『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 二 愛する方としての神の存在」(その4-4)-1
カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』吉永正義訳、新教出版社に基づく
『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 二 愛する方としての神の存在」(その4-4)-1(63-80頁)
引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)
「六章 神の現実 二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在」
「六章 神の現実 二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
神はその啓示の中で、現にあるところの方であり給う。神はご自身とわれわれとの間の交わりを求め、造り出し、そのようにしてわれわれを愛し給う。しかし神はまた、われわれなしにも、ご自身からして自分の生命を持つ主の自由の中で、父、子、聖霊として、まさにこの愛する方であり給う。(3頁)
〔この定式の詳述〕
この定式の詳述については、『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 一 行為の中での神の存在」(その3-1)で行っていますので、参照してください(2017年11月16日論述分)。
「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 二 愛する方としての神の存在」(その4-4)-1
先ず以て、聖書的啓示証言で神は、「父なる名の内三位一体的特殊性」において、イエス・キリストの父(創造主なる神)、子としてのイエス・キリスト自身(和解主なる神)、父と子の霊である聖霊(救済主なる神)として、すなわち三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が、教会の宣教における<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠である。したがってまた、この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり「啓示の認識原理」である。しかし、「十九世紀の神学の中で、また部分的には二十世紀の神学の中ででも、顕著な役割を演じた、神の人格性に関する議論」が惹き起こされた。それは、次のようなものである。その「議論の起源」は、それ以前にまで時代を遡って「正統主義の時代の神論の中」に、「いや、むしろ中世の神論の中」に見出すことができる。すなわち、われわれは、その「議論の起源」を、「神論の中で一般化していた」ところの、「一般的な神の本質と性質についての概念の展開」のために、「三位一体論」を後景へと退けた「立場」に見出すことができる。そのような立場における恣意的独善的な「配列の仕方によって」、「人は、……(≪キリストにあっての≫)神について、先ず神の啓示を度外視し」、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方(性質、働き、業と行為、啓示・和解)、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示を度外視し、「それと共に」、「愛する者としての神の存在を度外視して」、すなわち愛する者としての神の愛の行為の出来事しての神の存在を度外視して、それ故に「何がそもそも神的であるかということについて」、人間自身の「自由な考察」(自由事項・裁量事項・決定事項)の対象として思惟し語るという「誘惑に陥ったのである」。言い換えれば、神の言葉の第三の形態に属する者たちが、恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化した「存在者レベルでの神」(偶像)を造り出す「誘惑に陥ったのである」、その神の名と呼びかけによる救いと平和の企ての「誘惑に陥ったのである」。それと同時的に、起源的な第一の形態の神の言葉、――具体的には、第二の形態の神の言葉である「聖書の学校から抜け出て、異教的な古代の学校に入学することになった」のである。したがって、「異教的な古代の学校に入学」した彼らは、人間の自由な自己意識の無限性において、先ず「神の本質を、……すべて考えられる限りの最上級を備えた中立物として」――何故ならば、その場合には、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、絶えず繰り返し的確に自己吟味し・的確に自己「批判し・訂正」することはできないから――、「最も完全ナル存在および最高善、またそのようなものとして精神の純粋ナ活動として、第一動者でもある最高善として定義した」のである。そして、「その後」で、「このヒトリノ神の現実存在」と、「聖書の三位一体ノ神の現実存在とを一致させようと」した。キリストにあっての「神は、ただ一人の方としてすべてであるという前提は、宗教改革者たちには明らかでであり、効力を持っていた」し、「そのことは彼らの後継者たちのところでも暗黙のうちに自明のことであった」が、その「前提」は、「神論全体(≪その「本質概念」、その「性質概念」、またその「三位一体論」≫)」においては、「いかなる本来的な根拠も、支配的な位置も持っていなかった」。「人が、そこで、ペルソナ(存在ノ様式)という用語を」、概念的な意味で「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」という「人格と混同」し、それ故に「(古代教会の三位一体論の意図に全く矛盾しつつ)神の中での三つの人格性(≪「三つの神的<我>」、「三つの対象」、「三神」≫)について夢想し始めれば始めるほど、それだけ」、「神の存在を愛する者としての」イエス・キリストにおける神の自己「啓示の中での、またご自身の中での、三位一体の神の一つの生から一人の方として理解することができなくなった」のである、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」として、父は子として「自分を自分から区別」するし、イエス・キリストにおいて自己啓示する神として「自分自身が根源」であり、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源であるという、イエス・キリストにおける神の自己「啓示の中での、またご自身の中での、三位一体の神の一つの生から一人の方として理解することができなくなった」のである。