本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

礼典論 2 了

礼典論 2 了

 

「徴のちから」 
 サクラメントは、「徴」であり、「さらにそれ以上に有効な力」である。
 啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて語られる説教の言葉(人間によって表現された言語、客観的な対象物、人間的自然)が、「啓示と和解」、イエス・キリストの「死と復活」の出来事の啓示、その内容の「インマヌエル」を意味する「象徴能力」・「徴」であるように、洗礼は水(客観的な対象物、天然自然)の注ぎよって「人間がキリストと共に死に、甦る」ことを意味し、聖餐式はパンと葡萄酒(人間が加工した客観的な対象物、人間的自然)によって「キリストの義と聖にあずかること」を意味する「象徴能力」・「徴」である。しかし、この「徴」・「象徴能力そのもの」が「神の力」であるわけではない。いわば、このことは、例えば説教が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項であって、私たち人間の決定事項ではない、ということと同じことを意味している。したがって、「徴」・「象徴能力」という媒介性なしに直接的に、自然存在・「被造物的現実に神の真理の対応を認める」というアウグスティヌスの自然神学的な類比は、「神礼拝と共に、偶像礼拝を招くものである」。したがってまた、「あらゆる種類の祭儀的食事(≪大嘗祭も、神と天皇との共食祭儀である≫)は、……(≪「他宗教の中にもある」≫)宗教現象の世界で常に在庫品」であるという意味ではキリスト教のそれも相対的な位置を占めている、という近代主義的・歴史主義的に「キリスト教的サクラメントの宗教史的起源を問う」問いに対して、その「徴」・「象徴能力」の概念は、根本的な答え(止揚)となる。
 さて、「徴」・「象徴能力そのもの」が「神の力」であるわけではないとすれば、それが「神の言葉の徴」・「象徴能力」となる根拠は? 説教の言葉(聖霊によって更新された人間の理性・思惟によって表現された言葉)が、「キリストへ服従して語られることによって」、また神自身の自由な決定が介在することによって、「神の言葉となる」ように、洗礼式や聖餐式のそれ(客観的対象物・自然を介した出来事、「自然的出来事」・「物質的出来事」)は、「キリストへの服従によってなされる時」、また「神ノ制定ニヨリ」・「その設定の力によって」・「神の言葉と命令」によってなされる時、「神の言葉の徴」・「象徴能力」となる。言い換えれば、このような意味でのサクラメントは、「見える言葉」(言葉の可視化)、サクラメント(顕現性と隠蔽性)であるキリストは、「受肉された言葉」として、「説教の言葉」(「徴」)と「サクラメント(「徴」としての洗礼と聖餐)」との「両方の原型」である――弟子たちに、ただ説教だけでなく、洗礼を命じ給うたキリスト、したがって、サクラメントを「制定されたキリスト」が、預言者、使徒のキリストである。したがって、この証言から抽象されたような、(その人間的な証言に基づき人間によって言語を介して対象化された存在者・客観的対象・人間的自然としての)「歴史的イエス」ではない、とバルトは述べています。
 また、自然的物質的出来事であるサクラメントが、「力ある徴」とされるのは、「聖書の朗読」によるのではなく、「聖別された言葉」である聖書の証言・証しを責任をもって受け入れ宣べ伝える教会の行うそのサクラメントに「福音ノ生ケル御声」が伴うところにあるのであって、その場合、そのサクラメントは、「単なる教会式典とは異」なる、「聖別された、力あるサクラメント」・「力ある徴」となる。このことは、「御言葉に奉仕する者の信仰と服従」が「サクラメントの効力」を生み出すわけではないこと、また「不信仰と不服従」がそれを破壊するわけでもないことを意味する。なぜなら、この場合「神の力」は、その都度の神の自由な決断による、「神の自由な賜物」であるからである。したがって、サクラメントの「力ある徴」の現実性は、人間の側にはないのであって、徹頭徹尾全面的に神の側の真実、その神の自己啓示、その啓示の客観的現実性にある。すなわち、その都度の神の自由な決定において、「説教においては、聖霊が語り、聖霊が聞くのである」・「サクラメントにおいても、聖霊が与え、聖霊が受けられるのである。