「キリストとわれらキリスト者」――キリスト者・教会・キリスト教の基礎(その2) 了
5)イエス・キリストは、「われわれ」の「キリスト者という名」と「キリスト者としての存在の根拠であると共に目標」である。すなわち、キリスト者である、ということは、「自己目的ではない」し、「道の終わり」でもなく、「われわれの生活を通して示されるべき使いの役目(≪イエス・キリストの名前に仕える役目・自分自身がそのための「感謝の供え物」≫)であり、証人(≪イエス・キリストの名前の証人≫)の奉仕(≪神の憐れみ・インマヌエルの宣べ伝え≫)」の開始と途上性にある。しかし、この奉仕は、「われわれ自身が、小さなキリストであろう」とすることではない。このバルトの言葉は、イエス・キリストが神性を本質としていることに対して自覚的であるならば、私たちはあくまでもただの人間自身でしかないのですから、首肯できることでしょう。したがって、もしも、「われわれ自身が、小さなキリストであろうとするなら、禍である」、とバルトは語るわけです。したがって、神の憐れみ・インマヌエルが授与されたことに対する感謝の応答としての告白・証し・宣べ伝えの奉仕は、「誰も、他人の重荷を取り除くことも、また、その人が自分にするところの厄介も、取り除くことはできはしない」が、他者の重荷を負う行為である、とバルトは語るわけです(バーゼル刑務所での説教『カール・バルト著作集17 説教集下』)。ここに、「われわれの言葉と行為の比喩」による奉仕があると言えます。もちろん、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではありません。したがって、私たちのその「言葉と行為の比喩」は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基」づいてのみ成立している、と言えるでしょう。したがってまた、一方通行的な信・知の上昇過程しか持たない形而上学的な思惟や認識や発言や行為には、少し立ち止まって疑問符を付した方がいいのです。
さて、私自身は、上記の語り方は、バルトが人間の対自的意識に関わる言葉で「われわれ人間の間の伝達は――われわれが人間一般として互い相対立して立つ限り――事実いかに問題的であるかということを念頭におくならば」、「一体、誰が誰を知っているのであろうか」、誰が誰をその無意識の深層において知ることができるのであろうか、と述べた語り方と共に、好きですし、首肯もできます(『教会教義学 神の言葉』)。いずれにせよ、バルトにとっては、神性を本質とすイエス・キリストという名前のみが一切合切なわけです。このことは、神と人間との無限の質的差異、主格的属格としての「イエスの信仰」、「聖霊は、人間精神と同一ではない」(聖霊によって再生された理性も、聖霊ではない、あくまでも人間の理性である)、という事柄と共に、バルト神学に一貫して流れ続けています。このことはまた、バルトが、一切の近代<主義>および一切のカトリックやプロテスタントを含めた自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に抗したことを意味しています。それは、バルトが、不信とむなしさと不確かさと不安が蔓延した現在から未来に生きる信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を目指したからです。すなわち、唯一バルトだけが、全キリスト教内部にある課題・「自分自身の課題を正しく(≪本質的に≫)知っていない限り」、課題解決の方途とはなり得ないということをよく自覚していたからです。
6)「われわれキリスト者」は、市民社会の中で、それぞれの生・生活・職業・資質・感情・思惟・意志・喜怒哀楽を持った諸個人として、イエス・キリストを「かしら」とする、そしてそのイエス・キリストに仕える「信仰共同体」(イエス・キリストの「からだの肢々」)へと「集結」された人間存在である。また、この場合、神への奉仕は、人間への奉仕を包括し同在化・構造化しています。いずれにせよ、この「信仰共同体」は、人間の共同的規範や「熱情」や「敬虔」で構成された制度としての教会のことではないことは明らかなことです。シュライエルマッハーが述べたような、「ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体」・「敬虔性と関連した共同体」ではないことは明らかなことです。なぜならば、そこにおいては、信仰は、ただ単な「人間実存の歴史的存在の一つの在り方」でしかなくなってしまうし、人間自身の方から、イエス・キリストにおける啓示の第一次性を揚棄し、人間の自由な自己意識の無限性を神的本質とする近代的思惟・その認識・その原理・その世界観を第一次化して、神学者自身・説教者自身の「歴史」と「現在」を解釈する表現としての宣教・「自己表現としての宣教」・恣意的主観的なプログラムの宣教でしかなくなってしまうからである。そして、これらのことは、「実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われる」から、ほうんとうに、始末が悪いのです。
さらに、「キリスト者の信仰共同体も自己目的ではない」。なぜならば、イエス・キリストを「かしら」とする「信仰共同体」は、そのあるがままの不信・非知・「すべての人間」・この世に対して完全に開かれていなければならないからです。すなわち、「神への奉仕」(礼拝)は「人間への奉仕」(宣教)を包括し同在化・構造化させていなければならないからです。この奉仕に関しては、「『信徒』でない『聖職者』はいないし、『聖職者』でない『信徒』はいない」。
7)「われわれキリスト者」は、人間そのものであり、「天に向かって」、その「無感謝と強情さ」を叫んでいる「被造物」です。したがって、「われわれキリスト者」は、すなわちその「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは」、「この世でも、教会でも、……自分自身のもとでも、不十分さと災厄に充ちて御国の啓示に向かって進むまだ救われぬ世の中いる」者たちです。しかし、イエス・キリストにあっては、すなわちその「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは」、「われわれは、すでに慰められた者」・「苦しみのときにも絶望する必要のない者」・「この世の欺瞞や教会の不正や自分自身の愚行に時々刻々くり返し耐え抜くために、キリストによって十分たしかに支えられている者」のわけです。
8)イエス・キリストは、ただ慰め主であるだけではなく、先ず以て「勝利者」であり「希望」です。したがって、イエス・キリストの「信仰共同体」は、キリスト教が「聖金曜日」だけでなく「復活節」も持っていることを明らかにしない場合、「自分自身に対してだけでなく、神と人間に対しても、決定的な点で責任を果たさないことになる」、とバルトは語ります。なぜならば、私たち人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」イエス・キリストにある「復活の力」のみだからです。イエス・キリスト自身に対する私たちすべての人間・全世界・全人類の真実の罪のために、「イエス・キリストは人と成り、死んで甦り給うた」という「福音の勝利、恩寵の勝利」とは、私たち人間の、「真実の罪に対する神の勝利」であり、「律法を悪用する罪に対する神の勝利」であり、「不信仰の罪に対する神の勝利」だからです。この神のイエス・キリストにおける自己啓示こそが、私たち人間に対して、赦罪や和解や平和や救済について、私たち人間から「生ずる現実は何もない」、ということを自己認識させてくれる、とバルトは語るのですが、私自身は、このバルトの認識・信仰・神学の在り方を首肯します。ここにしか、何か非常に異様で不気味な明るさの背後にある不信やむなしさや不確かさや不安や思い煩いや悲哀ややり切れなさや失望や絶望が蔓延したこの社会・この世界にける、希望はないでしょう。わたし自身も、バルトと同じようにそう思えます。
したがって、バルトは、1)から7)までの事柄に、キリスト教的な「基礎」がある、と言うのです。