本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの神学的実存の在り方

『カール・バルト著作集6』「今日の神学的実存」等々に基づく

 

 ここでバルトが述べている「今日の」それとは、それ以前や・現在や・将来にまで届く普遍性のある言葉です。簡潔に整理すれば、次のように言うことができます。
 この論文が書かれたのは、ヒトラーが国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者として独裁体制(全権委任法)を敷いた1933年のことである。最初、ヒトラーは「教会の権利は侵害されないし、教会に対する国家の立場は変更されない」という声明を出し、文教大臣ルストも「国家は、教会だけで解決できる教会の事柄に指一本でもふれるつもりはない」という声明を出していたが、この時教会は、神の言葉、すなわちイエス・キリストの福音、具体的には聖書に依拠した正当な教会改革の機会を持ったのであるがその機会を逸して、結局は、ドイツ的キリスト者運動の下で、ヒトラー政権・国家から干渉され、ドイツ福音主義教会の設立と帝国教会政策・アーリア系キリスト者による帝国監督政策・ナチスの反ユダヤ人政策に加担していくことになった、国家社会主義・「ナチスの国家の優位性」は、「信仰にかかわる事柄」になっていった。こうしたドイツ福音主義教会に対して、1934年に告白教会が形成された。この告白教会は、1933年、ユダヤ人公務員を追放するアーリア条項の適用によりドイツ福音主義教会からユダヤ系牧師が追放されたため、それに反対した牧師・信徒たちがモーセの第一戒の下に結集した牧師緊急同盟組織(ディートリヒ・ボンヘッファー、マルティン・ニーメラー)であった。そして、1934年、告白教会会議でバルメン宣言が採択された。
1)バルメン宣言を起草したカール・バルトの言葉に依拠して神学的実存の在り方について言えば、次のように言うことができる。
「国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける」・また「教会が、人間的な自立性において、主の御言葉と御業を、自力によって選ばれた何かの願望や目的や計画に奉仕せしめることができるというような誤った教えを、われわれは退ける――私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」、すなわち全人間・全世界・全人類の救済と平和の唯一無比の根拠である、イエスキリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)である啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執する。
 「教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける」――教会は、終末論的観点から国家の無化の究極的課題を持つと同時に、人類史における過渡的形態としてのみ最善最良の国家を探求する。その過渡的形態は、観念の共同性を本質とする国家を第一義・価値とする国家社会主義にはなく、人間の存在様式の総体性を生きる社会を第一義・価値とする社会主義的国家にある。その場合も、国民に対して国家を最大限に開くために、すなわち国民の物質的精神的生活の向上のために・国民を戦争に向かわせないためにも、最善最良の直接民主制の導入が必要である。
 バルトは、この論文において次のように述べている――教会は、「それが聖なる公同の教会である限り、その『指導者』をイエス・キリストに、また神の言葉に持って」おり、そのイエス・キリストが「私たちに人間的な『指導者』を与えるということ」を認識すべきである。すなわち、「イエス・キリストが大牧者であること」・「聖書の力と権威」は、「教会において選出された代議員の集まりにおいて互いに助言しあい、忠告しあい、守りあい、共に戦いあえる教会の任職された教職の奉仕の中にのみ、人間的な相応ずるものを持つのであって、決して実際の教会を支配する監督職に持つのではない」。言い換えれば、「イエス・キリスト……だけが指導者であることが理解される所に、神学的実存」はある。したがって、このような神学的実存のないところでは、すなわち「ドイツ的キリスト者信仰運動」においては、イエス・キリスト以外の「指導者」への「絶叫」があるだけである。それは、「バアルよ、私たちの声に耳を傾けてください」というバアル礼拝の祭司の「絶叫」と同じく、「空しいもの」である。
