本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルトと自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックとの論争 3

論争3
ハルナックの問い
1)「神体験」と「その他の一切の体験」とが対立しているとすれば、それは、「現実逃避」につながるのではないか?
2)神(「神にある生」・「神の愛」)と世界(「現世的生」・「隣人愛」)とが対立するとすれば、「両者の等置」を可能とする「道徳を最高度に尊重」することができなくなるのではないか?
3)神(「神にある生」・「神の愛」)と世界(「現世的生」・「隣人愛」)とが対立するとすれば、「神へと導く教育」、すなわち「善(≪道徳≫)への教育」は不可能ではないのか? 「神へと導く教育」、すなわち「善(≪道徳≫)への教育」は、「歴史的知識」と「道徳の最高度の尊重」が必要ではないのか?
4)神は、人間によって対象化された「文化の発展とその認識」・「道徳」の「一切」であるとすれば、その逆の考えの場合、「人はいかに文化」を・「自己自身」を、「無神論から守る」ことができるのか?
5)「ゲーテの汎神論」、「カントの神概念」、「その他類似のもの」は、「真」の神と対立するとすれば、「精神的発展における」ゲーテやカント等によって対象化された神概念は、「野蛮未開の状態(≪自然にまみれた原始未開の状態≫)に引き渡される」のではないか? また、<精神>にまで高められた神概念(道徳性)と原始未開段階の<自然>における神概念(道徳性)、の差異を強調するとしても、その差異の認識のためには、「歴史的知識」と「批判的省察」を必要とするのではないか?
バルトの回答
 神学における思想の問題から言って、ハルナックの問いと語りは、近代主義を骨肉にまで受け入れた問いに過ぎないために、すなわち近代主義の問題を超えるという神学における思想がないために、その問いや語りを読む私に、人間や世界(史)の本質を指し示してくれるわけでもないし、人間的な慰安や解放や励ましや喜びや心の豊かさや心の響き合いを享受させてくれるわけでもないものですから、、読んだ後はただ<味気なさ>だけしか残りません。しかし、この論争が始まったのが1923年で、バルトが亡くなったのが1968年ですから、やはりバルトの自己史とその神学の総体性においてその回答を読むと、この論争に、味付けがされるばかりでなく、バルトの回答を単純にしかし根本的にそしてトータルに理解することができます。そのために、私は、『教会教義学 神の言葉』等も介して考え・理解しようとしました。
 バルトは、次のように回答しています。
1)人は、不可避的な人類(世界)・歴史性(人類史・世界史)=歴史的現存性に強いられてしか、個体(個としての人間、すなわち自己)・個体史(自己史)=(現実的現存性)を生きることはできません。このことに、ハルナックは無自覚なのです。ハルナックの場合は、時代的制約がそうさせたという面があるかもしれませんが、ブルトマンやモルトマン等々の場合は、そういう理由は成り立ちません。すなわち、彼らの場合は、神学における思想を持っていないことの証左となります。このことをハイデッガーとブルトマンとの関係で言えば、後期ハイデッガーはそのことに気づいたけれども、前期ハイデッガーに依拠したブルトマンはそのことに全く気づかなかった。ブルトマンは「大学社会の神」<学者>ではあったけれども、思想家ではなかったのです。
 さて、上記のことを前提として、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、バルトは、「現実逃避」とかあるいは社会や政治への関わりを問題としているのではなくて、あくまでもその都度の神の自由な決断によるものとしての、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて授与される人間が人間的に所有する人間の啓示認識とか、神と人間との無限の質的差異における人間のその存在・その思考・その実践(身体的行為と、価値的な心的行為との構造)の在り方を問題としています――イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する、とバルトは語ります。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する、とバルトは語ります。言い換えれば、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の場所だけである、ということです。したがって、信仰的・神学的実存の在り方も、この啓示の場所にあります。バルトの、バーゼルの刑務所での社会的な説教奉仕や政治的なドイツ教会闘争・反ナチ闘争の信仰的神学的実存も、この啓示の場所にあります。もちろん、この場合も、バルトにとって、神性を本質とするイエス・キリストは、主格的属格としての「イエスの信仰」におけるイエス・キリストです。
 したがって、バルトは、啓示の弁証法において、次のようなことも一切媚びずにきちっと語ります――神学や教会の宣教を、「より危険なものにしてしまう」のは、その神学や教会の宣教が、
@「正しい注釈」を、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示=イエス・キリストに、そしてその証し・証言・証人としての聖書(啓示の「概念の実在」)に基づくことをしないところにある。また、人間論や人間学との混淆・共働を第一次化し、啓示の「概念の実在」の歴史的連続性に連帯しないところにある。
