本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

「聖霊とキリスト教生活」序論・その1・その2・その3

『カール・バルト著作集 1』「聖霊とキリスト教生活」に基づく

 

序論
 これは、1930年に刊行された論文です。この論文を理解するためには、バルトの三位一体論とその神学の認識方法と概念構成を根本的に理解することが必要です。
A)バルトの三位一体論
 聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの「存在の仕方」=「存在の様態」(性質・行為・働き)において「三度別様」に父・子・聖霊なる神であって、その「存在」は「失われない」神性・単一性・永遠性を「本質」とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」の、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である。したがってまた、神性・単一性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、父・子・聖霊の三つの「存在の仕方」の完全さ・自由さである。「われわれに出会う神」である父、子、聖霊の三つの「存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(《隠蔽》)、あわれみ(《顕現》)、愛(《父・隠蔽と子・顕現の愛に基づく交わり》)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造主なる神、和解主なる神、救済者なる神」の三つの「存在の仕方」に対応している。この神は、「隠蔽」と「顕現」において、またその都度の自由な決断において、「人間に対して自己を伝達」・啓示する。バルトは、この「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避け」て、「存在の仕方」・「存在の様態」と呼んだ。
 神の「存在の本質」としての一神、すなわち神の単一性・神性・永遠性の認識を保証するのは、「父なる名の内三位一体的特殊性の認識」、すなわち神自身においてのみ「実在であり真理」である自在性の認識・自在であって他在としての自由の認識・区別を包括した自己同一性の認識にある。神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。このように、神の「存在の本質」から言えば、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。したがって、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である。同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある。子も和解主であるばかりでなく、父に関わる創造主であり、聖霊に関わる救済主である。聖霊も救済主であるばかりでなく、父に関わる創造主であり、この関わる和解主である。したがってまた、、キリストの啓示と和解(「存在の仕方」)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、「キリストの神性」・キリストの「存在の本質」である神性性が「啓示と和解を生じさせる」。
B)バルト神学のその認識方法と概念構成
 第一には、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異と、第二には、主格的属格としての「イエスの信仰」と、第三には、「聖霊は、人間精神と同一ではない」・聖霊によって更新された理性も聖霊ではない、ということ、また、神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の実在 =啓示の真理 、永遠 =超歴史 =啓示の時間 =救済史は 、常に 、人間が人間的に所有する人間の啓示認識 ・概念 ・教義 、人間の時間 ・歴史の 、彼岸 ・外にある、ということ、そしてまた、啓示自体から与えられた「終末論的限界」と「神の不把握性」に基づく自己相対化視座、さらに、私たち人間における啓示認識は、神性を本質とするイエス・キリストの出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて人間が人間的に所有することができる人間の啓示認識であり、その啓示認識に依拠した信仰の比論・関係の比論・啓示の比論を通して初めて人間の自己認識・自己理解・自己規定は得られる、ということをその神学の認識方法と概念構成の原理とすることが必要である。
C)要旨
1)創造者としての聖霊
 このことは、聖霊の「存在の本質」、すなわち単一性・神性・永遠性に依拠した聖霊論である。「人間に対して存在の出来事となる聖霊」とは、人間の自由自己となる形で実体としてそこにあるという存在者ではなく、あくまでも、「創造者の被造物に対する自由な御業」・神のその都度の自由な決断の御業・聖霊の注ぎの出来事(出会い・交わり)によって人間の主体の側に惹き起こされる信仰の出来事(啓示認識・啓示信仰)における聖霊のことである。このことが、「人が神似姿を持っていること唯一の現実である」。したがって、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことを許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『カール・バルト著作集 10』「教義学要綱」)。
 「キリスト教生活とは、聖霊により、神の御言葉にむかってうち開かれた人間生活である」。聖霊は、その「存在の本質」と「存在の仕方」において、「啓示の出来事の主体的側面を意味している」とは、イエス・キリストにおける啓示の出来事(啓示の客観的側面)と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて人間が人的に所有する人間の啓示認識が得られる、ということであり、その人間の啓示認識と啓示の実在そのものとの間には無限の質的差異がある、ということである。
2)和解者としての聖霊
 このことも、聖霊の「存在の本質」、すなわち単一性・神性・永遠性に依拠した聖霊論である。聖霊は「恵みの霊」であるから、「人間に本来的な、唯一の罪に対して反対する」。すなわち、神と人間との混淆、人間の自主性、自己義認の欲求、無神性、不信仰、真実の罪、神から遠ざかる罪に対して反対する。
