バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その5)
『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」(?見和男訳、新教出版社)は、1936年に東欧の大学で行った講義録です。小川圭治は、その解説で「古典的カルヴィニズムの二重予定説を根本的に批判する」根拠を著わしたものである、と述べています。しかし、小川は、その解説でその「根本的に批判する」根拠を、簡潔的にも述べていません。私は、確信をもって言えますが、バルト自身は、「根本的に批判する」根拠を、『福音と律法』において著わしました。この意味でも、バルトの『福音と律法』は、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』と共に、自然神学の系譜に属する全キリスト教・信仰・神学・教会の宣教の根本的かつ究極的な宗教改革書なのです。すなわち、バルトは、徹頭徹尾全面的に、主格的属格としての「イエスの信仰」=『福音と律法』の「真理性」と「現実性」の同在性・構造におけるイエス・キリストの出来事=啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執する・集中する認識方法および概念構成において、「根本的に批判する」根拠を著わしたのです。
『福音と律法』との関係において、根本的で重要な事柄は次の点にあります。バルトは、次のように述べています。
ア)「予定説」は、「イエス・キリストにある救いの自由な表現」そのものである。言い換えれば、それは、「真に罪なき、従順なお方」イエス・キリスト自らが、私たち人間に代わって、「見捨てられた人間となり、その罰を引き受け給うたということ」、すなわち神の恵みに対してイエス・キリスト自らが、私たち人間に代わって、「福音と律法の真理性」と「福音と律法の現実性」の同在性・構造において、端的に信じ給うたということである。これが「神の最高の義」である。このことは、イエス・キリストを信ずるということ、イエス・キリストにのみ信頼し固執するということに関して、第一次的な契機は私たち人間には全く何もないということを意味している。そのイエス・キリストにおける出来事の内容は、生来人間は、神の「恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急」であったことを私たち人間に自己認識させる。そして私たちは、その啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、「神の選び」を「イエス・キリストの復活」において認識し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識することができる。そしてまた、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通して、すなわち「われわれが本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて」、神に対する人間的反抗、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間」として自分自身を、またそのような人間の「世」を自己「認識」することができる。
さて、神性を本質とする「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方」である。人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはない」し、また自分でそのような状態にすることもできない。したがって、もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みなのである。すなわち、「私たちの召命・義認・聖化」は、私たち人間的契機の直接性において「私たち自身の中に生起」するのではなく、徹頭徹尾全面的に、神の自由な恵みの行為・「イエス・キリストの御業」として、「私たちのため」に、「私たち自身の中に生起」する。このように恵みの選びを認識する場合、私たちに要求する洞察は「イエス・キリストを信ずる信仰の二重の洞察」、すなわちパウロの「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである」という二重の洞察は、福音の内容そのものである主格的属格としての「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」と、すべての人間に対する神の要求=福音を内容とする福音の形式としての律法である「イエス・キリストを信ずる信仰」(バルトは「を」に強調点を付している)において明らかになる。なぜなら、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識、それに依拠した啓示の比論を通した自己認識において、私たちがその福音を内容とする福音の形式である律法にのみ生きようとしなければ、私たちは、その信仰に全く生きていないし・全く生きようとしていないし・全く生き得ないということを、また常に神から遠ざかり・遠ざかり続けているということを、罪を新たな罪を犯し続けているということを、自主性・自己主張・自己欲求・無神性・不信仰の只中にある真実の罪人であるということを、自己認識することはできないからである。
イ)パウロの語る「すべての人」において、「放棄される危険の全くない選ばれた者とか、選ばれる約束も一切ないほど放棄された者が存在するという考えは、はっきりと排除」されている。したがってこれは、イエス・キリストにあるときにおける「威嚇」である。しかし、私たちは、イエス・キリストにおいて与えられた「約束」によって、この「威嚇から解放」されている。すなわち主格的属格としての「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」においては、この威嚇は、止揚された威嚇、克服された威嚇である。なぜなら、「すべての人」を救うために、「罪なきただ一人の選ばれた」イエス・キリストが、「この怒りを正しい怒りとして引き受けて下さったが故」に、私たちは「イエス・キリストにあって死なないで、生きるであろう」という約束が与えられているからである。神は「すべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込め」たについては、神の自由な恵みの選びにおいてということであるから、「罪の増し加わったところには、恵もますます満ちあふれた」ということができる。ここにおいて、新たな啓示認識を得ることができる。すなわち、それは、イエス・キリスト自身に対する人間の自主性・自己主張・自己欲求・無神性・不信仰・「真実の罪」の一切は、イエス・キリスト自身によって止揚され克服されたそれである、ということである。また、それは、その啓示の主観的現実化のために、イエス・キリストは、私たち人間に対して、イエス・キリストにのみ
固着する霊を授与されるということである。したがって、信仰の出来事としてのイエス・キリストを信ずる・「イエスは主なり」と告白する場合、それは聖霊の注ぎ・聖霊との交わりにおけるそれでありその賜物である。したがってまた、マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」・「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」。「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である。「そこにはただ、神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」。これは、まさしく不信をそのあるがままに包括し止揚した・克服した、信における還相的な言葉である。
さて、バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――私たちは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、上述した主格的属格としての「イエスの信仰」における「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない。すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、
1)「私がその人をその中に置くことによってではなく」、
2)イエス・キリストが(《神性を本質とするイエス・キリストが》)すでにその人をその中に(《神の側の真実であるイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性の中に》)置いてい給うことによってである」。
したがって、私たちは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」。このバルトの信仰・神学のその原理・その認識方法および概念構成における信仰・神学の完全な開放性が、神学における自立性であり思想であり、重要な点であるわけです。すなわち、「対立する双方に真理があるというような俗説」は寛容で尤もらしく聞こえますが、ほんとうは「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題」なわけです。
、あた、バルトにとってそこが、終末論的なすでにといまだにおける、すなわちイエス・キリストの復活と再臨の中間時、和解と救贖・完成の中間時における、私たち人間が現存する場所なのです。したがって、中間時における人間とは、終末論的限界と啓示の弁証法において、すでに「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、いまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にある人間のことである。このことを『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、こうです――啓示とは、「子あるいは言葉の業」、すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解」という言葉・概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、聖霊の業に関わる救贖・完成概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖・完成は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性である。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。ここでも、信と不信・「すでにといまだ」を架橋する思想と啓示の弁証法が踏襲されていることを知ることができるでしょう。正直に素直に言えば、これがほんとうのところでしょう。それ以外の言い方をしたら、ほんとうはそれは、嘘になってしまうでしょう。