『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 一神の恵みと神聖性」(その2-2)-2
カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』吉永正義訳、新教出版社に基づく
『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 一神の恵みと神聖性」(その2-2)-2(200-215頁)
「三十節 神的愛の完全性 一神の恵みと神聖性」(その2-2)-2
「神がイスラエルに対して為し給うことによって」「神とイスラエルが……親しく結ばれているが故に」、「また神はこの関連性の中で、それの創始者としてさらにイスラエルに対し働きかけ給うことによって」、「神は聖であり給う」。この「聖」、神聖性の「概念がそのように理解されなければならないということ」は、「『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも(≪イスラエルも≫)聖なる者となるべきである』(レビ一一・四四、Ⅰペテロ一・一六)ということが、原則的、包括的に、祭儀的な神聖性の性格を持っているということが指し示している」。「人間および人間的な行為、事物および場所の神聖性」は、「いわば神によって打ち立てられ、開かれた神と人間の交わりにおけるそれらのものの有用性を言い表している」。このような訳で、「不浄性は、この事柄における、無用性を意味する……」、「神の神聖性は、この交わりにおいて神がとり給う態度の形式を言い表している」、それ故に「罪は、この交わりが妨害され、不可能とされることである」、「それ故にこの交わりにおいて神がとり給う態度は、神聖性、罪の排除、断罪、絶滅という性格を持っている」、それ故に「聖なる神は、まさに神が交わりを持ち給う人間にとって、危険なもの(≪「攻撃」、「威嚇」、「否定」≫)である」、それ故に「人間の罪がこの交わりを妨害し不可能にすることによって」、「彼が罪深い人間(≪その最後的形態における、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという無神性・不信仰・真実の罪のただ中を生きる人間≫)として神の前に存続することができず、ただ消え失せることができるだけである限り」、その「人間自身(≪の人間的存在≫)が……(≪神の側の真実としては≫)不可能となる」。このような訳で、「人間が彼の側でも聖となるということ」は、「神が人間に対して、神に向かって何らかの威厳や功績を造り出す契機を与えようと欲せられる命令ではなくて」、「神の命令として、全くただ神の恵みを堅くとって離さないようにという命令」に感謝をもって信頼し固執する点にある、それ故にそれは、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」のその総体性を志向し目指していくという点にある、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくという点にある。われわれ人間は、「神の前に、彼自身が聖となることと共に、立ちもすれば倒れもするのである」が、「この神聖性の命令は、人間がそれを果たしたり、果たさなかったりすることができるような命令ではなく」、「神の命令として全くただ人間の自己保持の命令である」から、われわれ「人間自身は、(≪われわれのための神として≫)ご自身人間のために味方して立ち給う神」――すなわち「恵み深い神のおかげで、聖となる」のである。単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」は、明らかに主格的属格――イエス・キリスト<が>信じる信仰――として理解されるべきものである)」・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の 信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみ である」(『福音と律法』)。「『神聖性の律法』の具体的な内容全体」は、「イエス・キリストの待望の中での啓示の経綸においてそのことが必要であるように」、「この完全な、生全体(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――創造主・啓示者、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――和解主・啓示、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――救済主・啓示されてあること)を包含する(われわれ人間のための)神の尽力を具象的に明らかにしているのである」。この「『神聖性の律法』は、……全線にわたって(われわれ人間に対する)神ご自身の善き意志が起こっており」、「それ自身きよくない人間」の「彼が自分自身をきよくすることによってではなく」(何故ならば、それ自身きよくない人間は、自分自身を聖とすることはできないから)、「彼が(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰を通して≫)それらの命令に服従しつつ、神の神聖性の下に服させられることによって」、「救われるということを思い出させるのである」。「神の善き意志は、神ご自身の自由な意志であるが故に、『神聖性の律法』の内容は、道徳的――目的論的に規定された一般的な体系に還元」することはできない。「神は、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による≫)偶発的な現実性の中で、ご自身行動しつつ、いわば絶対主権的に曲線や角を自由に用いてご自分の名をすべての個人的、家族的、民族的な生の中に刻み込み、神がその奉仕へと定められた者を用い」、「さらにその同じ主権性の中で、その奉仕に矛盾すると宣言し給うた者を、この生から切り取りつつ」、「ご自分をこの民と結びつけ、この民に対し自ら現臨し、ご自分をおくり与え」、「この民の聖者であり、それと共に自らその神聖性であり給うという一つのこと」を問題とされる。