 「キリスト教生活とは、聖霊において現実となる生活、すなわち御言葉により、キリストのゆえに義と認められた」「信仰によって義と認められた人間の生活である」。この義認は、「現実の人間の義認であるから」、それは「その聖化と一致している」。そして、この「聖化の事実には、聖霊における人間自身の服従が対応する」。すなわち、聖霊の導きにおいて、主格的属格としての「イエスの信仰」における義に基づく「悔い改め」とその義への「信頼」・信仰に生きることである。「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、〈私は決して神の子に対する0
私の信仰に由って生きるのではなく 、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ 〉ということである)ガラテヤ2・19以下」(『福音と律法』)。「われわれは 、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより 、またイエス ・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより 、(中略)この主とかしらのもとで 、またこの主とかしらとともに 、……これからは神の義 、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される (『カール・バルト著作集15』「ローマ書新解」)。
3)救済者としての聖霊
 このことは、神の「存在の本質」(全き神性・隠蔽性)と「存在の仕方」(全き尊厳と低さ・顕現性)における聖霊論である。「聖霊は人間に対して、神の啓示のうちに約束の御霊として現在する」。すなわち、人間は、聖霊において、「人間存在の根源的な彼岸の究極的な、未来形において」、「人間は新しい被造物、神の子」である。私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて全人間・全世界・全人類の救済が、神の側の真実であるイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性にのみあることを「感謝」をもって認識し信仰することができる。また、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての〈いまだ〉であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として〈すでに〉ということである。また、次のように言うこともできる――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは 、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。 したがって、「キリスト教生活とは、聖霊によって証しされた、希望の中にある新しい生活である」。

 

 

1)創造者としての聖霊、詳論
 アウグスティヌスの根本的な問題点は、徹頭徹尾全面的に、「聖霊・Heilige Geisutは、人間精神と同一ではない」・聖霊によって更新された理性も聖霊ではない・「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」(『カール・バルト著作集 10』「教義学要綱」)、ということに対する認識・自覚が欠如している点にある。バルトは、「聖霊とキリスト教生活」において、アウグスティヌスは、「神の生」がその被造物である人間の「精神生活または霊的生活と同じものではないということを知っていた」、と述べてから、しかしと続けて、一方でアウグスティヌスは、「造られざる〔神の〕霊・Geistを、造られた〔人間の〕霊の連続性の中に求めていた」とも述べています。アウグスティヌスにとって、神は、「霊魂・Seeleではない」・「霊魂を超え、霊魂以上のものであるある」が、と同時に神は、ヘーゲル的に言えば人間に内在する神的本質として、「根源的には霊魂の中に」・人間精神の中にありました――「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念(≪最高善としての神≫)の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カール・バルト著作集 12』「カント」)。この場合、キリスト教の神は、「主なる神と人間との非連続性」・神と人間との無限の質的差異・神においてのみ「実在であり真理である」神の全き自由は取り去られ揚棄されてしまって、人間精神に内在する実体・客観的な対象物・存在者レベルでの神とされてしまう。またこの場合、その信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、フォイエルバッハやハイデッガーの正当性のある根本的な批判の対象そのものである宗教に過ぎないものとなる。
 アウグスティヌスは、「造られざる〔神の〕霊」と「造られた〔人間の〕霊」とのその連続性を原理としていたから、この意味で「存在の比論」の立場に立っていた。しかし、この場合、まさしく、以下のような事態を惹き起こすことになる。
◎「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」「こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密』は人間学以外の何物でもない!」と述べたフォイエルバッハの、キリスト教の神・神学・教会の宣教の批判の対象判そのものとなる。また、
◎「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」と述べたハイデッガーの、ブルトマン(その学派)の神・神学・教会の宣教・キリスト教の批判の対象そのものとなる
 したがって、バルトの場合は、「存在の比論」に対して、啓示自体の証明能力に依拠した啓示の比論・関係の比論・信仰の比論の立場を貫きました。それは、何度も書いているとおりです。バルトのその認識方法と概念構成には一貫性があります――神の「存在の本質」としての単一性・神性・永遠性の認識を保証するのは、神と人間との無限の質的差異における「父なる名の内三位一体的特殊性の認識」、すなわち神自身においてのみ「実在であり真理」である、自在性の認識・自在であって他在としての自由の認識・区別を包括した自己同一性の認識にある。神の「存在の本質」は、単一性・神性・永遠性にあるから、父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。したがって、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である。「父ト子ヨリ出ズル御霊」。また、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」する――この認識は、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間の啓示認識に依拠した啓示の比論を通して自己認識できる――ものとして理解されなければならない。