このような状況の中で、「神学」は、「近代の始まり」に伴った「人間主義」による「神概念」を、「理論的――実践的――美的な人間的な理性理念の永遠的真理へと縮小させる……啓蒙主義」に、「あるいは結局、……そのような理性理念を生み出す(実体化して考えられた)理性そのものへと縮小させる傾向をもった啓蒙主義」に、換言すれば「最も完全ナル存在および最高善、またそのようなものとして精神の純粋ナ活動として、第一動者という隠されていた理念の現実化」に、人間の自己意識・理性・思惟の類的活動によって対象化された「人間的な理念の絶対者」(「存在者レベルでの神」)に「侵入」され、侵食されたのである。すなわち、神学は、思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化し、その頂を極めた「精神は、また精神自体としては神と全く同一である」という無限と有限との統一としての「究極的同一性」の原理によって、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異(『ローマ書』)を止揚し、換言すれば神を人間化することによってあるいは人間を神化することによって、「最も完全ナル存在および最高善、またそのようなものとして精神の純粋ナ活動として、第一動者という隠されていた理念の現実化」に、人間の自己意識・理性・思惟の類的活動によって対象化された「人間的な理念の絶対者」(「存在者レベルでの神」)に「侵入」され、侵食されたのである。
さて、前述したような「表向きは啓蒙主義を克服した、しかし実際には啓蒙主義を頂点にまでもっていって完成させた、十八世紀から十九世紀に移り行く時代の観念論」を「最も首尾一貫して自分のものとした……、すなわちヘーゲルに合せて方向づけられた神学」の「ヘーゲル派」から「意識的にはっきりした形で、神の人格性の概念に反対する動きが出てきた」。何故ならば、「もしも神が、……ただ最高の理念、あるいはすべての理論的――実践的――美的な理念の起源、あるいは精神でしかないとしたら、あるいは人がこの精神を知り、この精神の中ですべての理性性の起源を知り、そのものの中で絶対者を、あるいは人間の最高善を知ることによって、神を知ったのであるならば」、「その時には、何故、どのようにして」、神は「一人の方」・「人格であることができ、あることがゆるされるのかということ」を、「見極めることはできない」からである。したがって、その時、「人は、各人が自分自身のことを知ることによって、知ることができると考えたのである」。したがってまた、その時、「人格とは、精神が個々の姿で現われてくること、精神のそれとして、限界づけられた、偶然的に必然的な、個別化のことである」と考えたのである。何故ならば、理性的なものは現実的であり、本質は現象しなければならないから、現象とは、自己意識・理性・思惟によって反省的に認識され自覚され対象化された現実性、すなわち本質を媒介させた反省概念としての現実性のことであるからである。この時、「どうして精神の無限性が、人格性の概念によって精神に帰せられた有限性と調和することができ」るのかという問いを喚起するのである。何故ならば、「スベテノ制限ハ否定デアルと人は、スピノザに従ってすべてのニュアンスを込めて語った。人格性とはまさに制限を意味している。したがって、それは、絶対者には耐えられない否定を意味している」からである。「人格性は……自我性をそれによって自己から切り離す他者に対して、自己を集中していく自我性である。それに対して、絶対性は、包括的なもの、制限されないものであって、それはほかならぬ、あの人格性の中に含まれている排他性そのものを自分から排除する。したがって、絶対的な人格は、そのところでは何も考えられない非存在である(D・F・シュトラウス)」。それに対して、「A・E・ビーデルマン」は、「神の人格性の主張は、まだ表象程度の有神論の合言葉でしかないのである。しかし、(≪人間自身の≫)厳格な思惟によって、この表象は、純粋なただ神だけがそれにふさわしい(≪自由を原理とする、「第一動者」として自己運動する≫)絶対精神へと止揚されなければならない」(しかし、この時、キリストにあっての神は、人間自身の自由事項・裁量事項・決定事項の対象として、人間自身によって、神と人間との無限の質的差異は止揚され、自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在・全き自由の神の主権は剥奪されてしまったのである)。このよう訳で、「『人格性』の本質……人格性の発生、存続にとっての不可欠な諸条件についての反省」が、キリストにあっての「『神の人格性』について語ることを不可能にしている……」のである。このようにして、聖書的啓示証言における「神観と一般的な精神概念とを混ぜ合わせる……混同」の「過ち」を、「古正統主義」を含めて「十九世紀の哲学的――神学的な思想家たち……キリスト教教説の最も明敏な研究者たちも、ビーデルマンのような神学者」も、「犯」したのである。何故ならば、「彼らが絶対精神を称揚する時」、その思惟と語りを、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、聖書的啓示証言のそれ)――すなわち「聖書の啓示を標準(≪原理・規準・法廷・審判者・支配者≫)としてはかるならば」、「いや、その標準(≪原理・規準・法廷・審判者・支配者≫)に照らしてみるならば」、彼らの信仰・神学・教会の宣教におけるその思惟と語りは、キリストにあっての「神」に仕えていたそれではなく、人間自身の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動が対象化し客体化した「被造物的な神(≪この場合、神は「存在者レベルでの神」である、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神とはまさに人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」≫)に仕えていた」それであったからである。