本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その6の2)

 異端性の問題は、信仰の外、神学の外、教会の宣教の外、キリスト教の外、の問題、他人事の問題ではありません。クラッパートは、『バルト=ボンヘッファーの線で』において、パンネンベルクが、バルトの神学の前提は「啓示実証主義」・「主観的な経験に基づく啓示の主観的要求」・「啓示の主観主義」にあると批判している、ということを書いています。この批判を、喜田川信の『歴史を導く神――バルトとモルトマン』におけるパンネンベルク論を絡めて考えれば、次のように言うことができると思います。
1)まず以て私たちは、この「啓示実証主義」者バルトという概念等が、バルト自身の言葉・言説・「頭に存在したものではなくて」、あくまでもバルトについての「評論」を「書いたりした人々の頭のなかにのみ存在していた」悪意ある造語である、ということを知っておく必要があります。近代以降における宗教は、部分でしかない科学を全体とする科学主義(絶対主義)にありますが、パンネンベルクは、人間にとって部分でしかない理性を全体とする立場から、イエス・キリストの復活を理性的合理的に歴史的現実として根拠づけるために、言語を介して人間によって対象化された後期ユダヤ教の黙示文学の復活信仰伝承の歴史性とイエス・キリストの復活伝承を第一次的なものとして持ち出すのです。したがって、パンネンベルクにおけるその伝承は、対象化された人間の理性・思惟であり、その「伝承の連鎖」は人間の理性・思惟によって対象化された伝承の歴史性であるわけですが、パンネンベルクはそれらを第一次的なものとして持ち出すのです。この歴史認識の方法においてパンネンベルクは、バルトに対して、バルトは「啓示の主観主義」だ、と悪意ある皮相的な批判をしたのです。しかし、そのパンネンベルクの認識方法および概念構成は、まさしくフォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの・ハイデッガーの批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものの位相にあるものでしかないのです。それに対して、バルトは、復活を啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて認識し信仰します。すなわちバ
ルトは、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」の歴史的連続性において認識し信仰します。それだけでなく、バルトは、ハイデッガーやフォイエルバッハの正当性のある根本的な批判を、終末論的限界等の概念や啓示の実在・救済史は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義・歴史の彼岸・外にある、等々というその神学の認識方法および概念構成によって包括し止揚しているのです。このことがパンネンベルクには理解できないのです。このように、パンネンベルクの批判が皮相的であるのは、バルトの「超自然な神学」のその認識方法および概念構成それ自体を根本的に包括し止揚していないからです。したがって、パンネンベルク自身が、「啓示の主観的要求」・「啓示の主観主義」という自分自身の言葉によって復讐されなければならないのです。
2)パンネンベルクは、「〔道端の〕石さえも語るのであるから」、直接的に「人間が神について語るというのはまったく自明のことなのである」。「他の諸宗教をフォイエルバッハ流に説明し、キリスト教は例外だとするようなやり口の(バルトの)戦術」は、「結局のところキリスト教神学それ自身を台無しにしてしまう」。「無神論的宗教批判との対決は、人間論のレベルと哲学的論証によって為されなければならない」、と述べたことも、クラッパートは書いています。私は、この質の悪い皮相的で悪意に満ちた批判しかできない神〈学者〉パンネンベルクにただ呆れ驚きました。また、そのような神学は状況そのものが全く許さないですから、したがって、それでもまだこのようなパンネンベルクを称賛している神学者や牧師や著述家がいたとしたら、私は呆れ驚きます。それは、ちょうど現在でも状況が全く許さないモルトマン神学を担ぎあげる神学者や牧師や著述家がいたら呆れ驚くのと同じです。パンネンベルクに対して呆れ驚くその理由は、次の点にあります――第一に、バルトは、「他の諸宗教をフォイエルバッハ流に」に説明してはいません。すなわち、バルトは、他の諸宗教を対象としているのではなくて、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのもの・ハイデッガーの批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものである一切の自然神学の系譜に属する信仰・神学群・教会の宣教・全キリスト教にある根本的な問題を論じているのです。第二に、バルトは、キリスト論的に一致しているか一致していないかという「異端」性の問題は、他人事ではなく、全信仰・全神学・全教会の宣教・全キリスト教の「信仰の〔一つの〕可能性」として存在しているということ、「教会の外の可能性ではなく、……教会の内部での可能性」として存在しているということを語っているのです。第三に、バルトは、キリスト教における啓示認識の根拠は、「教会の存在」・「教会がなす行為の基礎」・「教会の主」である<神性>を本質とするイエス・キリストであるということを語っているのです。そしてバルトはそのことを、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく人間の啓示認識、それに依拠した啓示の比論を通した人間の自己認識、聖書証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」、神の秘義性、神の不把握性、終末論的限界、というその神学の認識方法および概念構成において語っているのです。第四に、バルトは、神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執する神学の往還思想において、信と不信、キリスト者と非キリスト者、知と非知とを架橋し、その枠組みを取り除いた場所で、そのあるがままの不信・非キリスト者・非知に対して、その信・キリスト教を完全に開いて語っているのです。したがって、バルトの場合は、パンネンベルクのように声高に「無神論的宗教批判との対決は、人間論のレベルと哲学的論証によって為さ」なければならないと言わなくてもいいのです。これらのことを理解できず、神学における往還思想だけでなく人間学的領域においても往還思想を持たないパンネンベルクが、「人間論のレベルと哲学的論証によって」根本的に無神論的宗教批判と対決できるわけがないのです。このことは、状況論的にも知識的にも、人間学の後追い知識でしかない人間学的神学に、人間学に対する神学の優位性がないのと同じです。