2)ドイツ的キリスト者に対する反対命題は、例えば次の点にある――国家はあくまでも終末論的な観点からは無化される対象であり・またそれはあくまでも人間的な過渡的形態に過ぎないから、教会は、「ある一定の国家形態」・「ドイツの国家形態」・「ナチスの国家形態」を信じたりそれに与したりすることはしない。教会の奉仕の任務は、神の言葉・イエス・キリストの福音を、全人間・全世界・全人類に宣べ伝えることであって、したがって「第三帝国においても宣べ伝える」のだが、その国家の「下にあって、その精神において宣べ伝えることはしない」。したがってまた、教会の信仰告白は、「聖書の規準に従ってなされるべき」であって、何か「ある特定の時期だけに妥当する政治的な立場」や「何か他の世界観の立場」を規準としてなされてはならない、教会における交わりは、「血や種族」や知識等によって決定されるのではなく、「聖霊と洗礼によって決定」されるべきである。したがって、「もしもドイツの福音主義教会がユダヤ的な文書を排除し、またキリスト者としての二つの身分を設定する場合」、その教会は、「もはやキリスト教会であることをやめる」ことになる。こういうことは現在の日本においても残存している――「後任牧師の選任」基準を、「外国留学」と「学位」においている教会がそれである。また、高等教育を受けた者と受けなかった者とに分けて信仰・神学・知識の差異性を語る語り方もそれである。バルトは、次のように述べている――第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった1933年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」。「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した。「私は、前よりももっと明瞭に人間―キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!―がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(カール・バルト『バルト自伝』)。
3)近代主義を骨肉にまで受け入れた・そして近代主義に毒されてしまった、ドイツ的キリスト者信仰運動と青年宗教改革運動の根本的な誤謬は次の点にある――それは、教会が「守らねばならない宣教と神学の自由」はほうんとうは「神の自由」・「神の言葉の支配」を守り・そしてそれに奉仕する自由にあるにもかかわらず、「全ドイツ福音主義教会において……長期間にわたり、また広範囲に」わたってなされてきた、自然神学的な、神の人間化・人間の神化、「神人協力説」、神人「共同」論、神と人間・神学と人間学との混淆に「普遍性と組織性の後光をかぶせて語」ってきた点にある。したがってバルトは、全世界におけるこのような自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を、根本的に包括し止揚して、そこから超出することができる聖書的根拠を、主格的属格としての「イエスの信仰」に見たのである。
4)バルトの聖書的・キリスト論的・神学的な自立的神学における人間の実存理解は、次の点にある――ブルトマンの場合の実存理解は、前期ハイデッガーの哲学的原理によって対象化された人間の自己意識の意味的世界である啓示・存在者・存在者レベルでの神を第一次化すること自体が、自己自身の「非本来的存在から本来的存在への」・「過ぎゆく存在から将来の存在への移行の歴史」であり、信仰であり、説教である、という点にある。しかし、神性を本質とするイエス・キリストにおける神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ、すなわち啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執したバルトの場合の実存理解は、新約聖書の使信において、私たち人間は、「見えないもの、知りえないもの、勝手に処理しえないものへの信頼としての信仰」へ、「自己自身の現在から神の将来への方向転換」へ、「そのことによって神と隣人に対する愛」へ、「そのままで、人間の本来的実存であり、真に自然な実存である新しい被造物の『終末論的』実存」へ、その神の恵みに対する感謝の応答としての実存へと召し出されている、という点にある。言い換えれば、キリストの復活・成就された時間と終末・再臨の中間時の「聖霊の時代」においては、私たちの人間的存在は、それが「イエス・キリストの人間的存在である限りは」、「そのままで、人間の本来的実存」なのである。
 世界的な神学者で思想家でもあるバルトは、その神学的実存を含めて・その神学の認識方法と概念構成には一貫性があって、単純でしかし根本的でそしてトータルであるから、したがって全ての著作を含めたその言説の表明は、断続的な、その都度における言い換えなのである。したがって、今回の「今日の神学的実存」におけるその在り方についても、私たちが、自分自身の信仰や信仰体験や神学を介して、素直に単純に根本的にトータルにそれを理解するように読むことをすれば、それは、次のことを意味していることを知らされるのである、認識することができるのである。
5)先ず以て、「今日の神学的実存」に即して言えば、バルトにとって、神学すること、説教すること、神学者であること、牧師であることは、イエス・キリストにおける福音の言葉を、「第三帝国」のただ中においても、「あたかも何事も起こらなかったかのように」、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の実在そのもの)と、また神の自由な決断による聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」に聞き宣べ伝えること・聞き続け宣べ伝え続けることにあった。このに、バルトの「一つの立場」をとるとり方が・「一つの教会政治的な立場」をとるとり方が・「間接的には政治的な立場」をとるとり方があった。ここに、バルトの神学的実存の在り方がある。なぜなら、バルトにとって、教会の「切迫した要求」は、イエス・キリストにおける福音の言葉・「神の言葉」が「語られ」、「聴かれる」点にあるからである、また「教会と世界」におけるその神の言葉への奉仕にあるからである――「この奉仕に関する配慮や希望よりも、より切実な配慮とかより切実な希望はあり得ない」。