したがって、「『神聖性の律法』を守ること」は、「功績的であろう」する「業」・行為による「義」のこと、換言すれば神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという「業」・行為による「義」のことを意味していない。「『神聖性の律法』を守ること」は、「神がその神聖性の中で、イスラエルの民の間に住み給い、イスラエルの神聖性となり、イスラエル自身が神の神聖性によって焼き尽くされることがないために、イスラエルがその神の(≪その都度の自由な恵みの決断による≫)その偶発的な実在に対して場所を与えるということから成り立つことができるだけである」。「服従」とは、「それが本質的、最も深い内面において、神の恵みを伏し拝み、その契約のよき業に対して感謝することから成り立っていることによって」、「全く単純に、イスラエルが『罪を犯す』時、……直ちにその場で、イスラエルの身に及ばなければならない滅びに対する畏れを意味している」。「神は、イスラエルに対してあのように恵み深くあり給う故に、イスラエルは、神をあのように根本的に、……全体的に、畏れなけれならない」。イスラエルの神は、「イスラエルのただ中でご自分を聖とされ、それと共にイスラエルから神聖性を、換言すればご自身の神聖性に対する尊敬の念を要求し給うことによって」、神は、「選ばれた民として救われた民であるところの」「イスラエルを、神との交わりにとって有用なものとして保ち給う」。「聖書のほかのどの箇所においても、……あれほどしばしば見損なわれた、暗い、実りのない、あるいは結局全くその時代に拘束されていると言われた悪評高いレビ記とモーセ五書の中でのそれに類似した部分におけるほど(人は、その際、直ちにまた同じような不興でもってめぐり囲まれている預言者エゼキエルの書物のことも考えることができるが)、神の愛の神性(下記の【注】を参照)が明らかにされているところはないという時」、「文脈の中でそのまま聞き逃されてはならないテキストそのものの言明をそのまま確認しているのである」。「まさにここのところでこそ」、「メシア的な待望と約束がここで登場している」のである。「自然(≪人間的な自然≫)と恵み(≪神の恵み≫)が、理性(≪人間的な理性・思惟・自己意識、人間の自己認識・自己理解・自己規定≫)と啓示(≪神の啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、神の自己認識・自己理解・自己規定≫)」が、「殺す律法(≪死≫)と生かす神の福音(≪生≫)」が、「前代未聞の仕方で並んで、互いに入り込みつつ存在しているが故に」、「調停できない仕方で互いにぶつかり合っているまさにそこのところでこそ」、「メシア的な待望と約束が……登場している」のである。「確かに正しく」「ヴィヘルハウスは、……『神は、まさに善良でいますが故に、神聖であり給い、まさに愛するが故にこそ、怒り、懲らしめ、傷つけ、火の炉に投げ入れ給うということは、人間にとってよく分からないことであるし、明らかにされ得ないことである。神の神聖性は、人間にとって恐ろしいことである。……神は、その神聖性の中で、焼き尽くす火であり給う。それでいてなおもしも人間が再び神の下に連れ戻されるべきであるなら、まさにその神聖性の中でこそ、神は、人間によって最高に愛され、ほめ称えられなければならない』」と述べている。それに対して、「リッチュル」は、「旧約聖書が(≪「イスラエルの敵およびイスラエル自身の中で契約を破った者たちに対する」≫)神の怒り(≪その「感情」、その「滅ぼし尽くそうとする意志」≫)について語っているすべてのこと」は「義人たちには向けられず」、「義人たちは」「滅ぼし尽くそうとする意志」に「ただ『民との共感から』進んで服そうとした」という「神の神聖性についての思想」に、それから、その旧約聖書的証言を、「新約聖書」における「神の恵みおよび愛の思想の背後」へと「後退」した「思想」に、「換言すれば『ただ終末論的にだけ』理解されるべき(その敵対者に対する)神の決定的な意志決断」という「思想」に、「還元しようとした」のである。すなわち、リッチュルは、「神の怒りの現在的な経験と共にまた神の終末論的な実在」を、「神の怒りと共にまた神の恵みと愛を取り除いてしまった」のである、換言すればリッチュルは、「旧約および新約聖書の証言によれば、(≪神が≫)自ら人間を引き受け給う際の(≪神のその都度の自由な恵みの決断による≫)偶発的な現実」を、恣意的独善的に「解釈し曲げて」・曲解して「ほとんど何ら共通的なものを持っていないひとつの理念」に「還元しようとした」のである。このリッチュルは、次のように述べている――「どういう宗教的な関心がわれわれキリスト信者をして、神の怒りの感情についての思想を現在の経験に適用するよう決心させることができるのであろうか。……(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰における神ではなく、リッチュル自身の人間的な自由な自己意識・理性・思惟が対象化した「存在者レベルでの神」、その≫)神を自分の神として呼び求める者、その者は神(≪「存在者レベルでの神」≫)から遠くないし、その者に対してまた神(≪「存在者レベルでの神」≫)は遠くい給わない。したがって、そのような者は、この瞬間に、神(≪「存在者レベルでの神」≫)の怒りの下にはいない」。しかし、「もしも神が、われわれに熱心に、嫉妬深く、怒りを含んだ仕方で、出会い給わないならば」、また「旧約聖書の証言によれば、イスラエルと出会い給うたのとまさに正確に同じように、神がその後、ご自身のみ子の人格の中で、その十字架の死の中で、イスラエルと出会い給たのと正確に同じように、神がわれわれと出会い給わないならば」、「その時、神はそもそもわれわれに出会い給わない」のである。