したがって、ブルトマンを揶揄・批判したハイデッガーが言うように、彼らの神は、それ故に彼らの宣教における救いと平和は、対象化された彼ら自身の自己意識・理性・思惟の類的本質としての「存在者レベルでの神」、それ故にその人間神による救いと平和の企てでしかなかったのである。言い換えれば、彼らは、「首尾一貫して」、聖書的啓示証言におけるキリストにあっての「神の人格性(≪単一性・神性・永遠性を本質とする、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊としての存在の仕方、愛の行為の出来事としての神の存在、性質、働き、業と行為――創造、和解、救済≫)を認めなかったということ」、それ故に「福音主義神学の対象」を――すなわち「イエス・キリストの名」を「全くその視野から見失ってしまった」のである。すなわち、彼らは、「事実、人格ではなかった」ところの「絶対精神」を「神学の対象」とすることによって、「神の人格性」を見失ってしまったのである。彼らは、「人格性」を、それを「思惟し、表示する人間に帰したのである」。すなわち、彼らは、人間的「主体」を、「絶対精神、最高善、無限の存在について思惟し、表示することのできる主体として理解した」のである。人間の神化あるいは神の人間化を志向し目指す主体として理解したのである。したがって、その時、「無限なる者は、……結局そのようなものとして、有限なる主体の賓辞である」、換言すればそのような人間の側からする、神と人間との無限の質的差異の止揚である。したがってまた、「この無限なる者」は、すなわちその主体の「支配にこのような仕方で服している神」(「存在者レベルでの神」、「存在者」)は、その「主体にとって、……この主体自身の有限性にもかかわらず、決して不快なもの、脅かすもの、裁くもの、となることはできない」のである。何故ならば、そのような「無限なる者」・「神」(「存在者レベルでの神」、「存在者」)は、決してその主体の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者となることはできないからである。この場合「結局常に、……有限な主体の本質」は、「この無限な賓辞(≪無限なる者≫)の主体として、疑いもなく人格」――すなわち「認識し、意志する<われ>」であるという「確信」にある、「この無限なる者に相対して主権的に思惟し、表示しつつ業に従事している人格であるという確信」にある。したがって、「賓辞(≪神、「絶対なる者」・「無限なる者」≫)は、いかなる事情のもとでも主体として考えられ表示されてはならない」のである、それ故に「絶対性と無限性」としての「神は、いかなる事情のもとでも人格として思惟され表示されてはならない」のである、換言すれば神、すなわち「絶対なる者」・「無限なる者」は(主辞)、人格である(賓辞)というように、「思惟され表示されてはならない」のである。このように、定義は、常に、人間主体の自由事項・裁量事項・決定事項であって、それ故に人間主体が思惟し表示することでなければならないのである。何故ならば、思惟し表示する主体の人間が、もしも神、すなわち「絶対なる者」・「無限なる者」は(主辞)、人格である(賓辞)であると定義したならば、「神の無限性は神ご自身の無限性であって、人間の無限性ではないということを認めることになるからである」・「神は人間の理性理念の総内容であるという前提が否定され放棄されてしまう」からである・「全くただ人間の自己意識に基づいた知識を疑問視ししてしまうことになる」し、「それと共に人間の人格性(≪「認識し、意志する<われ>」≫)を最も深刻に疑問視してしまうことになる」からである・「そのことによって人は、見えるもの、見えないもの」、それ故に「すべての事物に対する彼自身の創造的な役割を、……まさに取り去られることになる」からである。人間の自由な自己意識・理性・思惟の無限性を貫徹することができなくなるからである。このことは、「啓蒙主義、浪漫主義、古典的な観念論によって教育された世代の最も聖なる確信によれば、いかなる事情のもとでも決して起こってはならないことであった」のである。このような訳で、神は人格性であると記述することは、すなわち神(「絶対なる者」・「無限なる者」)を人格性として賓辞することは、人間的「主体を除去しなければならない」ことであったから、「それらの世代にとって……決して犯してはならない馬鹿げたこと」であったのである。このような、キリストにあっての「神と理性理念の間の……等置」における「近代の成果全体」は、「人間の自己意識」と「現実に区別される神的自己意識の現実性あるいはただその可能性によって」「人間の自己意識が震撼させられることに対して防ぎ守」るという点にあったから、またヘーゲルの歴史哲学の方法と同じように「太古の野蛮さ」が「『単なる理性の限界内での宗教』の領域に侵入してくること」に対して「防ぎ守」るという点にあったから、「ヘーゲル派の神学者たちは、神の人格性を……鋭く、また断固として否定せざるを得なかったのである」。
前述したところに、人間学との混合を志向し目指した彼ら自身の観点からする「キリスト教会の護教論」があったのである。したがって、その「キリスト教会の護教論」は、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者を、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、「イエス・キリストの名」、客観的な「啓示の実在」そのもの、「永遠的実在」としての啓示の客観的な現実性(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ、客観的な啓示の「概念の実在」、「啓示の概念」の客観的な現実性)には置かないところの、それ故に人間学との混合を志向し目指したところの彼ら自身の観点からする「キリスト教会の護教論」であったのである。このような「新しいキリスト教会は、一七〇〇年以降ますます意識的に、決然と自分の考えをまとめ、強固にし始めたのである」。