本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

礼典論 1

『カール・バルト著作集 1』「礼典論」新教出版社に基づく

 

礼典論 1
 神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られるイエス・キリストにおける神の自己啓示=啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてある。この神の言葉の三形態において、礼典論が扱われる場所は、教会の宣教(説教と、聖礼典――洗礼および聖餐)の場所である。バルトは、次のように論じています。
1)その「死と復活」、その隠蔽性と顕現性におけるイエス・キリストの出来事――人間の「彼が神を知る前に、神が彼を知り給うている」・「人はただ恵みによってのみ恵みを受け、神によってのみ神に属するものと知ることができる」――「それ自身が語るもの」として、それ自身から授与されるものとして、<洗礼>は、「一回的」な「繰り返すことができない出来事」である。また、そういうものとして、「それ自身が語るもの」として、それ自身から授与されるものとして、<聖餐>は、「繰り返し行われる出来事」である。したがって、説教も、そういうものとして、「それ自身が語る」ことを、それ自身から授与されることを、人間の「彼に語るべきである」。この啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識に依拠した啓示の比論を通して、「人は教会の肢として、自らをキリストにおいて死んで生きる者、正しい信仰と服従において立ち、歩む者として認識する」。言い換えれば、(主格的属格としての「イエスの信仰」、この神の側の真実においては)義とされた、と同時に・と同在に、(無神性・不信仰のただ中にある人間の側の事実としては徹頭徹尾全面的に)罪人であることを認識し信仰することができる。したがって、次のように言わなければならない――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは 、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ」、と。また、インマヌエルの啓示認識と、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通して「神に対する人間的反抗」・「罪深い堕落した人間」・そのような人間の「世」を、そのあるがままに認識することができる、と。ここで、認識・信仰は、単なる知識ではなく、「主なる神の認識であり、心からなる信頼であり、確信を持つと共に、服従の真面目さを持ちうること」を意味する。しかし、私たち人間が語る言葉は、「神ご自身の言葉ではない」。すなわち、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義は、神の言葉そのもの・啓示の実在そのものではない。
 さて、神の言葉、すなわち教会の宣教における説教とサクラメントの「聴者」・聴従者(二重の自己理解・二重の生活が授与された者)は、光・「キリストの中に」ある「恵まれた」、義とされた「盲人」・「罪人の交わり」としての「教会」である。私たち人間の「感覚と理解の世界」が、「神を見る目」・「神に聞く耳」となる場所――それは、神と人間との無限の質的差異において、すなわち神のその都度の自由な決断において、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、そして聖霊により更新された理性(この理性も、聖霊と同一ではない)によって啓示認識が・啓示信仰が起こる場所である。言い換えれば、それは、「神が神であることをやめることなく、しかも私が、失われた盲人であることをやめることなく、あの〔神との〕交わりを基礎づけるような一つの出来事が、この私の世界の中に起こった」場所のことである。この「神の言葉の啓示」は、「神の徴設定を意味する」。すなわち、そのことは、聖霊によって更新された理性を必要とするのであるが、神の言葉は人間の私が・私たちが「聞き取ることができるような言葉として、形造られる」ということを意味する。なぜならば、神と人間の間には無限の質的差異があり、神と人間の間に「何ら直接的な告知がありえない」からである。したがって、神の言葉は、私たち人間に対して、常に、隠蔽性と顕現性の同在性において授与される。啓示の実在と、それ自体から授与された人間の啓示認識との間には、無限の質的差異が・顕現と隠蔽が・神の不把握性が・終末論的限界が横たわっている。