 バルトは、上記の神学的実存を生きながら、「毎日、新しく私たちに与えられなければならないこの神学的実存が、今日もはや与えられなくなっている」と「第三帝国」における教会の状況認識をしている。その教会の現状は、具体的には、現在にも通底しているのであるが、「私たちが増大しつつある危険に心配して、神の言葉の力にもはや全き信頼を寄せず、様々な企てによって助けを求めねばならないと考えたり、そしてその結果、主の勝利に対する信頼を全く放棄してしまう」、という点に見ることができる。「創造者、和解者、贖罪者をあがめることをやめること」に見ることができる。また、神の「御言葉をイエス・キリスト以外に求めたり、イエス・キリストを旧新約聖書以外に求めたり」することに見ることができる。「もしも一人の神学者が(≪不可避的なではなく、事実的実体的な≫)政治家、教会政治家になるならば、それは神学的実存の喪失を意味する」。このバルトは、教会の改革を、一人のキリスト者として・神学者として・牧師として、「教会の生命の内的な必然性」、すなわちイエス・キリストにおける「神の言葉への服従」・奉仕から考えた。しかし、そう考えないキリスト者・神学者・牧師たちは、1933年3月23日の「教会の権利は侵害されないし、教会に対する国家の立場は変更されない」というヒトラーの声明や「国家は、教会だけで解決できる教会の事柄に指一本でもふれるつもりはない」という文教大臣ルストの声明は、国家から対象的になって距離をとり得る「教会に与えられた一つのチャンス」、すなわち教会が「教会と世界」において自立的にイエス・キリストにおける福音の言葉・「神の言葉」への奉仕を行うことができるチャンスであったにもかからず、また教会が終末論的な国家無化の究極像から国家の最良の過渡的形態を構想するチャンスであったにもかかわらず、教会は何もなし得なかった、逆に教会は「第三帝国」への加担へ向かって行った。そうなってしまった理由は明確である。すなわち、「毎日、新しく私たちに与えられなければならないこの神学的実存」・教会の改革は、イエス・キリストにおける福音の言葉・「神の言葉」への信頼と固執・服従と奉仕においてのみ可能だからである。
 因みに、世界的な哲学者で思想家でもあるミシェル・フーコーにとって現代性とは、ある瞬間における一つの態度であった。ここで態度とは、昨日に対して今日の現実的な状況に対する関わり方の様式(考え方の様式・感じ方の様式・行動の様式)のことであった。そして、その課題は、私のその存在・その思考・その実践における今日の昨日に対する意志的・倫理的な一つの選択・決断・差異化にあった。すなわち私自身の意志的で倫理的な決断と実践による、価値としての新たな自由な主体の創造にあった(『思考集成]』「啓蒙とは何か」)。フーコは、昨日ではない今日この時において、さまざまな個別的問題における危険に対して、倫理的でもあり政治的でもある意志的な責任ある決断を行っていくという哲学的態度において、新たな主体や自由や価値を希求し掌中に収めようとした。
 「超自然な神学」者で思想家でもあるバルト(『人類の知的遺産 バルト』)を著わし、自然神学の系譜に属する哲学的神学者のエーバーハルト・ユンゲルの「神の存在 バルト神学研究」を訳しその神学者と神学を称賛した人間学的神学者の大木英夫には、バルトのような神学的実存の一貫性や、フーコーのような哲学的態度が全く欠損しているということができる。
 バルトはこの論文で次のように述べている――「私は、今まさに私たちに向けられている問いとの具体的な関連において、福音主義の神学者に向かって単純なことを言いたいし、言わなければならないのである。それは、今日私たちは自分の神学的実存を、昨日よりも特に今日、(≪また今日よりも明日≫)確保しなければならないということである。私たちは、倦むことなく走らねばならない」。このことを『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事である「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示であるイエス・キリストの名(啓示の実在そのもの)と、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてあるから、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、その啓示の「概念の実在」に連帯しなければならない、ということである。すなわち、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるということである。このことは、オリジナルな神学思想というものはない、ということを意味している。その時間的な連続性(歴史性)への連帯性において、バルトは、その信仰・神学に個性と時代性を刻んだのである。