われわれは、「ただここのところからだけ、神の人格性を否定する彼らの否定」を「実際に理解」することができる。「神の人格性を否定する彼らの否定」は、彼らにおいて「普遍的となった」次のような「前提を繰り返しただけ」のそれであったのである――すなわち、彼らにとって、人間は、「その理性の理念(≪思惟に思惟を重ねて具体的普遍の頂へと高次化し、その現実性の頂へと高次化した最高の現実存在としての「理性の理念」≫)を考えることによって、神のことを思惟することのできる人格であり、まさにそれ故にこそ、それを確証しつつ、神は絶対的で無限な者として考えられなければならない」のであるが、「しかし、いかなる事情のもとでも」、神は、「人格として、それと共に」・人間に対して優位に立つ人間の競争相手として・「人間の立ち勝った競争者として考えられてはならないという」「前提を繰り返しただけ」なのである。言い換えれば、彼らは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を止揚するという「前提を繰り返しただけ」なのである。このような訳で、「啓蒙主義、浪漫主義、観念論の地盤の上では、神の人格性のこの否定は不可避的であったし、今も不可避的」なのである。何故ならば、キリストにあっての「神と理性理念」の「等置でもってことをはじめる者は、……彼がそのことを知り、意志しようが、またそうでなかろうが、神が人格であることを既に否定した」ことになるからである、「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」が、「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方・存在の態様(性質、働き、業と行為)において「三度別様」に――バルトは、この「三度別様」の「三つ」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」概念と区別させるために、「人格の名で呼びことを避け」て、「存在の仕方」・「存在の態様」と呼んだ、それ故に「三つの神的我」、「三つの対象」、「三神」ではない――、起源的な第一の存在の仕方である父(創造主)、父によって父から区別されたところの第二の存在の仕方である子(和解主)、愛に基づく父と子の交わりである「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊(救済主)なる神であるという、イエス・キリストにおいて自己啓示したところの三位一体の神を否定することになるからである、神の愛の行為の出来事としての神の存在、その存在の仕方(神の人格)を否定することになるからである。したがって、キリストにあっての「神と理性理念の間」の「等置でもってことをはじめる者」は、イエス・キリストにおいて啓示された「まことの本来的な人格性を、理性理念の主体としての人間に帰したのであり」、それ故にイエス・キリストにおいて啓示された「人格的な神への信仰との解消し得ない矛盾に向かって一歩を踏み出した」のである。言い換えれば、ハイデッガーがブルトマン(その学派)を揶揄・批判したように、彼らは、その時、人間の自己意識・理性・思惟の類的活動が対象化したに過ぎない「存在者レベルでの神(≪偶像≫)への信仰」(人間崇拝)に向かって「一歩を踏み出した」のである。このような「信仰を弁護しようとしたすべての現代的な弁護も、……あの等置」、すなわち「ヘーゲル学派の神学者たち」のようにキリストにあっての「神」と「理性理念」の「等置でもってことをはじめる」という「同じ地盤の上に」立っていたことによって「病んでいた」のである。すなわち、現代的な弁護者たちは、「ヘーゲル学派の神学者たちに対して」、同じようにキリストにあっての「神」と「理性理念」の等置を前提として、今度は「人間自身の現実存在の最も本来的な、最良のものを言い表さなければならない」が故に、それ故に「まさに絶対精神の、最後的な、最高の、いや決定的な」賓辞を記述しなければならない故に、「神に対してもまた人格性が帰せられなければならないのではないか」というように答えたのである。人間は、自己身体を座とする自己還帰する対自的であって対他的、自由な自己意識・理性・思惟の無限性、類的活動によって、「一方では世界の部分として、他方では自分自身が世界の中心として知ることから成り立っている一つの頂点へと向か(H・ジーベック)」うことができる。マルクスにとって、人間は自然の一部である。この場合、自然は、自然としての自己身体であり、他者身体であり、外界としての自然(第一次的に天然自然であり、それと共に人間化された自然である人間的自然、非有機的身体である)である。人間はこの場所で、身体と精神を介した、普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動を行う。ここに、肉体的身体的および精神的意識的な、人間の類的な活動や生活がある。それは、人間諸個人による全自然の対象化であり、非有機的身体化であり、人間化であり、そのことによってまた人間は、人間の自然化、人間的自然として有機的自然となる。それは、人間の歴史的行為である。諸個人の全自然の非有機的身体化によって生み出された人間的自然は、それが感覚的客体としては孤立していても、現実的な生活過程においては媒介的に他の人間と関係づけられているから、それは協働関係としての社会を構成する。そして、その人間の類の時間的累積は、自然史の一部としての人類史の自然史的過程である経済社会構成の拡大・高度化、科学・技術の発達やその知識の増大、生活的利便性の向上へと向かう。このことは、自然史的必然に属しているから、さまざまな法的規制等によって遅延させることはできても、停滞させたり逆行させたりすることはできない。また、そこにおいて様々な観念諸形態が生み出されるのであるが、その観念諸形態は、それ自体の自体的展開と自己増殖過程を持ち時間累積されていく。それらは観念を本質としているから退行も逆行も可能である。