本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

バルト『イスカリオテのユダ――神の恵みの選び――』(その4)

4)神は、「福音と律法の真理性」の賜物を、福音を内容とする福音の形式である律法として、罪人の人間の手に「にもかかわらず」与える―この「にもかかわらず」の「積極的な意味」とは何か?
 バルトは、次のように述べています。
ア)神が、福音の形式である律法を、神だけでなく人間もという人間の自主性・自己主張・自己欲求=無神性、神と人間との混淆・共働を手離さない「真実の罪人」の手に、「にもかかわらず」与える「積極的な意味」は、「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めた」がゆえに、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」という点にある。それは、「罪が死によって支配するに至ったように、恵もまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」という点にある。すなわち、その「積極的な意味」は、神性を本質とするイエス・キリストの死と復活の出来事において理解された、イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)=啓示の客観的現実性における赦罪と和解と平和と救済にある。このことは、神は、その福音の形式である律法=主格的属格としての「イエスの信仰」にのみ信頼し固執せよという神の要求に対する人間の自主性・自己主張・自己義認(無神性)の欲求の試みを真実の罪として定め否定したのであるが、さらにその否定(死)を否定(復活)することにおいて、その真実の罪をも包括し止揚したということ・克服したということ・福音が勝利したということを意味する。ここに福音は、「初めて本当に」、「完全に福音本来の姿」として、完全な勝利の福音として、「真実の罪人に対する喜びの音信」として〈現実化〉したのである。すなわち、ここにおいて、「福音と律法の真理性」が、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実においてのみ客観的に〈現実化〉した、というわけです。この「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の同在性・構造におけるイエス・キリストの出来事を、バルトは、啓示の客観的現実性、と呼びました。したがって、私たち人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」イエス・キリストにある「復活の力」のみ、ということなのです。イエス・キリスト自身に対する私たちすべての人間・全世界・全人類の真実の罪のために、「イエス・キリストは人と成り、死んで甦り給うた」。したがって、「福音の勝利、恩寵の勝利」とは、私たち人間の、「真実の罪に対する神の勝利」であり、「律法を悪用する罪に対する神の勝利」であり、「不信仰の罪に対する神の勝利」となるわけです。バルトは、この啓示認識また人間認識・世界認識を、主格的属格としての「イエスの信仰」(ローマ書やガラテヤ書等)に基づく信仰・神学の認識方法および概念構成から導き出しているのです。このことを、自然神学の系譜に属するバルト研究者を含めて神学者・牧師・著述家は、分かっていないのです、分かろうとはしないのです。なぜなら、骨肉にまで受け入れた近代主義的な、思惟、信仰、神学、「イエスの信仰」の目的格的属格理解、神と人間・神学人間学との混淆・共働とを手離したくないからです。その信仰・神学の原理や認識方法および概念構成において、人間の自主性・自己主張・自己欲求も保持したいからです。彼らの神学のその原理そのもの・その認識方法および概念構成そのものがそうなのです。バルトは違います。何が違うかと言えば、バルトの場合は、その神学の原理・その神学の認識方法および概念構成それ自体に、人間的世俗的真理や人類的成果(それが良きものであれ悪しきものであれ)を包括できるようになっています。したがって、バルトの言葉には、自然神学の系譜に属する神学や教会やキリスト教のように、時流や時勢・人間論や人間学等々に媚びるところが全くありませんし、皮相性も全くないのです。バルトの言葉には、根本的な深みがあるのです、神学における自立性と思想があるのです。
 それは、こうです――イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書および教会の宣教を通して「同時的となる時と所」・「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを承認し確認する。したがって私たちは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として承認し確認する。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在
せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを承認し確認する。したがってまた、その神の側の真実であるイエス・キリストにおける啓示の場所は、自然神学的な神学群や教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」・「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」・「イエス・キリストはたかだ
か《暗号》にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもある。バルトの前者の言い方に依拠して神と人間・神学と人間学(哲学)との混淆・共働を目指したエーバーハルト・ユンゲルは、バルトの後者の言葉を揚棄してしまいました。すなわち、形而上学的神学者・キリスト教的哲学者のユンゲルには、バルトのような啓示の弁証法がないのです。したがって、ユンゲルを称賛していた神学者の大木英夫や著述家の佐藤優の発言も、一面的部分的往相的な、すなわち形而上学的なそれでしかないものなのです。その証左を明示することは簡単なことで、例えばすでに先述しましたが、佐藤の「個々人の救済、具体的な人間の救済です。人類という抽象的なものの救済ではありません」という救済理解の言葉と、宮澤賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』における救済理解の言葉とを比較考量してみれば、明明白白のことです。「個」と「ぜんたい」との総体的救済理解・「個」と「ぜんたい」とを架橋した救済理解をする思想家・賢治の思惟・理解の仕方は、佐藤とは比べ物にはならない位に、質が良いし優れていることは、明明白白でしょう。
