本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

シュライエルマッハーからリッチェルに至る神学における神の言葉

『カール・バルト著作集4』「シュライエルマッハーからリッチェルに至る神学における神の言葉」等々に基づく

 

 翻訳者・吉永正義は、訳者解説で、この書は、「『十九世紀プロテスタント神学』のすぐれた要約」である、と述べています。この書を、前回の連鎖式勉強法・研究法によって素直に読んでいけば、別に難しいわけではなく、単純にしかし根本的にそしてトータルに理解できるわけで、そのことを、簡潔に整理すれば、次のように言うことができます。
 この「神の言葉」への神学的な関わり方についての・その類型についての「講演」の主題は、支配構成や社会構成や文明や文化の時代状況に流され続けている、また時流や時勢に流され続けている一切の近代主義・一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教・「支配的な神学」に対する、バルト自身のその神学の「原理的な思想構造」からする、すなわちその神学の認識方法と概念構成からする、異議申し立てと根本的な批判にある。
1)ルートヴィッヒ・フォイエルバッハによる「支配的な神学」に対する主観的・「心理学的側面」からする根本的な批判
 フォイエルバッハは、「デ・ヴェッテによって……述べられた、神学は人間学であるという合言葉を真剣に受け取」った。そして、「宗教の対象、宗教の神」を「人間の心の中へと移し、宗教の現実を超え出ているすべてのものを、幻想として、まさに人間の心の憧憬と恐れ、理想主義と嫌忌の産物であると言い切ることによって、神学を心理学的側面から攻撃した」。いわば、神の言葉は、「すべては、全く、われわれ自身の中にある」。言い換えれば、神の言葉は、私たち自身の自問自答の中にある。ただ、宗教の場合の自己意識は、自由な自己意識によって対象化された対象物が自己還帰する文学の場合とは違って、自己喚起せず、したがって第一義性・価値がその対象物を対象化したこちら側から、対象化されたものの方へと移行してしまう点にある――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。……人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」(『キリスト教の本質 上』岩波書店)・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」。「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」福村出版)・「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」。「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である。(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、「神学の秘密は人間学以外の何物でもない!」(『キリスト教の本質上・下』岩波書店)。
 バルトは、その神学の「原理的な思想構造」・認識方法と概念構成において、フォイエルバッハの宗教批判・キリスト教批判を包括し止揚しなければならなかった。なぜならば、ヘーゲル主義やシュライエウマッハー(これらに類する輩は、現在でもまだ根強く残存し続けている)や一切の近代主義や一切の自然神学の系譜に属する神学等々では、フォイエルバッハの根本的な宗教批判・キリスト教批判を包括し止揚することは全くできないからである。バルトだけが、そのことを自覚していた。
2)ダーフィト・シュトラウスによる「支配的な神学」に対する客観的・「歴史的な側面」からする批判
 シュトラウスは、「支配的な神学」における、人間は理性・思惟能力によって「歴史の中での神」を認識できるという言説、を「まともに受け取った」。そして、シュトラウスは、その「支配的な神学」に対して、次のように批判をする――もし人間が、その理性・思惟能力によって「歴史の中で所与として与えられた事実を認識する」場合、近代以降は、歴史の中で神を認識することはできない。なぜならば、「各頁ごとにさまざまな奇跡を含んだ福音書」は、学問的な歴史主義等の実証的研究によっては、歴史的な(geschichtlich)人間イエスは神話とされ、歴史的な(geschichtlich)「個体の思想全体」・総体像は切りちぢめてられてしまうからである。このようにして対象化されたものは、人間によって切りちぢめてられた・対象化された人間の自己意識の類的本質、「あまりに人間的な」意味的世界の叙述に過ぎないものである。
 したがって、バルトは、次のように述べた――聖書は、史実史や神話ではなく、「ただ、(一人、あるいは何人かの)物語者が物語られた歴史に対して、多かれ少なかれ(主観を交えて脚色しており、そういう意味で)干渉し、関与する」という「歴史物語あるいは古譚の要素を持ったもの」である。また「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものであるが、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」のであって、その非中立的な観察者だけは、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされた(『教会教義学 神の言葉』)。