「神が、人間に対して現実に恵み深くあり給うということ」は、「神が人間に対してその神聖性の中で出会い給うということの中で示される」。「まさにそのように、神は、人間に対して現臨し給う。まさにそのように、神は、人間の事柄を引き受け、取り扱い給う。罪深い人間が、自分ではどうしても取り扱うことができない事柄を引き受け、取り扱い給う。まさにそのように、神自ら、人間をご自身と和解させ給う」、ちょうど福音と律法の順序における律法が、福音を内容とする福音の形式であるように、神はその区別を包括した単一性を本質としているように。「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・古い時間は、復活へと向かっている、このキリストの復活、完了・成就された時間は、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造におけるそれであり、「新しい世」・新しい時間のはじまりである、われわれは、このことをあの「啓示と信仰の出来事」に基いて啓示認識・啓示信仰し、その認識と信仰を通して、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・古い世は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」(成就された時間、新しい世のはじまり)であるキリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され・克服されて「そこにある」ことを、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて認識し信仰する、その時、その「勝利の行為」は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」であることを認識し信仰する、それ故に神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた」者(聖霊の注ぎにより信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を、神の恵みの出来事を与えられた者)は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである、ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(われわれの感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実として、それ故に客観的現実性として、それ故に完了・「成就と執行」として、それ故に「永遠的実在」として<すでに>ということである」(『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』)。
【注】神は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である<自由>」・自存性の中で「愛する方であり給う」。したがって、「神の神性は、それが神の自由として理解されるべきである限り、神の愛(≪神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)の神性(≪「神ご自身においてのみ実在であり真理である<自由>」、自存性≫)である」。「人格的な三位一体の神として、神は自存的な神であり給う」。したがって、「神は、まさにその自由の中で愛する方であり給う」ということを「逆な順序ででも語らなければならない時」、先ず以て「人格的な三位一体の神として神は自存的な神であり給う」ということに基づいて、「愛する方として神は自由な方である」というように語らなければならない。「まさに顕ワサレタ神こそが隠された神である」。
神は、「イスラエルが、義人が、教会が、滅び失せることを……許し給わないことによって」、「神は、彼らを……放任しておくことはできず」、彼らが神の恵みによる「救いと……保護」から遠ざかって「生き、ふるまう時には、彼らを「告訴」し、彼らに否定的「判決」を下し、彼らを「処罰」するのである。「まさに、出エジプト三・二の燃えるしば(≪「イスラエル」≫)こそが、焼き尽くされ」ないし、「焼き尽くされないしば(≪「イスラエル」≫)こそが、燃えなければならなかった」、「そして、この燃えるもの、それでいて焼き尽くされないもの、焼き尽くされずに燃えているものが、イスラエルの神、<聖>なる神である」。「神が、光あれと語り給うことによって、そして光があったことによって、神が光をよしと見給うたことによって」、「神は、光と闇とに分けられ、光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた(創世記一・三以下)」。これらすべてのことが、「まことであり、現実であることによって」、「イスラエルの光は、火となり、その聖者は炎となり、そのいばらとおどろを一日のうちに焼き滅ぼす。また、その林と土肥えた田畑の栄を、魂も、からだも二つながら滅ぼし、病める者のやせ衰えるようにされる。その林の木の残りのものは僅かであって、わらべもそれを書き留めることができる(イザヤ一〇・一七)」。「イザヤ六・一以下」では、「預言者が、主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見、その上にセラピムが立ち、『聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ』と互いに呼び交わしていた。その呼ばわっている者の声によって、敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。