本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

その3 神の「真実の証人」そのものとしてのイエス・キリスト 了

 聖書によれば、イエス・キリストこそが、「受難」から続く十字架の「死の<絶対的沈黙>」・「死の沈黙」を、その「復活」において打ち破り、克服された唯一無比の方である。また、このイエス・キリストの「復活」は、彼が神性を本質としていること、また彼の言葉は「神ご自身の言葉であること」、を示している。しかし、この「復活」の出来事を認識し信仰することは、私たち人間の、「理性や力」、また感覚や知識を内容とする経験によっては、全く不可能である。確かに、実際、私たちが正直に素直に告白するとすれば、その出来事は、「人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない」し、「事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」事柄でしょう。この意味で、「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」です。したがって、もし私たちが主格的属格としての「イエスの信仰」のそのイエス・キリストにのみ信頼し固執するという場合、近代<主義>や神秘<主義>等に偏向することなく、その出来事を、ただイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事において、認識し信仰し告白することができるだけでしょう。そうできるように、祈る以外にはないでしょう――その場合、先ず以て、神の側の真実の方方から「信じます」という告白はやってくるだろう。その後に続いて、人間の側の「信仰のないわたしをお助け下ください」という自己認識・不信仰の告白が生じるだろう(マルコ9・23ー24)。またその場合、その存在・その思惟・その実践において、不信とむなしさが蔓延する現在を生きる私が、イエス・キリストにおける神から遠ざかり遠ざかり続けている、また罪を新たな罪を犯し続けている私が、無神性・不信仰・真実の罪の只中にある私が、「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」であるだろう。「神の子の全く素直な赦し」により頼む以外にないだろう。このイエスの「全く素直な赦し」を「用いる」以外にないだろう。これが、私たちのなし得ること・「なすべきことである」だろう――「霊も弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ8・26)。バルトは、「霊(プニュウマ)」とはパウロの人間学においては、人間実存の不可視な「精神的生の要素である魂(プシュケー)」とは違うが、キリスト者に「洗礼に際贈られる、イエス・キリストとの交わり」のことであって、このことに基づいてキリスト者は「初めて」「新しい真実の主体(≪「人間的存在がイエス・キリストの存在である限り」における主体≫)となる」、という意味を与えている、と述べています。バルトは、次のように語ります――いずれにせよ、したがって、「十字架につけられたイエスはこの世界に向けられた神の言葉であると証しする」キリスト教会は、勝利の福音・インマヌエル・「復活を信ずると告白」・「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは 、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみない」と告白しなければならないのである。このことは、時流や時勢、近代<主義>や神秘<主義>等、人間の「理性や力」、また感覚や知識を内容とする経験、神と人間の混淆、神学と人間学の混淆を、第一次化した場合、その信仰・神学・宣教は、最初から誤謬は必然となるだろう、ということでしょう。その場合、すなわち「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ない」、ということでしょう。主格的属格としての「イエスの信仰」に基づいた、終末論的限界の下での両者の同在性、弁証法的認識、啓示の弁証法が必要でしょう。
 神の「真実の証人」そのものであるイエス・キリストと、「真実の証人」であるヨブとの決定的な差異性・区別はどこにあるのか? このことは、自由なる神の自由に基づいて自由である人間・「真実の証人」ヨブとは違って、イエス・キリストが、神自身の自己啓示、神自身の自己規定、すなわち神性を本質(神自身においてのみ「実在であり真理」である自由・主権に基づく自在性としての神の「存在の本質」)とする、まことの神でありまことの人間である(神自身の自由に基づく人間へと向かう他在性としての神の「存在の仕方」・神の子・神の言葉)という点にある。この神の自己啓示からすれば、「イエスの受難」とは、神は、イエスを「棄てた者であるとともに」、そのイエスにおいて「自分自身をも棄てるもの」である、ということである。このことは、神は、この自己啓示によって、すなわちイエス・キエリストそのものによって、人間のために・人間に対して、ただ一回限り唯一無比の仕方で「啓示と和解を生じさせる」、ということを意味している。そして、この啓示は、すなわち「十字架につけられた者の語りかけ」は、ほんとうは「だれもそれを他人に言うことはできない」者であるから、「人間がお互いに言うことができるのは、人間の理念であり、世間的情報」でしかない。したがって、言い換えれば、そのイエスの「語りかけ」は、「彼の聖霊の力によってしか聞かれることはできない」ものである。したがってまた、その「語り」を伝える場合も、そうである。そのイエスの「聖霊は、それ自身『力であり、……その力によって神の言葉、真理の言葉が、ただ神のうち(≪神の隠蔽性≫)にあるだけでなく、(≪人間の自由になる形で実体的にそこにあるという在り方ではなく、神の自由な決断に基づく≫)神が欲する時と所で、神から出て、われわれ人間にはいりこみ(≪神の顕現性≫)、……(≪あくまでも人間における神の不把握性と終末論的限界の下で≫)いくらかわわれわれの信仰、われわれの認識、われわれの服従という……収穫をえて、神にかえっていく』」・神自身の語りとして神自身に自己還帰する、だけである。したがって、人間の語り・説教は、それが聖書に「かなう宣教や最も純粋な教説であっても」、それ自体は「神の言葉」では全くないから、それ自体を「神の言葉」とすることはできない。したがって、それ自体が、「神の語りかけを聞く妨げになる」場合もある。すなわち、人間そのものであるその宣教者・説教者・神学者・著述家自身がこれらのことに対して自覚的でない場合は、彼ら自身のその語りと教説は、彼ら自身の恣意的主観的な考え・理念あるいは戯言にすぎないから、彼らのそうした恣意的主観的な語りや教説を聞かされているだけであるということもあり得る。そうであるなら、私たちは、そうした彼らの語りや教説に聞くよりも、むしろ純粋な人間学的領域に属する吉本やフーコーやヘーゲルやフォイエルバッハやマルクス等々や、太宰や漱石や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に耳を傾けた方がいいに決まっているわけです。なぜならば、実際的に、確実に、その方が人間や世界や世界史の本質を指し示してくれるし、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれるからです。いずれにせよ、したがってまた、人間の宣教・神の言葉に関する教説は、「よくてたかだか、神の語りかけを聞くという出来事に奉仕しうるにすぎない」ものである。このことの意味は、宣教者・説教者・神学者・著述家は、素直に、神が語り給うゆえにその神が語り給うたことを聞くという出来事に対して、その「奉仕」に徹する必要がある、ということでしょう。
 神は「ヨブに敵対していながらも、彼に味方している」ことに基づいて、ヨブはヤーウェに「反抗」(不正)しながら、自分を「告発している」「神へと逃げる」道(正しさ)へと歩みを進める。また、神のしもべであるヨブの苦難の問いに対する答えは「知恵」に属することであり、またその「知恵」が神に属する事柄であれば、ヨブはただ神への信頼と固執において、終末論的に答えを持つ道へと歩みを進める以外にないでしょう。すなわち、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、という道を歩む以外にはないでしょう――主は、「テマンびとエリパズに言われた、『わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなた方が、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである』」。この時、神は、ヨブを「保証する者」・「弁護する者」・「保護」する者である。また、このとき、自由な神がヨブの証人であり、その自由な神の「真実でありつづけた」・「真実でありつづける」選びに基づいて、「不正」と「正しさ」を「告発」された自由な人間・ヨブは、「正しいイスラエル」であり、「真実の証人」であり、神の「真実の証人」そのものである「イエス・キリストの証人」である。