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『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 二神のあわれみと義」(その5-2)

カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 二神のあわれみと義」(その5-2)(230-241頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「六章 神の現実 三十節 神的愛の完全性 一神の恵みと神聖性」
「六章 神の現実 三十節 神的愛の完全性 一神の恵みと神聖性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神の愛の神性は、神がご自身の中で、またそのすべての業の中で、恵み深く、あわれみに富み、忍耐強くあり給うこと、まさにそれと共にまた神聖で、義しく、知恵に富み給うことから成り立っているし、またそのことの中で確証される。(129頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、>『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 一神の恵みと神聖性」(その2-1)-1で行っていますので、参照してください(2018年5月21日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「三十節 神的愛の完全性 二神のあわれみと義」(その5-2)
 われわれが、聖書的啓示証言において、「特別に意味深い概念」、「キリスト教の信仰告白の中で……特別に議論の対象となった概念」、すなわち「神の義の概念に向かう時、われわれ」は、「再び神の恵みの概念から神聖性の概念へと移行するに当たって為した考察」を、また「神聖性の概念を説明し記述するに当たって一貫して支配した考察を念頭に置かなければならない」。すなわち、われわれは、神の本質の単一性と区別、神の本質の区別を包括した単一性(総体性)を念頭に置かなければならない(下記の【注】参照)。何故ならば、「神ご自身の豊かな富の中」においては、神の本質の区別を包括した単一性(総体性)が「問題である」からである、すなわちそこにおいては、「いかなる分割も、……その性質の間でのいかなる相互的な限界づけと補充し合いも起こっていない」からである。しかし、終末論的限界の下にある第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教、その思惟と語りにおいては、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、その概念構成を豊富化し深化していく過程(教会の<客観的>な信仰告白および教義、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者を、起源的な第一の形態の神の言葉に置いて、キリスト教に固有な類の時間累積を為していく過程、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に連帯していく過程)での「相互的な限界づけ」と「補充し合い」は「妥当する」。何故ならば、われわれは、「好みにまかせて前進してゆくことはできない」からである、あくまでも「イエス・キリストにあっての神の啓示を通して」、それ故に「その本質を通して規定された秩序の中で、前進してゆかなければならない」からである。「この秩序の中では、神のあわれみが神の義に先行しなければならない。それは、ちょうど神の恵みが神の神聖性に先行しなければならなかったのと同じである」。何故ならば、神の恵みの啓示は、その神の恵みにおいて神の神聖性の認識と信仰を要求するそれだからである、その総体性、その神の本質の単一性と区別、その神の本質の区別を包括した単一性の認識と信仰を要求するそれだからである、ちょうどイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」(聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、啓示・和解、神の子、まことの神にしてまことの人間、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」)において、その存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示であるように。したがって、「神は、恵み深く、あわれみ深くあり給う」のと同様に、「神聖で、義であり給う」のである、「神は、現にあるところのすべてのもの(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三つの存在の仕方、父・子・聖霊なる神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)の中で、神ご自身であり給う。そして、神は、凌駕されない、どこからも競り合われない完全性の中で、神ご自身であるところのすべてのものであり給う」。聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、「失われない差異性」での三つの存在の仕方において三度別様に父、子、聖なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」、三位一体の神である。キリストにあっての神は、その存在の本質としての「<神の>完全性の中で」、「それであるから何らかの恣意的に規定された完全性の中でではなく」、「その完全性の(≪父、子、聖霊というその三つの存在の仕方の≫)多数性の中で」も完全であり給う。「神は、誰とも、また何ものとも比較されることはできない。神は、ただご自分と等しくあり給うだけである」。キリストにあっての神は、徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異の下で、神は神であり給う、神は神であり続け給う。