 「サクラメント」――この言葉は、「秘義と名づけ」られていて、顕現性と隠蔽性との同在性(構造)を意味している。この神の言葉の顕現性と隠蔽性の同在性は、一般的真理ではなく、「恵みの真理」「それ自身」から「語りかけ」てくる啓示の「真理」・信仰の真理である。「唯一」無比な「キリスト教の秘義」・サクラメントは、「イエス・キリストにおける御言葉の受肉である」。この場合、それは、イエス・キリストの「十字架」・死(隠蔽性)と「甦え」り・復活(顕現性)の認識・信仰を要求する。したがって、一方通行的に、「十字架ノ神学者」や「栄光ノ神学者」へと上昇していく在り方は、部分を全体とする間違った考え方・考えであって、その総体性をその根本において包括したほんとうの考え方・考えではない。また、人間の話し言葉や書き言葉で行う宣教も、神の言葉の隠蔽性としての「徴」である。このことは、終末論的限界を意味している。そうでなければ、ヘーゲルの人間に内在する神的本質の言葉としてその人間の言葉は、神の言葉と混淆・同化されてしまう。したがって、他在であって自在である自由な人間の「精神」・人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性を神化する近代以降の人間中心主義的な人間学的神学に対する「防壁」は、キリストの「存在の本質」である神性性の概念と同時に、説教や聖礼典のサクラメント、その隠蔽性と顕現性にある。なぜならば、その隠蔽性と顕現性の同在性・構造としてあるサクラメントの「自然的な面」(感覚的・可視的・客観的対象性)が、私たちに、「キリストの十字架」――神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ……。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ3・22 、ガラテヤ2 ・16等の「イエスの信仰 は 、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)――を「想起させる物質的徴」として授与されているからである。
 また、上記のように、ヘーゲル哲学における神と人間との無限の質的差異の揚棄の問題を包括し止揚するだけでは片手落ちであって、もうひとつ根本的に包括し止揚すべき問題がある。それは、「私たちのまわりにあるすべての見えるもの」、すなわち感覚的・可視的・客観的対象(それが、天然自然であれ、人間的自然であれ、その自然)を・「造られた自然の無限の世界」を、「見えない神の見える徴そのものであると理解」する「信仰的現実主義」・「汎サクラメンタリズム」は、真のほんとうの本質的なサクラメントを、逆に「物質面に向かって」「世俗化してしまうもの」であって、それは、ヘーゲル哲学やそれに類する人間学的神学と同じように根本的に包括し止揚すべきものである。バルトは『神の人間性』において、「神の人間性」から授与された「人間の人間性」において、人間自身の「素晴らしさ」を語るのですが、人間の感情・理性・意志・実存・構想等を含めた人間的自然や人間的能力や人間的試みの根本的かつ究極的な限界性をも語ります。それだけでなく、「神の人間性」という概念と、その「神の人間性」から与えられた「人間の人間性」との無限の質的差異についても語ります。言い換えれば、人間における労働や性や理性や言語が対象化した文明や文化等の人間的自然(人間の人間性)の一切は、「神の人間性」ではないということを語ります。しかし、ルター主義者の倉松功は、次のように述べています――「『ルターの二つの統治の(中略)区別は、かれの文明論の恒常的基礎である。その区別が人間の責任と活動の分野を自由にしている。(中略)被造物的・生物的現実……の中にわれわれに直接出逢う当為の要求が自然に存在する。その要求こそ心に記された理性の基本的規範である。ルターによれば、こうした文明の体系は全体として、神律的側面と相対的に自律的な側面とを持っている。神律的というのは、文明を担う諸力は神の恒常的創造者としての活動であるという意味……相対的に自律的だというのは、神の創造者としての働きは人間理性によって把握されるからであり、理性に基づく、人間の神との共働の行為は自発的に形成されるからである』」。私たちは、この言説に対して、すぐに疑問が湧きます。相対的にしろ「神の創造者としての働きは人間理性によって把握される」とするならば、何が神の働きによるもので、何が神の働きによるものではないのか? 「当為の要求が自然に存在」・「その要求こそ心に記された理性の基本的規範」と言うけれども、何がそれであり、何がそれではないのか? 百人百様の恣意的規範が存在するのではないか? 遅延させることはできても停滞させ停止させたり逆行させたりできない科学・技術や文明の発達は自然史的必然であるとすれば、人間の責任と自由は、遅延させることであるのか、エコロジーを標榜・促進することであるのか、科学主義を標榜・促進することであるのか、国家の無化と資本制の止揚を目指す革命論はどうあるべきなのか……、何一つ根本的に明確に述べられていないのです。
 「人間の考え、人間の言葉は神の御言葉に奉仕」すること、具体的には聖書の証言・証しに連帯することで、イエス・キリストの「死と復活」・インマヌエルの出来事を指し示す神の言葉の徴となる。「洗礼の水に沈められることは、私たちがキリストと共に死に、甦ることの徴となり、聖餐のパンと葡萄酒を食らい、飲むことは、キリストの献身と御父への昇天によって私たちを支える徴となる。それは自然(≪感覚的・可視的・客観的対象としての水、パン、葡萄酒≫)における神の言葉であって、それ以外の何物でもない」。「サクラメントの唯一性は神の唯一性に対応し、御言葉の受肉、御霊の注ぎの唯一性に対応する」。このことは、私たち人間に対して、私たち人間の究極的限界・終末論的限界を想起させ自覚させるでしょう。