その時、預言者は、(ルカ五章に出てくるペテロと全く同じように)こう叫んだ、『わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから』。それに対応しつつ、それから、彼のくちびるが、祭壇からとってきた燃えている炭で触れられるというあの恐ろしい接触が起こる。しかしまた、『見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた』というあの宣言が為される。<そのこと>によく注意せよ」。「怒りの行為と裁きの行為の後にではなく、怒りの行為と裁きの行為の中で、ゆるし、和解、預言者への召命と能力賦与が、……起こるのである」、その区別を包括した単一性の中でそのことは起こるのである、「明らかにはじめから神の神聖性の啓示全体の意味であったところの恵みが起こるのである」、その区別を包括した単一性の中でそのことは起こるのである。したがって、「この線上で、……イザヤに対して直ちに委託される民に向かっての……預言者が為す裁きの説教は理解されなければならない」。このような「救いの預言者」は、「まさに神聖性の啓示および神聖性の律法の直接的な帰結として」理解されなければならない。「神の名、民、町、家があるところ、そこでこそ裁きははじまらなければならない(エレミヤ二五・二九、Ⅰペテロ四・一七)」。何故ならば、ちょうど先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それ故にあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」ように、先行して「神が、ご自身をイスラエルと結びつけ、イスラエルをご自身と結びつけ給う」からである、「また、神が、イスラエルをご自身と結びつけ給うことによって、神は、イスラエルに対して……消えることなく、しかもその炎は再び神の愛の炎以外の何ものでもないあの炎となり給う」からである。神は、「イスラエルに対して……神に対するそのイスラエルの服従の中で、神の恵みの業を示すために」、「ご自身をイスラエルの神と為し給うことによって、神は、イスラエルをご自分の律法、脅かし、処罰に服させ給う」。「神は、イスラエルをもろもろの民から分かつことによって」、「もろもろの民に相対して為し給うより遥かに厳格に振舞い給わなければならない」、「イスラエルをその他のすべての民と違って、今日に至るまで、あのように不幸な目に合わせ給わなければならない」。「それは、最高にリアルに、その(≪イスラエルの≫)選別を、それと共にその約束を、それと共に神ご自身の恵み深い選びとこの民に対し身を向け給うことを実証してゆくためである」。このように、「恵みの自由は、その恵みが繰り返し裁きの中で明らかにされるということの中で(≪その区別を包括した単一性の中で≫)啓示される」。逆に言えば、「そのことの中で啓示されるのは、恵みの自由である」。「人間との交わりの中に入られる方が、(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との間の無限の質的差異の下で存在する≫)神であり給うならば」、それ故に「そのことが起きる時、それが恵みであり」、それ故に「選びであるならば」、「神と罪深い人間の間の対立が、しかも焼き尽くす対立が明らかにされる」のである。「また逆に、もしも神が罪に対する、……罪深い人間に対する対立の中に入り給わなかったならば」、「その時には、……そのことをただ恵みと選びに基づいてだけ為すことのできる神」は、「実際に人間との交わりの中に入り給う」ないのである。このような訳で、「神の恵みを受け取るということは、神の神聖性を尊重すること、したがって神の命令を受け取り、聞き、守り、神の脅かしを畏れ、その怒りを経験し、その刑罰を身に受けるということを意味している」。したがって、「もしも神の恵みを受け取るということが、これと別な何かを意味しているとすれば、それは、異教的な静寂主義と何ら異ならないものとなるであろう」。また、「神の神聖性を尊重するということは、……神の恵みを受け入れ、感謝しつつ進んで身に受け、神の恵みでもって足れりとするということを意味している」。したがって、もしも「神の神聖性を尊重するということ」が、「直接、直に、そのことを意味していないとすれば、すべては空しい異教的な恐怖の宗教となるであろう」。このような訳で、ある教会の牧師が、恣意的独善的に、一面を抽象して、すなわち一面だけを拡大鏡にかけて全体化して、Web上でバルトの「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」において、「バルトが語る<神の人間性>とは」、「たとえ人間が」「神を神とすることを止めて自らを神とし、神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということ」であると述べた時、バルトにおけるあの神の本質の区別を包括した単一性についての認識と自覚を欠損させており、それ故にそのような誤謬に普遍性や教会的牧師的組織性の後光をかぶせて語らざるを得なかったのである。バルト自身は、『神の人間性』で、明確に「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」(聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間、「まさに顕ワサレタ神こそが隠された神である」、イエス・キリストの名)と述べており、それ故に「第二の方向転換」としての「神の人間性」の「主文章」化は、「第一の方向転換」の「神の神性」の「主文章」化と「対立」関係にあるのではなく、その主文章化と副文章化とのベクトル変容は、あくまでもある時代状況あるいはある教会教義学的状況に規定された言表なのである。その証拠に、バルト自身は、「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」(『神の人間性』)と述べている。