そしてまた、人間における対他的であって対自的、他在であって自在、というヘーゲル哲学における自由の概念は、神においてのみ「実在であり真理である」自由を、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて得られる啓示認識に依拠した啓示の比論を通して初めて認識し概念化することができる。したがって、決して、「存在の比論」におけるような、人間における自由の認識・概念を通して、神の自由を認識するのではない。啓示神学においては、それは、上から与えられた「無償の贈与」・認識と概念であって、人間精神が下から上へと上昇・超越して規定した認識・概念ではないし、そういう認識方法・概念構成はあり得ない。したがってまた、啓示の出来事・啓示信仰に関しての正しい・ほんとうの認識(方法)・概念(構成)には、その都度の神の自由な決断に基づく啓示の出来事と信仰の出来事を必要とする。このバルトの認識方法と概念構成でなければ、アウグスティヌス神学やカント哲学やヘーゲル哲学やシュライエルマッハー神学やブルトマン神学やハイデッガー哲学等の認識方法と概念構成を包括し止揚して、そこから超出することはできない。言い換えれば、バルトの神学における思想としての、その認識方法と概念構成神学を原理としなければ、現在から未来に生きることは決してできない。
 歴史的・心理学的・社会学的にではなく、神学的に、キリスト教的に生きるとは? 「神が人間に向かって、御言葉を語られる時」・「キリストが人間のためにこそ、十字架にかかり、甦られたものとして現在する時」、その啓示の出来事の場所において、その啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事――「愛の奇跡」。聖霊は、「われわれを清め給う神の指」・「慰め主、そばに立って弁護する者」――によって、その出来事を授与された人間は、「造られたもの」として、「キリスト教的に生きる」・「キリスト教生活」を行う。したがって、この出来事は、人間の「自力の業」ではない。したがってまた、「キリスト教生活」は、「御霊により、御言葉に向かって」行く途上にある生活のことである。それは、いわば、「男もしくは女として」、「年寄りや若い者」として、「これこれの民族の一員として」、「個人」として、「労働・結婚・家族」として、前述したことを自覚的に生きる生活のことである。神学的倫理学は、「神が一度かぎり、預言者と使徒の口を通して語られたことを、その時その時に、私たちに向かって語ることによって、啓示――「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」・インマヌエル、神罪深きわれらと共に、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つこと」――についての聖書の教えがその時その時に、生きた神の声」となるところに成立する。したがって、神学的倫理学、キリスト教生活は、自己義認のために、聖書を人間の自由事項において我意に基づく「道徳目録」とすべきではない。「人間の律法を立てて、御言葉の邪魔をしてはならない」。したがってまた、神学的倫理学、キリスト教生活は、人間によって恣意的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に生きることではない、「宗教道徳的な世界観」を打ち建てることではない、「盲目的に」仕事へと没頭することではない、「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」ことではない、「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことではない、「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進することではない、「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進することではない。と同時に、その神学的倫理学、キリスト教生活に自覚的なその思惟による語りであっても、それが人間のそれである限りは、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項であって、私たち人間の決定事項ではない。したがって、私たちの語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいて成立していることに自覚的である必要がある――「私たちの霊〔精神〕は神の言葉を造り出すこともできないし、同様にまた、それを受け入れることもできない」から、「神の創造の戒律というものを認めたり、打ち建てたりできると考える倫理学は、自らを神の座において、その源泉を塞ぎ、それに毒を注いでいる」ことになる。「自己自身の上に築かれた人間の霊」・人間精神は、「キリスト者の場合にこそ、最も危険な姿を呈する。それは狂信者の霊、極めて真面目で、敬虔で、善意に満ちてはいるが狂信者の霊〔精神〕である」。このような霊・人間精神は、「忠実なルター派ないし改革派の、また聖書的なキリスト者、神学者の胸の中にもある」。彼らは「全く無駄に、聖書と経験(≪人間の感覚と知識を内容とする経験≫)をもって身をよろい、遂には、自分自身の可能性の限界の中で、あたかも織の中の飢えたハイエナのように、あてどもなく、あちこち暴れまわって」いる。このことは、イエス・キリストの証言・証しである「聖書」や啓示の実在そのものである「イエス・キリスト」の名をもすべて捨て去ったところに想定された「根源的事実」や「インマヌエルの事実」の理念を第一次化・原理とした滝沢克己やそれに類する神学者や同伴著述家たち、また前期ハイデッガーの哲学的原理・「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された啓示・存在者・存在者レベルでの神を第一次的なものに形式変換し、啓示の実在そのものであるイエス・キリストを「取り去った」新約聖書の使信・証言を、その第一次的なものに「従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの」・第二次的なものへと形式変換したブルトマンやそれに類する神学者・同伴著述家たち、にも言えることである。
 人間の器官や精神は、自らの自由な意志で、「神が語り給う」ゆえに「神が語り給う」ことを聞く耳を「呼びさましたり、教育したりすることはできない」。「聖霊において、人間は信ずる、そして、神の啓示についての聖書の教えが彼を捕え、彼に被造物としての歩み方を教える」。私たちは、聖霊の助けと導きと慰めと励ましを「祈りつつ」、神のその都度の自由な決断に基づいて「神が語り給う」時に、その「神が語り給う」ことを「聞くことができるのみである」。したがって、「神が語り給う」ゆえに「神が語り給う」ことを聞くことのできる出来事が惹き起こされた場合、その出来事は、聖霊の注ぎの「奇跡」による。

 

