バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その6の5) 了
バルトは、先のユダの「引き渡し」と使徒的「言い伝え」の原型は、神的「引き渡し」である、と言います。その神的「引き渡し」に従って、神は、人間を、人間の内部の自然・破れた意志と生理的自然・「正しからぬ理性」に「渡し」、「その支配のうちに任せ」た(ローマ書1・18以下)。神は「天において引き渡し」、「使徒は地において引き渡す」。その「引き渡し」の対象は、「特定の人間」である。それは、偶像礼拝に向かった「イスラエルの先祖たち」であり、「自力的な知恵」に基づく「際限のない不道徳」・意志の破れである。ここでは、そうした「引き渡し」そのものが「刑罰」である。すなわち、その「刑罰」は、人間が神の「棄却」された者・「棄てられた者」となることである。したがって、「棄却」され「棄てられた者」に残された道は、ただ一つだけである。それは、人間を「棄却」し「棄て」去った神自身による和解と救済の客観的現実化のみである。すなわち、そのように「引き渡され」・「棄却」され・「棄てられた者」は、「救いのない深み」から、次のように「乞い求める」以外にはない――「棄てられた者の最後の言葉」も、神自身による・神の側の真実による和解と救済の「神の言葉」であり、和解と救済の「神の業であり続けるように」、と。そして、その和解と救済が客観的現実性として成就するためには、十字架上の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」というイエスの言葉と、イエスの「死と復活」を必要とする。このイエス・キリストにおける啓示は、「主の日」・「信仰の終末論的可能性を目ざしている」。すなわち、神的「引き渡し」の積極的意味は、この「終末論的可能性」にある。
このように述べるバルトにとって、終末論的なすでにといまだにおける、すなわちイエス・キリストの復活と再臨の中間時、和解と救贖・完成の中間時における、私たち人間が現存する場所における人間とは、終末論的限界と啓示の弁証法において、すでに「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、いまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にある人間のことです。このことを『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、こうなります――啓示とは、「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解」という言葉・概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖・完成は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性である。すなわち、未だ来ていなが、神の側の真実である啓示の客観的現実性としての現実性である。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である、と。イエスの人間への「引き渡し」の形態・意味・内容には、一方で罪・咎・汚れに満ちたユダによるイエスの「引き渡し」・「イエスのはずかしめ」と、他方で「使徒的奉仕」・「言い伝え」・啓示の「概念の実在」の反復による時間的連続性との連帯・「イエスに栄光が帰される」ことにある。
さて、神は、人間を、人間の内部の自然・破れた意志と生理的自然・「正しからぬ理性」に「渡し」、「その支配のうちに任せ」た、という「引き渡し」とは無限の質的差異にある「引き渡し」は、神の「言葉が肉体となった(≪神の言葉が、「人間の歴史」となり、「ほかの人間たちの間で一人の人間の歴史」・現実的現存性を持とうとした≫)という出来事」を「本来的」・「根源的」な「引き渡し」としており、「神ご自身がイエスを引き渡す」それであり、神性を本質とする「神の子そのものとしてのイエスが、ご自分を引き渡した」それである。そして、この後者の「引き渡し」が、「すべての引き渡しの必然性と力と意味」である。すなわち、この後者の「引き渡し」は、「わたしたちのため」・「わたしのため」のインマヌエルの出来事であり、イエス・キリストの「死と復活」・主格的属格としての「イエスの信仰」による神の義による、人間の「罪過」の除去、浄化・聖化・更新である。なぜなら、自主性・自己主張・自己欲求・無神性・不信仰・真実の罪という人間の罪過は、「神によってのみ赦されるものでなければならない」からである、その罪過の除去は神によってのみ・神の側の真実としてのみ成就されなければならないからである。この神の側の真実は、神が「ただ単に人間にだけ真実を示した」ことを意味しているだけではなく、神が神「ご自身に対しても真実であり続けたこと」を意味している。