本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その6の4)

 バルトは、さらに続けて、次のように述べています。 
 ユダにおけるイエスの「引き渡し」――それは、「イエス・キリストの選びに基づく」、「全面的献身」をなしたベタニアのマリアとは異なった、ユダのその「悪しき行為において事実上遂行された」、使徒職と教会にもある、神だけでなく人間もという人間の自主性・自己主張・自己欲求・無神性・不信仰を前面化させる「きよくない部分」の課題を露見化させ顕在化させる、「協力作業」である。こう述べ得る根拠は?
1)イエスに選ばれ召された使徒団、すなわちイエス・キリストの教会の「真唯中から」惹き起こされたユダの罪・咎・汚れである、イエスの自由を敵に売る「移し渡」し、イエスを「見捨て」・「敵に渡し」・敵の恣意的主観的な「敵対的判断」に任せる裏切り行為についての新約聖書の根本概念は、「『引き渡し』という概念」にある(バルトは、この概念の本来的意味を、マタイ5・25および18・34、マルコ1・14、マタイ4・12、マタイ24・10等で例示している)。新約聖書においてユダは、この「系列」・系譜全体の「最初の」人物として登場している。なぜなら、ほんとうは、イエスに選ばれ召された使徒職、「教会の使徒職の前提」は、「イエスを人間の力の下に置くためでなく、人間をイエスの力の下に置くためであり、イエスを罪人に引き渡すためではなく、罪人をイエスに引き渡し、『すべての理性をとりこにしてキリストに服従させる』(Uコリント10・5)ためであり、従ってイエス・キリストの自由をこの世に確証し、輝かせ、神の国の宣教に開かれた道を備えるためであるからである」。したがって、ユダの「引き渡し」の行為の意味・内容は、一つには、「この世のすべての権威と栄華」を「引き渡されている」(ルカ4・6)悪魔の主権の「巨大な虚偽に仕える『引き渡し』」にある。
2)ユダの「引き渡し」の第二の意味・内容は、イエスに選ばれ召された使徒職、教会の使徒職、使徒的奉仕に現存する課題についての露見化・顕在化にある。言い換えれば、使徒的奉仕の在り方の明確化にある。バルトは、聖書に基づいて使徒的奉仕を、次のように述べています――それは、「イエスに関する知識、彼の言葉や行い、彼の死や復活に関する告知、教会の実存と秩序に関するイエスのうちに明らかにされた神の御意等を、これらすべて等を原初的に受け取った最初の人間の手から、忠実に、完全に、また変更せず、縮小もせず、第二の手に、それを原初的に受け取らなかったほかの人々に、後代の人々の手に移し与えていく」(「引き渡し」ていく、そしてそういう仕方で教会が建てられていく)点にある。この意味で、この「引き渡し」は、「主の受け入れ」である(ヨハネ1・11)。この「主の受け入れ」とは、「わたし自身、主から受けたもの」を、「あなたがたに伝え」ることである(Tコリント11・23)・「わたしがあなたがたに伝えたのは」、「わたしも受けたもの」である(Tコリント15・3)。したがって、次の信仰世代・教会における「主の受け入れ」も、「わたしたちから受けた教え」を「受け入れること」にある(Uテサロニケ3・6)。バルトがこう述べるのは、人間は人間の自主性・自己主張・自己欲求・無神性・不信仰を手離すことができず、「人間のいましめを教えとして教え」(イザヤ29・13)・「神のいましめをさいおいて人間の言い伝えを守るために、……神のいましめを捨て」(マルコ7・8−9)・「自分たちが受けついだ言い伝えによって神の言葉を無にしている」(マルコ7・13)、という聖書の言葉に基づいています。要するに、バルトが言いたいことは、次の事柄にあります――神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示=イエス・キリストの名=啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」においてあり、またこの啓示の「概念の実在」は、その「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)においてある、ということです。このことをバルトは、『教会教義学 神の言葉』においては、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である、と述べています。したがって、その啓示の「概念の実在」およびその時間的連続性に連帯することの不可避性の重要性を述べているのです。このことは、世界思想一般がそうであるように、オリジナルな神学思想というものもない、ということを意味しています。バルトのこの言い方は、全く正しく首肯できるでしょう。このことは、世界思想一般においても、マルクスの「歴史とは個々の世代(《個体的自己の成果の世代的総和》)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力を利用(《媒介・反復》)する」、という言い方を全面的に首肯できるのと同じです。