本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

「キリストとわれらキリスト者」――キリスト者・教会・キリスト教の基礎(その1)

 バルトは、「新しいキリスト者の群れ」・「新しい教会」の課題とその基礎について、次のように述べています。
1)マルクスは、「問題を明確に提起すること」は、「その問題の解決である」、と述べました(『ユダヤ人問題によせて』)。また、「人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題だけである。というのは(中略)課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめている場合に限って発生する」、と述べています(『経済学批判』)。もちろん、マルクスとは違ってバルトの場合は、その基礎・場所・拠点・源泉は、徹頭徹尾全面的な神の側の真実・インマヌエル、主格的属格としての「イエスの信仰」、イエス・キリストの「死と復活」、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)、イエス・キリストにおける啓示の客観的現実性そのものなわけです。 
 さて、日本においては、吉本隆明が日本における危機的課題を西欧的危機とアジア的・日本的特殊性との併存において把握しましたが、西欧においては、フーコーが世界史・人類史における尖端性の地域・世界普遍性を獲得した地域・「普遍性誕生の場」・革命・人間・社会という「西欧概念」の危機・終焉であると述べたのですが、バルトは「国家や経済や社会や個人的・社会的道徳の崩壊」、「文化と呼ばれて来たものの崩壊」、「生と喜びと快活さの全面的な崩壊」は、「基礎」そのものの崩壊を意味しているのだ、と述べました。そして、バルトは、この「全面的崩壊」から、キリスト者・教会・キリスト教も決して免れてはいない、と語りました。この語りは当然のこととして、誰も否定はしないでしょう。だからと言って、「われわれ」は、「政治的・文化的・道徳的・社会的」修復を声高に叫びそのことに邁進すべきではない、「キリストと大学」・「キリストと共産主義」・「原始爆弾の時代におけるキリスト」という主題に邁進すべきではない、「国家社会主義や民主主義」や法・政治的国家という主題に邁進すべきではない、とも語りました。すなわち、先ず以て「われわれ」は、キリスト者として、「自分の戸口の掃除をすべき」である、とバルトは語りました。なぜならば、「自分自身の課題を正しく(≪本質的に≫)知っていない限り」、すなわち「問題を明確に(≪本質的に≫)提起」しない限り、課題解決の方途とはなり得ないからです。
2)われらキリスト者という場合の、「われら」と「キリスト者」を架橋するものは何か? バルトは、神と人間の「共働」を目指したルターの「キリスト者は、既成の中にはなく、生成の中にある」という言葉を、「われわれは、キリストがわれわれをキリスト者たるべき召し給うということが起こるときに、キリスト者なのである」、というように翻訳しました。すなわち、「われわれ」は、「『既成』に属する」、「キリスト教的世界観」や「キリスト教的道徳」や家族・社会・国家のための「キリスト教的プログラム」を考えたり持っているから、また「カトリックであったりルター派であったり改革派であったりする」から、「キリスト者なのではない」のです。それらはすべて、「キリストの呼びかけとは、何の関係もない」のです。すなわちそうした「既成」的なそれらのものは、イザベラ・バードが、「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」、と評されても仕方がない水準のものなのです。したがって、バルトは、「われわれは、キリストが存在し生き行動し給うことによって――しかもそれがわれわれにも認識し認める(≪信仰する≫)ことができるように、(≪キリストが≫)存在し生き行動し給うことによって、キリスト者である」、と述べました。すなわち、「われら」と「キリスト者」とを架橋するすのは、イエス・キリストご自身である、と述べました。したがってまた、ここで、そのキリスト者とは「誰であり何であるかを理解するために」、「キリストとは誰であり何であるかを、問わなければならない」、と述べて、その問いに対する答えについて、次のように述べています――第一に、キリストは、「ひとりの人間ナザレのイエスであり、そのような方として神の言葉であり、神の言葉としてわれわれのために生き働き給う」。このことは、神の完全な自由さの中で、深き「憐れみ」をもって「われわれ」人間へと向かう神の他在性・神の「存在の仕方・神の子・神の言葉」(性質・行為・働き)としての、まことの人間であり・まことの神であるイエス・キリストのことを意味しています。第二に、キリストは、「神ご自身であり、この御言葉において、そのような御言葉として、われわれのために生き、力を持ち給う」。このことは、神の完全な自由さにおける神の自在性・神の「存在の本質・単一性・神性・永遠性」のことを意味しています。このイエス・キリストの神性性が、イエス・キリストによる「啓示および和解」の客観的現実性・有効性・力を保証しているわけです。したがって、バルトは、「キリスト者となる」ことに召された「キリスト者の存在とキリスト者という名の力」は、イエス・キリストの方からの、「私は汝のためにいる。そして、汝は私のものである」から、「私に従え、という語りかけ」・「呼び出し」・「召し」にある、と述べています。したがってまた、この「力」は、その「御言葉における神の力」であって、決して「われわれの力ではない」、とバルトは語るわけです。
