本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルトとカルヴァン祭

バルトとカルヴァン祭

 

カルヴァンの現在性
 バルトは、カルヴァンの現在性について、「三つの命題」に基づいて、次のように述べています。
1)カルヴァンは、私たち人間の「思惟の力」、私たち人間の「研究のもろもろの成果」について、「懐疑主義」的にではなく、また「安閑」としてではなく、絶えずくり返し「謙虚に考えるべきことを教えた」。すなわち、カルヴァンは、そのことを、主なる神に「服従すること」も、また主なる神を「認識すること」もできない私たち人間に対して、主なる神が、「ご自分の言葉を語」ること(神の自己啓示、インマヌエル、イエス・キリスト、神の言葉)と、聖霊の注ぎによる信仰の出来事によって、私たち人間が聞く者・思惟する者・認識する者・信仰する者となるようにされたという、その神の完全な自由に「直面させる」ことによってなした。
2)カルヴァンは、神学者に、また「いかなるキリスト者も……神学者としても召されている」(バルト)という意味ですべてのキリスト者に、「主題」を示した。すなわち、カルヴァンは、その「主題」は、「服従への自由」に基づく、「自分自身の考えではなく」、聖書の中で「神の考えを尋ね求め、見出」す「聖書の読者と解釈者」という神学的実存・生き方にある、と考えた。したがって、カルヴァンは、「神学体系を残さなかった」、「カルヴァン主義」なるものを残さなかった。丁度、バルトが、膨大な書物を著わしながら、その信仰・その神学の認識方法と概念構成において、「バルト神学体系」や「バルト主義」なるものを本質的に成立しないようにしたように……。したがって、「カルヴァンの注釈に対する批判」は、「ただこの前提のもとでだけ可能であろう」、とバルトは述べるわけです。
3)神学の「場所」は、「神の言葉の宣教に、奉仕する」教会である。このことは、次の事柄を要請する――神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示=イエス・キリストの名=啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてあるから、その時間的連続(歴史性)に連帯することを要請する。また一方で、私たちは、、、その存在・その思惟・その実践・その資質・その感情・その喜怒哀楽を持ち、ある社会構成・支配構成・文明や文化の時代的水準に現存しているから、その信仰・神学に、個性や時代性を刻んでいくことになる。

 

使徒行伝3・1−10についての説教
 「われわれが、イエス・キリストの名において洗礼を受け、イエス・キリストの言葉を聞くようにと召されていることが確かである限り」、ここで「宮」は、「一つの、聖なる、公同の、使徒的教会である」。ここでは、「神が問題であり、魂とその永遠の救いが問題であり、神の国が問題」である。その宣教の言葉は、第一次的には神の言葉としてのイエス・キリストそのものに基づく啓示の「概念の実在」としての「聖書」の証言・証し(イエスの弟子であるペテロとヨハネ)および教会(イエスの弟子であるペテロとヨハネの教会)の客観的な信仰告白・教義の時間的連続性においてある――「使徒たちと預言者たちが、聖書が、教会に来るならば、その時、いずれにしても」、その「教会」の宣教が、「人間的な虚偽か、神的真理」か、「昔からの習慣と空想」か、「神の主権的な導き」か、「決定が下される」。そして、「神的真理」・「神の主権的な導き」にある教会は、「死」の「予型と前戯」の比喩である「宮もうでに来る人に施しを乞うために」、置かれていた「生まれながら足のきかない男」・「人間の世界のただ中に」、「立っている」。個としての人間とその現存性においても、類としての人間とその歴史性においても、様々な構想や努力は相対的であって、それは、「死」の「予型と前戯」でしかないのではないか。その人間性の終局は、「死」ではないのか。そのただ中に、教会は立っている。
 そのただ中で、イエスの弟子である「ペテロとヨハネなしの教会」・「聖書なしの教会」は、そこでは神の言葉は沈黙し、それゆえ神の言葉が「支配する代わりに、あらゆる種類の人間の言葉」を神の言葉に置き換え(トゥルナイゼンも述べていたように、「神の名において、神の呼びかけのもとに」、神への「反逆」が行われ)、神の言葉を「駆逐」する。ここでは、ただ施しだけが、すなわち「民衆には宗教が欠けてはならない。……今日、……われわれ自身、皆、この民衆に属している」(近代以降は、科学主義がそうであるように、自己意識の類的本質もそれだ)それ、「二、三の建設的な理想」、「二、三の道徳的動機」がある。ここに、「人間的な足がきかないことと無力さ」の下にある教会の総括的表現がある。しかし、足が聞かない男が「施しをこうた」時の視線は、「好奇心」と「同情心」を内容としていたが、「ペテロとヨハネ」が「彼をじっと見」た時におけるまなざしは、「罪と死をも、とっくに打ち砕かれた主なる神」、永遠の神の言葉、聖書におけるイエス・キリストである――「カルヴァンを通し貫いて、イエス、助け主、救世主、終わりと新しい始まりをもたらす方である。それが、ペテロとヨハネが足のきかない男をじっと見た時、起こったところのことである」。ペテロもヨハネも、「われわれすべてと同じように全く平凡な人間」であり、「誰かほかの人間よりも別段意味深くもないし、興味深くもない」人間であるが、彼らが欲しているのは、自分が・自分たちが見られることではなく、「彼らをつかわし、委任を与えられた方、永遠の父の永遠のみ子」、イエス・キリストが見られることである。そして、あくまでもそのためにこそ、「ペテロとヨハネ」、「すべての預言者と使徒」が見られることを欲している。したがって、「聖書」の証言・証しが聞かれることを欲している。
 ペテロとヨハネは「金銀のない」「貧しい者」として、足のきかない男に「施し物を与えること」はできない。この「施し物を与えられない」ということが「試練」として「襲いかかる」。そのために、ユダをはじめとして、ペテロも、「すべての弟子たち」も、イエスを裏切り、否定し、「捨てて逃げ去った」。しかし、そうであるにもかかわらず、イエスのゆるしの下で、イエスの弟子として、使徒として、金銀はなく施し物を与えられないペテロは、「わたしにあるものをあげよう」と、「死人の中から甦られた」・「聖霊を受けよ」と「語りかけ給う」・神の言葉であり・「啓示と和解」そのものである・「ナザレ人イエス・キリストの名」を宣べ伝える。この、「み言葉の後に従いつつ」、み言葉への奉仕の中で、ペテロは、「何かをなすことができ、何かをなすことがゆるされる」、「人間的に助け、手をつかみ」、「身を起してやることができ、そのようことをなすことがゆるされる」、「これまで決してできなかったことができる」、「決してしなかったことをする」、「死の影の中を引き続き生きるのではない」、「永遠の生命の光の中を歩くのである」。
 教会は、「英雄」ではない・「賢者」ではない・「偉人」ではない、神の側の真実の方から「神の言葉が来た足のきかない男である」。なぜならば、教会は、聖書のイエス・キリストにおけるその「み言葉と共に、み言葉の中に、み言葉の下にいる足のきかない男となったからである」。絶えずくり返し、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、教会の神的側面でありその頭であるイエス・キリストに、イエスの弟子である「ペテロとヨハネ」に・使徒たちに、すなわち具体的には聖書に聞くことが要求されている。