 さて、ユダは、「イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして」(マタイ27・3)、「≪わたしは罪のない人の血を引き渡すようなことをして、罪を犯しました≫」(マタイ27・4、バルトは新約聖書におけるユダの咎であるこの根本概念の「引き渡し」について第2部で後述しています)、と「未来喪失」の「自己審判」としての死を伴う後悔をしていることから、私たちは、ユダがイエスの十字架の結末までは考えていなかったことを知ることができます。しかし、当然にも、そのユダの行為は、罪・咎・汚れであり続けます。この場合、「心からの悔い改め、罪の告白、行為による充足」は、先ず以てユダとイエスの間に「客観的に、取り返しのつかぬものとして起こった事柄」、すなわち、ユダのその「行為において」、「ユダ族は、自分たちに約束され、……贈られたメシヤを棄ててしまったことを証明する」「取り返しのつかぬ出来事」、また「使徒全体も、メシヤを棄ててしまったことについて同罪とされる」「取り返しのつかぬ出来事」として捉えかえす・認識する・自覚する点にあります。そのことは、イスラエルよっては、またユダ自身によっては全く不可能でしょう。そして、そのことは、ユダ以外のすべての使徒によっても、教会によっても、一切の天然自然や一切の人間的自然によっても、全く不可能でしょう。このことから私たちは、ユダのその罪・咎・汚れが心からの悔い改めとして成立し可能となるためには、すなわち「浄化、聖化、更新」されるためには、<神性>を本質とするイエス・キリストの死と復活を必要とする、ことを知ります。神の側の真実としてのみ為された神性を本質とするイエス・キリストにおける、「福音と律法の真理性」の「現実化」、すなわち「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の同在化・成就を必要とするでしょう。いずれにせよ、先ず以ては、「もし万一可能となるとすれば、それはただ(中略)イエスがその死において、全世界の罪のために、従ってまたイスラエルの罪のために、従ってまたユダの罪のためにも、成し遂げ給うた、本来の事態改善の力によってのみ可能となる」でしょう。そして、その神の恵みの現実化は、「イエスの復活」を待たなければならないでしょう。したがって、イエスの死と復活の出来事の成就のこちら側における、イエスの棄却を遂行したユダの悔い改め、すなわち「マリヤと違って、来るべき和解にあずかることを初めから断念していた」ユダの悔い改めは、まだなお依然として、「棄てられた悔い改め」でしかないわけです。
 このように、ユダは、使徒としても、教会においても、「未来喪失」の代表であって、教会において「将来」・未来を持つのは、マリアのその存在・その思考・その実践に代表される「使徒職」・教会だけである、ということが言えるでしょう。バルトは、ユダが自分で買った地所に「まっさかさまに落ちて、腹がまん中から裂け、はらわたがみな流れ出てしまった」(使徒行伝1・18)について、新約聖書において「はらわた」は「はっきり外に表された、人間の最も内面的なものにほかならない」から、ユダは、「自分自身によって」死んだのではなくて、「自己審判」として「自分自身に」(バルトは、「に」に強調点を付しています)「死なざるをえなかった」、と述べています。言い換えれば、ユダのように、「イエスを殺す者」は、「自分自身をも殺す」、と述べています。この意味で、バルトは、「ユダはまさに事実上、使徒団と教会の真唯中におけるイスラエルの代表として『滅びの子』、サタンがはいりこんだ者、いや悪魔ですらある」、と述べています。
 この場合、「一体神は棄てられた人間に関して」、「何を欲し給うのか」「何を定め給うたのか」? 先ず以て、ユダのしたことは、それ以外の使徒においても可能性としてあったし、ある、という点が重要だ、というわけです。なぜなら、ユダの罪は、その存在・その思考・その実践におけるマリアとの比較対照において明らかにされたわけですが、その付随記事でマタイではマリアに憤慨したのは「弟子たち」になっており、マルコでは「そこにいた何人か」となっているからです。ユダだけでなくすべての使徒は、「イエスの要求」=「全面的献身(≪ルカ10・41:マルタ、……あなたは心を乱している。……必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ≫)に対し、自分なりの計画と判断にもとづいて造り上げられた、使徒としての追従という敬虔な意図のもとに隠れて、詐欺や盗人のように身を引くこと」の可能性の内にあるわけです。したがって、このことは、現存する全信仰・神学・教会の宣教・キリスト教においても然りなわけです。聖書に依拠したこのような啓示認識、啓示の弁証法、神学における思想が重要なわけです。そうでない場合は、近代以降はすぐに、次のような事態を惹き起こします。

 

  ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであ
 るが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(《彼 の対象化された自己意識の意味的
 世界・彼の管理するプログラム》)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された
 支配行為に過ぎなかったので ある。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出され
 た救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように 心
 から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることは
 ないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないの である。そのような救いの計画と救い
 の方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われると
 いうことは、疑いない。(カー ル・バルト『啓示・教会・神学/福音と律法』「啓示・教会・神学」井上良雄
 訳、新教出版社)

 

 このことから、イエスの洗足を理解することができる、とバルトは述べていますが、そのことについては、次回に展開します。