本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その6の1)

第1部:イエス自らが「選んだ」(ヨハネ6・70)使徒(召命、任命、派遣された者)の一人としてのユダ(イエスと同じユダ族)、およびユダの罪について

 

 バルトは、次のように述べています。
新約聖書におけるユダについての主調音は、「予定された働きをもった予定された人物のように登場する」点にある。「あなたたちのうちには信じない者たちもいる。」「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるのか、また、御自分を裏切る者がだれであるのかを知っておられたのである」(ヨハネ6・64)。そして最後にイエスはユダに向かって、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13・27)と言われた。したがって、バルトは、ヨハネ6・68以下について、ペテロだけでなくユダも「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」と、主観的に真実の告白をしている場合、それは裏側に不信を隠し持た位相のものであって、ただその「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限り」においてのみ、「客観的に真実」である、と述べています。

 

  「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じ
 る信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれ ば、私は決して神の子に対する私
 の信仰に由って生きるのではなく 、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ 〉ということである)」(ガ
 ラテヤ2・19以下)。(中略)自 分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦り
 と永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実では
 ない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生
 まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主 イエス・キリストが、彼にとってもその主
 であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである (『福音と律
 法』)。

 

 したがってまた、新約聖書が伝えているユダは、「一人の本当に棄てられた者がいたというようなことではない」、すなわち、イエスに「選ばれた」「本当の使徒たちの一人」であるユダが、同時に、「イエスを裏切る者として」、「棄てられたものであった」ということである、とバルトは言います。すなわち、バルトは、「棄てられた者は、神の御前に、棄てられた者として独立した存在を持っているのではない」、「彼はただ棄てられた者でしかないように神のよって定められているのではない」、と言います。すなわち、誰であっても、「キリスト者になる以前でも」、そのあるがままで「イエス・キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪認識・信仰≫)していない」だけである、というわけです。言い換えれば、信仰するとは、「自分が選ばれている『棄てられた者』であることを」告白するということである、というわけです。このことは、主格的属格としての「イエスの信仰」に基づく啓示認識、それに依拠した啓示の比論から導き出される認識・信仰・神学なわけです。それに対して、自然神学の系譜に属する「イエスの信仰」を目的格的属格として認識し信仰し神学する場合、一方通行的な信の上昇過程の場所しか持たないわけですから、その信において不信を包括し克服する場所を持たないわけですから、常に自分を信の立場において思惟し発言するわけです。だから、橋爪に、正当性のある語り方で「『信仰の立場』を後ろに隠して、どこか押しつけがましく」、「上から目線で教えをたれる」と揶揄されてしまうのです。
 さて、バルトは、「裏切る」と訳された言葉は、「もともとは、ずっとアクセントの弱い言葉で『引き渡す、ゆだねる』というほどの意味である」、と述べています。このことからすれば、ユダの行為は、イエスを、「ただ引き渡したに過ぎな」い行為だったわけです。そして、この行為の本質は、「彼の弟子と使徒のうちの一人によって、教会の真唯中から」、「『人々の手に』」、イエスを出来るだけ目立たないように捕える機会をうかがっていた「祭司長たちの手に、異邦人の手に――そして十字架に向けられた手に――引き移された」・「引き渡たされたということである」、とバルトは述べています。ただその行為のベクトルは、十字架へと続く端緒となっています。したがって、バルトは、「福音書のユダを正しく理解するためには、この出来事の全く取るに足らぬ性格とその重大な結果という両面を見なければならぬ」、と言います。それだけでなく、その「イエスの弟子、使徒」であるユダの「引き移」し・「引き渡」しの行為は、「十二使徒自体が、……イスラエルおよび異邦人世界と共に、イエスに対して咎を負」っているということを意味していると同時に、「そのことによってイエスが十二使徒とイスラエルとこの世に対し」、神の側の真実=神性を本質とするイエス・キリストにおける出来事=その死と復活の出来事においてのみ、「神の御意を行うようになるためである」、と述べています。言い換えれば、ユダの「引き移」し・「引き渡」しの行為は、神の自由な決断において定められたそれとして、それは、神の側の真実=イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性の中に包括され・止揚され・克服されたそれである、と述べています。