2)和解者としての聖霊、詳論
 バルトにおける罪認識・概念は、人間一般における罪認識・概念の通俗性のことではない。それは、人間論的人間学的な道徳哲学や法律や時流や時勢に伴ってその是非・善悪が判断され規定される罪の概念のことではない。またそれは、佐藤優が、センセーショナリズムに基づいて、ブッシュの『バルトの生涯』からバルトとキルシュバームとの対関係が日本では封印されているとして、「火宅の人、バルト」などと覗き見趣味的に意味ありげに述べた、「余りに性急に、余りに熱心に、念頭に置いて来た」「性的リビドー」(「『死んでいる』罪の成果の一部」)のことではない。そしてまた、人間の内面的な罪を指摘しているイエスの「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女(≪姦淫の女≫)に石を投げなさい」という人間の内面の普遍性に届く言葉も、「真実の罪」ではない。イエス・キリストの啓示の出来事(啓示の真理)に基づく啓示認識を目指すバルトにとって、人間の本質は、「神の恩寵を嫌悪し回避」する、真実の罪人としてのその存在にある、また「神の名において、神の呼びかけのもとに」神への「反逆」を行う、真実の罪人としてのその存在にある、すなわち福音そのものであるイエス・キリストを、人間が「管理するプログラム」・「キリスト教的企画」や理念や「キリスト教的世界観」や「キリスト教的道徳」や「キリスト教的政党」や」「キリスト教的結社」や「キリスト教的施設」等に恣意的に変えてしまう、真実の罪人としてのその存在にある。言い換えれば、人間の罪の本質は、この人間の、すなわち全人間・全世界・全人類の「自主性」・「無神性」・「不信仰」にある。この人間の本質・罪の本質・真実の罪(「罪の秘義」)を、私たち人間に対して認識させ自覚させるのは、イエス・キリストの啓示の出来事に基づいて認識させる「聖霊」である。言い換えれば、人間故に神に聞き神に従うことをしないとか・できないというのではなくて、人間の存在そのものが「自主性」・「無神性」・「不信仰」を本質としているから、根源的にそうしないし・そうできないのである。したがって、私たち人間が、その人間の本質・罪の本質・真実の罪(「罪の秘義」)を認識するためには、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事を必要とする。この二つの出来事に基づいてのみ、初めて、終末論的限界(自己相対化)の下で、人間が人間的に所有する人間の啓示認識も、またそれに依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識も可能となる。
 イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」。すなわち、この神の支配、神の自己啓示、神の恵みは、「神の国」のことである。この神の自己啓示、神の恵み、「神の支配」、「神の国」を、私たちが、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて認識させられた時には、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し確認することができる。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し確認することができる。したがってまた、その啓示の場所において、私たち人間の「恵みに対する反逆」性・「真実の罪」(『福音と律法』)を認識し確認することができるし、また人間の恣意的な自主性・無神性・不信仰に依拠した、「自製の神概念」を・福音が「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「イエス・キリストはたかだか《暗号》にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことを認識し確認することができる。しかし、この認識と確認は、あくまでも、神のその都度の自由な決断による啓示の出来事と信仰の出来事に基づく、人間の真実の罪に対する、イエス・キリストの福音の勝利・和解の恵に基づいて授与されるそれである。言わば、それは、神の「存在の仕方」である聖霊によって、また「神の「存在の本質」である単一性・神性・永遠性のもとでの聖霊、すなわち「和解者なる神」の「御霊」――聖書によれば、聖霊は、私たち人間の「救済主」(神の「存在の仕方」)である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけではない。聖霊は、その「存在の本質」である単一性・神性・永遠性(神の「存在の本質」)において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また、「父および子とともに創造主なる神」でもある――によって授与される啓示認識におけるそれである。この出来事が起こる場合、人間の「自製の神概念」・「偶像」は打ち砕かれ、神と人間との無限の質的差異の自覚の下で、神は「和解し給う御霊の働き」によって神と人間との間を架橋される。このように、聖霊は、私たち人間に対して、この神との交わりを与えると共に、徹頭徹尾全面的に、終末論的限界・自己相対化視座をも与える。
 さて、バルトは、アウグスティヌスの「甘い毒」を対象的・自覚的に扱えなかったローマ・カトリック主義的神学者や司祭や著述家や宗教改革者や近代主義的プロテスタント主義神学者や牧師や著述家たちの根本的な誤謬と問題を、次のように述べています――アウグスティヌスは、「義認」を「新しい服従の中に求め」、「義認を聖化の中に融合させた」信仰について、「本来の人間の力を、律法の命ずるままに意志させ、行わしめる伝達手段であると考えた」。神概念は、人間・被造物に「先天的に」内在する「真・善の源泉」・「本体」であると考えた。これは、言わば、終末論的限界・自己相対化視座を持たない、人間による、神の人間化・人間の神化である。人間によって言語を介して対象化された神概念、人間によって対象化された存在者(客観的対象物・人間的自然)である。このような信仰・神学・教会の宣教・キリスト教について一言で言えば、自然神学の系譜に属するそれとして、把握することができる。したがって、キリスト教の系譜は、単純にしかし根本的にそしてトータルに規定すれば、自然神学の系譜に属するそれか、あるいは、疎外とは疎外の止揚であるということから言えば、その自然神学を包括し止揚してそこから超出した「超」自然な神学との二つしかない、ということができる。「神と人間との和解は『人の意志と神の憐れみとの双方からなる』」というアウグスティヌスの論旨は、「近代的に表現すれば、和解とは『神の所与と人間の創造的行為の協力である』」ということです。