「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和、類の時間性≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力(≪言語、性・対・対の共同性としての家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(『ドイツ・イデオロギー』)・「私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするものではない。個人は、主観的にはどんなに諸関係を超越していると考えていても、社会的には畢竟その造出物にほかならないものであるからである」(『資本論』)。ジーベックは、「自分自身が世界の中心として知ることから成り立っている一つの頂点へと向か」うことができるという意味で、「自分自身を理解しつつ、人間は世界を自分の自己保持と自己確証の手段とみなすことが許される」と言うのである。ジーベックは、「それ以上に」、「人格性は、自分の倫理的な特性が世界全体の根拠の上に基づいていると認識する」。したがって、「世界は、人格性が現れれ出ることを目指していなければならない」し、「神概念は、(≪神と人間との無限の質的差異を止揚されたところで、人間の側からする≫)人格的な類比に従って構成されなければならない」とする。したがって、「人格的なものの本質は、経験から超越的なものの中に投射される(H・ジーベック)」(何故ならば、「経験的な人格性のすべての特徴は、絶対的な本質に適用された場合に、その論証的な思惟可能性を失うから」)。このような訳で、ジーベックは、「宗教史全体」が「一つの幻想として説明」されないようにするために、「神の現実の人格性」という概念を要請したのである。「歴史上のすべての力強い精神的な運動は、常に、特定の精神的に強靭な人格性をもった者たちの生の深い内容に基づいて生まれたものである」(ここでジーベックの「特定の精神的に強靭な人格性をもった者たち」という概念について言えば、それは、「神の現実の人格性」の手段・道具としての、それ故に「書かれた歴史」に登場するところの、世界史的個人・英雄・「神の人格性」の体現者というものをイメージすることができるそれである、この時「書かれた歴史」には登場しない被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民は、その思惟と語りの対象から、全く排除されていることを知ることができる、全く閉じられていることを知ることができる、すなわちジーベックの党派的な思惟と語りを、党派的思想性を知ることができるのである)。しかし、この要請概念は、ジーベックが要請したそれでしかないから、彼の考える宗教史はやはり彼が考え出した「一つの幻想」そのものでしかないのである。「これと似た仕方で、H・ロッツェ」は、「自分にとって予感することが許されている最高のものを実在として把握したいと願う心情の憧憬に対しては、人格性の形態以外の他の存在形態は満足なものではあり得ないし、……問題となることさえできない」から、「その心情」は、「自己を所有し享受している生ける自我性すべての善きもの、すべての善の不可避的な前提および唯一の可能な故郷であるということを確信して」いると述べている、それ故にわれわれは、「始まりつつある宗教が、その神話を形成しつつある初期の段階において、自然的な実在を精神的な実在に変容させようとして働いているのを見出す」のであるが、すなわちそのことを認識し自覚するのであるが、「そのような始まりつつある宗教は、精神的な生命性をさらに堅固な根拠としての盲目的な現実性」にまで遡らなければならない必要性を感じなったと述べている(因みに、ロッツェがこのように述べている宗教の段階の人々――すなわち人類史の原型・母型・母胎の段階における人々は、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』や吉本の『アフリカ的段階について 史観の拡張』によれば、すなわち例えば人類史の原型・母型・母胎である縄文的段階の名残りを残していた明治期のアイヌ人は、善悪・道徳の観念、高度な宗教を持たないが、誠実、高貴、立派な生活を送っていたし、総体として「純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやり」があったのである)。「そのような訳で、K・ローテ」は、「人は、愛する神をそれほどまでに高貴なものと考え、神に対して、人間的な本質に特有な諸々の長所を形作っているすべてのものが拒まれねばならないと考えることは頑固な妄想である」、と述べた。また、「そのような訳で、A・リッチュル」は、「神々の人格性の承認は、『宗教が人間の精神生活に対して主張している価値を暴露している』」と述べた。「これらの考察は、神の人格性を否定するものと共通の前提」、「神」と「理性理念」の等置という前提、すなわち「<神>は<人間的な最高価値の総内容>として理解されねばならないという共通の前提」を持っている、換言すれば神と人間との無限の質的差異の止揚、すなわち神の人間化あるいは人間の神化という「共通の前提」を持っている。総括的に言えば、両者とも、自然神学の段階・枠組み、換言すれば自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階・枠組みの中で停滞と循環を繰り返すという前提をもっている。
前述したような、「神の人格性」の「弁護」について、第一に、「もしも絶対者が人間的な理念の絶対者であるならば」、「『絶対的な人格性』という概念」は、「シュトラウス」の言うように「無意味ナコト」、「ビーデルマン」の言うように「形容矛盾」であった。すなわち、そのような弁護は、「技術的に貫徹できないもの」なのである。先にも述べたように、「神の人格性」の「弁護」は、「人間自身の現実存在の最も本来的な、最良のものを言い表さなければならない」が故に、それ故に「まさに絶対精神の、最後的な、最高の、いや決定的な」賓辞を記述しなければならない故に、「神に対してもまた人格性が帰せられなければならないのではないか」という問いの中から要請された概念であった。この時、「精神、善、あるいは存在の無限性」が、(≪有限な≫)「人間的な理念の内容として考えられる限り」、また「『絶対的な人格性』という概念」がそのことから要請された有限な人間的な概念である限り、しかしそれらの概念が「否定され……除去されるべきでないとしたら」、それらの概念を疎外した有限な「主体そのもの」においては均衡がとれているとしても、「しかしまさにそれ故にこそ」、その同じ有限な人間的な主体の「賓辞の中では、(≪「『絶対的な人格性』という概念」は≫)必然的に否定され」「除去されなければならない」のである。