したがって、われわれは、「神ご自身は誰であり、何であるかということ」を、「数学的にも、論理的にも、道徳的にも、心理学的にもまとめ上げること」はできない、それ故にわれわれは、「徹頭徹尾、神ご自身が語り給うことを聞かなければならない」のである、すなわちイエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態である神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神語り給うたが故に神語り給うたことを、神語り給うが故に神語り給うことを聞かなければならないのである。「われわれがそのことをするならば、換言すればイエス・キリストにあっての神の啓示を堅くとって離さないでいるならば、その時には、……一歩一歩、神の完全性の間の特定の関係が結果として現れてくる」のである。「われわれは、神の恵みと神聖性の間には一つの関係が、すなわち必然的に先行する恵みによって規定された相互的に貫通し合い、内容を満たし合う関係が成り立っているということを見た」、その総体性、その神の本質の単一性と区別、その神の本質の区別を包括した単一性を見た。また、このことと「全く……対応しつつ、……神のあわれみと義の間に一つの関係が成り立っているのである」。したがって、われわれは、神のあわれみと義を、その総体性、その神の本質の単一性と区別、その神の本質の区別を包括した単一性において語らなければならないのである。すなわち、われわれは、先行する「神のあわれみからして」、「聖書の中で……強調されている神の義について語」らなければならないのである。何故ならば、「ただそのような仕方でだけ、その関係性は、(≪起源的な第一の形態の神の言葉を、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を、われわれの宣教、われわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とすることで≫)不断に注意が払われるべき」「神の啓示」の、それ故に「神の本質の図式に対応したものとなるからである」。

 

【注】われわれは、その自存性において、その自由さ・完全さにおいて、「愛し給う方、換言すれば(≪われわれのための神として≫)われわれを愛し、しかしまた(≪ご自身の中での神として≫)ご自身の中で愛し給う方、交わりを基礎づけ、保持し、実証する方であること」が、「神の本質であるということを見た」。キリストにあっての「神は、自由なる方として、その自由の中で、ご自身からして、ご自分を通して、ご自身の中で存在する者として」、それ故に神とは異なるすべての「他者によって条件づけられず」、逆に神とは異なる「すべての他者を条件づけつつ自ら存在する方として、そのようなものであり給う」。したがって、「神は、尊厳性、全能、永遠性の中でそのような方であり給う」。キリストにあっての「神は、自存的な神としてそのような方であり給う。神は、まさにその自由の中で愛する方であり給う。したがって、神の神性は、それが神の自由として理解されるべきである限り、神の愛(≪神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)の神性(神の自由、自存性)である」。「人格的な三位一体の神として神は、自存的な神であり給う」。「神は、まさにその自由の中で愛する方であり給う」ということを逆な順序ででも語らなければならない時、先ず以て「人格的な三位一体の神として神は、自存的な神であり給う」ということに基づいて「愛する方として神は自由な方である」と語らなければならない。われわれ人間の神認識について言えば、キリストにあっての神は、ご自身の中での神として「ご自身の中で愛する者であり給うことによって」、それ故に先行してわれわれのための神として「神がわれわれを愛し給うことによって」、「神は、(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて、終末論的限界の下で≫)完全に認識可能である」、と同時に、キリストにあっての神が、ご自身の中での神として「ご自身の中で<自由>(≪自存性≫)なる者であり給うことによって」、それ故にご自身の中での神として「神がわれわれをその<自由>(≪自存性≫)の中で愛し給うことによって」、「神は、われわれにとって完全に認識不可能」なのである。キリストにあっての神は、ご自身の中での神として「ご自身において」、またわれわれのための神として「そのすべての業において」、すなわち父(創造主・啓示者)、子(和解主・啓示)、聖霊(救済主・啓示されてあること)なる神の愛の行為の出来事としての神の存在において、「恵み深く、あわれみに富み、忍耐強くあり給う」――このことが、「神の愛である」。それと共に、「神の愛は(≪ご自身の中での神としての≫)その自由の中で起こるのであるから……、また聖で、義しく、知恵に富み給う……という仕方で」、「恵み深く、あわれみに富み、忍耐強くあり給う」。何故ならば、このことこそが、「神が愛する者であり給う自由であるからである」。このような訳で、「神の愛は、(≪その本質的な性質としての≫)恵み、あわれみ、忍耐であり、まさにそのようにしてこそ、それと共に、(≪その本質としての≫)神聖性、義、知恵であるということから」、「神の愛の神性」、「神の愛の完全性」は「成り立っているし、そのことの中で」、「神の愛の神性」、「神の愛の完全性」は「確証される」のである。