もっと根本的究極的に言えば、ローマ書やガラテヤ書等の「イエスの信仰」の属格の理解の在り方に集約されます。「神人協力説」・神と人間との「共働」を目指す自然神学的な系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教の場合は、現行訳の目的格的属格理解の立場に立っています。この立場においては、不信とむなしさの蔓延した現在を、そのあるがままに、聖書に基づいたその信仰・神学の認識方法と概念構成において包括し止揚することはできませんから、いつも、時勢や時流に流され続けるほかありませんせんし、したがって大衆迎合や大衆同化や大衆啓蒙に赴くほかありませんし、また様々な人間論や人間学の後追い知識としての非自立的で中途半端な人間学的神学に赴くほかありませんし、したがってまた自然時空の中に埋没し死語化していくほかありません。バルトは、このことに対して、信仰的神学的教会宣教的に鋭敏で自覚的ですから、すなわち神と人間との「共働」・「神人協力説」が「教会に毒と腐敗をもたらす」ことに鋭敏で自覚的ですから、「イエスの信仰」を主格的属格として、すなわち第一次的に人間の側の信仰や非知に全く関係しない・それらに全く左右されない、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実としての「イエスキリストが信ずる信仰による神の義」そのもの(啓示の客観的現実性)から人間に授与される義として理解しました。現在を現存する私自身は、徹頭徹尾全面的に、このバルトを首肯しています、このバルトを首肯します。現在から未来に生きるためにはそれ以外にありません。
 また、バルトは、次のようにも述べています――カトリックの教理の中で、「聖霊は人間に、『魂に内在する神的性質』を付与する」とされているが、だかと言って、聖霊の注ぎは、人間の自由事項として恣意的主観的に実体化できるものでは全くなく、ただその都度の神の自由な決断によるものであるから、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」のである。聖霊によって更新された理性も、聖霊ではない。人間化された「真・善・美の霊」、「愛の霊」、「聖化と結びついた善意の霊」も、聖霊ではない。したがって、「神人協力説」・神と人間との「共働」論に依拠した、ルドルフ・ボーレンの聖霊論的説教論における聖霊も、そのボーレンを称賛している佐藤司郎も、またそのボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的・断定的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させて述べている小泉健の聖霊も、聖霊ではない。それらは、「偶像礼拝であり、キリスト教のただ中にある異教である」。そのような人間の主観性恣意性に依拠した「行為による義の妄念にとりつかれていりものにつける薬は、どこにも存在しない」。「このような霊によって罪を克服して行くのは、いわば、猫に鰹節の番をさせるようなものである」。「このような霊と相違して、否、対立して、私たちを真に神と和解させる霊」が「聖霊」である。このことは、一方で「神の栄光を讃え、自分を謙遜に言い表し」ながら、他方では神と人間との無限の質的差異や終末論的限界や自己相対化も自覚せずあるいは取り去って、自分の「確信、宗教的情熱、道徳的真面目さ」や、「人間の創造的行為」を語ることはできないことを意味している。、「神人協力」・神と人間との「共働」を、「和解者なる聖霊と取り違える」ことがあってはならないことを意味している。また、「聖なる霊が和解者なる神の霊であるというのは全くただしくない」。なぜなら、前者は、聖霊としての神の「存在の仕方」を意味しているのに対して、後者は神の単一性・神性・永遠性としての神の「存在の本質」に基づいた言表だからである。また、アウグスティヌスは、罪を「善の欠如」と呼んだが、彼を含めてそれ以外の神学者や知識人の罪概念の根本的な誤謬は、彼らの罪概念が「人間の被造物性の構造の内部における欠陥」を示しているだけで、根本的な「神に対する違反」・反逆・自主性・無神性・不信仰としての真実の罪を示していない点にある。私たち人間は、「罪を取り去ることはできない」、「罪を取り去られたものと考えることもでき」ない。「死人ははただ、甦らされることができるのみである」のと同じように、「真の罪はただ、赦されることができるのみである」。
 「恵みと罪との対立の光の中にあるキリスト教生活にとって聖霊の意味」は、その神の「存在の本質」において、それが和解主としての「キリストの霊」であり、創造主としての「父の御言葉の霊」でもある、という点にある。この「御子」と「御言葉」としての聖霊が、私たち人間を、「御子」と「御言葉」に向かって「開き、備え、用意したもう」。神の「存在の本質」において「聖霊は和解者なる神の霊」であると共に、聖霊の職能(神の「存在の仕方」)は、人間の自主性・無神性・不信仰としての真実の罪を認識させ「処罰」する点にある。和解の出来事から認識させられる人間の真実の罪は、和解の出来事がそうであるように、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて認識させられ、「ただ信ずることができるのみである」。したがって、「聖霊に逆らう罪を犯さず、自分の不信仰を信じ」、「真の悔い改めを拒まないとするならば、それは聖霊による」。この「キリスト教生活を構成している信仰」は、聖霊による「悔い改め」を意味している。一方で、「キリスト教生活を構成している信仰」は、聖霊による「信頼」を意味している。それは、聖霊による「信頼」に基づく、「喜び」としての「生活の体験」であり・「心の体験」であり・「感情の体験」である。「私たちの肉の中に実証せられるキリストの義が、値なしに加えられること」への「信頼」である――「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば 、〈私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく 、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ 〉ということである )」(ガラテヤ2・19以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。「われわれは 、われわれの主としてのイエス・キリストに(≪聖霊により「信頼」し≫)固執することにより 、またイエス ・キリストがわれわれのかしらであるということに(≪聖霊により「信頼」し≫)固執することにより 、(中略)この主とかしらのもとで 、またこの主とかしらとともに 、……これからは神の義 、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」 (『ローマ書新解』)。