その1 ヨブ記の主題
バルトは、「ヨブは他の人間すべてと同じく誤りやすい人間である」、と述べます。首肯できるでしょう。したがって、ヨブ記は、「罪なくして罪となりたもうた(Uコリント5・21)イエス・キリストではない者」の「真実の証人」・ヨブの存在の仕方のドラマである。しかし一方で、それは、「神には誤りがない。ここで一切がそれにかかり、そのために神自身が力をそえ、うけあった事がらについては、ヨブもまたあやまつことができないし、あやまつことはない」、「真実の証人」・ヨブの存在の仕方のドラマでもある。このことが意味していることは、それは、ヨブの恣意性や主観性によってではなく神の側の真実として客観的に、すなわち徹頭徹尾全面的に、「わがしもべヨブ」(ヨブ記1・8、2・3、42・7ー8)と神自身に呼ばれ祝福された「真実の証人」・ヨブの存在の仕方のドラマである、ということでしょう。バルトは、ヤーウェとヨブの交わり・関係性は「自由」にある、と述べていますが、その交わり・関係性は、先ず以て第一次的に「神の側からの自由な選びと意向によって」いるものであり、同時にその神自身の働きかけに対する「真実の証人」・「ヨブの側からの自由な服従」に基づいて形造られている、ということでしょう――ヨブ自身の方からの働きかけによってではなく、神自身がヨブを「真実の証人」として「決め」・「しもべとみなし、認め、現にしもべとしているということは、……ただヤーウェが喜んでそうするからそう」なのであって、それゆえにそのような交わり・関係性となるのである。したがって、「秘かに神より上位に置かれている道徳的あるいは法律的な律法」を前提とし、先ず以て自らの自由(恣意性)・自己主張・神学を優先する「三人の友人たち」は、神に祝福されることはない、と言えるでしょう。しかし、ヨブは、神自身によって祝福された「真実の証人」であるというその存在によって、その「三人の友人たち」の「偽りを暴露する」だけでなく、その「偽り者のためにとりなしをする」・またそのことによって神の祝福を現実化する、「真実の証人」の存在の在り方(「真実の証人の基本構造」)も示している、と言えるでしょう。それだけでなく、ヨブ記は、その「苦しみ」や「嘆き」において無限の質的差異のある「ゲッセマネとゴルゴダの苦しみと嘆き」を引き受け給うた「イエス・キリストの証人」であるヨブのドラマ・「ただひとりの真実の証人」であるイエス・キリストの「証人」・ヨブのドラマである。そして、この「ただひとりの真実の証人」であるイエス・キリストにおいては、「人間の偽りは煙のごとく、ただちに一切の香りを失う」。
このことは、次のように言い換えることができるでしょう――「ただひとりの真実の証人」であるイエス・キリストにおいては、「人間の偽りは煙のごとく、ただちに一切の香りを失う」、このイエス・キリストの「死と復活」の啓示の場所は、
ア)ヨブの三人の友人にあった「敬虔なすがた」・「キリスト教的なすがた」においてある、すなわち「神の名において、神の呼びかけのもとに行われる」(トゥルナイゼン)、
イ)神と人間との無限の質的差異を揚棄してしまって、「少しも神に身をゆだねることなく生き、生きつづけうるようになりたい」という企て
ウ)人間が福音を「飼いならす」という企て・福音を人間に帰属させ「帰化させる」企て・福音を人間の自由事項にするという企て等の、
「偽りの原現象」一切を、深い洞察においてそのあるがままに見渡せる、唯一無比の場所でしょう。「自分自身」の「自由」と「救い」と「滅びの免除」にだけ「関心がある」三人の友人たち等々の神と人間の混淆・共働や「訓育、牧会、典礼、説教」にある「偽りの原現象」を、そのあるがままに見渡せる、唯一無比の場所でしょう。したがって、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができるようになる」・そのあるがままに見渡せる、唯一無比の場所でしょう。
(≪ヨブの三人の友人たち等々のその場所においては≫) 福音が、理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと、鋭さをなくした(「教会のおえら方やキリスト教的貴婦人が飾りにぶらさげる小さい十字架」に至るまでの)十字架象徴論へと、「そこでは神はもはや何も与えず、人間はもはやなにもうけることのない」ところの、イエス・キリストはたかだか≪暗号≫にすぎず、祈りはたかだか独りごとにすぎないところの同一神秘主義へと変わって行く……。
さて、ヨブ記のこの主題を敷衍すれば、次のように言うことができるでしょう――私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の場所だけである、と。すなわち、バルトは、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=「インマヌエル」――神は、罪深き私たち人間と、「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」、というこの「一つの事柄」にのみ信頼し固執する道を選んだ神学者であり・牧師であり・思想家である、と言えるでしょう。このイエス・キリストにおける啓示の場所においては、私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの啓示認識と、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通して「神に対する人間的反抗」・「罪深い堕落した人間」・そのような人間の「世」を、そのあるがままに自己認識することができるでしょう。したがって、イエス・キリストが神われらと共にであって、イエス・キリストと共にあるがゆえに神われらと共にいます、と告白し証しし宣教することは、「イエスの信仰」を主格的属格として認識し信仰し神学し思想するということになるのです。私自身は、確信をもってそう考えます。バルトにとって、そうした私たち人間の歴史性・類と現存性・個の生誕から死までを見渡せる場所は、イエス・キリストにおける啓示の場所だけであり、この場所においては、人間的自然としての万物に質量(重さ)を与える根元であるヒッグス粒子の概念等々も、ヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果等々も、人間的な世俗的真理として「正直に受け取ることができる」のです。