 さて、「パウロにおいては、恵み、彼自身の回心、彼の使徒職とその行使、それと共に福音の宣教は、一つのまとまった全体を形作っている」――「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みは無駄にならず、むしろ、わたしは彼らの中の誰よりも多く働いてきた。しかしそれは、私自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである(Ⅰコリント一五・一〇)。なお、ローマ一・五を参照せよ」、「まさに恵みこそが、包括的に、神が現にあるところの方として、(≪われわれのための神として≫)われわれに身を向け給う際の向け方を特徴的に言い表している」。ここで、「身を向けること」は、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」であるが、このことは、「ギリシャ語の恵みの意味の中に、またラテン語の恵みの意味の中に、……ドイツ語の恵みの意味の中に含まれている」。この「身を向けることの中に」、「特に(その中でこの言葉が現れている)旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように」、「神がよき業として人間に対して為し給うすべてのこと、神のまこと、神の忠実さ、神の義、神のあわれみ、神の契約(ダニエル九・四)、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、神の平和が含まれている」。「それらすべては、まず第一に、基本的に、神の恵みである」。この「恵みそのものの概念」の中には、「神が身を向け給うということは、相手方の行い、業績、ふさわしさに対する答えおよび対応ではない」ということが「含まれている」、それ故に神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという、神と人間との混淆・協働・共働の欲求に対する否定も含まれているのである。何故ならば、「神が恵み深くあり給うということこそが、神はいかなる相手方に対しても義務を負っていないということを意味している」し、「神が身分を落とし卑下されることは、自由(≪自存性≫)な、換言すれば無条件な、さらに換言すればただ(≪ご自身の中での神≫)ご自身の意志を通してだけ条件づけられたヘリくだり(≪謙遜≫)である」からである。したがって、「神が、このヘリくだり(≪謙遜≫)の中で相手方に向けるところの神の愛好、愛顧、好意」は、「この概念の厳格な意味で」、換言すれば神の側の真実として神の側からやってくる(神の側から授与される)「賜物と贈り物である」。「人は、……この(≪恵みの概念の≫)最高の意味づけに際してこそ」、「ローマ・カトリックの恵みの概念と対立しつつ、この恵みの概念の根本理念を理解するにあたって」、「恵みは、ただ単に神が与えたり、与えなかったりできる神の賜物、ただ単に(神に対して帰したり、帰したりしなかったりすることができる)神の属性ではないということ」についての認識と自覚が「どんなに大切であるかに、よく注意せよ」。そうではなくて、ご自身の中での「神ご自身が恵み深くあり給う」神の「恵みは、それ自体、本来的に、本質的に、神的なものである。そのことが言うまでもなく、罪の赦しの秘義である」。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその存在は<神性>を本質としているから、「啓示の出来事においてはじめて神の子」、「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として(啓示・和解として)、イエス・キリストは「神の子」、起源的な第一の形態の神の言葉、三位一体の神の第二の存在の仕方なのである。このキリストの<神性>は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。その啓示と和解が「キリストの神性」の根拠ではなくて、キリストの<神性>、すなわちキリストの「存在の本質」が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである。
 「われわれは、神的愛についての考察」を、<われわれのための神・世界との関係の中での神、その存在>の系列に関わる「恵みの概念の考察でもって」、「換言すればこの概念」を、<ご自身の中での神、その存在>の系列に関わる「神の自由(≪自存性≫)についての概念から規定し説明している神聖性の概念と直接対置させつつ、恵みの概念を考察することでもって……はじめ」た。この「神の恵みおよび神聖性という聖書的概念」の共通性は、両者の概念共に、三位一体の神としてのご自身の中での神(全き自由、自在性における「父なる名の<内>三位一体的特殊性」、「三位相互<内在性>」としての神の存在)とわれわれのための神・世界との関係の中での神(自己還帰する、全き自由、自在性における他在としての神、父・子・聖なる神の愛の行為の出来事としての神の存在)との「それぞれ異なった仕方においてであるが」、「特有な仕方で、神ご自身ではない(≪神とは異なる≫)すべてのものに相対して」、神と人間との無限の質的差異の下で「神の至高性を指し示しているという点にある」。ここで、「われわれが恵みと言う時、われわれは、(≪われわれのための≫)神が(≪神とは異なるすべての≫)他者に対してその寵愛、愛顧、好意を与え給う自由のことを考え」た、また「われわれが神聖性と言う時、われわれは、……(≪ご自身の中での≫)神が、そのように与え給う中で、あくまでご自分に対して忠実であり続け、ご自分を貫徹しつつ確証し給う自由のことを考え」た。われわれは、「神の恵みという概念」を、「神の神聖性の概念と一緒にまとめて考え」たのである、すなわちその総体性、神の本質の単一性と区別、神の本質の区別を包括した単一性において考えたのである。「われわれは、神ご自身(≪ご自身の中での神≫)を、一人の全き神を、この概念でもって言い表したのである」。われわれが、ご自身の中での神、われわれのための神という二つの系列における「神の愛は、したがって神の本質(≪その総体性、その神の本質の単一性と区別、その神の本質の区別を包括した単一性≫)は、徹頭徹尾、その神性のすべての深みに至るまでまさに……恵みであるということをわれわれに語らせる時」、われわれは、「何も思い違いをしていないであろうし、何も逸していないであろうし、また何も看過してはいないであろう」。「神が愛し給うということは、それが神聖であるということの中で、(≪キリストにあっての神の神的な愛とは異なる≫)そのほかの(≪神的な愛とは異なるすべての≫)愛することから区別された、神聖な行為と存在である」。「神は、(≪われわれのための神として≫)交わりを求め、造り出し給うことによって、主であり、あくまで主であり続け給い」、それ故にご自身の中での「神ご自身の意志を(≪神とは異なる≫)すべてのその他の意志から区別し、すべてのその他の意志に相対して主張し給い、神の意志に反対するすべての反抗と抵抗を断罪し、排除し、絶滅し」、それ故に「この交わりの中でただご自身の、……よい意志だけをして力を奮わせ、生起させ給う」。