このマルクスの言い方は、ひろがりも持っています。なぜなら、市民社会の経済的カテゴリーである「材料、資本、生産力」の概念は言語、性(夫婦・家族)の概念に置き換え可能だからです。いずれにせよ、神学における思想家でもあるバルトは、そのイエス・キリストにおける啓示の「概念の実在」の歴史性(時間的連続性)を媒介・反復するという仕方で、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程(《客観的な信仰告白と教義》)の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」、それと連帯したのです。もちろん、一方でバルトは、ある社会構成・支配構成・文明・文化の時代水準の只中で生き生活し感情し喜怒哀楽し信仰し思惟し神学し意志し実践しているわけですから、その信仰・神学に、個性や時代性を刻んでいきました。
3)パウロは、本来的な使徒職の在り方を指し示した。すなわち、パウロは、「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」というイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執することにおいて、不可避的に「彼が本来受けた知らせを、彼の手から、彼ら読者の手へ、さらに引き渡していく」というその時間的連続性に連帯していく・「引き渡し」と「受け入れ」、「受け入れ」と「引き渡し」というその時間的連続性に連帯していくその在り方の重要性を指し示した――キリストと教会の関係(Tコリント11・2以下)・聖晩餐(Tコリント11・23以下)・イエス・キリストの復活の証言(Tコリント15・3)の聖書記事から。「わたしがあなたがたに伝えた(≪引き渡した≫)ことは、主から受けたことなのである。すなわち主イエスは、渡される(≪引き渡される≫)夜、パンをとり、感謝してこれをさき……」(Tコリント11・23以下)――この「二つの『引き渡し』」は、すなわち、「パウロがユダの影のうちに置かれ、ユダがパウロの光に置かれる」というこの「正反対の性格」の「引き渡し」の意味・内容は、「ユダとユダヤ人」が犯した「神の言葉と戒めを棄て、除き、無効」にする罪・咎・汚れ(使徒の棄却)としての「引き渡し」を背後に持っていない「使徒の『言い伝え』」はあり得ないということであり、しかしそれは、そのユダとユダヤ人が犯した「引き渡し」における「不従順、不真実な行為」は、先ず以て「イエスの死と十字架に基づいて」、「教会を全世界に生み出す、使徒たちの『引き渡し、言い伝え』によって、新しく取り上げられ」ていく以外にはないということであり、そしてまたそれは、不可避な時間的連続性においてあるということでしょう。
4)パウロも「神の恵みによる言い伝えの行為において今あるところの者であるという事実」こそが、「ユダを義とするものである」、「棄てられた者の選びが、その棄てられたことを上回る勝利である」、「神の恵みを捨てたイスラエル、不従順なイスラエル全体を義とするものである」、「教会のうちに義しい成就を見いだす、選ばれた神の民という形を持ちまた保つものである」、「一方でイスラエルの断罪を確認しながら、イスラエルを義とする」ものである。また、それは、「イエス・キリストご自身と共に、教会が生まれ出てきた根であり、また根であり続ける」、終末論的な「イエス・キリストとその教会における、きたるべき現実」の、「影であり、また影であり続ける」。したがって、それは、神の側の真実であるイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)の完全な開放性、すなわち神の恵みの完全な開放性である。したがってまた、それは、そのあるがままでの信の完全な開放性である。言い換えれば、それは、ユダの「回心……を抜きにしても」、「その全否定性においても」、「ユダにも開かれた……宣教であり、彼にも語りかけられる招き、勧め、願いである」。このイエス・キリストにおける啓示の客観的現実性の場所においては、ユダも、「単に否定的な姿」で終焉するのではなく、「積極的な姿」に転換させられる、ということでしょう。

 

  神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ―これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ3 ・22 、ガラテヤ2 ・16等の「イエスの信仰は 、明らかに主格的属格として理解されるべきものである )。『福音と律法』
  「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば 、〈私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく 、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ 〉ということである )」(ガラテヤ2・19以下)。(前掲書)