したがって、「ロッツェ」は、「第一に、人間的な人格性を構成している我と非我との対立」を、「精神と……本来的な外界を契機に発生した表象との対立に還元」し、「それから逆に、それが『自ら存在するすべてである』ことによって、それにもかかわらず絶えざる活動の中にあるために」、それ故に「人格性であるために、そのようないかなる外的な契機も必要としない(≪それ自体の自体的展開と自己増殖過程を持つ自己運動する≫)無条件的な精神を要請したのである」。このような訳で、「プロテスタント神学が、(ローテからリッチュルに至るまで、また部分的にはなお現代に至るまで)まさに神の人格性へのこのロッツェ的な弁護を卓越した有益な事柄であると……と信じたということ」は、「現代のプロテスタント神学の洞察」の「よいしるしでは決してなかったのである」。すなわち、それらの洞察は、神と人間との無限の質的差異の認識と自覚を後景へと退けた神の人間化あるいは人間の神化のベクトルを持つ「近代的な自己意識」に対する根本的包括的な原理的な批判とはなり得ないものだったのである。言い換えれば、それらの洞察は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリストの教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、「イエス・キリストの名」、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言のそれ、客観的な啓示の「概念の実在」)を、その第三の形態に属する全く人間的な教会の信仰・神学・宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えらることを通して教えるという仕方におけるそれではなく、それ故に「聖書の神概念には疎遠な、近代的な人間学的な思惟の環境の中で、とりわけ人間的な人格性という概念を経由していく不思議な回り道を通」りながら、それ故に神と人間あるいは神学と人間学との混合において、すなわち自然神学の段階・枠組みあるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階・枠組みにおいて、「力を奮」いながら恣意的独善的に「依然として聖書の神概念への想起」が行われたのである。このような訳で、第二に、そのような「神の人格性」の「弁護の仕方……の試み」は、すなわちその近代主義的プロテスタント主義的な「近代的な神論全体の特有な要請の性格」は、「確かに現に危険な仕方」のそれであるということを、自ら自己「暴露した」のである。総括的に言えば、それは、「現代のプロテスタント神学の洞察」が、旧態依然として、自然神学の段階であるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返しているだけであるということを自己暴露したのである。このことは、前回の教条主義化した日本基督教団の戦争責任の告白<再考>において述べたことからも明らかなように、現在も連綿と続いているのである。このような訳で、バルトも、そのようなキリスト教に対して根本的包括的に原理的に批判したフォイエルバッハの言葉を引用している。「ずっと以前に、L・フォイエルバッハ」は、「次のように書いた」――「神学は人間学である。換言すれば、われわれがギリシャ語でテオス〔神〕、ドイツ語でGott〔神〕と呼ぶ宗教の対象の中で、人間の本質以外の何ものも語っているわけではない。あるいは人間の神は人間の神化された本質以外の何ものでもない」、「キリスト教は異教を偶像礼拝だと言って非難した。プロテスタント主義は、カトリック主義、すなわち古いキリスト教を偶像礼拝だと言って批判した。そして合理主義は今、プロテスタント主義、少なくとも古い正統主義的プロテスタント主義を偶像礼拝だと言って非難している。……しかし、わたしはさらに先に進んで」「また合理主義も、いわゆる思惟、あるいは理性の信者も彼が崇拝する神を自分にかたどって造るのである。生きた原像、理性主義的な神の原型は理性主義的な人間なのである。すべての神は、結局、空想の産物……しかも人間の像、しかし人間が自己の外に措定し、独立した本質として思い浮かべる像である」、何故ならば、「聖書に書かれているように、神が神にかたどって人間を造ったのではなくて、わたしが『キリスト教の本質』の中で示したように、人間が人間の像にかたどって神を造ったからである」・「キリスト者にとって、精神、すなわち感覚し、思惟し、意志する本質は、彼の最高の本質、彼の理想であるが故に、彼はそれをまた自分の第一の本質にする。換言すれば彼は、自分の精神を自分の外で存在し、彼と区別される対象的な本質(≪対象化された人間の自己意識・理性・思惟の無限性、「類概念以外の何ものでもない」ところの「無限の精神」、「全知、全能、遍在」性、人間の自己意識・理性・思惟が対象化した類的本質――この時、それを疎外・対象化した主体はこちら側にあるにもかかわらず、第一義性・価値性はいつも疎外されたもの・対象化されたものの側に移行する≫)に変えるのである」(『宗教の本質』)。何度も引用しているのであるが、『キリスト教の本質』では次のように言われている――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」、「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」。「人は、ここで、神の本質は、人間的な主体の賓辞であるという近代の神論の秘義が、同じように観念論の学派から由来し、教会に対して全く興味を失っていた一人の哲学者(≪ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ≫)によってずっと前に、余すところなく語り尽されていたということを見る」のである、換言すればフォイエルバッハによって正当性と妥当性をもって為された根本的包括的な原理的なキリスト教批判を見出すことができるのである。このようなフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーからする、根本的包括的な原理的なキリスト教批判に対して、聖書的啓示証言に「絶対的」に信頼し固執し連帯することを通した信仰・神学・教会の宣教の、その原理およびその認識方法と概念構成によって、それらの批判を根本的包括的に原理的に包括し止揚し克服していく課題と方途を明確に提示した神学は、バルト自身の神学しかないのである。このことは、確信をもって言うことができる。