したがって、この他在(父・子・聖霊としての神の「存在の仕方」)であって自在(単一性・神性・永遠性としての神の「存在の本質」)である神の自由は、「神の完全な愛」の自由である。天然自然、人間的自然、人間の一切の罪過によっても左右されない、このイエス・キリストにおける啓示の出来事によって・この啓示の客観的現実性によって、信仰者の神の子としての「権利、自由、希望に対する前提」と、「教会がこの世と永遠にわたって神に栄光を帰す」ことの許可が成立する。すなわち、この人間の「高挙」は、「復活におけるキリストの高挙に負うている」――「イエスの引き渡しは、この世の、神との和解にとって欠くことの出来ない、罪からのきよめである。それは罪が決定的に追放されること、罪の赦しであり、またそれと共に神の国に門が開かれることである」。この賜物を前にしてなすべき「正しいこと」は、この出来事を、「わたしたちのため」・「わたしのため」(「あの棄てられたユダヤ人や異邦人たち、偶像礼拝に向かって放棄されたイスラエル、心の情欲に向かって放棄された異邦人、コリントの近親相姦者、ヒメナオとアレキサンデルと自分たちも連帯的であると考え……信じ、告白する場合のわたしたち」)に起こったこととして承認し受け入れることである。このイエス・キリストにのみ信頼し「固着」することである。「わたしたちの生の所有者、および主として、また教会の頭として」、承認し受け入れることである。すなわち、終末論的現実と終末論的限界の自覚が必要である。
したがって、使徒的「言い伝え」は、「本来的」・「根源的」な神的「引き渡し」の事実を「原型」・「範例」として持っている。なぜなら、使徒は「主の僕」であり、使徒が「宣べ伝えるものは、彼が発明した」ものではなく、「神によって造られ、置かれたもの」としてのそれであるからである。したがって、使徒の「言い伝え」・「引き渡し」は、「原型」・「範例」としての神的「引き渡し」の「模倣」・「反復」であり、その時間的連続への連帯となる。また、使徒の「言い伝え」・「引き渡し」の「内容と力」は、「イエスの信仰」の主格的属格としての「イエス・キリストの名」だけである。この場合、イエス・キリストにおける啓示の客観的現実性は、天然自然や一切の人間的自然、反神論・無神論・無関心、また人間の側から惹き起こされる恣意的主観的な「神の名において、神の呼びかけのもとに行われる」「反乱」・「反逆」によっても、左右されることはない。このことは、イエス・キリストの「死と復活」による、徹頭徹尾全面的な「人間の……無力化」を意味している。
さて、イエス・キリストにおける啓示の客観的現実性に照らしてユダの行為を理解すれば、それは、「神の御意と御業の一要素」であり、「ユダは自分が望み、なしとげたことによって、実は神がなしとげようと望まれたことをした」に過ぎなかった、というこができる。また、その場合、ユダの行為は、ユダ的「人間の断罪」、「ほかのすべての人間に下される断罪の意義」、「サタンの国」としての「人間の世界」、「間違って使われた」恣意的主観的な「被造者的自由の国」、「創造者の意志に逆らう敵意の国」、「創造者の業に反抗する国」であることを確証した、ということができる。ユダのこのイエスの「引き渡し」は、神的「引き渡し」をその内容と対象としている人間的な使徒的「引き渡し」と違って、神的「引き渡し」と人間的「引き渡」が同在している。すなわち、人間的「引き渡し」(人間的な「自覚的」・「自発的罪」)が起こるや否や神的「引き渡し」も起こっている。いわば、神の「引き渡し」は、この人間的「引き渡し」を用いて、「全面的」に、「徹底的」に、その人間的「引き渡し」を包括し止揚し克服しているのである。また、「旧約の予言の成就」としてのユダのイエスの「引き渡し」の行為は、「イエス・キリストが、棄てられたイスラエルのためにも死なれたことを明らかにする」のである。ユダは、「イエスから彼に分与される優越、光輝。規制のもとでしかうごきまわり、体をのばすこと以外出来ないのである」・「その悪しき行為も、いつもイエスの救いにみちた行為と関係させられている」のである。『教会教義学 神の言葉』には、こうあります――イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する。
「棄てられた人間」・「選ばれなかった人間」に対して神が「望み意図していること」は、彼ら・彼「神の御前に、棄てられた者として独立した存在を持っているのではない」から、すなわち、誰であれイエス・キリストとの連続性の中において存在してのであるから、彼ら・彼が「福音を聞き、そのことによって彼の選びの約束をも聞くことを望んでおられる」。したがって、彼ら・彼に「この福音が宣べ伝えられることを望んでおられる」。「神は、棄てられた者が信ずること、また信仰者として、選ばれている『棄てられた者』となることを望んでおられる」。了