本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリシズム

『カール・バルト著作集 1』「プロテスタント教会に対する問いとしてのローマ・カトリシズム」新教出版社に基づく

 

 神学的には、ヘーゲルの哲学もプロテスタント神学者のシュライエルマッハーの神学も、共にローマ・カトリシズムの近代主義的形態である、と言えます。なぜならば、ヘーゲルは、人間に内在する神的本質・人間の自由な自己意識の無限性・類的本質「の自己運動」と、「神のそれ」とを混淆したからです。ヘーゲルは、神においてのみ「実在であり真理である」、他在(対他的)であって自在(対自的)という完全なる「自由」・「主権」と、人間におけるそれとを等価性において認識したからです。また、シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う、またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される、すなわち神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く、したがってまた近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる、近代主義的神学者のシュライエルマッハーは、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識の類的本質・意味的世界、人間的契機の直接性、人間学的な哲学的原理や認識論や世界観に信頼し固執して、自分自身の恣意的なプログラム・「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとした、すなわち「自己表現としての宣教」を企てた、からです。このように、両者とも、神と人間との無限の質的差異を揚棄するという点で、また神と人間・神学と人間学との混淆と共働を志向性という点で、共通しています。
 さて、バルトは、自らのプロテスタント教会を「問うことなしには、本当に」、ローマ・カトリシズム・「他者を問い、また他者から問われることはできない」という場所で、この論述において、教派性、党派性、絶対的思想の問題を扱っています。「他者に対する自己の絶対的正当性について実際に知っている者」は、「喜んで、先ず、他者が問うことを許し、他者から問われることを許す」、とバルトが語るとき、その場合それは、その信仰・その神学・その教会の宣教の認識方法と概念構成、立場や考えにおいて、他者のそれを根本的に包括し止揚して、党派的思想や絶対的思想の領域から超出していくことを意味しています――私たち人間は、「われわれの立場、思考、意図において異なった人と語る際に……、その人の言うところを真剣にそのまま聞くよりも、自分の方が何かを言い、われわれ自身の言ったことを主張し……ようとする」ことは、「教養ある人の方に一層顕著」に見られる「現象である」・自分の立場や思考や意図が「絶対」的に「正しい」として、「他者に対してソクラテス以来、知者、認識の産婆の立場、……優位な立場……、問う者の立場を取り、またそのような立場にあると主張しようとする」。
 バルトは、「人間ノ混乱ニヨッテ」なされた宗教改革は、ローマ・カトリシズムに対する、「神ノ摂理ニヨッテ」なされた「実質の教会の再建」である、と述べています。しかし、現存するプロテスタント主義教会、現存するその「立場、思考、意図」は、ローマ・カトリシズムと同位相のものとして、それの近代主義的形態になってしまっている、と述べています。また、バルトの語る「他者に対する自己の絶対的正当性について実際に知っている者」とは、「教会の基礎」・「あなたがたはラビ、父、教師と呼ばれてはならない」(マタイ23・8−11)・「婚宴に招かれたときには上座につくな。(中略)末座に行ってすわりなさい」(ルカ14・8以下)の言葉を念頭に、「キリスト教会の知識と準備」について自覚的であることが必要がある、ということです。すなわち、イエス・キリストを頭とする教会は、徹頭徹尾全面的にそのイエス・キリストにのみ信頼し固執すべきであり、またその神性を本質とするイエス・キリストをのみ、唯一無比な「一人の教師」として持っているのであるから、この唯一無比な一人の教師への集中に基づいて、教派を・党派的思想を・絶対的思想を包括し止揚して、その位相・段階から超出していくところに、「他者に対する自己の絶対的正当性」の根拠がある、ということです。一方で、この考え・この認識方と概念j構成自体が、自己相対化視座を持っている、ということです。また、バルトは、「世界観的結社」とも言えるローマ・カトリシズムの近代主義的形態としてのプロテスタンティズムは、ローマ・カトリシズムに対する党派性として打ち立てた「一つの世界観を持つ共同体」・「同感の……同意見の人々の群れ」・「一つの目的結合体」であるが、それ自体がローマ・カトリシズムの位相にあるもの・それと「無気味なほどに近い」ものである、と述べています。バルトは、この近代主義的な「一種の第二の宗教改革」は、「教会の再建」というよりも「教会の放棄」を意味している、と述べています。そしてまた、このような「教会の放棄」としての「第二のプロテスタンティズムが、真のプロテスタンティズムとして現れた」、と述べています。この動向は、綿々として尽きず、ブルトマン、エーバーハルト・ユンゲル、大木英夫、滝沢克己、八木誠一、ルドルフ・ボーレン、佐藤司郎、小泉健、喜田川信、モルトマン等々へと続いています。その共通点は、神と人間との無限の質的差異を揚棄した、またイエス・キリストと聖霊の神性性を揚棄した、啓示の客観的現実性と啓示の比論を揚棄した、そしてまた良質な三位一体論を揚棄した、さらにまた神の不把握性と終末論的限界と自己相対化視座を揚棄した、神と人間・神学と人間学との混淆論や共働論にあります。この「立場、思考、意図」は、ローマ・カトリシズムと同位相のそれです。カトリシズムにおいては、「式をつかさどる司祭(≪私たちと同じただの人間≫)は、キリストを現臨せしめ、犠牲を捧げることができる」・「その調べでは、『ローマノ首長』である」・「まさしく『地上ニオケルキリスト』である」。また、「主の母マリヤ」は「神の働きにおける一種の被造物的協同、神の国建設における祝福あふるる先駆」として、マリヤにおいては「神のみならず、被造物の力もまた……救贖の業の原因として参与」する。バルトは、このことを、マックス・ウェーバーの「宗教改革は生活一般に対する教会支配の撤去を意味するのではなく、むしろそれまでの支配形式を他の形式と取りかえたことを意味した」という言葉を引用して、カトリシズムにおいては、「教会の権威」が第一義であって、それが「個々人の良心」を「拘束」していたが、宗教改革においてはその「教会の権威に対する神の権威が再建」された、と述べています。しかし、近代主義的プロテスタンティズムにおける権威は、「神の権威」を放棄して「教養人」の自由な自己意識の無限性・類的本質を権威化したから、それはカトリシズムの「教会的な権威概念」と近似的である、すなわち神と人間との混淆という意味では同位相にある。いわば、第二のプロテスタンティズムは、「合理主義的形態」において「教会であることをやめ」、「敬虔主義的形態」において「プロテスタントであることをやめた」、ということです。この合理主義的形態と敬虔主義的形態とを「綜合、均衡、調和」した象徴は、上述した近代主義的神学者のシュライエルマッハーです。
 十六世紀の宗教改革は、「教会に対してプロテストしたのではなく、教会のためにプロテストした」ものである。それは、次の位相にある教会のことである――「神のみ手のうちにある啓示の人間手段としての教会、神の語りかけが起こりまた聞かれる人間的場としての教会、神の召命に基づき、この神の語りかけに人間が奉仕するところの人間の共同体としての教会、さらにまた、この神の召命に基づき、人間に対する神の語りかけが生起するところの人間の共同体としての教会である」。宗教改革の教会は、神性を本質とする啓示と和解(義認・聖化・更新)の場所における、「頭から足の裏まで」「罪人の教会としての教会の再建である」。