本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

「イエスと群衆」 了

 バルトは、マタイ9・36について次のように論じています。
1)イエスは「飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れている」「群衆」を「深くあわれまれた」とは、その群衆の「苦しみ」がイエスを「悲しませた」・イエスの「心に迫った」というだけでなく、その群衆の「苦しみ」がイエス自身の「苦しみとなった」、ということである。そして、イエスは、その群衆の「苦しみ」を「身に負うことによって」、群衆からその「苦しみ」を「取り除」いた、ということである。なぜならば、イエスとは、神が「ご自身を……投入することによって」、「神助け給う(≪神は、イエス・キリストにおいて、群衆を一切の「苦しみ」から究極的包括的総体的永遠的に解放し給う≫)」ということだからである。このことが、イエスが「町や市場や村で説教するときに宣べ伝え」たこと・「多くの病人を奇跡的にいやすこと」によって、神が「示し給うた」・神が「支配し給う」、「神の国」である。すなわち、「イエス御自身が……神の国」である。したがって、この神性を本質とするイエスの「存在の仕方」と、終末論的限界と人間中心主義的で皮相的で「外面」的な「様々な忠告や慰め」・「様々な援助や緩和手段」による「当時もいたし今日もいる他の様々な群衆の解放者・教師たち」・「群衆に幸福をもたらす人々」・慈善家の在り方との間には、無限の質的差異が横たわっている、ということができるでしょう。この認識・自覚は、重要で大切でしょう。なぜならば、そうでない場合、必ずやドストエフスキーの書いたあの大審問官のようにようになってしまうからです。すなわち、大審問官は、「神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(《彼の対象化された自己意識の意味的世界・彼の管理するプログラム》)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」からです。
2)ここで、「群衆」とは、「イスラエルの国民」や「異邦の諸国民」、「金持」ちに対する「貧しい人々」、「教養のある人々」に対する「無教育の人々」、「支配力を持つ人々」に対する「服従しなければならない人々」のことではない。それは、「群れとしての人間」のこと、「人々」のことである。すなわち、イスラエルの人々であり、異邦の人々であり、生活を主とする人々であり、知識を主とする人々であり、「低い階層」の人々であり、「比較的良い階層」の人々のことである。もちろん、それは、「弟子たち」でもあり・キリスト者でもある人々である。言わば、市民社会に生きる諸個人、それぞれの私的な生・生活・感情・理性・思想・喜怒哀楽・意志・信条・行動を持った諸個人の「群れ」・人々、ということでしょう。ここで、バルトはニーチェを引用して次のように述べています――「『君のそばを草を食みながら通りすぎてゆく家畜の群れを見よ』(ニーチェ)。しかし、君自身もその家畜の群れの一員であることを、思え」。
3)イエスは、この「群衆」を「支持し給う」・この「群衆」に「帰属し給う」。そして、そのために、インマヌエルそのものであるイエスは、「ゲッセマネとゴルゴタの孤独」に「赴き給う」。しかし、イエスは、「パリサイ人・律法学者」、そして「弟子たち」を「告発し叱責された」が、「群衆に対しては……そうされなかった」。
4)群衆なりの仕方ではあるけれども、「群衆」も「イエスを支持する」。しかし一方で、 「群衆」は、「バラバの放免」を叫び、イエスの「十字架」を叫ぶ。このことは、聖書においても、「群衆」は不定型をその存在様式として持っている、ということでしょう。したがって、そう叫んだ「群衆」も、再び「イエスの死後直ちに、……『胸を打』」ったし、イエスの処刑が決定されるや「否や取り消したい」という思いに駆られた。
 それでは、イエスが、こうした「群衆」・「群れとしての人々」を「支持し給う」のは何故か? それは、「エゼキエル書が語っているように」、「弱り果てて、倒れ」、「苦しみ、疲労困憊し」、「飼う者のない羊」・諸個人としての「群れ」・「群れとしての人々」・「群衆」を、「捜す者」も、「尋ねる者」もいないからである。すなわち、それは、「宗教的・世俗的な牧者たち、政治・文学・医学における牧者たち」・「見かけだけの牧者」たちしかいない、ということを物語っているでしょう。現在においても、その状況は変わらないでしょう。このことは、人間によっては、決して、諸個人としての「群れ」・「群れとしての人々」・「群衆」・人間の、全世界・全人類の、究極的包括的総体的永遠的解放・救済・平和は、徹頭徹尾全く不可能である、ということでしょう。言い換えれば、神性を本質とするイエス・キリストご自身が、神と諸個人としての「群れ」・「群れとしての人々」・「群衆」とを架橋し、その究極的包括的総体的永遠的解放・救済・平和を完了させる以外にはない、ということでしょう。しかも、このことは、神の側の真実、啓示の客観的現実性において成就される以外にはない、ということでしょう。そして、主格的属格としての「イエスの信仰」・イエス・キリストの「死と復活」によって、その救済・平和は成就され完了している、ということでしょう。