このような訳で、「人間学としての近代の神学の性格」を、「ビーデルマンのような教会的な心情を持った近代人が可能だとみなしたように」「覆い隠すことはできなかったとしても」、「この事柄を神の人格性の反対者ではなく、むしろ弁護者たちが為したように」、声高に「知らせることは、ますますもって、ここでの事情を全く知らない無類の無知を意味している」ということである。ここで、『説教の本質と実際』を書いたバルトの説教論と、ルドルフ・ボーレンの「聖霊論的説教論」とを、またそれを評価し首肯する日本基督教団立東京神学大学の実践神学者の小泉健やエーバハルト・ブッシュの『バルト神学入門』を翻訳した神学者の佐藤司郎の論述とを比較考量してみれば、すぐにそのことを理解することができるのである。悪意を持ってか、それ以外の理由からか、バルト自身の神学の一部分を拡大鏡にかけて全体化し、それ故に必然的に曲解して、それ故にまたその根本的包括的な原理的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて」、ボーレンや小泉や佐藤は、バルト神学においては人間の経験の位置づけが弱いと断定して、「人間の経験」の引き寄せ(尊重)が必要であると主張したのである、それだけでなく前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したがそのハイデッガー自身から根本的包括的な原理的な揶揄・批判をされたブルトマン(その学派)を見ればすぐに分かるように、そのようなことはあり得ないにもかかわらず中世的思考に退行して「神学の優位性」を確保しつつ神学と人間学との<混合>神学が必要であると主張したのである、換言すれば近代以降に現存する近代主義的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や社会構成・支配構成・文明的文化的構成や社会的政治的な言説・実践の引き寄せ(尊重)が必要であると主張したのである、ちょうど終末論的観点からする終末論と歴史との統合において自由を原理とする西洋近代を頂点とした神学的な三段階的進歩史観を主張したモルトマンや、それを評価し首肯しメルロ・ポンティの身体性に基づく歴史への関わりを主張した喜田川信のように。彼らに共通しているのは、彼らが、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に対する認識と自覚がないなために、その起源的な第一の形態の神の言葉――すなわち、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には、イエス・キリストによって唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のその人間性と共に神性を賦与されて装備されたイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)を、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として認識し自覚していない点あるのである。彼らは、徹頭徹尾、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し連帯していないのである。彼らにとっては、人間の主張も、人間学的な原理も重要なのである。したがって、彼らは、その宣教、その思惟と語りを、彼らの自由事項・裁量事項・決定事項として設定するのである、それ故に彼らは、その宣教、その思惟と語りの規準を、自らの恣意性独善性嗜好性に、すなわち自らの主観性に置くのである。このような場合、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を前期ハイデッガーの哲学原理に見出したブルトマン(その学派)に対して、ハイデッガー自身は、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(木田元『ハイデッガーの思想』)と根本的包括的に原理的に揶揄・批判したのであるが、それと同じように根本的包括的に原理的に揶揄・批判されるのである、ちょうど人間中心主義的な人間的現実存在(思索者・詩作者)の自由なその思考、その現存性、その時間化(差異化)と存在了解、その企投性の限界性を自覚した後期ハイデッガーの<転回>によって、すなわち個と類・歴史性と現存性が出会う出来事、「存在の生起の出来事」を自覚した後期ハイデッガーの<転回>によって、ブルトマン(その学派)がハイデッガー自身によって足をすくわれてしまったように。現在、人間学(哲学)は神学の婢であるはずはないのであって、逆に神学が少しでも人間学(哲学)に歩み寄り混合神学を志向し目指すや否や、その学は神学でも人間学でもなくなるのであって、何の役にも立たない学となるのである。彼らに対して、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性の起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に信頼し固執し連帯したバルトは、確信をもって次のように述べている。(1)ブルトマンは「神話的世界像と神話的人間像」は時代の経過とともに、「われわれの前から消え去ってしま」うし、われわれの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわち「語られた内容の表現」は理解できないから、それは「非神話化されなければならない」と語った。しかし、バルトは、次のように語るのである――「聖書註解者」は、「だれに対して」、「誠実と真実をささげるべきなのか?」・「責任的応答をなすべき」なのか? 「同時代の人たちの思考の前提に対してか?」・「そこから形成された理解の規準に対してか?」