本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルトと自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争 4 了

論争4 
ハルナックの問い
1)なぜ、神と人間との混淆、すなわち神のその都度における自由な決断によるイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識と、人間学的な「歴史的知識」と「批判的省察」による「善・真・美」(ハルナックのいう「神体験」)とを混淆させてはいけないのか?
2)なぜ、神を、人間の<理性>の直接性によって対象化された、人間学的な「歴史的知識」と「批判的省察」を介した「善・真・美」(ハルナックのいう「神体験」)と混淆させてはいけないのか?
3)聖書の証言・証しにおける「夢想して造り出されたキリスト」と、啓示の実在としての「キリスト」を明確に区別するために、人間学的な「歴史的知識」と「批判的省察」が必要なのではないか? したがって、人間学的神学が必要ではないのか?
バルトの回答
1)ハルナックのいう信仰の位相においては、信仰は、人間の自主性・恣意性・主観性における「われわれが持っている信仰を信仰」することと同じことになってしまう。その場合の信仰は、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの位相にある信仰であり、ハオデッガーの批判した安っぽい「存在者レベルでの神への信仰」そのものでしかないだろう。すなわち、ハルナックの信仰・神学認識の根本的な問題は、その信仰・その神学の認識方法と概念構成それ自体において、フォイエルバッハやハイデッガーの根本的な批判を包括し止揚して、そこから超出していない点にある。言い換えれば、信仰・神学・教会の宣教における近代主義の問題を全く自覚しておらず、神学における思想を持っていない点にある。 
2)西洋近代の近代的個人における自由な自己意識の無限性とその限界を自覚したバルトは、人間の理性を重視するのであるが、その人間の「力や理性」の直接性によっては、「イエス・キリストを主と信じること」・認識することはできないことに自覚的である。なぜなら、意識的な無神論も反神論者も、その理性的認識によっているからである。したがって、「イエス・キリストを主と信じ」・認識するためには、聖霊の注ぎを必要とするだろう。そして、その聖霊の「存在の本質」と「存在の仕方」を、人間が人間的に所有する人間の啓示認識として成立させるためには、聖霊によって再生された理性を必要とする。しかし、その聖霊によって更新された理性であれ、それは、聖霊と同一ではないだろう。なぜなら、人間精神・理性・思惟と、聖霊を同一化する場合、その神性を本質とする聖霊は、人間によって言語を介して対象化(創造・表現)された存在者(人間が造り出したもの・客観的対象)そのものとなってしまうからである――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(フォイエルバッハ)。
 また、神は、人間の<理性>の直接性によって対象化された、人間学的な「歴史的知識」と「批判的省察」を介した「善・真・美」(ハルナックのいう「神体験」)そのものであるとするハルナックに対して、バルトは、逆に、神と人間との無限の質的差異の認識・自覚、すなわち神・啓示の実在そのものと人間学的な「歴史的知識」と「批判的省察」とを介して得られた「善・真・美」(ハルナックのいう「神体験」)との無限の質的差異の認識・自覚こそが、人間学・哲学の「要旨」であり、その認識・自覚にこそ、人間的な「善・真・美」がある、と回答します。
 そしてまた、ハルナックが、罪は「畏敬および愛の欠乏」だと「傍観者」の「神学」の立場で語ったことに対して、バルトは、非傍観者の神学の立場から、自分や人間の現実的現存性や歴史的現存性を介して、罪はそれ以上もの、すなわち罪は、人間や人類の本質としての、死に価する神からの逃亡であり・無神性であり・神への不信仰であり・人間の自主性であり・人間の自己主張である、と回答します。
3)聖書の理解に対する、人間学的神学の根本的な誤謬や根本的な問題は、その神学の認識方法と概念構成において、人間学的な認識方法や原理や世界観を第一次化し、それに従う限りにおいてのみ聖書の証言・証しを第二次的なものに転換する、という点にある。そのため、そこにおける神は、その最初から、人間によって言語を介して対象化された「存在者レベルでの神」(人間が造り出した存在者・客観的対象)でしかないものである。したがって、ハルナックは、恣意的主観的に、聖書の証言・証しにおける「夢想して造り出されたキリスト」と、啓示の実在としての「キリスト」を明確に区別するためは人間学的な「歴史的知識」と「批判的省察」を必要とすると述べているけれども、ハルナックの言うその神自身が、ハルナックの自己意識・理性・思惟によってが対象化された神(人間が造り出した<人間の神化>としての神)に過ぎないから、その最初から両者を明確に区別することは不可能である。このように、ハルナックは、その神学の認識方法と概念構成それ自体に、啓示の実在 、啓示の時間 =救済史は 、常に 、人間が人間的に所有する人間の啓示認識 ・概念 、人間の時間 ・歴史の 、彼岸 ・外にあるという認識と自覚、私たち人間における「終末論的限界」の認識や自覚、人間の直接的な理性の神に対する「盲目」性の認識と自覚、神の不把握性の認識と自覚、自己相対化視座を持っていない。したがって、その人間学的神学は、その党派的思想・絶対的思想を超えるという課題に対しても無自覚であり、そのために、そこから超出することもできない。