 さて、バルトは、イエスの引き渡しの「原初的」・「根源的」な「罪と咎」は、ユダに帰せられる、と言います。すなわち、ユダは、「新約聖書の最大の罪人そのものである」。そのユダにおけるイエスの引き渡しの計画は、「光は闇の中に輝いている」(ヨハネ13・30)場所において、「実に悪魔」の方からやってくる。その「夜」「闇の業」は、「イエスの民の業、狭い意味における……使徒ユダという形」における「イエスの民の業でもある」。しかし、イエスの召命による使徒職であり、またイエスが「彼らに対し臨在と守護と保護を与えてこられたから」、「使徒自体は全くきよい」。したがって、イエスの洗足は、すべての使徒にもある「きよくない部分」としての足の払拭行為、すなわち「全体きよい者といえども持っている、きよくない部分」の払拭行為である、「すべての使徒にも残っている」「きよくない部分」・「足の汚れ」を、「ぬぐい去」る行為である。この場所で、ユダは、使徒全体にある「きよくない部分」の代表である。また、イエスを「引き渡し」たユダは、「イエスの臨在と守護と保護が、イエスの選んだ者に対しても無駄になってしまうことがありうるという事実、」と「その程度」を明らかにする「人物」の代表である。
 (ヨハネ12・1−8)すべての使徒の「きよくない部分」の代表とされる「ユダの汚れ」とは何か? バルトは、次のように述べています――家の中が香油の香りで包まれてしまう程に、ラザロの姉妹マリアは、「三百デナリオン」する「純粋で非常に高価なナルドの香油」を「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」。このマリアの行為は、イエスの「死に栄光を帰す」「捧げ物である」。ほんとうは、このマリアの在り方こそが、「使徒たちの生活」(教会の宣教)でなければならないだろう。そうする時、そうした使徒たちの「生活によって」、「この世界」も香油の香りでいっぱいになるだろう。しかし、そのためのマリアの、神の側の真実=イエス・キリストに対する「全然物惜しみしない、無私の」、「完全に謙遜な行為」、「全面的献身」の行為は、イエスの死に栄光を帰そうとしないすべてのその思考・その存在・その実践・その市民的常識からは浪費でしかなかった、浪費とにしか思えない行為であった、特に、すべての使徒の「きよくない部分」の代表であるユダにとっては。そうした市民的常識は、いつも、「私利」・「私意」・自主性・自己主張・自己欲求を持ちながら「貧しい人々に施」せばいい、というように尤もらしい言葉をかぶせて、しかし根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて」やってくる。ユダもそうであった。そうした市民的常識、時勢や時流の観点しか持たないユダには、マリアの行為を理解することは出来なかった。彼には、神の側の真実、主格的属格としての「イエスの信仰」、イエス・キリストの死と復活、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)を理解できない。そこに、身をよせない、そこに、信頼し固執しない。使徒団の中にあってイエスと同じ「ユダヤ人を代表している」ユダにとって、「イエスなどは、自分の考えた善事に比べれば、結局は取るに足りぬものでしかなかった」。ユダにとっては、イエスに従うことは、目的ではなく自分の目的達成のための手段であった。したがって、「盗人」ユダは、他の使徒に対してだけでなくイエスに対しても、自分が主導権を取ることを望んだ。「自ら支配する自由」を望んだ。ユダは、「イエスに束縛されようとはしなかった」・「イエスに自分を捧げようとはしなかった」。したがってまた、その対価である「銀貨三十枚」のために、「イエスを棄ててしまうことが出来た」。このイエスに対するユダのその存在・その思考・その実践が、「ユダの罪」・「咎」・「汚れ」である。ちょっとここで立ち止まって考えてみると、この言い方だけでは、不十分であることが分かります。すなわち、特に、多かれ少なかれ人間の神化を目指す近代以降の、神だけでなく人間も、神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己欲求・意味的世界・プログラムも、神の側の真実だけでなく人間の側の契機も、という神と人間との混淆・共働の要求における「罪」・「咎」・「汚れ」・「きよくない部分」・「足の汚れ」は、「イスラエルが常に、ヤーウェと並んで他の神にも仕える道を開き」「ヤーウェを常に銀三十枚で売り払ってきた」「汚れ」、すべての使徒にもある「使徒全体の汚れ」、また現存するそれらを含めて、すべての信仰・神学・教会の宣教・キリスト教にもある「汚れ」、ということが分かります。
 言い換えれば、「汚れ」た者としてのすべての使徒の代表であるユダが意味している事柄は、「イエスの死に栄光を帰すより何か重要な目的がこの人生にあるとする者」のことであって、その場合、「本来きよくない者であり、イエスの選びに逆らい、自分を使徒とすることを不可能にする者である。このような者こそイエスを引き渡さざるを得ず、また実際引き渡してしまう者であり、しかも十字架につけるために人々に引き渡してしまう者である」。これらのバルトの論述は、自然神学的な系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に対するアンチテーゼであり、それらが辿り着く果てについて論じていることを知ることができます。1948年バルトは次のように書きました――「六00万人のユダヤ人が殺され……ありとあらゆる恐怖と困窮が人間を襲い、しかもすべてはちょうど風が……花の上を吹くように来て、また去って行った。……草や花はしばらく身を曲げる。しかし風が静まれば、また身を起こす。……ある近代劇(《近代以降の、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論に信頼し固執した自然神学的な神学群・神学者・牧師・著述家、またその教会の宣教》)」が『私たちはまた逃げおおせた』という言葉でこれを言い直しているように」。まだあるのです。第二次世界大戦後においても、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった1933年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」。「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した。「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」。