「この特徴(≪その総体性、その神の本質の単一性と区別、その神の本質の区別を包括した単一性≫)の中でだけ、神の愛は、神の神的な愛である」。キリストにあっての神は、「ご自身の中で愛する者であり給う」ことによって、先行してわれわれのための神として「神はわれわれを愛し給う。……神はそのことをその<自由>(≪自存性≫)の中で為し給う」、この総体性、この神の本質の単一性と区別、この神の本質の区別を包括した単一性が、「神の本質の聖書的概念を構成している」。この総体性、この神の本質の単一性と区別、この神の本質の区別を包括した単一性としてある両者の事柄を、「どうして(≪一方だけを抽象して、すなわち一方だけを拡大鏡にかけて全体化して≫)分離してしまってよいであろうか」。さらに、「神の恵みおよび神聖性という聖書的概念」の共通性は、両者の概念共に、「神の行為と存在に出会うところの相手側からの抵抗に相対して神の優越性を指し示している」という点にある。ここで、「われわれが(≪神の側の真実としてある≫)恵みと言う時、われわれは、被造物に相対して(≪われわれのための≫)神が身を向け給うこと」が、「その被造物の抵抗によって」、またその抵抗に対する「憤慨のあまり無に帰せられてしまうことはないということを考えている」のである、また「われわれが(≪ご自身の中での神の≫)神聖性と言う時、われわれは、逆に、神が身を向け給うことが」、その被造物による「抵抗を反駁し、破砕してしまうことを考えている」のである。この時、われわれは、「結局どちらの場合ともに、神の愛について語っている」のである。そうでないならば、「どうして他方のことなしに一方のことが」、すなわち「裁き(≪神聖性、律法≫)なしに赦し(≪恵み、福音≫)が、赦し(≪恵み、福音≫)なしに裁き(≪神聖性、律法≫)があり得るであろうか」。したがって、「神の愛がまだ明らかでない」場合においてだけ、換言すれば神の愛が「まだあるいはもはや信じられていないところ」においてだけ、両者の概念を、「区別」(その総体性、その神の本質の単一性と区別、その神の本質の区別を包括した単一性におけるそれ)する代わりに、「分離」(二元論的、二元主義的なそれ)することができるのであり、「罪から抽象的ニ赦しについて、さらに断罪から抽象的ニ裁きについて語」ることができるのである、それ故に、その場合には、「あのところで(≪その総体性、その神の本質の単一性と区別、その神の本質の区別を包括した単一性における裁きについて認識し自覚したところで≫)神の赦しについて語られず、このところで(≪その総体性、その神の本質の単一性と区別、その神の本質の区別を包括した単一性における裁きについて認識し自覚したところで≫)神の裁きについて語られない」のである。このような訳で、われわれが、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で授与される信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)としての「信仰の中で語るならば」、それ故にキリストにあっての「神および神の愛と直面して」語るならば、それ故に「神の赦しと裁きについて語るならば」、「その時には、われわれは、(≪絶えず繰り返し、起源的な第一の形態の神の言葉を「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で≫)成長してゆく認識の中で」、「確かに神の恵みと神聖性との間の区別(≪その総体性、その神の本質の単一性と区別、その神の本質の区別を包括した単一性におけるそれ≫)をする」のである、それ故にそれら「二つのものを(≪二元論的に、二元主義的に≫)分離することは」決してしないのである。また「神の恵みおよび神聖性という聖書的概念」の共通性は、両者の概念共に、ご自身の中での神とわれわれのための神としての「神の愛を、したがって契約の中でみ業を為し給う神ご自身を、神とその被造物との間の契約の主(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――創造主・啓示者、父が子として自分を自分から区別した第二存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――和解主・啓示、愛に基づく父と子の交わりとして第三の存在の仕方である聖霊――救済主・啓示されてあること≫)として、特徴づけ言い表しているという点にある」。このような訳で、「聖書の聖なる神」は、「R・オットーの『聖なるもの』それ自身戦慄すべきものとして神的なものであるあのヌミノーゼ(≪畏怖と魅惑という両義的な感情を伴う宗教的体験における聖なるもの≫)ではない」。もしもそうでないならば、「聖書の聖なる神」は、人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」でしかないものとなる――何故ならば、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)からである。また、神的自由の一要素としての神聖性を抽象して、すなわちその一要素を拡大鏡にかけて全体化して、「神的自由の<要素>としての神聖性の特徴づけ」を為した「ペトルス・マストリヒトは、神の神聖性の概念の中で」、「その中で神が、すべての一般的なものおよびそれとして『世俗的なこと』からご自分を区別される<分離>」、また「その中で神が、ご自身の故に、ゴ自身ヲ献ゲラレ、シカモゴ自身ヲ確立シツツ為すことを為し給う<献身>」、また「その中で神が、その律法の創始者であると同時に律法の成就者であり給う<表示>」、また(<忌避>)としての「神によってそれとして特徴づけられ、拒否される悪に対する神の徹底的な疎遠さ」という「四つのことを区別しようとした」。しかし、「もしわれわれがこの事柄について、聖書から教えられるとするならば、われわれはここで区別をすることはしないであろう」。何故ならば、われわれの課題は、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、その総体性、その神の本質の単一性と区別、その神の本質の区別を包括した単一性において、「神はまさに恵み深い方として神聖であり、さらにまた神聖なる方として恵み深いということ、またどの程度までそうであるのかということを示す」点にあるからである。

 

