本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

その2 真実の証人の基本構造

 バルトは、先ずヨブ記の全体の構成とユングの『ヨブへの答え』について述べています――ヨブは、死海の東あるいは東南のイスラエルの境界を越えたエドムの領域・ウヅの住人である。また、ヤーウェとの関係でいえば、そのイスラエルの神から「わがしもべヨブ」と呼ばれて祝福されている人物である。1・2・42章は、富裕なヨブ、苦しみの只中でのヨブの神への真実、あらためて受ける神によるヨブへの祝福についての民間伝承・枠小説である。詩の3−31章、ヨブと三人の友人たちの言葉(特に25・26章)は、ヨブ記の主要部・中心部である。33−37章の詩形式のエリフの言葉、「たぶん40、41章のベヘモトとレビヤタンについてのヤーウェの口におかれた詩、その前におかれている38、39章の宇宙世界や、その他の特に獣の世界に……関する部分」は、後からの挿入である。最後には、28章のヨブの知恵の歌である。
 ユングは41章(34節を引用)に依拠して、集合的<無意識>としての神・ヤーウェは、「動物的――自然的」であり、「あらゆる古代の神々と同様にヤーヴェもまたその動物シンボル体系を持って」いる、と述べています。神人と呼ばれた天皇のそれは、白蛇だ、という言われています。バルトは、ユングの『ヨブへの答え』について、「人間的には非常に感動的な記録」であり、「職業的心理学者の心理学にとっては極めて啓発的」でもあるけれども、「しかし聖書のヨブと聖書一般の解明のための寄与としては」、その叙述が即自的であるがゆえに、すなわち心理学者としての自分自身から対象的になってヨブ記を「冷静に読み、思索することができなかった」がゆえに、その作品は「望みなく」「全く不毛となっている」、と述べています。吉本隆明の言い方でいえば、ユングの作品は、一面的部分的な心理学的集合的無意識を全体とすることで展開された、党派的思想・絶対的思想である、ということになるでしょう。
 ヨブの神との関係における歴史・自己史は、始めと終わりは神の祝福に満ちている。しかし、その中間の歴史は苦難に満ちている。この中間の歴史においては、ヨブに対する神の祝福は、「乏し」く「最小限」でしかなくなっている。そして、バルトは語ります――その歴史におけるヨブの神への対応の在り方は、「自己是認や自己称賛とは何の関わりも」ない神への「無比なる信頼」であり、「自分の身のためだけでなく」「祭司的に、彼を取り巻く人々のための代理として」「神に対して立っている」(例29章・31章)。ヨブは、「敬虔な偽り」の証言をした友人三人のために、「とりなし」の祈りを行うという在り方において、神に対している(42章)。このように、真実の証人であるヨブの歴史・自己史における信仰の在り方は、「偽りを暴露するのみならず」、「敬虔な」「偽り者のためにとりなし」の祈りをする、という点にある。「誤る」ことがない神自身が、ヨブに「力をそえ」るがゆえに、その場合「ヨブもまたあやまつこと」はできないし、「過つことはない」、という点にある。神がヨブを「わがしもべ」と呼ばれるのは、ヨブが自分の恣意性・主観性・自己主張・意志によってそう望んだり・そう望むからではなく、ヤーウェ自身が「喜んでそうするからそうなのである」、という点にある。言い換えれば、神とヨブの関係性は、第一次的な「神の側からの自由な選びと意向によって」、そしてその自由に基づいた「ヨブの側からの自由な服従」、という点にある。これが、「真実の証人の一つの型」である。自由・主権・愛は、神においてのみ「実在であり真理である」(『教会教義学 神の言葉』)。「自由に与え、また自由に取り戻すことができないなら、神は神でない」。したがって、ヨブの神奉仕は、神の自由・主権・愛に服従する神奉仕である――「神から幸いをうけるのだから、災いもうけるべきではないか」、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。ヤーウェが与え、ヤーウェがとられたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」。したがってまた、そのヨブは、「誤りうる人間として」、「不正をも行いまた不正でもあるということ」を背後に持っていることを自覚的させられた人間である。このヨブの場所は、新約聖書においては、主格的属格としての「イエスの信仰」に信頼し固執する場所のことでしょう。なぜならば、「イエスの信仰」の目的格的属格理解の場合は、自分を罪人と規定しながらも、その思惟・その信仰・その神学・その発言においては、いつも、一方通行的な信や知の上昇過程の場所からのそれでしかないからです――その証拠に、「イエスの信仰」を目的格的属格として理解する神学者・寺園喜基は、自分を一方通行的な信や知の上昇過程の場所に置いて、諸民族は「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼びかけられている」のであるから、諸民族を救済・平和の希望である「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ところに、キリスト者とキリスト教会の責務がある、と語ります。しかし、「イエスの信仰」を主格的属格として理解するバルトは、すべてのキリスト者とすべてのキリスト教会を含めて、諸民族はそのあるがままで「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」にのみ信頼し固執するように「呼びかけられている」のであるから、キリスト者やキリスト教会や諸民族は、徹頭徹尾全面的に、一切の天然自然や人間的自然に左右されない、全人間・全世界・全人類の救済・平和の希望である神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執していいのだ、と告白し証しし宣べ伝えるところにキリスト者とキリスト教会の責務がある、と語ります。私自身は、徹頭徹尾全面的に、状況論と思想性と現在性を有した全く質の良いバルトの語り方を首肯します。
 さて、バルトは、ヨブは、「真実の証人の一つの型」ではあっても、「真実の証人」そのものであるイエス・キリストではない、と述べています。すなわち、ヨブは、イエス・キリストの「一つの型」としての「真実の証人」である。なぜなら、ヨブは、神奉仕の「真実の証人」であっても人間そのものでしかないわけですから、したがって神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストのように「啓示と和解を生じさせる」ことはできないからです。したがってまた、「自由な神の自由な人間として人間的な可謬性を持ちながら試煉の地獄を通りぬけて行く」ヨブのその「危なか」しい歩みに対して、イエス・キリストは「ゴルゴタの屈辱を通りぬけることによって、すでに勝利者であるという不可謬性」の道を歩んでいる、と述べています。
 イエス・キリストは、神の「真実な証人」そのものである。このことは、神が人間へと向かうそのイエス・キリストの「存在の仕方」において、「この歴史の中で人間存在の真理を生きることによって」、その「十字架のすがた」によって、「ほかの一切の実存者は偽りであると暴露」したことを、意味している、と述べています。この出来事は、あくまでも神自身の自己啓示、神自身の自己認識・自己理解・自己規定であって、人間の人間的なそれではないわけですから、秘義性・隠蔽性においてある、ということでしょう。言い換えれば、人間にとっては、終末論的限界を意味しているでしょう。いわば、「何もかも合点が行」き・「誰も彼も合点が行く」のは、終末論的な事柄に属している、ということでしょう。このイエス・キリストの十字架を頂点とした地上の生・生活においては、私たちは、「神に棄てられた者」・「神にたたかれ、苦しめられる者」・「闇に屈伏させられた者」・「敗北」者の姿を見るでしょう。しかし、イエス・キリストは、その「死と復活」において、全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済を完了された啓示の客観的現実性そのものであるわけです。したがって、復活のイエスは、「われわれと現在ともに在すことができる」。しかし、和解は聖霊の「存在の仕方」に関わる終末論的な救贖・完成ではないわけですから、イエス・キリストの現在は、「十字架につけられた者の現在」でしょう。すなわち、その十字架の姿において、神の「真実の証人」そのものであるイエス・キリストは、私たちの「敬虔な偽り」を暴くわけです。言い換えれば、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識によって、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通して、私たちは自分がそういう者等々であるということをそのあるがまままに、自己認識し自己理解し自己規定させられる、とバルトは述べるわけです。しかし、この人間的存在についての自己認識は、「人間の存在がわれわれの人間的存在である限り」においては不可避にそうである、ということでしょう。それと同時に・それと同在に、「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは」、「貧民窟、牢獄、養老院、精神病院」、「希望のない一切の墓場の上」での「個人的な問題……特殊な内的外的窮迫、困難、悲惨」、「現在の世界のすがたの謎と厳しさに悩んでいる(……これらが成立し存続するのは自分のせいでもあり、共同責任がある)」「闇のこの世の只中」で、イエス・キリストとの連続性の中に、すなわちイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済・平和の中に、そのあるがままで置かれている、ということでしょう。
 さて、ヨブの悩みは、「死への恐れではない」。なぜなら、ヨブは、自分の死を、神に求めているからです。「所有、家族、健康、安定、名誉」の喪失に人間の生・生活の無常を感じその無常に苦悩することを主題とするのであればヨブを必要としないから、ヨブは、そうした無常を嘆き死を恐れているのではなくて、神との関係性が断たれた「闇への疾走」・「ただ滅び行くだけ」の<生>を恐れ・「嘆き訴え」ている、とバルトは語ります。