A「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的―批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにある。
B「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ところにある。また宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等におくところにある。
C「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとするところにある。
Dある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとするところにある。
2)一方通行的な知識の上昇過程の場所しか持たないハルナックは、自分自身を「道徳の最高度の尊重」の立場にある者として、発言し論じています。なぜなら、ハルナックは、神の愛と隣人愛を福音的「等置」・「結合」関係において見ており、その具体的形態がハルナックの言う「道徳(≪ハルナックによって対象化された神・その神への愛≫)の最高度の尊重(≪隣人愛≫)」にあるからです。それに対して、バルトは、「イエス・キリストにおける神の愛」は、神自身の「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(バルト『ローマ書』)という認識・信仰・神学から、確かに時としてほんのまれに突発的な出来事の中で他者を助けるために自らの命を落とす人がいることを知っているけれども、しかしその極少の事実にもかかわらず、「一体われわれは、われわれの隣人を愛しているのであろうか、われわれは愛しうるのであろうか」、私たち(私)は、神からはいつも遠ざかり遠ざかり続けているし、またよく見積もって、例えて言えば、全くほとんど、多くの場合、私たち(私)は『銀河鉄道のの夜』のジョバンニの「最高の倫理」的悩みを悩んでいるだけというのが、素直で正直でほんとうのところではないのか。
3)ハルナックは、まさしく、、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」――この自然神学の系譜に属する神学者だと、私もそう判断します。バルト神学のその認識方法と概念構成から言えば、アウグスティヌスやハイデッガーの時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」・「否定された時間」・「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」なのです。すなわち、アウグスティヌスやハイデッガーには、イエス・キリストにおける啓示の時間・時間そのもの・実在の時間についての認識・概念が欠けているのです。
 さて、ヘーゲル哲学には、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」があるのですが、ハルナックやブルトマンやモルトマン等も含めて、シュライエルマッハー以外の他の人々の考え方・考えにおいても、神と人間との無限の質的差異を揚棄した「このヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」わけです。ヘーゲルは、世界的思想家として今でも通用しますが、その痕跡を残す人間学的神学は、恣意的主観的な自画自賛はあり得ますが、決して世界的な思想にはなり得ません。なぜならば、その神学の位相は人間学の後追い知識であって、非自立的で中途半端だからです。時流や時勢と共に、また人間学の盛衰と共に、盛衰していく位相のものでしかありません。自然時空に死語化していくほかありません。
4)ハルナックは、神学のその認識方法と概念構成によって無神論を包括し止揚すべき神学における思想の問題を放棄してしまって、無神論の問題をパンネンベルクのように、ただ単に人間学的領域に求めようとしているだけですし、またハルナックが恣意的主観的に「神」は人間によって対象化された「文化の発展とその認識」・「道徳」の「一切」であると言っても、その同じ人間学的領域には事実として無神論者や反神論者や無関心者もいるわけですから、ハルナックのその論理ではその論理それ自体において、その無神論者や反神論や無関心を包括し止揚することはできません。
5)バルトは「聖書の主題であり、哲学の要旨」である神と人間との無限の質的差異の立場に固執しましたが、ハルナックは、トラウプと同じように、啓示の実在そのものと人間が人間的に所有する人間の啓示認識との無限の質的差異を揚棄してしまいました。そして、神と人間との無限の質的差異を「聖書の主題」というのなら、「精神的発展における」ゲーテやカント等によって対象化された神概念は、「野蛮未開(≪精神・自由・道徳なき自然・非自由・無道徳≫)の状態に引き渡される」のではないか、とハルナックは問い、また「真」の神認識には、そしてまた精神と自然との世界史における「段階的相違」を認識するためには、やはり「歴史的知識」と「批判的省察」を必要とするのではないか、と問ういていますが、それに対して、バルトは次のように回答しています。