3)バルトは、「われわれキリスト者」は、「同情」ではない、「神の真実で自由で過分で有効な憐れみが、注がれた」こと・インマヌエルを、イエス・キリストにおける啓示で知らされ知ったことに基づいて、「人間がすべて例外なしに(≪その神の≫)憐れみを必要としていること」、また「われわれがただ憐れみによってだけ生きうること」・「自分がより良い者でないこと」を知り知っている、存在である、と語ります。この認識・信仰の場所・拠点・基礎においては、「強い者・富んだ者・力ある者の誇りは終わ」り、「霊的人間・神秘家・道徳家・敬虔な者のあらゆる僭越も終わる」でしょう。なぜならば、その認識・信仰の場所・拠点・基礎において、「われわれ」は、「自分の存在の根源において、例外なくすべての人間と共に自分の罪と困窮の中にいる」ことを知らされ知るからです。したがって、「われわれキリスト者を他の人々から区別するものは」、先ず以て神の憐れみは「すべての人間の憐れみであって、単にわれわれキリスト者のためだけの」それではないから、「われわれ」はただ「キリストの呼びかけを聞いたということだけ」であり、「神の憐れみの栄光を、われわれの方でも経験しはじめるのを許されているということだけである」、ということが言えるでしょう。いわば、キリスト教信仰とは、その神の憐れみ、イエス・キリストにおけるインマヌエルに対する認識・信仰・感謝の開始のことである、と言えるでしょう。したがってまた、そのイエス・キリストを信じる者は、主格的属格としての「イエスの信仰」におけるイエス・キリストのみ前で、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」(マルコ9・24)と、素直に告白する以外にない、と言えるでしょう。ここでは、距離をとらずに近代<主義>を骨肉にまで受け入れた佐藤優のように、信じられないことを口にしてはいけないとか言う必要はないし、嘘ぶる必要もないのです。ここでは、正直に素直に、自分自身にもある無神性・不信仰を告白することができるでしょう。
4)バルトは、絶対化・宗教化された天然自然・一切の人間的自然・この世的な事柄一切からの自由の授与、すなわち、キリストによるわれわれキリスト者に対する「自由」の授与は、イエス・キリストの出来事においてこの「地上に開始された革命」であり、イエス・キリストがその都度の自由な決断において「彼に属する者たちに約束し給う聖霊の業である」、と述べています。したがって、バルトは、ある一面を・ある部分を絶対化・宗教化する一方通行的な形而上学に対して、「断固」として反対し拒否するわけです。すなわち、一切の「事物」・物事を、「過大評価も過小評価」もせず、「そのあるがままに評価」するわけです。終末論的限界のもとで、啓示の弁証法を貫徹するわけです。例えば、iPS細胞に関する科学や技術の進歩発達およびその知識の増大は、自然史的必然に属する事柄であり、停滞したり逆行したりすることはあり得ないでしょう。しかしそれは、人間によって対象化された自然・人間的自然でしかないものでしょう。したがって、私たちは、ヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果等を、人間的世俗的真理として正直に「そのあるがままに評価」し受け取ることができるわけです。
 さて、バルトは、ルーターの「私は、自分の理性によっても力によっても、私の主イエス・キリストを信じたり、彼の御もとに行ったりすることはできず、聖霊が福音を通じて私を招いてくださったのだと信じる」を引用しています。また、バルトは、『教会教義学 神の言葉』において、次のように述べています――救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての〈いまだ〉であり、神の側の真実である啓示の客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として、〈すでに〉ということである、と。啓示とは、「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことでしょう。この啓示は、「和解」という言葉・概念と一致します。それは、イエス・キリストにおける神の側からする「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味します。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」なわけです。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成概念は終末論的用語ですから、和解の概念と一致しません。救贖・完成は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性です。この「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」です。この「聖霊の時代」の中で、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末・救贖・完成)を考えること・待望することは過去(復活)を考えること・想起することであり、過去(復活)を考えること・想起することは未来(終末・救贖・完成)を考えること・待望することであると同時に、「成就された時間」(キリスト復活の四〇日)の前の過去を考えることでもあるわけです。