――否である、われわれは、十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの「実存という場所」において、われわれの「信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、われわれのために「生きて、われわれを支配」し、われわれを「愛し給う」イエス・キリストを、「認識し、持つことができることを示すということ以外の何が問題となるのだろうか?」(『ルドルフ・ブルトマン』)、(2)小泉健が、第三の形態に属する全く人間的な神学者ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、人間自身・説教者自身の自由事項・裁量事項・決定事項のようにして、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と聖霊や聖霊の言葉を実体化させた説教論に対して、教会の宣教にとって最善最良の説教論を展開したバルトは次のように述べている――説教の無条件的な出発点と目的は、「新約聖書において聞く啓示、和解」、イエス・キリストの死と復活の出来事の啓示、その内容である「インマルエル、神われらと共にいます」である、神の愛の行為の出来事としての神の存在である、したがってわれわれは、「キリストからすべてのことを期待しなければならない」、このことが「終末論」である。したがってまた、「キリスト教的終末論とは、キリスト論にほかならない」、ここで説教は、「感謝と確信と共に期待の態度と行動」である、「第一の来臨(≪誕生・死と復活≫)と第二の来臨(≪終末、完成、復活したキリストの再臨≫)との間(≪聖霊の時代≫)に、説教と、また同時にキリスト者の生活全体」とがある、第三の形態に属する全く人間的な教会の説教は、説教者の自由事項・裁量事項・決定事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態(起源的な第一の形態の神の言葉の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)である「聖書への絶対的信頼」に基づく、「聖書講解であることの義務」を負っている、すなわちわれわれは、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、その第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を、説教の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、教会の<客観的>な信仰告白および教義(類)の時間累積においてキリスト教に固有な歴史性に連帯していく義務を負っているのである、したがって「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言いつくしていない(≪近代主義的な人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍や情報等が不足している≫)と考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生き」ようとしていないのである、<純粋>なキリストの福音は、<純粋>なキリストにあっての神は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、われわれは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、聖書に「聴従」することの前で、「放棄」しなければならないのである、あくまでも神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断よる「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「聖書は神の言葉となる」ところで「聖書は神の言葉なのである」、すなわち聖書に「聴従」するために、神のその都度の自由な恵みの決断に基づく客観的な啓示の出来事とその出来事の主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、その神の言葉の「出来事」の自己運動の中において、聖書によって導かれなければならないのである、説教者にとって「彼らに語らなければならない彼ら自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである、そこにおいて説教は、「会衆」、「特定の場所と時における全く特定の現在の人間」の生活、「彼らの生活がイエス・キリストの中に根拠と希望とを持つことを語ること」である、その場合「ただ聴衆にだけ目をとめてはならない」のであって、その現にあるがままの不信、非知、非キリスト者、被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民にも眼をとめて語らなければならないのである、説教者はその信仰・神学・教会の宣教における思想の往還において「『貧しい、低きにいる民』、非知、被支配としての大多数の一般市民・一般大衆・一般国民を繰り込まなければならないのである、また説教者は、説教として語る場合、聖霊や聖霊の言葉を、説教者の自由事項・裁量事項・決定事項として実体化してはならないのである、換言すれば説教者自身が対象化し客体化した「聖霊が(あるいは別の霊であっても)言葉を吹きこむこととか、あるいは一つの構想を持っていることなどあてにしてはならない」のである、「説教は語ることであるが、……一語一語準備し、書き記しておいたもののこと」である、また説教者における会衆の状況認識について、会衆は現在すべて知的大衆であって、「その生活を十分に知っており、実際のところ、牧師によって手ほどきされる必要はない」のである。このような訳で、先ず以ては、日本基督教団の戦争責任の告白にしても、同じ水準の最近の「平和を求める祈り」にしても、カトリックの「抗議声明」にしても、それを為す指導層たち自身が、真剣に真摯に、戦前の敗北の構造と、現存する自分たち自身の状況認識の在り方を<再考>してみる必要があるのではないだろうか。