神の自己啓示の本質は、隠蔽性にあるから、その隠蔽性の中で私たち人間に「真の信仰」を「もたらし」「造る」のは、「聖霊」以外にはあり得ない。言い換えれば、「私たちの霊」・理性・思惟・意志が「真の信仰を造るのではない」。「私たちが義と認められているとすれば、それは全くキリストにおいてであって、私たちにおいてではない」。この「悔い改め」を伴った「経験・喜び・確信」としての「信仰」は、聖霊の注ぎによる「奇跡」であり、またその信仰の経験は、「私たちの持つ一切のほかの経験」「実際にありうる〔可能的な〕経験」・感覚や知識を内容とする経験・「最も広範で、かつ最も根深い、救いようのない困窮」・人間自身の理念やプログラムや世界観や哲学原理や認識論や「確信」に対して、「戦う」。「キリスト者こそは、『罪人にして同時に義人』」であって、「この和解しがたい矛盾を克服すること」は、人間自身の霊・力・理性・思惟・意志・「キリスト教的精神」の中にはない。
 上記の事柄は、「私たちの存在」から理解したり把握したりすることはできない。すなわち、それらの事柄は、人間に内在する神的本質・人間の理性や思惟や精神や意志や感情や実存・人間の自由な自己意識が対象化した世界観た哲学原理や認識論・「神人協力説」・神と人間との「共働」論に基づいた人間の啓示認識と、それに依拠した人間の「存在の比論」を通した人間の自己認識によっては理解したり把握したりすることはできない。それらの事柄は、啓示自体の証明能力に基づく以外に理解したり把握したりすることはできない。言い換えれば、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間の啓示認識と、それに依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識によってしか理解したり把握したりすることはできない。また、その場合、あくまでも人間の啓示認識であり・自己認識であるから、それは、啓示の実在そのものではない。その認識は、終末論的限界と自己相対化の下にある。信仰とは、「私は私が信仰の中に実存していること」を、あくまでも聖霊としての神の業として「信ずることができる」ことである。「義認」が「聖化」なしには存在しないように、「信仰」は「行為」――「聖霊の注ぎ」・「聖霊の賜物」・「聖霊の導き」による、聖化の、すなわち義認の現実の中で、「信仰の中に実存している」こと・真の信仰の方に「出て来る」こと――なしに存在しない。「信仰の現実性は、「聖霊による審判と義認」において授与されるのであるが、この意味で聖霊は、「聖化の霊」である。
 さて、「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、『福音と律法』の「真理性」と「現実性」の構造における神の愛を意味している。それは、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、神の「存在の仕方」の差異性における「第二の存在の仕方」、すなわちイエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」した。この神の「存在の仕方」の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(《啓示者》)と言葉(《啓示》)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主・父に先行することはできない。またこのように、聖霊は、救済主として、創造主と和解主のあとに続いて、その「存在の仕方」において、神の「第三の神的行為を遂行」する。復活と完成・終末の間は聖霊の時間である。「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給う。(中略)しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ」―――これが、恵み・「恵みの真理」であり、主格的属格としての「イエスの信仰」において・神の側の真実において成就された「私たちの義認」である。この恵みの啓示の客観的現実性は、私たちの聖化の現実性である。そして、この「聖化の現実」は、私たち人間に対する「犠牲と奉仕」への神の要求であり、「私たちを神に結びつける点において、絶対的」であって、それは「神に対する愛」であり、また「私たちを隣人に結びつける点において、具体的」であって、それは「隣人に対する愛」である。したがって、この神の要求は、「御言葉の実践者」としての「キリスト者の服従」の課題となる。しかし、私たちは、「神と隣人」とをほんとうに「愛しているであろうか」・「自分自身を犠牲として捧げ、真に奉仕をなしているであろうか」。自己愛の外化としての隣人愛をさえ、なすことができ得ていないのではないのか。「私たちの行う、最も純粋な、最善の意図をもってなされた行動についてさえも」、「罪にすぎないもの」であるかもしれない――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(《彼の対象化された自己意識の意味的世界・彼の管理するプログラム》)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。この大審問官の善意は、ほんとうは、キリスト教的な「行いによる義」・「聖霊の欠如」によるそれであるだろ。したがって、あくまでも、聖霊のみが、その信仰者のその信仰、その内的・外的な生活、その行為、その実存が、「キリスト教生活であるかないかについての審判者である」。このことは「聖霊の秘義」である。「聖化は現実である」が、「服従の現実の問題」は、常に横たわっており・現前化している。したがって、「不完全な服従・不従順』」そのものにおける私たちの信仰は、不信仰の認識と悔い改めの中で、「いつも繰り返し『始まり』にすぎない」。
 聖霊(神の「存在の仕方」)は、「人間の生活をキリスト教生活として構成する」、神性を本質とする「聖なる御霊(≪神の「存在の本質」≫)である」。

 

3)救済者としての聖霊、詳論
 「復活と完成(≪終末・救贖≫)との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。聖霊は、その「存在の本質」が単一性・神性・永遠性にあるから、聖霊は、その「存在の本質」として創造主・和解主でもあるという意味においても、「終末論的に現在する」。徹頭徹尾全面的に、人間の精神・良心・意志は聖霊ではないから、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合」においても、「そのことによって、決して聖霊が、人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」のである。すなわち、聖霊は、人間が恣意的に実体化できるものではない。聖霊は、あくまでも、その都度の神の自由な決断によって人間に注がれるものである。また、聖霊は、神の「存在の仕方」として神性を本質とする「救済者なる神の御霊」である。
