本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その6の3)

 このことは重要な点ですが、バルトの場合、どの著作も、次の場所で論じられています。
1)神と人間との無限の質的差異において、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=イエスの死と復活=イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=イエス・キリストにおける啓示の客観的現実性=啓示の実在が、第一次的なものである。
2)この啓示の実在、救済史、永遠は、人間が人間的に所有する人間の啓示認識、歴史、時間の外・彼岸にある。
3)神の言葉は、三位一体論の唯一の比論としての神の言葉の実在の出来事=「神の言葉の三形態」、すなわち人間に向かって語られる神の自己啓示=啓示の実在そのものと、また「聖書」の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(聖書と教会の成果とその時間的連続性)においてあるから、私たちは、1)と2)の事柄を踏まえて、1)と2)の事柄を自覚して、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程(《客観的な信仰告白と教義》)の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」、それと連帯する必要がある。そして、一方で、個性や時代性も刻んでいく。したがって、この『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』も、詳細な聖書釈義とテキスト批評に基づいて、またバルトのその信仰・神学の認識方法および概念構成や思想性や文学性を駆使しながら展開されています(翻訳書をお読みください)。
 さて、バルトは、すべての使徒たちに対するイエスによる洗足を、次のように述べています。それを、簡潔に整理すれば、次のように言うことができます――ユダは、「使徒たち全体の汚れた足」の比喩表現である。「汚れた足」の具体化である。すなわちユダは、「反抗的な、失われたイスラエルと共に、従ってこの世と共に共有していた」、「起源」としての「教会」の比喩表現であり・具体化である。「ユダと違って頭と手がきよいほかの」使徒たちも、「足はユダに劣らず汚れていたから」、すなわち「ユダと共に、咎をもち」、恣意的主観的ににではなく客観的に「きよめられることを必要」としていたから、イエスは、すべての使徒たちに、使徒たち「そのものに」、「最後まで」・「最高度の完全さ」で、洗足(「洗浄」)の奉仕を行わなければならなかった。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15・5)。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(ヨハネ15・3)。この洗足は、「上からの面では」、イエスの「死の接近」と、その死に「相応する父なる神への帰還」、「下からの面では、ユダのサタン的可能性の現実化」の開始、「イエス御自身の内部においては」、「徹底的な力の充満の意識」と、その力によるすべての使徒に対する「最後まで」「最高度の完全さ」で「余すところなく包む愛」の意志、という「危機的瞬間」において行われている。
 この洗足の仕方は、聖餐の仕方と同じように、使徒たちと教会に対して、「イエスの死によって仲介され、贈られるものを予想している」。「わたしのしていることは、今あなたにはわからないが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13・7)。それは、イエスの「死において力強くなり、……復活において啓示され展開される」「最後まで」「最高度の完全さ」で「余すところなく包む」「愛の完成である」。イエスは、「聖晩餐において予想され、あらかじめ示されたように、彼らが食べるために彼の体を与え、彼らが飲むために彼の血を与える」。すなわち、「自分自身を贈る」。この時、そのことによって、イエス自身が「彼らのうちに生き、彼らは」イエス自身によって「生きる」。このことは、次のことを意味するだろう。

 

  「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば 、〈私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではな 、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ 〉ということである )」(ガラテヤ二・一九以下)(『福音と律法』)
  人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ―これが神の恩寵である。(前掲書)
  われわれは 、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより 、またイエス ・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより 、(中略)この主とかしらのもとで 、またこの主とかしらとともに 、……これからは神の義 、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される 。 (『ローマ書新解』)

 