「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのだから、感謝しようではないか。そして感謝しつつ、畏れ敬い、神に喜ばれるように仕えていこう。わたしたちの神は、実に、焼き尽くす火である(へブル一二・二八以下)」。「旧約聖書および新約聖書の<単一性>が可視的であるとすれば、……旧約聖書のキリスト証言について、また旧約聖書の成就者としてのキリストについて、……是非とも語らなければならないとしたら」、「その時には、……旧約聖書の注釈が、モーセとキリストを、律法と福音を、繰り返し」<区別>している「脈絡の中でのことである」、ちょうど区別された福音と律法という順序において律法は、福音を内容とする福音の形式(単一性)であるように、またちょうど「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」ように、すなわち、区別された「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・古い時間は、キリストの復活(成就された時間、古い時間・古い世を包括し止揚し克服したところの新しい時間・新しい世のはじまり、単一性、この完成は復活したキリストの再臨、完成、すなわち終末を待たなければならない)へと向かっているように。「『また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためにわたし自身を聖別いたします』(ヨハネ一七・一九)。まさにイエス・キリストに視線を向けつつ、われわれは、……神の選びと怒りについての、神が罪を赦されること(恵み、福音)と命じた給うこと(裁き、律法)についての、神が恵み深くあり給うことと聖であり給うことについて」、「旧約聖書的証言の中で見たところ、さまざまに違った糸が出会っていること」を、「またいかに出会っているかということ」を、「旧約聖書の証言によればイスラエルに働きかけ給う主が、すべてのことの中でまさに一人の方であり給うということ」を、「いかにすべてのことの中でまさに一人の方であり給うかということを看過することはできない」。「旧約聖書は、……ご自身に対してあれほど忠実であり続け給うことによって、人間に対してあのように留保なしに身を向け給うまさにイエス・キリストに対してこそ、……神の名……で言い表される得ることが帰せられることを証しし証明している」。「神の愛が、われわれに対して、イエス・キリストの中で啓示されているのであるならば、イエス・キリストご自身が神の啓示された愛であるならば」(「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である)、「その時には、神の恵みと神聖性の間を分離することは終わるのであり、その時には、われわれにとって、ただ恵み深くありまた神聖であり給う方、神聖であることによって恵み深くあり給い、恵み深くあることによって神聖であり給う方を知る知識とそのような方を拝する礼拝があるだけ」なのである。
このように、「神は愛し給う」。われわれは、「この抜きん出た姿の中で、聖なる愛として、……神の行為(≪「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方≫)と本質の神性(≪「失われない単一性」・神性・永遠性≫)を認識する」、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(創造主・啓示者)、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(和解主・啓示)、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(救済主・啓示されてあること)なる神の愛の行為の出来事としての神の存在とその存在の本質である単一性・神性・永遠性を認識する、換言すればイエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、その第二の存在の仕方であるナザレのイエスという「人間の歴史的形態」(「イエス・キリストの名」)において、その存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示であることを認識する。キリストにあっての神は、「神聖なるものとして、……ただ単に行動し給うだけでなく」、そのように(≪われわれのための神として≫)「神が行動し給うように、……神は(≪ご自身の中での神として≫)永遠から永遠にわたってあり給う」。「神ご自身が、純粋さであり給う」。キリストにあっての神は、「そのような者として、神に等しくない(≪神とは異なる≫)すべての者に抗弁し、すべての者に抵抗するであろう」ところの「純粋さであり給う」。「しかし、それだからといって、(≪神とは異なる≫)この等しくない者から身を引いてしまうことのない」ところの「純粋さであり給う」、「それが、父、子、聖霊の(≪三つの存在の仕方の≫)生の純粋さであることによって、(≪神とは異なる≫)神に等しくない者に(≪その存在の本質として≫)永遠からして出会う……ところの純粋さであり給う」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする神の三つの存在の仕方の純粋さが、神とは異なる「そのような神に等しくない者に出会うことによって、そのような神に等しくないものに抵抗し、……裁き、しかしそれと共に(≪神とは異なる≫)そのような等しくない者を受け入れ、取り上げ、まさにそのようにして、(≪神とは異なる≫)そのような神に等しくない者との(それを救い出す)交わりの中に入るために、(≪神とは異なる≫)等しくない者に(≪その存在の本質として≫)永遠からして出会うところの純粋さであり給う」。