 さて、復活と再臨・終末の中間時、すなわち和解と完成・救贖の間の中間時に、第三の神の「存在の仕方」において聖霊が「終末論的に現在」するとは、「神の御言葉が約束の御言葉である」ように、聖霊は、「死のかなたから来る究極性、未来性」・「神が私たちと共にあり給うとする意志」・終末における「私たちの救済・復活・永遠の生命」としての「約束の御霊」である、ということを意味する。「父ト子ヨリ出ズル御霊」・「創造者なる御霊、また恵みの御霊としての聖霊の現臨は、同時に、約束の御霊としての現臨」ということを意味している。この意味で、聖霊は、第三の神の「存在の仕方」としての「救済者の御霊」である。しかし、「神と人との連続性」を、インマヌエルそのものであるイエス・キリストにおける連続性から考えるのではなく、直接的に人間の側の方からも続いているものと考える神と人間との「共働」論・「神人協力説」に依拠したアウグスティヌス主義(ローマ・カトリックの中にも、プロテスタントの中にもある)は、人間自らを「創造主、和解者としようとする」行為にほかならない。「そこではあまりにも明白に、聖なる御霊が約束の霊としてではなく、成就の霊として語」られるし、語られてしまう。例えば、「人間は希望をもつ存在であり、未来の希望(ユートピア)が歴史を推進する原動力」であるとする「ブロッホの哲学(《進歩史観に立つブロッホの対象化された自己意識の意味的世界であるユートピア》)を完成するもの」は、「人間の死の克服と人間と自然との完全な和合を含む」「真のユートピアは」は「イエス・キリストによって先取りされ、確実な希望の対象とされているから」、「キリスト教である」とし、「終末論的」な『将来的なものの力』としての「御霊」の概念によって、神の時間である「終末論」と人間の時間である「歴史」とを結び付けようとしたモルトマンやそれを称賛している喜田川信のように。彼らや現在もいるモルトマン主義者たちは、現在では状況的にも思想的にも全く成立しなくなった、したがって「何らかの空論に終わる」ほかはない、神学的な進歩史観に基づく歴史哲学を構成したいのである。そこでは、教会の宣教を時流や時勢に合わせるために、また自分の神学的な世界観や歴史哲学等を構成するために、人間の恣意的な都合による聖霊の実体化が惹き起こされる。小泉健や佐藤司郎やボーレン等々もそれである。言わば、それらは、人間の神化を目指すことであり、神の人間化を目指すことなのである。そこにおける、その神・その信仰・その神学・その教会の宣教・そのキリスト教は、まさに、正当性のある根本的な、フォイエルバッハのキリスト教批判の対象そのもののそれであり、ハイデッガーの「存在者レベルでの神への信仰」批判の対象そのもののそれである。したがって、バルトは、次のように述べる――私たちも、「アウグスティヌス主義と同じく、『神の啓示の出来事における聖霊の現在』という命題を固守しはする……しかし同時に」、「創造主の御霊と被造物の霊との相違、恵みの霊(≪和解主の霊≫)と罪の霊」との無限の質的差異に「固守」する。したがって、その聖霊の現在は、聖霊は「約束の霊」であって「成就の霊」として語られてはならないように、その聖霊の現在は、成就の現在として認識し理解されてはならず、「終末論的」に「約束の現在」として認識し理解すべきである。神性を本質とするイエス・キリストが、全人間・全世界・全人類を、その完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)・啓示の客観的現実性の中に「置いてい給うことによって」、私たちは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」。ここに、バルトの信仰の完全な開放性がある。中間時における人間とは、終末論的限界と啓示の弁証法において、すでに「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、いまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にある人間のことである。このことを『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、こうである――啓示とは、「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解」という言葉・概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖・完成(「罪人にして同時に義人」という矛盾的存在が解消される・「義人」存在へと止揚される、約束としての概念的な「神の子」から現実的な「神の子」となる)は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性である。救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、私たち人間の「経験と感性」にとっての〈いまだ〉であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」としては〈すでに〉ということである。このことは、隠蔽性において・終末論的限界において・啓示の弁証法においてであるが、神の側の真実として・「神的未来」として・「神の欲し給う究極の現実」として現在する。したがって、その意味で、「『洗礼は、全く一遍に人間を清め、救う』と言うことは本当である」。したがってまた、「これらの概念を、聖書的連関から全く離れて、キリスト教的心理学の対象とし、……人間の間の状態のごとく理解するならば、全く意味を失い、空疎なセンチメンタリズムか、誇大なはったりになる」。
 『福音と律法』に即して言えば、次のように言うことができる――「律法を悪用する罪に対する神の勝利」・その福音の勝利の出来事は、イエス・キリスト自身が、私たちを「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことである。なぜなら、人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではない。したがって、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、イエス・キリストによって「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」。このことは終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて包括し止揚された・「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということである。神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」・啓示の客観的現実性においてのみ、その福音の形式である律法は、