 「神の愛」は、「それが神の義であるということの中で」(下記【注】参照)、「(他のすべての愛とは異なる)神的な行為および存在である」、神の愛の行為の出来事としての神の存在である。「神の義」は、「神の愛の」、それ故に「神の恵みの」、それ故に「神のあわれみの規定である」。しかし、神の本質の区別を包括した単一性において、「神の愛、恵み、あわれみは、<必然的>に、ちょうどそれが神聖性の規定を持っているように、また義の規定も持っている」。したがって、「もしもそれが神聖でないとしたら、……義でないとしたら、それは神の愛ではない」のである。「神が、交わりを欲し、造り出し給うことによって、ご自身にふさわしいところのことを為し、遂行されるということ」、それ故に「この交わりの中で、すべての反対と抵抗に対して、ご自分の尊厳さを貫徹させ、力を奮わせ」、それ故に「この交わりの中で、ただご自分の尊厳さだけをして勝利を収めさせ、支配させるということ」――このことが、神の「義なる」、それ故に「神の愛としてのその際立った姿および規定である」。この中でだけ、「神の愛は、神の愛であり、神的な愛である」。「もしもここで、神の本質の分割(≪二元論的な、二元主義的な分離≫)が起こりべきでないとしたら、もしも神のあわれみとの単一性の中での神の義が、……また神の神聖性との単一性の中での神の義が明らかになるべきであるとしたら」、神の本質の区別を包括した単一性において定義をしようとしたら、「定義は、どうしても今なされたような仕方で述べられなければならない……」のである。

 

【注】神の側の真実としてある、換言すれば「福音と律法の真理性」における福音の内容は、全き自由の神の愛によって、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストご自身が、われわれ人間のために・われわれ人間に代わって、われわれ人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである「刑罰(死)」を、「全く端的に、信じ給うた」(ギリシャ語原典の「ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリスト<の>信仰」の属格は、イエス・キリストご自身が信じる信仰というように、「主格的属格として理解されるべきものである」)、「唯一回為し遂げ給うた」(「律法の成就」・完了)という事柄にある。

 

 われわれは、「神のあわれみ」を、われわれ人間の「時間の中で起こった愛と恵み(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三つの存在の仕方、全き自由の父・子・聖霊なる神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)の規定として、しかもその本質(≪神聖性、義≫)の中に含まれている(他人の不幸に対する)神の積極的な参与として定義した」。このことから「神は義であるということ」――すなわち、「神がこのような仕方で(≪神とは異なる≫)他人との交わりを基礎づけ、保持されることによって、ご自身の尊厳さに対応することを意志し、為し、貫徹し給うということ」は、「論理的に従ってこない」のである。しかし、イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現によれば、キリストにあっての神は、神とは異なる「他人との交わりを基礎づけ、遂行しつつ、しかもご自分の尊厳さに対応していることを為し給うという仕方で、何も他人の不幸を取り上げなければならないことはないが、しかしそのような仕方で他人の不幸を取り上げることがおできになることができるのである」。したがって、神の「義についてのわれわれの定義は、神のあわれみの定義と並んで立つことができるのである」、それ故に「神のあわれみの定義と共々、神の単一性(≪神の本質の区別を包括した単一性≫)を明らかにすることができる」のである。このことと同じことは、「神の義と神聖性の単一性(≪神の本質の区別を包括した単一性≫)を念頭においても言える」のである。「われわれは、神の神聖性」を、神とは異なる「他者との交わりを基礎づけ遂行する中で起こる、神の意志の自己主張として定義した」。ここでもまた、このことから「論理的に、神は義であるということ」――「すなわち、神がこの交わりの中で意志し、為し、貫徹されること」は、「神の尊厳さに対応していることであるということが従ってはこない」。しかし、イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現によれば、「神の神聖性は神の義であり、そのことがあの自己主張の中に事実含まれているとするならば、その時、神の神聖性と義との間には、ここで取り上げられた定義によれば、何の矛盾も成り立っていない」のであり、それ故に「その時、それらのものは、互いに並んで立ち、同様の仕方で神の一つの本質(≪神の本質の区別を包括した単一性≫)を言い表すことができるのである」。
 われわれは、既に、「プロテスタント正統主義の定義」が、「神の恵みと神聖性の関係において、……神の本質の単一性(≪神の本質の区別を包括した単一性、その総体性≫)を明らかにしていないという点で、役に立たないということを見た」。このことと同じことは、次のような定義についても言えるのである。