聖霊こそが、その執行と受領において、その実現を効力あらしめる」。ここに、ほんとうの、「真のサクラメント」がある。そして、この「聖霊の証言」は、個々人を「信仰と服従へと呼びさます」と共に、「左に〔裁きの座に〕人を置くこともでき」、「人を頑にすることもできる」。ここにおいて、私たちは、ルドルフ・ボーレンの考え方・考えに対してだけでなく、そのボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と直截的に聖霊や聖霊の言葉を実体化させて絶対化して述べている神学者・小泉健の考え方・考えに対しても、それは、うその考え方・考えであることを知る。
「信仰、徴およびキリスト」
 カルヴァンは、神性を本質とするキリストが、私たち人間の信仰、すなわち私たち人間自身の啓示認識・啓示信仰の中に解消されてしまうことはあり得ないと考えた。したがって、人間は、信ずる者として、「愛する主よ、われ信ず、信仰なきわれを助け給え」と叫ばなければならないことを、よく知っていた。すなわち、キリスト教信仰は、「一つの純粋な受領であって、決して所有ではない」以上、「神の声を聞くことであって、自分自身の声を聞くことではない」。もし、近代主義的に「自分自身の声を聞く」ことを信仰とするならば、それは、まさしく「存在者レベルでの神への信仰」(ハイデッガー)に過ぎない信仰でしかないだろう。あるいは、それは、フォイエルバッハの批判した、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、という信仰に過ぎないだろう。したがって、先ず、神の側の真実がある。主格的属格としての「イエスの信仰」・「啓示と和解」・「死と復活」・その内容のインマヌエルがある。神性を本質とするイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)がある。その啓示の客観的現実性がある。その啓示の出来事とその聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく(感謝の応答、イエス・キリストへの信頼と固執としての)啓示認識・啓示信仰の授与がある。その啓示認識・啓示信仰に依拠した啓示の比論を通した自己認識(義とされた罪人、信仰者とされた不信仰者)がある。「洗礼は、信仰における、恵みの完全な隠蔽性において、信仰のための恵みの徴である。また、聖餐は、信仰のための恵みとして、この徴を通して特に自ら語りつつ、指示する信仰における恵みの徴」である。
 さて、ルターの礼典論は、「結果において、次の点においてカトリックの教理と同じになっている」――ルターにとって、「聖餐の中の『約束ノ徴』は『パント葡萄酒ノ中ノ』キリストご自身である。洗礼の水は、『恵みに満ちた水』であり、『神の水』であり、『神の天的な、聖なる祝福された水』なのである。そこで『信仰は水によっている』」。それに対して、バルトは次のように述べています――「私たちは、徴の力の源泉を、徴自体、そのものの中に移すことをしない。(中略)信仰自体の中にあるのでもない」。「聖霊典の恵みは、信仰自体にも、しるし自体にも帰せられない」。この考えは、上記の論述から生じてくるものでしょう。カルヴァンにとっては、聖霊典の恵みの源は、信仰自体にも・しるし自体にもなく、「神御自身」、その神の「恵みの自由」・自由な恵みの賜物にある。その神の恵みの賜物が、「しるし」に授与され、「信仰」に授与される。ここに、礼典論についての、「よりよい」「全教会的解決」がある。
 「キリストのサクラメンタルな現臨とは、象徴的現臨のことである」。それは、「真理の一つの形式」・「徴の形式」である。この形式を「根本的に拒否しようとする者は、サクラメントと共に、説教も否認し、しいては、啓示の概念全般を否定せざるをえないであろう」。「キリストのサクラメンタルな現臨」とは、「聖霊の現臨にほかならない」。それは、「あらゆる物理的、心理的現臨と違って、神から来る、自由な恵みの現臨である」。すなわち、その無限の質的差異において、その神の隠蔽性と顕現性において、「真理と象徴」とを架橋するのは、神の自由な恵み、聖霊である。神の自由な恵みによって「水でもってするごとく、同時に聖霊によって洗礼され、パンと葡萄酒で養われるごとく、同時にキリストの肉と血によって養われることが起こる」。