 

  3時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である(マルコ15・34)

 

 この叫びは、イエスの苦難の総括である。この叫びの中に、「苦難の神のしもべ」の、「真実の証人」であるイエスと、「真実の証人の型」であるヨブとの関連性がある。また、バルトは、ヨブの嘆きの対象について、次のように述べています――ヨブのその存在・その思惟・その行為は、苦難の中で、神と関わりあわねばならないことを深く知っている知と、そのことを深く知っていない不知の混在にあり、その混在における争いにおいて、ヨブは「不正を行う」。しかし、神の方がヨブから「離れない」がゆえに、ヨブは「神から離れえない」。したがって、ヨブの側からの神への「問いや嘆願」は、全く無力である。したがってまた、最後には、ヨブは「ちり灰の中で悔い」る。ヨブの苦難・嘆きの中心的対象は、次の点にある、と言えるでしょう。
1)自由な神からする先行的な選び、そして人間の人間的自由による選びに基づく契約関係の解消や廃止にはない、ということでしょう。
2)したがって、神は1)の神の側の真実の貫徹と自由な決断において、ヨブに与えていた「祝福を、……はぎとり」、神の真実を隠蔽する姿でヨブと出会う、という点にある。したがって、このことは、神の側の真実内部での、神とヨブとの関係性の変容、ということでしょう。
3)ヨブは、そのことが神の真実であるから、その神に対して「不真実になるわけにはいかない」ために、真実の神の隠蔽性の只中で、苦難のしもべヨブは「苦しみながらの服従をする」、ということでしょう。
4)「善において神なきことは、ヨブとの対決においてあばかれ仮面をはがれた彼の友人たちの敬虔と神学」である。この「偽り」の敬虔と神学は、「神なきことは、善においても神なきことであって、神なきことであるのをやめ」ない様式の一様式、ということでしょう。
5)ヨブのドラマは、「人間の偽りは煙のごとく、ただちに一切の香りを失う者の証人」「苦しまれ、十字架につけられ、死して葬られた神の子にして人の子なる、ただひとりの真実の証人」そのもの、すなわち「真実の証人」そのものであるイエス・キリストの「真実の証人の一つの型」である者の「ドラマ」である、ということでしょう。