6)神学的実存の在り方は、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する、したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する、ことを意味している。すなわち、それは、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する、ことを意味している(『教会教義学 神の言葉』)。
 なぜならば、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」、すなわちイエス・キリストの啓示の内容である「インマヌエル」――神は、無神性のただ中にある罪深き真実の罪人としての私たち人間と、「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」(『教会教義学 神の言葉』)、「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」(『教会教義学 和解論T/T』)、からである。
7)バルトの神学的実存は、社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、イエス・キリストの福音について「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にある(エーバハルト・ブッシュ『バルトの生涯』)。だからこそ、バルトの場合は、他者がたとえ無関心であっても、発言しなくても、動かなくても、自らは一人のキリスト者・牧師・神学者として、自らが語った説教や神学におけるイエス・キリストにおける福音の言葉を媒介として、おのずから神学的実存へと駆り立てられていくのである。バルトの場合、政治的なドイツ教会闘争・反ナチ闘争も、またバーゼルの刑務所での社会的な説教奉仕等も、その位相にあるものなのである。そのバルトにとっては、ステパノの殉教の本質は、その苦難の「行為」にはなく、イエス・キリストの福音にのみ信頼し固執する「言葉」にある。それに対して、ヒトラー暗殺計画の陰謀を企てたボンヘッファーの神学的実存の在り方は、彼の『説教と牧会』に即して言えば、「キリスト証言は、言葉と行為とをもってする説教者と聴衆とを要求する」というところにある、しかも、そのボンヘッファーの信仰・神学のベクトルは、バルトとは違って、この世における、キリストの許しのもとでの、神との「共働者」論に基づいたキリストを範型とした「行為」、イエスへの従順と服従の「行為」、正義の体現「行為」にあったから、ボンヘッファーのそのイエスへの従順な服従行為は、事実的にはヒトラー暗殺計画へと向かう権力闘争・政治的実践にあった。しかし、それは、果たしてほんとうに従順な服従行為なのだろうか? また、人間学的にもほんとうの革命論だろうか? いずれにせよ、この意味で、ボンヘッファーのその行為は、疑問符を付けざるを得ない行為であった。私たちは、この両者の根本的な差異を、バルトの神学的実存の根拠が主格的属格として「イエスの信仰」にのみ、すなわち啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執する点にあるのに対して、ボンヘッファーの神学的実存の根拠が目的格的属格としての「イエスの信仰」に、すなわち「神人協力説」・神人「共同」論における啓示の主観的現実性に信頼し固執する点にある、ということを知ることができる。
 さて、このバルトが、一方で、「スイス(《自由および直接民主制と武装永世中立》)をナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」・「規準はただ方向を与えることしかできない。(中略)ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要なキリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」(ゴッドシー編『バルトとの対話』)、とも語っていることが重要な点である。すなわち、バルトは、絶対主義的・党派主義的・教条主義的な、平和主義者でも戦争主義者でもない、ということである。バルトは、このことで、往相的な教義では答えが得られない不可避な場面、すなわち民族国家が存在する限り戦争の可能性はあるからそうした場面に立たされた場合、教義の還相過程を意識的に下降してその答えと実践の決断を逼られることがある、ということを語っているのである。このバルトが、ヒトラー暗殺計画へ向かったボンヘッファーを批判しているのである。