 まず、ハルナックのこの「段階的相違」という概念は、モルトマンの神学的な三段階的進歩史観(山崎純『神と国家』創文社)に依拠して考えると分かりやすいと思います。山崎は、次のように述べています――ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した「神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念」における宗教とは、人間の自由な自己意識の無限性によって対象化された自由と理性の理念である。モルトマンは、このヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、「律法・父の国・奴隷状態の歴史(《世界史的段階で言えば、自然にまみれた原始未開の段階》)」、「恩寵・子の国・神の子供状態(《世界史的段階で言えば、自然から対象的にはなったけれども、その対象的自然を自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていない・自由を自覚していないアジア的段階》)」、「自由・霊の国・神の友の状態(《世界史的段階で言えば、自然から完全に超出し自由を獲得した・自由を自覚した西洋近代の段階》)」、という神学的な三段階的進歩史観を展開した。ハルナックの「段階的相違」の概念は、このモルトマンのヘーゲル歴史哲学的な考え方から類推できます。ハルナックは世界史・人類史の頂点である西洋近代の「道徳(≪ハルナックによって対象化された神・その神への愛≫)の最高度の尊重(≪隣人愛≫)」を語りますが、イザベラ・バードは、原始未開的なアイヌ人は「善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている。総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」、と述べて、さらに明治期の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」。「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」、と結論づけています。また、マルクスも「ヴェラ・ザスーリッチへの手紙」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)において、半西洋・半アジアのロシアの革命にとって重要なことは、ロシアは「近代の歴史的環境のなかに存在」し・「資本主義的生産の支配している世界の市場と結合」しているから・「この生産様式の肯定的な成果をわがもの」とながら・共同体的所有や相互扶助的意識等々を有する「その農村共同体のいまなお前古代的(≪世界史におけるアジア的段階≫)である形態を破壊しないで、それを(≪肯定的に≫)発展させ変形する」ところにある、と述べています。そしてまた、吉本は、西洋近代を包括し止揚してそこから超出できる方途を、史観の拡張論において展開しています。最後になりますが、バルトは、「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、私たちは、西洋近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄」しなければならない、と述べています。これだけで、私たちは、その認識と自覚において、状況論的にも思想的にも、バルトがハルナックやモルトマン等々の神学者たちに比して、良質で優れていることを理解することがでできます。このことは、理性や科学や西洋近代や資本制は、人間・人類にとって部分でしかない、ということを意味しているいるでしょう。したがって、人間や人類の問題は、その総体性においてて考え・その解決の方途を探求することが必要である、ということを意味しているでしょう。 
 また、バルトは、聖書における歴史認識の方法について、確信を持って述べています。その例示――「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものである。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」。したがって、その非中立的な観察者だけが、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされた。さらにまた、バルトは、歴史主義は、啓示の実在と人間の啓示認識友無限の質的差異を揚棄し・聖書の証言・証しも第二次化し、人間学的な歴史主義を第一次化し原理として、人間精神が生み出したものを問題とする限り、「啓示を問おうとしない」で人間精神の自己理解を第一義として「聖書の中でも神話を問う」ことをする、しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、相互排除の関係にある、したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」、しかし、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」、なぜなら、啓示は、人間学的な「歴史の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである、したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが史実史ではない歴史物語・古譚として受けとる点にある、と述べています。この言葉は、ブルトマン・その学派・その類似者に対してだけでなく、ハルナックや滝沢克己等々に対しても根本的な批判を形成している、といえるでしょう。