 さて、西洋近代を頂点とした進歩史観は別として、ヘーゲルの歴史哲学からは得るものは多い。「ミネルバの梟は、せまりくる夕暮れとともにはじめて飛びたつのだ」・すなわち「世界を思考する哲学は、現実がその形成過程を終了し、確固たる形を得たのちに、はじめてこの世にあらわれるのだ」(ヘーゲル『法哲学講義』「法哲学要綱」長谷川宏訳、作品社)。そうすると世界史は、自由を本質とする世界精神の世界史的民族(世界精神の特殊的形態として、一人の者が自由を自覚している東洋→若干の者が自由を自覚しているギリシャ・ローマ→すべての者が自由を自覚しているゲルマン世界・西洋)とその世界史的個人(英雄)を介した実現過程である、ということになる。「人間は本来、理性的であると言えば、人間は素質の形で、萌芽の形で理性を持つことを意味する。この意味において人間は理性、悟性、想像、意志を生れながらにもつ。(中略)しかし子供(《人類史に敷衍して言えば、自然を原理とするアジア的段階》)は、このような理性の能力(《論理的合理的体系的な思惟能力》)」の「可能性を単にもつというだけであるから、理性をもたないのと同じである。そしてそれ故に、自由でもないのである」。A「アフリカ民族およびアジア民族と、……現代人との唯一の区別」は、後者は自然から完全に超出し「自由であることを自分で知っており、それを自覚している」のに対して、前者の場合は萌芽的に「自由であるにもかかわらず」自然から超出でき得ていないために(自由を自覚していないために)、彼らは「自由なものとして実存」できていないところにある(ヘーゲル『哲学史序論 哲学と哲学史』武市健人訳、岩波書店)。このヘーゲルに対して、モルトマンの状況論なき思想なき神学的進歩史観(人間学の後追い知識としての非自立的で中途半端な人間学的神学)からは、現在においても・未来においても、何も得るものはないのである。
3)マールブルクの神学者フィルマール、ハレーの神学者のJ・ミュラー、ドルナー、H・f・コールブリュッゲ
 1)と2)における神の言葉の問題の解決の仕方は、根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」られたものに過ぎない。このことの自覚的な在り方に、フィルマール、ミュラー、ドルナー、コールブリュッゲは貢献している。@教会は、「啓示によって全権を委任されて、何かを語らなければならない」「公の制度」である。A神と罪人である人間との無限の質的差異・神語り給うゆえに、神語り給うことを聴き、神語り給うことを語る。B「主観的認識根拠」は、「真理の基礎」でも真理の「基礎づけ」でもなく、イエス・キリストにおける啓示の出来事、具体的には「客観的認識根拠」・キリストの証言としての聖書に基づく、神のその都度における自由な決断に基づく聖霊の注ぎによる信仰の出来事にある。神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示=イエス・キリストの啓示の出来事=啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてある。このキリスト教固有な啓示の「概念の実在」は、その「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)においてある。このことをバルトの言葉に即して言えば、それは、終末論的観点の下で、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということである(『教会教義学 神の言葉』)。C神は、「存在」上・「認識」上、人間との無限の質的差異において、また自由・主権において、そしてまた神性・単一性・永遠性において、三位一体の神として自己啓示する。自由・主権は、神自身においてのみ「実在であり真理」である。客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(インマヌエル)も聖霊の注ぎによる主観的な信仰の出来事も、徹頭徹尾全面的に、この神の自由な恵み・「あくまでも自由であり続ける恵みである」。この言葉は、神と人間との混淆論や「共働」論・「神人協力説」を包括し止揚して、そこから超出していくことを意味している。
 さて、19世紀のプロテスタント神学においては、「神の言葉」は、次の二つの類型において理解されていた。
1)自由な自己意識の無限性によって、主観的な自問自答を介して、「何が真理であるかを自分に向かって語らせた」。
2)自由な自己意識の無限性によって、歴史的(客観的)な自問自答を介して、「何が真理であるかを自分に向かって語らせた」。
 この二つの型の神学の系譜はシュライエルマッハーにある。シュライエルマッハーによれば、「神の言葉への奉仕は、……説教者の『自己伝達』」にある。すなわち、「自分自身を、自分自身の〔敬虔な〕興奮」・感情を、自分自身の感覚や知識を内容とする経験を、「伝達」・「表現」する点にあった。この「個体化」は、「『救済者』と呼ばれるナザレのイエスの中で、実行に移される」。ここでは、「敬虔な偽り」(バルト『ヨブ』ゴルヴィッツアー編)が行われ、神への反抗が「公然たる反抗として行われず、実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われる」(トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)。ここでは、「神的なものは意識の中に」・「歴史の中に与えられており」、したがって、その主観的な要素と客観的な要素は、人間が自由に処理できる人間の自由事項とされている。この事態は、神の人間化、人間の神化を意味している、「人間が万物の尺度」とされた近代主義的な人間中心主義である。これが、1)と2)の「原理的な思想構造」である。したがって、それらは、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの宗教批判・キリスト教批判・神学批判の対象そのものとしての信仰・神学・教会の宣教・キリスト教である。