8)「私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということである。いわゆる「宗教」が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、……神の言葉こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、維持し、支えてきた神の言葉、聖書において人間に……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……神の言葉、神との関係における人間の秘義……ではなくて、人間との関係における神の秘義である神の言葉……それこそが常に私の思惟の対象なのである (カール・バルト『バルト自伝』)――神の言葉は、隠蔽性と顕現性においてあるということであり、神の自己啓示=イエス ・キリストの名=啓示の実在 、啓示の時間=永遠 =超歴史 =救済史は 、常に 、人間が人間的に所有する人間の啓示認識 ・概念 ・教義 、人間の時間 ・歴史の 、彼岸・外にある、ということである。そして、啓示自体から与えられた、これらの認識・信仰・神学およびその認識方法と概念構成は、それ自体に、私たち人間における「終末論的限界」を、また、まことの神は「隠蔽性・秘義性」をその本質としており、その神に対して人間の理性は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性をその本質としているという「神の不把握性」、の認識・自覚・自己相対化視座を持っている。この神の不把握性は、神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性についての「信仰命題」であり、一般的真理ではなく、啓示の真理・信仰の真理である。したがって、これらの認識は、神性を本質とするイエス・キリストの出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて人間が人間的に所有することができる人間の啓示認識・啓示信仰であり、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通して初めて得られる人間の自己認識である。このバルト神学の認識方法および概念構成自体が、一方で、宗教としてのバルト<主義>やバルト<学派・党派>を否定し拒否しているのである。
 このように、神の自己啓示であるイエス・キリストにおける啓示を、「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」という主格的属格としての「イエスの信仰」(啓示の客観的現実性)として理解しない場合、言い換えれば「イエス・キリストを信ずる信仰による神の義」と目的格的属格としての「イエスの信仰」(啓示の主観的現実性)として理解する場合、近代以降は不可避に必然的に「神人協力説」に・神と人間との「共同」論に・神学と人間学との混淆と折衷に・人間学的神学に・人間的な誰々教的キリスト教に・フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものとしてのキリスト教に・ハイデッガーの揶揄し批判した「存在者レベルの神への信仰」そのものとしてのキリスト教に、そのベクトルは向かわざるを得ないのである。その場合、その啓示の主観的現実性に立脚した神学者や牧師や著述家たちは、一方通行的な一面的な信仰・神学・知識の上昇過程しか持たないから、常に、自分を信や知の立場において思惟し発言することしかできないのである。信や知を、そのあるがままの不信や非知に対して、完全に開けないのである。したがってまた、無媒介的に、諸民族を「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ところに、キリスト者とキリスト教会の責務があると発言してしまうことになるのである。それに対して、バルトは、イエス・キリストによって「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」にのみ信頼し固執するようにと「呼びかけられている」のであるから、キリスト者やキリスト教会や諸民族は、徹頭徹尾全面的に、天然自然や一切の人間的自然に左右されない、その全人間・全世界・全人類の救済・平和の根拠であり希望である神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執していいのだ、と宣べ伝えるところにある、と述べるのである。ここに、バルトの言うところのほんとうの祈りがある――マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」・「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」。「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である。「そこにはただ、神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」。これは、まさしく不信をそのあるがままに包括し止揚した・克服した、信における還相的な言葉である。このように、バルトは、「イエスの信仰」の目的格的属格理解者たちのように、無媒介的に、お前は、もっともっと、心を尽くし、精神を尽くし、信仰を尽くすべきだ、とは語らない。不信とむなしさと不確かさと不安の蔓延した現在から未来にいきるほんとうの言葉は、主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ信頼し固執するバルトの側にあるだろう。