 人間学的神学の場合、神学における思想を持たないだけでなく、人間学的領域においても根本的な誤謬や根本的な問題を持っている。すなわち、まず、ハルナックは、「歴史的知識」と「批判的省察」の原理それ自体の人間学的限界に無自覚である。「歴史的知識」と「批判省察」による「批判的歴史的研究」について、「そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できない」から、「神話乃至古代史の研究」において、「打率三割ならばまったく優秀な研究者」であるということ(吉本隆明)の正当性や、あるいは、歴史的科学的実証主義としての「形而上史学的な歴史の科学」への批判(フーコー)の正当性に基づいて言えば、ハルナックのその人間学的神学の方法は、根本的な誤謬や根本的な問題を持っているということができ、人間学領域においても成立しないものである。ハルナックのそれは、人間学的領域においても、あくまでも部分としてのそれであって、全体としてほんとうの考え方・考えとはならないものである。バルトは、神学における思想の言葉で、聖書の中の歴史は歴史物語あるいは古譚であって、そのような「神と人間との間に起こったもろもろの歴史」は、「神的な側面」からは、常に、人間が人間的に所有する人間の一般的な歴史認識・概念の彼岸・外にあるものである、すなわち、聖書証言の報知における歴史(Gschichte)・「特殊な歴史〔的出来事〕」については、いかなる「『史実的な(historisch)』判断」・認識・概念もあり得ない、と述べています。このバルトの語り方に、私自身は、自立的な神学のほんとうの考え方・考えがある、と考えます。
 時流や時勢、人間論や人間学的な「感情」の原理、「無意識」の原理、「実存」の原理、「科学主義」の原理、「歴史主義」の原理、「天然自然環境主義」の原理、「フェミニズム」の原理、ある一部の「民族主義」の原理等々を第一次化させ、それに従事する限りにおいて聖書の証言・証しを第二次的なものへと転換する、そういう神学の認識方法と概念構成をなす人間学的神学は、いつも、時流や時勢に媚びて流され続け、人間論や人間学に媚びてその後を追う知識であり続け、革命論ももたず、思想の往還もなさず、西洋近代の問題を超えるという神学における思想も持たない、神学としても人間学としても非自立的で中途半端な位相のものでしかない、と言えると考えます。そして、この人間学的神学の位相は、誰のものであろうが、すなわち、たとえそれが東大の「大学社会」の学者のそれであろうが、何々大学の「大学社会」の学者や神学者、それに類した牧師や著述家のそれであろうが、全く変わりはありません。神学の役割と奉仕が、ほんとうの教会の宣教に関わるものであるとすれば、そうした人間学的神学は、やはり単なる「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わる」「すべての大学社会の神学」でしかないものと言えるでしょう。
 ハルナックは、、バルトのようなその神学の認識方法と概念構成それ自体に自己相対化視座を持たないために、バルトの回答を聞いた後も、党派的思想・絶対的思想の立場から執拗にまた、その回答に対する反論を展開するのですが、ハルナックとの往復書簡(論争)が全く不毛なそれであることを分かった時点で、バルトはその対応をやめます。何が不毛かと言えば、バルトは、神学における近代<主義>の問題を自覚し・根本的に包括し止揚して超えるために、例えば、聖書に基づくその信仰・神学・教会の宣教の認識方法と概念構成それ自体において、不信や非知や無神論者や反神論者や無関心者を包括し止揚して、その信仰・神学・教会の宣教を、そのあるがままに不信や非知や無神論者や反神論者や無関心者に対して完全に開こうとして完全に開いているにもかかわらず、人間学的な学問的神学に没入する党派的思想・絶対的思想の立場のハルナックの場合は、そうした神学における思想の問題に対して全く無自覚な点にあります。したがって、どれだけやっても、意義ある論争とはなり得ません。意義ある論争となりえないことが分かる、ハルナックの言い回しの例示――ハルナックは、反論で、「あなた(≪バルトのこと≫)は……、『神学の課題は説教の課題と一つである』」と言うが、「私は……、『神学の課題は学問一般の課題と一つである』」と言っています。ハルナックの神学は、あくまでも「大学社会の神学」でしかないわけです。このような位相の信仰・神学・教会の宣教の場所においては、私自身に対して(私たち人間すべてに対して)、世界的な優れた文学や思想等の人間学が与えてくれるであろう、人間や世界(史)の本質の指し示しや、人間的な慰安や解放や励ましや喜びや心の豊かさや心の響き合いの享受もあり得ないことは、自明なことです。ハルナックを読んで時間を費やするよりも、ヘーゲルやマルクスやドストエフスキーや吉本や賢治や太宰等を読んだ方が、そのことに時間を費やした方がいいに決まっています。ましてや、そのような位相にある人間学的神学のその信仰・神学・教会の宣教の場所においては、私たちに、神性を本質とするイエス・キリストから授与される、救いや平和、また人間学とは徹頭徹尾全面的に差異性の下にある、人間や世界(史)の本質の指し示しや、人間的な慰安や解放や励ましや喜びや心の豊かさや心の響き合いの享受もあり得ないことは、自明なことです。