本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルトとルター

『カール・バルト著作集 4』「ルター祭」小川圭冶訳、新教出版社に基づく
バルトとルター

 

 バルトが述べていることを簡潔に整理すれば、次のように言うことができます。
 ルターは、「自分の事柄」について、「確信」していた。したがって、「世的なかしこさとまことの知恵の間の選択において、一瞬間たりとも、動揺」しない。その場合、「あらゆる側から」の異議申し立て・反対、すなわち「お前はただ自分ひとりだけが正しく、ほかの者は間違っているとみなすのか」という異議申し立て・反対に対して、「動揺」しない。いわば、党派的思想・絶対的思想の立場に立ち続けなければならない。このルターの「確信」的立場は、ルターの固有な信仰的資質や時代性に規定されており、「模倣」することはできないだけでなく、そうした党派的思想・絶対的思想を、その信仰・その神学の認識方法と概念構成において包括し止揚して・そこから超出していくところに信仰における・神学における・教会における思想の課題があるだろう。
 しかし、ルターは、彼の固有な信仰的資質や時代性を超えた、時間的連続性(歴史性)・現在性も持っている。すなわち、ルターは、キリスト教会の教師として・神学者として、単純な概念である「キリスト」・「福音」・「神の言葉」への集中という思惟と意志の統一性・一貫性を持っている。したがって、このことに自覚的でないルター研究は、ルターを「贋造することになる」。ルターが、「キリスト」・「福音」・「神の言葉」への集中・「旧約および新約聖書」とその「注釈」への集中において「欲した」のは、ローマ書3・22等の「イエス信仰」の属格目的格的属格として理解した(バルトは、徹頭徹尾全面的、主格的属格として理解した)うえで、自分のその存在・その思考・その実践・その言説において、「福音伝道者」・「忠実なしもべ」・信仰の人で在り続けることにあった。
 ルターにとって学問(神学)は、「確実な認識」であり、その認識は信仰であった。バルトも次のように述べています――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神の自己啓示を通して、「神の言葉」を聞き・認識し・信仰し・語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなくその啓示に信頼し固執する「認識」・信仰である、と。しかし、ルターのその学問は、「人間の状態……についての特別な学問として理解できる」ところのそれである。言い換えれば、それは、「ただ、自分の考え〔気持〕を述べることしかできないということを……見て取ることでもって始まる」。しかし、それは、「すべての絶望から突然わき起こってくるさらにはるかに根本的な信頼の言葉」・「祈りの言葉」を持っている。『キリスト者の自由』の文体・「ルターの神学」は、まさにこれではないでしょうか。バルトは、それを詩篇130に見い出しています。

 

  主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
  主よ、どうか、わが声を聞き、
  あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
  主よ、あなたがもし、もろもろの不義に
  目をとめられるならば、
  主よ、だれが立つことができましょうか。
  しかしあなたには、ゆるしがあるので、
  人に恐れかしこまれるでしょう。
  わたしは主を待ち望みます。わが魂は待ち望みます。
  そのみ言葉よって、わたしは望みをいだきます。
  わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、
  夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
  イスラエルよ、主によって望みをいだけ。
  主には、いつくしみがあり、
  また豊かなあがないがあるからです。
  主はイスラエルを
  そのもろもろの不義からあがなわれます。

 

 ルターは、この場所で、「すべてのよきものを期待する」、「慰め」と「助け」のすべてを期待する。このことは、「牧師たちはよくそのようにいう」ところの、ルターが否と然りの「調和への道」を見出した、ということでは全くない。それは、深い隠蔽性の中で、「深く隠されているが、喜ばしい希望である」神を「待ち望む」、ということである。