 イエスは、聖晩餐においては「そのパンと葡萄酒を分ける家の主人」であるが、洗足においては「御自分を彼らの奴隷とする」。この洗足において、イエスは、「僕のかたちをとり……、おのれをむなしうした」(ピリピ2・7以下、新共同訳フィリピ)。このイエスは、「ベタニヤのマリヤの原型として示されている」。そして、「理解しがたいほどの謙卑のうちに行われる」この僕・奴隷としての奉仕は、「主」としての神性を本質とするイエス・キリストのみが「なしうる奉仕であり」、すべての使徒が「最高度に必要としている奉仕」である。すなわち、このイエスによる洗足は、「すでに頭や手がきよめられている者」も、「選ばれ、召された使徒ペテロも」、「選ばれ、召された使徒ユダと全く同じように」、先ず以ては「イエスの死を必要」としていることを意味している。究極的には、すべての使徒の「浄化・聖化・更新」のためには、イエスの「死と復活」、すなわち「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の同在的な成就を必要としている。言い換えれば、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」=イエスの「死と復活」=啓示の客観的現実性における、すでに(和解の現実性)といまだ(未だ来ていない終末における救贖・完成の現実性)の同在的な成就が必要である。したがって、すべての使徒は、この場所でしか、「何一つできない」(ヨハネ15・5)。しかし、このイエスの奉仕と同時に、ユダはイエスを「引き渡しに導いていく」道に向かって歩みを進めていく。すなわち、すべての使徒は、「イエスの語られた言葉によってきよめられ」、「イエスの枝であっても」、またイエスによって「『この世にある』頭や手をすでに洗っていただいたとしても」、「イスラエルの本質とイスラエルの行った棄却に密接に関与」して存在する、存在し続ける。この「イスラエルの本質」と「イスラエルの行った棄却」とは、神だけでなく「自分の足で立とうという傾向」・人間の自主性・自己主張・自己欲求・無神性・不信仰・真実の罪のことであって、ペテロの場合も「少しもユダに劣」ってはいなかった。ペテロのとっても、ユダと同じようにマリアのイエスに対する「全面的献身」は、「見馴れぬこと、異様なこと」・市民的非常識に思えることだった。このことは、「使徒団全体(≪イスラエル、この世≫)が持っている根本的欠陥」であった。この根本的欠陥・罪・咎・汚れは、徹頭徹尾全面的に、決して自分では「改善できず」、ただ「浄化・聖化・更新」の根拠であるイエスの「死と復活」によってのみ、「赦される以外にはない」、「罪そのもの」・真実の罪である。したがって、「選ばれた者」とは、「棄てられた者」であり、また「棄てられた者もとして選ばれた者」のことである。
 ユダのイエスの「引き渡し」の行為は、ユダだけでなく他のすべての使徒にも誰にもある、その基層における「隠されていたもの」の表現形態である。イエスの「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」(ルカ23・34)という「きわみまでの愛」・「最後まで」の「最高度の完全さ」の愛・「完全な愛」は、ユダの罪・咎・汚れを包括し止揚し、それに勝利している。そうだとしたら、「「彼らのうち、誰も滅びず、ただ滅びの子だけが残りました」というユダに対する「最後的証言」は、イエスの死のこちら側、「福音と律法」の「真理性」における死のこちら側で終わっている事柄として、「イスラエルによって破られた、古い契約の領域のしるしのもとに」置かれた事柄である、と言うことができる。したがって、イエスは、ユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」、と言われた(ヨハネ13・27)
 一方で、イエスは、その「対向」性において、「ユダのために存在し、彼のために御自分を全く投げ出され、彼の足を洗い、御自分の引き裂かれた体、流された血を彼に差し出し、御自分を彼のものとし」、「疑いもなく実にユダのために、立って」いる。他方、ユダは、その「対立」性において、そうしたイエスに対して、「疑いもなく……逆らって立って」いる。イエス・キリストの恵みは、「ユダに対しても何の制限」も設けてはいない。その恵みは、完全に開かれている。すなわち、「聖晩餐や洗足においてユダにも分け与えられる神の愛」・神の選びは、「完全な、無制限な約束」である。ほんとうは、神から遠ざかり・遠ざかり続けている、また罪を新たな罪を犯し続けている私たちは、その「棄てられた者に向けられる」神の愛に対して、「自分がその愛に価しないものを証しできるだけである」。この「対向と対立」は、宣教状況を指し示している。したがって、この意味において、ペテロも、教会と教会員一人一人も、「ユダの人格と行為」において明らかにされている棄てられた者のこの「神的な規定」、この「対向と対立」に自覚的である必要がある。使徒職が「イエス・キリストの選びと恵み」による「宣教のための」職である限り、「使徒職と、使徒職の上に築かれた教会」が、ユダの人格と行為のために「『救われるべき全イスラエル』(ローマ書11・26)であることを止めてしまうということにはなりえない」。
 さて、「イエスの死と復活後」、「受け取られた罪の赦しにふさわしい形体」は、「ベニヤミン人サウロ」である。旧約聖書のベニヤミン人サウルがダビデを迫害したように、新約聖書のベニヤミン人サウロは「『神の教会』を迫害する」(ガラテヤ1・13、Tコリント15・9)。そのサウロの「行動の真最中」にイエスの方からサウロと出会い、「サウロ、なぜわたしを迫害するのか」のイエスの言葉によってサウロは「特別な使徒職を委託される」。「サウロとしてのパウロは、(中略)成立し始めてきた教会に対して、ちょうどイエスに対するユダによって具体化されたイスラエルの、悪しき目を具体化するものであった」が、「今や」、パウロの目は、悪しき目の盲目状態を経て、「真理に対する正しい目として」「開かれる」。すなわち、パウロは、神の恵みにより「ユダの再生」としてのパウロ・「ユダの後継ぎとしてのパウロ」として更新されたのである。この更新によりパウロは、旧約聖書における「異邦人、この世に対する光」として「イスラエルの規定」性をみたす、「新しい、従順なイスラエルの具体化となった」。なぜなら、パウロの「特別な使徒職」は、「イスラエルのメシヤ」を、「異邦人」・「この世」に「連れてくること」にあったからである。すなわち、パウロのそれは、「イエスを異邦人に引き渡す仕事を完成する」ことにあったからである。ただ、ユダとの根本的で究極的な差異は、パウロの場合は、ユダとは違って、「イスラエルの召命と派遣」に対する「不真実のうちに」ではなく、「真実さのうちに」、「イエスを殺すためではなく、この殺されたはしたが甦えらされたイエスの主権を全世界に打ちためるために」のみ、イエスを「引き渡す」という使徒職を全うした点にある。
 ユダの使徒職の補充は、「法的には」「マッテヤ」によってなされたが、「事実上は」パウロによって「補充された」。なぜなら、イエスの死の前において、「パウロの場所を占めていたのは、まさにユダにほかならなかった」からである。「ユダが棄てられることは」、「使徒全体、イスラエル全体が棄てられることの啓示としてのみ理解されうる」。なぜなら、その死においても、使徒全体の中で「ユダだけがイエスに相対して、イエスと並んで立っているからである」。ただ、ユダの死は、「贖いの死」では全くない、「罪の支払う報酬としての死」、「全く希望のない」・「非生産的な死」、「従順な者の死ではなく、死においても不従順な者の死」、「死においてさえ自分を、自分自身に対する裁き手として主張する者の死」である。このユダとパウロの関係において、「棄てられた者」を規定する場合、私たちは、「選ばれた者は誰でも」、「棄てられた者であった」ということであり、「選ばれた者の業」は、徹頭徹尾全面的に、イエス・キリストの死と復活の力による、「棄てられた者」の「浄化・聖化・更新」、「転換」でしかないない、というように言わざるを得ないでしょう。