したがって、バルトは、次のように語るわけです――「彼らが彼を支持するのは、彼らの思いや意図がどのようなものであるにしても」、そのあるがままで、「彼らが事実彼に所属しているからである」・イエスの「勢力圏内にいる」からである、と。それゆえに、イエスは、「その弟子たちに、『収穫は多い』と語り給う。したがって、彼は、『罪は大きい』とか「不信仰は甚だしい」とか「悲惨はひどい」とか、言われない」、と。このように、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、神性を本質とするイエス・キリストにおいて、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」わけです。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっては<いまだ>(≪「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ない」し、情念や怒りや哀しみ弱さや過ち等の完全な敗北・負も眼前に見ます≫)ですが、神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」としては、<すでに>(≪人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは 、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないし、人間における完全な敗北・負に対するイエス・キリストにおける完全な止揚・克服以外の何ものも眼前に見ない≫)ということであるわけです。したがって、私たちは、終末論的限界の自覚と共に、この終末論的観点、「イエスの目」、イエス・キリストそのものである「神の国の目」を必要とするでしょう。この観点・目からは、「弱り果てて倒れ」たままの人生・道を歩むことはできないし、「自分たちの罪・不信仰・悲惨の中で羊飼いを持たぬ羊のように衰えてゆくことはできない」し、「まだ彼を信じない人々がいるなどということ」はあり得ない。なぜならば、すべての人間、諸個人としての「群れ」・「群衆」は、神の側の真実としての啓示の客観的現実性において、すでにイエス・キリストとの連続性において存在しているからです。すべての人々に対して、そのあるがままで、イエス・キリスト「御自身が、(中略)『すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう』」、と呼びかけているからです。だからこそ、バルトは、私たちが「イエスと群衆について聞いた真理は、群集にも弟子たちにもしたがってまたキリスト教会にも依存しない」、と語るわけです。したがってまた、弟子たちやその反復としての教会(「新しいイエスの弟子たち」)とは、先ず以て「神の国に関して、また赦しの光と力に関して、まだ誰もそれを学びつくした者はない」から、そのことを「学ぶことを許された」学びの途上にある者として、「他の人々を、イエスに基づいて」、そのような「イエスの目」・「神の国の目」をもって諸個人の「群れ」・人々を眺め思惟し認識することを「学びつつある者たち」のことであるわけです。
5)「その実った穀物を刈るために働き人が少ない」、とイエスは言われる。このことについては、バルトは次のように述べています――「遺憾ながら、働き人でなく、なすべきことをしようとしない自称の羊飼、見せかけの羊飼、そのような人々ならば、沢山いる。しかし、必要なのは、そのような人々がさらに増加することではない。他の人々に、神の国は近づいたと語り、そのことであなた方はすでに救われていると語る者は、決してあのエゼキエルが述べているような戯れを今一度演じるようなものではないであろう。彼らは、働き人であろう。しかし、それゆえにこそ、彼らは、いつも少数者にすぎないであろう」。ここには、普遍的な真実があるでしょう。その証拠に、支配の側を主軸とした民主主義の多数決原理の欺瞞を持ち出す必要もなく、「いつの時代にも、多くの政治家や将軍、多くの詩人や思想家、多くの教育者や学者や神学教師、教会の大小の要人たちはいたけれども、『イエスは活きて支配し給う』『神の国は近づいた』という、人々のためにもっとも必要なこと・最上のことを彼らに語った者は、極めて僅かしかいなかった」からです。なぜならば、「真の教会の奉仕」は、「人が自分で獲得できることではない」にもかかわらず、すなわち「収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにして」もらわなければならないにも拘わらず、「そのことが、教会では、しばしば忘れられた」からです。そして、近代以降の教会は、特に、、「弟子たちの手と奉仕を通じて群衆全体が食べて満腹した」という給食物語(マタイ14・13−21)における奉仕ではなく、人間が自分の恣意性主観性自主性に基づいて管理するプログラムに従った限りでの奉仕に変容してしまっている、と言えるでしょう。現在、そういう神学者・説教者・著述家・教会が<多数派>を占めている、と言えば、神的側面としての教会(イエス・キリストの教会)ではなく、人間的側面としての制度としての教会の状況認識としては間違っていないでしょう。