 「クエンシュテット」は、「神ノ義ハ、神的意志ノ全キ、変ワルコトノナイ廉直サ――理性的被造物カラ正シク、義ナルコトヲ要求スル廉直サ――デアル。ソレハ、善キコトニ報イ、悪シキコトヲ罰スルモノデアル」、と述べている。この定義は、クエンシュテットの「神的な要求スルコト」が「神の神聖性」であるという定義と「適合する」。これと「同じ線上で、後にシュライエルマッヘルは、神の義を、共通的な有罪性の状態の中で、現実の罪とわざわいとの関連性が秩序づけられる神的原因性のことであると定義した」。この場合、「神ガ人間ノ不幸ヲ心ニカケ給ウ神ノ意志ノ最モ慈悲深イ性質と呼んだこと」が、捨象されてしまうのである。「神が、その義の中で、ただ要求し給うだけであるとすれば、換言すればその要求を満たすことに対しては報いを与え、要求を満たさないことに対しては罰を与えるだけだとすれば」、すなわち「神の義が、ただ要求し、その都度報いと罰を割り当てる式のもの」であるとするならば、その時には、聖書的啓示証言におけるキリストにあっての神は、「そのあわれみの中で、人間の不幸をみ心にかけることはおでき」になれないということになってしまうのである。クエンシュテットにもシュライエルマッヘルにも、信の過程における還相的な還点が欠けているのである。人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、現にあるがままのわれわれ人間は、もともと理性的に、意志的にだけ存在しているのではなく、嫉妬、情念の世界も生きている、際限なき欲望を生きている。したがって、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)ではなくて、究極的観点(還相的観点)からすれば、聖職者、宗教者、信仰者、医者、法律家、警察官、教員、知識人、善人、平和主義者、誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とか等々の不可避な「機縁」さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人をも殺し得るのである、また信仰の問題から言えば、「『自分の理性や力によっては』全く信じることはできない」のである、またこの現世に多くの未練や執着を持っているのである。このような還相的な還点を、クエンシュテットもシュライエルマッヘルも持たないのである。
 ここで、「ルター派」のクエンシュテットの命題に対して、「内容的な疑義があることを例証するために、直ちにルター自身を対置させることにする」。「ルターは、一五三二年に詩篇五一篇(三節、アナタノ豊カナアワレミニヨッテ、ワタシヲアワレンデクダサイ)」を、次のように説明している――「詩篇ニツイテ書イタホトンドスベテノ聖ナル父タチハ、『正しい神』トハ、神ハ正シク復讐サレ、罰シ給ウトイウコトヲ言ッテイルノデアッテ、神ハ義トシ給ウトイウコトヲ言ッテイルノデハナイト説明シタ。(中略)ソシテ……今日モナオ誰カガ『正しい神』ト言ウノヲ聞ク時、ワタシハ恐ロシサニ震エルノデアル。(中略)シカシモシモ神ガ正シクアリ給イトイウコトガ、神ガ当然ノ報イトシテ正シク罰スルコトデアルナラバ、誰ガソノヨウナ正シイ神ノ前ニ立ツコトガデキヨウカ。ナゼナラバ、ワレワレハ、皆罪人デアリ、神ノ前ニ罰ヲ受ケル正当ナ理由ヲ造リ出シテイルカラデアル。(中略)シカシ神ハ、キリストヲ救イ主トシテ遣ワサレタガ故ニ、当然ノ報イニシタガッテ罰スルトイウ意味デ、正シクアルコトヲ欲シ給ワナイ。神ハ、自分タチノ罪ヲ認メルモノヲ義トシ、アワレミヲ示ストイウ意味デ、正シクアリ、義ナルモノト呼バレルコトヲ欲シ給ウ……」。また、(一六節、ワタシノ舌ハ声高ラカニアナタノ義ヲ歌ウデショウ)」を、次のように説明している――「彼ラハ普通、義トハ……ソレニヨッテ神ガ邪悪ナ者タチヲ当然ノ報イトシテ断罪シ、アルイハ裁クトコロノ真実……ノコトデアルト説明シタ。彼ラハ(ソレニヨッテ信者ガ救ワレル)アワレミヲソノヨウナ義ト対立サセタ。コノ説明ハ、単ニ空虚デアルバカリデナク全ク危険デアル。ナゼナラバ、ソレハ、神トソノ義ニ対スルヒソカナ憎シミヲヒキ起コスカラデアル。モシモ神ガ罪人ヲ義ニシタガッテ取リ扱ワレヨウトスルナラバ、誰ガ神ヲ愛スルコトガデキヨウカ。ソレデアルカラ、神ノ義ハ、ワタシタチガ義トサレル義デアルコトヲ、アルイハ罪ノ赦シノ賜物デアルコトヲ、心ニ記憶セヨ。コノ神ノ義ハ、(中略)ゴ自分ノ義ヲ、裁クタメデハナク、罪人ヲ義トシ、罪ヲ赦スタメニ用イヨウトサレル父……トスル……」。また、「一五四五年に出たラテン語聖書の序文の中で、彼の神学的な生成過程を、有名な言葉でまとめながら」、次のように述べている――「モチロンワタシハ、並々ナラヌ熱意ヲモッテ、ローマ人ヘノ手紙ヲ通シテパウロヲ理解シヨウト努メタ。シカシソノ際ワタシヲ妨ゲタモノハ、……ムシロ一章一七節ニ出テクル『神ノ義ハ福音ノ中に啓示サレ』トイウヒトツノ言葉デアッタ。(中略)……神ハ、マタ福音ヲ通シテモ悲惨ニ悲惨ヲ積ミ重ネ、また福音ヲ通シテモソノ義ト怒リヲモッテワレワレヲ威嚇シナケレバナラナイノデハナカロウカ。ソノヨウニシテワタシハ不安ナ、疚シイ良心ノ中デ荒レ狂ッタ。シカシワタシハ聖パウロガドウ考エテイルカ知ロウト激シク渇望シツツ、コノ聖句ノトコロデパウロノモトヲ性急ニ戸ヲ叩キ続ケタ。ワタシハ、日夜ソレニツイテ考エアグンダ末、遂ニ神ノ恵ミニヨッテ、ココデノ文脈ニ注意ヲ向ケルヨウニナッタ。スナワチ、『義人ハ信仰ニヨッテ生キル』ト書カレテイルヨウニ、『神ノ義ハ、ソノ福音ノ中ニ啓示サレル』トイウコトニ注意スルヨウニナッタ。ソコデワタシハ、神ノ義ハ、義人ガ神ノ賜物ヲ通シテ、スナワチ信仰ヲ通シテ、生キルトコロノ義デアルコトヲ理解シハジメタ。ソシテ福音ヲ通シテ神ノ義ガ啓示サレルトイウコト、換言スレバ身ニ受ケトル義――ソレヲ通シテアワレミ深イ神ガ、(義人ハ信仰ニヨッテ生キルト書カレテイルヨウニ)信仰ニヨッテワレワレヲ義トスル義――ノコトガ言ワレテイルトイウコトヲ理解シハジメタ。ソコデアタシハ、全ク生マレカワリ、開カレタ戸ヲ通ッテ天国ソノモノニ入レタレタコトヲ感ジタ。(中略)……神ガワタシタチニ働キカケ給ウ神ノ業、ワタシタチガ力アルモノトサレル神ノ力、ワタシタチガ知恵アルモノトサレル神の知恵、神ノ強サ、神の救イ、神ノホマレ。ワタシハ、チョウド前ニ、『神の義』トイウ言葉ヲヒドク憎ンデイタヨウニ、ソレダケ今度ハ、ソノ言葉ヲ深ク愛スルヨウニナッタ」。これらルターの語りからすれば、神の義の命題について、ルター派のクエンシュテットの命題に依拠して論じるべきではないと言うことができるのである。