 ヘーゲルにおいては、哲学は「本質的にキリスト教の正統的教義と一致する」。この時、「キリスト教のもろもろの根本真理」は、その「哲学によって維持され保管されることになる」。なぜなら、ヘーゲル哲学において啓示は、「意識に対して存在するものすべてのものが、意識にとって一つの対象となる時のような仕方において」現われるからである。この場合、啓示は、人間の直接的で理性的な自己認識と混淆されてしまうから、「受け入れ難く耐え難い」、とバルトは言うのである。したがって、バルトは、ヘーゲル哲学が観念論だから「受け入れ難く耐え難い」と言うのではない。すなわち、ヘーゲルにおけるその啓示・神は、人間自身の自己意識が「捕えた虜囚」でしかないものとなってしまうから、「受け入れ難く耐え難い」と言うのである。そして、バルトにとって「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、人間中心主義的な「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」・「神の自由を認識していないという事態」にある――「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……〔この〕ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇するであろう」(『カール・バルト著作集12』「ヘーゲル」)。シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識の意味的世界、感情・理性・実存等の人間的契機の直接性、人間学的な哲学的原理や認識論や世界観に信頼し固執して、自分自身の恣意的なプログラム・「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる。これらは、バルトの根本的なシュライエルマッハー批判である(『教会教義学 神の言葉』)。
 さて、@「信仰覚醒運動の神学者たち」・A「ヘーゲル右派の神学者たち」・B「聖書主義者たち」は、上記の二つの型の神学に抗議はしたが、その神学の「原理的な思想構造」はその二つの型の神学と同じであった。@ト―ルックにとって、聖霊は、対象化された彼の「敬虔な主体」・「理性的賛同」と同一であった。また、ローテにとっても、対象化された彼の「キリスト教的自己意識と神意識」は、「真理ノ泉」であった。しかし、バルトにとっては、「聖霊は、人間精神と同一」ではなかった、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合」でも、「そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿である」などということは決して言わなかった。したがって、バルトにとっては、聖霊によって更新された理性も、聖霊と同一ではなかった(『教義学要綱』)。また、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識であれ、神の隠蔽性と終末論的限界の下で、それは、常に、啓示の実在の彼岸・外にあった(『教会教義学 神の言葉』)。ヘーゲル右派のマールハイネケにとって神は、対象化された人間に内在する神的本質である――「神を思惟するわれわれの思惟は、終始、神ご自身の思惟である」。聖書主義者たちにとって、聖書は、人間の自由事項であり、またそうした彼らにとって神の言葉は、キリスト教的主体・キリスト者の自己意識によって恣意的・主観的に対象化された聖書の意味的世界であって、それは、イエス・キリストにおける啓示(啓示の実在そのもの、啓示の客観的現実性)に基づいた、聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の歴史性に連帯する位相としてはなかった。したがって、聖書主義者たちにとって神の言葉は、「聖書を自分の支配下において自由に処理するキリスト教的主体〔キリスト者〕の知識」でしかなかった。しかし、バルトにとって、啓示は、神の隠蔽性・神の不把握性・終末論的限界において、人間の「言葉性に縛」られることはないのであり、逆に人間の「その言葉性の方が神に縛られている」のであって、したがって私たち人間は、「神の言葉」・「神の恵みの実在」・啓示の実在そのものの「認識を問うことはできない」。また、バルトは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」する。すなわち、イエス・キリストにおける啓示の出来事と、神のその都度の自由な決断に基づく聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識を目指す――「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、聖書に依拠した神学・教会の宣教は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」・終末論的限界を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、むしろ逆に、「世界を三位一体から説明せんと欲」する(『教会教義学 神の言葉』)。
 このように、この書は、『ヘーゲル』・『教会教義学 神の言葉』・『知解をもとめる信仰 アンセルムスの神の存在の証明』・『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』・『福音と律法』・フォイエルバッハやヘーゲル等々に連鎖させて理解することができる。また、この書は、ブルトマンへの根本的批判の書である『ルドルフ・ブルトマン』に、そしてまた、綿々として尽きない自然神学の系譜に属する現在の神学群の根本的批判に連鎖していく。
 最後に、拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』の書評が、キリスト教文書センター 書評誌月刊「本のひろば」2月号に掲載されました。その「批評と紹介」者は、日本基督教団神奈川教区巡回教師であり青山学院大学名誉教授の関田寛雄先生です。興味関心があって読んでみようかと思われる方は、加盟・準加盟・部分加盟・参加(カトリック)を含めてプロテスタント中心の協議会であるNCC(日本キリスト教協議会)文書事業部の外郭法人であるキリスト教文書センター 書評誌「本のひろば」のホームページにアクセスし、月刊『本のひろば』2月号(すでに発行されています)をメールでリクエストをすれば贈呈してもらえると思います。また、この2月号のホームページへのアップは2月20日前後だそうです。