1)人間に対して、「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられる。
2)「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられる。したがって、私たち全人間・全世界・全人類は、『生命の御霊の法則』である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけである。
 また、「不信仰の罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」出来事である。
1)「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ固着させる霊である。
2)「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。
3)「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。
 以上のような聖霊理解から得られるキリスト教生活は、次のように言うことができる――それは、「神の自由な愛の隠蔽性」において・終末論的限界において・啓示の弁証法において、聖霊によって、約束を受領する生活・希望に生きる生活、である。したがって、私たちは、聖霊の中に「良心」を持っているのであるが、その良心は、「終末論から理解」すべきである。すなわち、それは、終末論的限界と啓示の弁証法のもとで理解しなければならないものである。しかし、神学的倫理学は、「常に罪人にして、常に義人という弁証法」を超え出て・揚棄してしまって、善悪の判断について「神と共に知ること」・神だけでなく人間も知ることに転釈してしまった。例えばシュライエルマッハーは、良心を、「人間の自覚の中にある神の意識」にしてしまった。ヘーゲルの理性主義を感情主義に置き換えただけの神学者のシュライエルマッハーのこの命題は、根本的には、自由な自己意識の無限性としてのヘーゲルの人間に内在する神的本質と同じ位相にあるものである。したがって、その人間の自覚は、あくまでも人間の恣意性においてではあれ、「神の子」として「神の御意を知っている」それであり、「完全な真理」におけるそれであるから、その自覚は、あくまでも恣意的にではあるが、人間自身が自由自在に語り行動することが可能であり許される、「理想主義者」であることも、「現実主義者」であることも、「敬虔主義者」であることも、保守主義者であることも、共産主義者であることも、すべて可能であり許される。アウグスティヌスからシュライエルマッハー、ブルトマンを経て現在に至るまで、この自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は連綿として尽きない。したがって、ほんとうの、根本的で究極的な宗教改革は起こったことはない。ただバルトだけが、全キリスト教の、根本的で究極的な宗教改革を目指した。したがってまた、バルトは、次のように述べています――「私たちは自分自身が、このような神の子であるとは、認めない。この神の子たることは、……私たちにとって……神から来る未来の現実である」。したがって、「もし、誰かが自分の良心に依り頼んでいるというのなら、それは必ず、嘘であり、センチメンタリズムであり、俗悪である」。したがってまた、私たちは、「『約束の聖霊において私たちは神の子であり、良心を持っている』とだけ言わねばならない」。
 また、私たちは、「聖霊において、感謝が存在する」と言わなければならない。「創造の領域」では私たちは「僕」であり、「和解の領域」では私たちは「屈伏させられた敵」であり、「救済の領域」では私たちは「神の子」たちである。ここで「感謝」とは、「神の怒りを気づかうことから」惹き起こされる人間の側の「よくしようとするあせり」・自力作善から「解放された服従のこと」である。ここでバルトは、しかし、と述べます。「では誰が神に感謝しているのか」・「誰が自由な神の子なのか」・「私は、そのような人がいるとは言っていない」。すなわち、「神の子の感謝と自由、それは真に、私たちにとって究極の、未来の現実である」。ここでも、中間時における人間は、終末論的限界と啓示の弁証法において、すでに「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、いまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にある人間のことであるから、「罪人にして、同時に義人」という弁証法が必要なのである。もしそうでないならば、自然神学的な「アウグスティヌスの教理」となってしまう。同様に、私たちは、「聖霊において祈りがなされる」と言わなければならない。この祈りも、「終末論からのみ理解される」。ほんとうの祈り、祈りの本質は、先ず以て、真実の罪だけでなく、罪を新たな罪を犯し続けているとき、怠惰さと自己欺瞞にさいなまれているとき、罪と汚れを強く受感するとき、先が見えなくなった絶望感に打ちひしがれているとき、そのとき「どう祈ったらよいのかわからない」というそのただ中で、自分御心の奥底で「言葉に言いあらせない切なるうめき」(ローマ書8・26)が発せられる。これは、その人の心の奥底から発せられた、沈黙の言葉として心の奥深くに沈潜してしまうかもしれない、言葉にならない言葉と言ってもいいものである。マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」・「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」。「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である。「そこにはただ、神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」とバルトは述べていますが、私自身の信仰体験を介して言えば、これしかないでしょう、これしかありません、ということになります。「その時、神がこの呻きと、それと共に、この人間の重荷を、御自分の上に負うことをよしとし給うゆえに、人間は、全く弱く、悪に満ちていても」、また「考え深い、力強い、熱烈な祈り」を強調する宗教性からは「全く無意味な、呻き」に思われても、この「危急の時」の「約束の御霊の現臨」において、その「呻きの中にありながらも、神の子として生まれる」。