 「われわれは、このところでまた、改革派の……ポラーヌスに対しても留保があることを明らかにしなければならない」。ポラーヌスは、「神の義を、神ゴ自身義デアリ、マタ被造物ノ中ニアルスベテノ義ノ創始者デアル神ノ意志として定義」し、そして、続けて「神的ナ義ノ全キ、完全ナ、誤ルコトノナイ標準ハ、神ノ意志デアル。ナゼナラバ、神ハ、ゴ自身ニトッテ法則デアリ給ウカラデアル。神ガ起コルコトヲ欲シ給ウコト、神ガ意志シ給ウコトガソレ自体正シイ。神ハスルコトスベテヲ知リ、意志シ給ウ」と述べている。しかし、この定義には、「神のあわれみは、それが神の意志であり、神の意志は、(神はご自身にとって法則であり給うのであるから)必然的に正しい意志であるが故に、義である」という「補足」が必要である。したがって、「神の意志は、ソレ自体正しいとして啓示され」、またその神の意志は「神ご自身の中においてもソレ自体正しくある」ということが、クエンシュテットの文脈においてと同じようにポラーヌスの文脈においてもその「定義の中に取り入れられていないということは、ゆゆしいこと」なのである。何故ならば、「この脈絡を欠落させることによって」、神の義を神の意志そのものに基礎づけた正しい基礎づけも、クエンシュテットの場合とは逆に、「神の神聖性を危険にさらそうとする恣意的な性格を得てくるからである」。神の本質の単一性と区別、神の本質の区別を包括した単一性を欠損させたところの、このポラーヌスの思惟と語りにおける「神の義」の概念においては、すなわち「神の愛」、それ故に「神の恵みとあわれみの概念と関連」させないところの「抽象の中での」「神の義」の概念においては、自存性としての「神は、事実ご自身にとって法則であり、その限り正しくあり給う時、神は、……ご自身の法則に従う神の意志は善いご自身にふさわしい意志であり」、それ故に「実際に正しい意志として啓示され、またそれ自身まさにそのような意志である」ということは、「可視的となることはできない」のである。すなわち、「クエンシュテットにおいては、どのように神の義と並んで神のあわれみが可能であるかということが明らかになってこないとしたら、ポラーヌスにおいては、どのように神はあわれみ深く、それでいて同時にまた正しくあることができるかということが明らかではない」のである。ここで、「人は、(≪神の本質の区別を包括した単一性の認識と自覚を欠損させたところの、≫)神の義を神のあわれみから分かつ(≪二元論的な、二元主義的な≫)分離に対してはルターによって教えられ正されることができるように、神のあわれみを神の義から分かつ(≪二元論的な、二元主義的な≫)分離に対してはカンタベリーのアンセルムスによって教えられ正されることができるのである」。
 「どのように神は善人と悪人に対して善くあり給うことができるのか。したがって、悪人をあわれまれ、しかもまさにそのようにしてこそ正しくあり給うことができるのか。アンセルムスは、まずそのようにプロスロギオン九-一一章で問題を提示し」、「この問題に対してこう答えている」――「神の隠れた根本善からして、(神の本質のきわめ難い源泉としての汝ノ最モ高ク最モ神秘ナ善)からして、そのあわれみの川が流れ出る。したがって、神は、完全ニマタ最高ニ義でいますが故に、神は、また悪人(≪徹頭徹尾造悪説は否定されている≫)に対しても……善くあり給う」。「もしも神が、善人と悪人に対してでなく、ただ善人に対してだけ善くあり給うとしたら、もしも神が、また悪人に対しても審判者およびあわれむ者として出会い給わないならば、神は、完全に善なる方ではないであろう」。このような訳で、「神の慈悲から由来してくるもの」――「それは、かかるものとしてまた正しい」のである。「モトヨリモシ汝ガ憐憫ヲモチ給ウノハ、汝ガ最高ノ善ニマシマスカラデアリ、マタ汝ガ最高ノ善ニマシマスノハ、タダ偏ニ汝ガ最高ノ義ニマシマスカラデアルトスレバ、マコトニ、汝ガ憐憫ヲ持チ給ウノモ、全ク、汝ガ最高ノ義ニマシマスカラニ他ナラナイノデアル」。「神のあわれみ」は、その神の本質の区別を包括した単一性における「神の義から認識される」。「汝ノ憐憫ハ、汝ノ義カラ生マレル」。このことは、「神の義は、神がご自身正しくあること、換言すれば神は、それより以上の善が考えられない善であり給うということから成り立っている」。この「慈悲は、神がただ単に裁かれるだけでなく、むしろ悪から善を造り出すことによって、またあわれまれるところの慈悲である」。「汝ハ、悪人ヲ赦シ、また悪人ヲ善人タラシメ給ウトイウ仕方デ、義デアリ給ウ」。「神は、悪人をあわれまれるとすれば、そのことを不義なる仕方ではなく、まさに義なる仕方で為し給う」。「ソレハ、悪人ノ当然報イラルベキモニ合致スルガ故ニハアラズシテ、却ッテ汝ノ仁慈ニ一致スルガ故ニ為し給う」。「……コレガ……ワレワレニ、当然ノ負目ヲ報イ給ウカラデハナク、却ッテ最高ノ善デアル汝ニフサワシキコトヲ為シ給ウガ故ニ、義ニマシマス理由デアル。ソレ故ニ、カクノ如ク汝ノ義ヨリシテ汝ノ憐憫ハ生マレル。何トナレバ、汝ハ善デアリ給ウガ故ニ、赦シ給ウコトニオイテモマタ善デアリ給ウコトハ、正シイカラデアル」。「それは、神が、そのことを意志し給うが故に、正しい。そして、神が意志し給うこと」は、「神がご自身にふさわしいことを意志し給うが故に正しい」。また、「具体的に和解の中での神の歴史的な行動と関連させながら、アンセルムスは、何故神ハ人トナリ給ウタカの中で、……<神は憐憫ノミニヨッテ>、それ故にその傷つけられた名誉を正しい仕方で回復させることなしにも、罪を赦すことができるのではなかろうか」という問いを立て、次のように答えを見出している――「神の国には無秩序はない」から、「神的に正当化された、……神的な刑罰にもさらされていない、……神的な義という観点からの回復も必要としていない不義が存在するとするならば、その時その不義は、神に相対していわば第二の神性の性格を持つこと」になるから、「憐憫ノミニヨッテ」という「神の事柄」を、神は、われわれ人間が神だけでなくわれわれ人間もという仕方で「不遜にも自分のものとして横領する」ことを欲し給わない。「あの慈悲の自由……の中で、あらゆる事情の下に神の威厳を守ることが神の事柄である」。「ナゼナラバ、最上ノモノアルイハフサワシイモノヘノ自由ノホカニ自由ハナク、神ニトッテフサワシクナイ何カヲ為スコトハアワレミト呼バレルコトガデキナイカラデアル」。「神は、ただ神にふさわしいことだけを意志し給うことができる。まさにそのことを神は意志し給う」。したがって、「神の慈悲の自由」は、「罪によって妨げられた神の国の秩序を正しく回復すること」を意志したそれである。「人間に対して、確かに赦しを与えるが、しかし人間を不義(≪「救われない不幸」≫)の中に放置して置くものはあわれみではない……」。キリストにあっての「神のあわれみにおいては、人間の救われた幸福が問題であるとすれば、その時まさに神のあわれみは、あの神の義が正しい仕方で回復されるという形を、それ故に神の義の勝利の形を持たなければならない」――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリスト<の>信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の 信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。
