相過程の総体性という往還思想を持たない戯言である。私の考えでは、少なくともバルトの良質な三位一体論を自分自身の信仰・神学として首肯したならば、ほんとうは、佐藤のこの考え方・発言・神学に対して、教会の神的側面であるイエス・キリストを頭とする信仰共同性の牧師や神学者は、不可避的に、良質な三位一体論等をもって、根本的な反論・批判をすべきなのである。その佐藤の「うその考え」を、自らのその信仰・神学の認識方法と概念構成において包括し止揚すべきである。自分の教会は安閑としているから、ただそれだけでいい、ということなのだろうか……、まあまあ主義なのか、私にはよく分かりません。近代以降は科学がすべてである、その対極にあるエコロジーがすべてである、市民社会の主軸である経済がすべてである、観念の共同性である政治、法・政治的国家がすべてである、という一面的な考え・発言・知識は「うその考え」である。その証拠の例示――南アフリカにおけるマンデラ氏によるアパルトヘイトからの解放の功績や、アメリカにおけるキング牧師による黒人解放の功績も、それが、観念的な、すなわち一面的部分的な法的・政治的解放である限りは、経済的な不平等や格差からの解放等々、すなわち社会的・人間的な現実的総体的解放とはなっていないということから証明されています。言い換えれば、究極的包括的総体的永続的解放のためには、観念の共同性である法的・政治的国家の無化と、資本主義を包括し止揚した経済社会構成体の構想・獲得等々、すなわち社会的・人間的な現実的解放を必要とするのです。ここに、人間学における思想家であるマルクスや吉本の考えがあります。それに対して、神学における思想家であるバルトは、次のように考えていました。
教会の存在と現状が、……福音から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう。教会みずからが、……その行為と態度によって、自己の内なる政治をこの使信に合わせてゆくこと(《法・政治的権力を無化していくこと》)を全然考えないとしたならば、どうして世は、王とその御国の使信を信ずるであろうか。(カール・バルト『教会と国家』「キリスト者共同体と市民共同体」?見和男訳、新教出版社)
(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(《一切の政治的国家、法・政治的権力》)のともがらと成ることができようか。 (『カール・バルト著作集10』「教義学要綱」井上良雄訳、新教出版社)
主格的属格としての「イエスの信仰」におけるイエス・キリストの名にのみ信頼し固執したバルトの場合は、その完了された救済と平和の場所において、法・政治的国家の問題を、不可避な過渡的問題として捉えると同時に、究極的包括的総体的永遠的課題としては一切の法・政治的国家の無化を構造化させていました。すなわち、バルトは、終末、救贖・完成においては、一切の法・政治的国家も無化されてしまうという観点を持っていたのです。
先ずは、今日は、その1、として終わることにします。