 さて、バルトは場合は、こうです――私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリストにおける啓示の場所だけである。このバルトの立場は、最終的に離脱した宗教的社会主義における「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかったその体験思想を媒介しているのです。すなわちバルトは、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=イエス・キリストの啓示の内容=「インマヌエル」―神は、罪深き私たち人間と、「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」、というこの「一つの事柄」にのみ信頼し固執する道を選んだのです。このイエス・キリストにおける啓示の場所においてのみ、私たちは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの啓示認識と、その啓示認識に依拠した啓示の比論を通して「神に対する人間的反抗」・「罪深い堕落した人間」・そのような人間の「世」を、そのあるがままに自己認識することができるわけです。その認識こそが、人間とこの世の深い根本的な認識なのだ、とバルトは言うわけです。したがって、イエス・キリストが神われらと共にであって、イエス・キリストと共にあるがゆえに神われらと共にいます、と告白し証しし宣教することは、「イエスの信仰」を主格的属格として認識し信仰し神学し思想するということなのです。人は自分の意志とは全く関係なく、ある親や家族のもとで、ある社会構成・支配構成・文明・文化の時代水準の中に、すなわちある歴史的現存性の中に生誕する。そして、その個としての人間は、その中で、その存在・その思考・その実践をもち、喜怒哀楽し生誕から死へのその個の現存性を生きる。バルトにとって、そうした私たち人間の歴史性・類と現存性・個の生誕から死までを見渡せる場所は、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の場所だけなのです。この場所においては、万物に質量(重さ)を与える根元であるヒッグス粒子の概念も、「正直に受け取ることができる」のである。このことは、ヒッグス粒子が発見されても、宇宙の謎の90何%以上が未解明のままであると言われているからではない。たとえ宇宙(自然)の謎が100%解明されそれが人間の対象性として人間的自然となったとしても、それはあくまでも人間によって対象化された宇宙・自然(人間的自然)であって、神そのもの、啓示の実在そのものではないからです。すなわち、バルト神学のその原理・その認識方法および概念構成においては、神そのもの・啓示の実在そのものは、常に、天然自然を含めてそうした人間的自然の彼岸・外にあるからです。したがって、現在話題になっているiPS細胞(人工多能性幹細胞)についても事情は変わらないわけです。そのiPS細胞に関する科学や技術の進歩発達およびその知識の増大は、自然史的必然に属する事柄であり、停滞したり逆行したりすることはあり得ないわけですが、しかしそれは、人間によって対象化された自然・人間的自然でしかないものですから、私たちは、ヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果等を、人間的世俗的真理として正直に受け取ることができるわけです。
 いずれにせよ、バルトのその信仰・その神学の原理や認識方法および概念構成からする啓示認識に依拠した啓示の比論から言えることは、赦罪や和解や平和や救済について、私たち人間から「生ずる現実は何もない」、ということを自己認識させるということです。
イ)「真実の罪に対する神の勝利」とは、「福音と律法の現実性」における本来的な勝利の福音の内容のことであって、主格的属格としての「イエスの信仰」による神の義そのものであるイエス・キリスト自身に対する真実の罪ゆえに、「地獄に追いやられたままの存在」を、「律法によって殺しつつ、しかも福音によって生かし給う」勝利の福音のことである。したがって、ここにおいてのみ、「律法と福音」という順序は正当なものとなる。イエス・キリスト自身が、「心においても業においても、罪人である」私たち人間に対して、それにもかかわらず、「彼に対する信仰の生命へと、呼び覚まし給う」のは、イエス・キリスト自身であるということを、私たち人間は「強調」しなければならないのである。なぜなら、私たちは、「そのために必要なものを、自分の内には所有しないということが、確実である」からである。「律法― 福音、罪― 義という順序が、死― 生命という順序と一致しているということ」は、ただ啓示の「出来事」としてであって、これは、内在的にも歴史的にも、高次の段階へと弁証法的に発展して、最終的には自己還帰する――ヘーゲルにおいて疎外とは、高次の段階への疎外の止揚である――絶対精神とは全く異なるものである。すなわち、そのことは、「イエス・キリストがわれわれに対してなし給うたことの約束として、信じられることが出来る」だけである。私たちはその「信仰を授与されているという事実性」において、「事実的に信ずる」ことができるだけである。「この勝利の福音」は、神の自由な恵みの決断において授与される「聖霊の注ぎ」により「すべて信ずる者に救いを得させる神の力」である。ここで、この啓示認識・啓示信仰は、啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて私たちに授与されるそれなわけです。
ウ)「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、私たちを「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことである。なぜなら、人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」がゆえに、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではない。したがって、ルターに強烈に存在したところの、人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」。このことは終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて包括し止揚された・「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜び」の確かさに取り囲まれた「不安」ということである。神の側の真実である主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性においてのみ、その福音の形式である律法は、@人間に対して、「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられる、A「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられる。したがって、私たち全人間・全世界・全人類は、『生命の御霊の法則』である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけである、というわけです。

 

  人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極
 として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと
 同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは 、われわれがそれと同様に確実
 に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ―これ
 が神の恩寵である。 (『福音と律法』)
  われわれは 、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより 、またイエス ・キリストが
 われわれのかしらであるということに固執することにより 、(中略)この主とかしらのもとで またこの主と
 かしらとともに 、……これからは神の義 、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きること
 を許される 。 (『カール・バルト著作集15』「ローマ書新解」)

 

エ)「不信仰の罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、私たち人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」出来事である。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊・「律法の完成」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。
 私は、このバルトの信仰・神学の原理・その神学の認識方法および概念構成を首肯できます。