 このように、「われわれは、(≪神の本質の単一性と区別、神の本質の区別を包括した単一性、その総体性ということを念頭において、≫)ルターによって一つの側面から、またアンセルムスによって他方の側面から、神のあわれみでないような神の義は存在せず、また神の義でないような神のあわれみは存在しないということを学ばなければならない」。「ルターとアンセルムスがわれわれに注意を向けさせてくれたあの単一性(≪神の本質の単一性と区別、その区別を包括した単一性、その総体性≫)を、アウグスティヌス」は、次のように述べている――「アワレミソノモノト裁キヲ考エナサイ。……ソレラノモノガ神ノ中デ互イニ分裂(≪二元論的に、二元主義的に分離≫)シテイルト決シテ考エナイヨウニ。(中略)神ハ全能デアリ給ウ。アワレミニオイテ裁キヲ失ワズ、マタ裁キニオイテアワレミヲ失イ給ワナイ」、ちょうど律法は福音を内容とする福音の形式であるように。

 

 「このような事情を、聖書的に基礎づけるためには、われわれはさし当たって先ず、聖書の中でまさに神のあわれみについての証言が、しばしば訓戒の形をとっているという事実から出発することができる」。「『主よ、あなたのあわれみは大きい。あなたの公義に従って、わたしを生かしてください』(詩篇一一九・一五六)。『あなたがたは衣服ではなく、心を裂け。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされるからである』(ヨエル二・一三)。『このようにわたしたちは、あわれみを受けてこの務めについているのだから、落胆せずに』(Ⅱコリント四・一)。『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたの体を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である』(ローマ一二・一)。あるいはさらにもっと直接的に適用しつつ、『あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ』(ルカ六・三六)。また悪い僕についてのたとえの中で、『わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』(マタイ一八・三三)」。「しかし、これらの箇所には、……旧約聖書の中で、……逆に、まさに神の義と審きを思い出す想起が、信頼、感謝、喜びの表現の形態をとっているあれらの箇所が向かい合って立っている」――「われわれは、イザヤ三〇・一八-二一」で、(審きの脅かしに直接続いて)」、「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主はたちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。シオンにおり、エルサレルムに住む住民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、その後ろで『これは道だ、これに歩め』という言葉を耳に聞く」、ということを読む。「その義の中で、主は、その敵の故に主に呼び求める者の道を導き給う(詩篇五・九)。主は、その義に従って、彼を救い、彼を決してはずかしめ給わない(詩篇三一・二)。それ故、神の義と神の正しさは、神の定めと神の審きは、人が全体としてこれを見るならば、畏敬および畏れの対象であるのと同じように愉悦の(詩篇一一九・一六)、喜びの(詩篇四八・一一以下)、感謝の(詩篇七・一八)対象である。それ故、旧約聖書が、神の律法について、神の義の啓示であるとして語る時」、「律法違反が、それ故に律法の脅かしが問題であるところでも、確かに終始(ただ単に詩篇一一九篇においてだけでなく)また、それはイスラエルに対する神の大いなる善き業であること」、「律法に対するパウロの論争(ローマ七・七、一二-一四、一六)」においても「繰り返し明らかになるように」、「軽蔑され、無視され、拒否され、それ故に呪いとなった」ところでも、「それ自身変わらざる神の愛であること……が同時に聞かれなければならない」。「まさにあわれみ深い方としての神は、聖書によれば、(≪神の本質の単一性と区別、神の本質の区別を包括した単一性、その総体性において、≫)畏れられるべきであり、またまさに義なる方としてこそ、神は愛されるべきである」。したがって、「ここで、(≪二元論的に、二元主義的に≫)分け(≪分離し≫)ようと欲する者」は、「いや、畏れと愛の転換だけでも避けようとする者」は、すなわち畏れと愛とを区別を包括した単一性において承認し確認しない者は、「聖書の中で神と呼ばれている方以外の神を考えているのである」、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方――「イエス・キリストの名」(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)にのみ感謝をもって信頼し固執したキリスト教神学者および牧師(例えば『福音と律法』の文体は、内容的に言って、徹頭徹尾、一貫して聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した教会の宣教としての牧師の説教と言うことができる)であるバルトが、また人間学におけるフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが、原理的に根本的包括的に批判したところの、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を認識し自覚していないところの、すなわちまさに人間自身が対象化したに過ぎない「存在者レベルでの神」とその神への信仰とその神の名と呼びかけによる企てを志向し目指すところの、自然神学における神を、自然的な信仰・神学・教会の宣教における神を考えているのである。