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『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(その4−3)−2

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(その4−3)−2(424−449頁)

 

「二 人間の神認識の真理性」(その4−3)―2
 「われわれは今もう一度、神の啓示(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」という聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、イエス・キリストにおける神の自己啓示≫)の中での隠れと顕れが共に互いに中に入り込み合っている姿に出会った」。一方で、「神がその啓示(≪第二の存在の仕方における顕われ・顕現≫)の中でまたご自分(≪その存在と本質≫)を隠し給うということ、そのことがわれわれの言葉と神の存在との間の関係を言い表す言葉として、同一性という概念を排除する」のである。他方で、「神がその啓示の中でまたご自分を(≪その第二の存在の仕方において≫)顕わし給うということ(≪それ故にその第二の存在の仕方においてその存在と本質の認識と信仰を要求するという仕方で、顕わし給うということ、この「神の隠れと顕われ」という啓示の弁証法≫)が、不同一性の概念を排除する」のである。これは啓示自身が持っている啓示の弁証法である。この啓示の弁証法は、人間的な「恣意に基づくいかなる変化と交代も成り立」たせることはない、神の側の真実としてある、それゆえに客観的現実性としてある「目的論的に秩序づけられた弁証法」である。この「神の隠れと顕われが、(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」というイエス・キリストにおける≫)神の啓示の中でまことであるということ」が、「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比という「類比の概念を用いるようわれわれを強いるのである」、すなわち啓示が、「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比という「類比の概念」を措定するのである。したがって、「われわれは、これら両方(≪神の隠れと顕現≫)の概念でもって神の啓示の恵みについて語っているのである」。「何故ならば、神は、ただ単にその顕われの中だけでなく、またその隠れの中ででも、ただ単にわれわれの業に相対して罪をゆるし、聖化する然りの中だけでなく、その裁く否の中ででも、恵み深くあり給うからである。そして、ただその顕われの故にだけ、神はご自身を覆い隠し給う。ただその然りの故にだけ、神はまた否を語ろうと欲し、語り給わなければならない」。何故ならば、われわれ人間は、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(≪最後的には、神の人間化、人間の神化≫)もという不信仰・無神性・真実の罪のただ中にあるから、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられなければならない存在だからである。この意味で、神の「顕われと隠れは、(≪先行する≫)神がわれわれと共に進み行く道を言い表している……」。「目的論的に秩序づけられた」啓示の弁証法の「外では」、「福音は、……また律法」も、「その都度そのようなものとして、換言すれば(≪二元論的なあるいは二元主義的な≫)神の福音および律法として、われわれにとって疎遠なものであり続けなければならないであろう」、ちょうどルターが『キリスト者の自由』で、二元論的あるいは二元主義的に律法と福音を対立させ、律法から福音へという順序を述べたように(現在、時代状況的に希薄化していると言えるが、ルターに強烈に存在したところの人間が「律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」は、主観的にはそれぞれの強弱はあれよく理解できるものである、しかしその「生の不安」は、神の側の真実としては、それゆえに客観的現実性としては、「永遠的実在」としては、「神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許され」ているが故に、「イエス・キリストにあって義とされている」が故に、すでに「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取り囲まれた不安に過ぎない」)。バルトは、『福音と律法』で、ルターの二元論的なあるいは二元主義的な「律法と福音」論を根本的包括的に原理的に批判して、すなわち止揚し克服して、「福音と律法」という順序で、律法を、キリストの福音を内容とする福音の形式、として論じたのである、すなわちあのような仕方での「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の連関と循環における、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えとして論じたのである。「正しく見られ理解された福音は、常に勝利に満ちた、常に最後の言葉(イエス・キリストにおいてのみ完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、われわれの生と生活がただイエス・キリストの中にだけ「根拠と希望とを持つこと」、「われわれの生命がキリスト共に保管されていること」)を手放さない福音である」。その福音は、「律法を、訓練する教師(≪内容≫)として、自分の外にではなく、(自分の前にでも、後ろにでもなく)自分の中に(≪福音を内容とする福音の形式として自分の中に≫)持って」いる。言い換えれば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それ故にキリスト教に固有な類・歴史性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯したところでの、終末論的限界の下での「われわれの言葉と神の存在との部分的な対応と一致」は、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性において「与えられている約束である」。
 バルトは、「人間的な神認識の真実性の問題が……アナロギア問題の形態の中で……どのように昔の神学おいて取り扱われたか」について、「A・クエンシュテットの記述を選ぶこと」によって、次にように論じている――@「ドン・スコトスとその学派」において、「本質、実体、霊、善、知恵、正義のような諸性質」・「属性」は、「神オヨビ理性的被造物ニ関シテ……類比的ニ用イラレテイル」、「同ジ意味デ語られている」、すなわち彼らは「人間的な言葉と神的存在との間の同一性についての命題」を述べている。それに対してクエンシュテットは、「被造物が神と共通に持っているもの」を、「被造物は、神に依存する形で」、すなわち「先ず第一に~の中で存在し、それからはじめて神を通して、被造物の中で存在するという仕方で持っている」、と「異論を唱え」ている。すなわち、それらは、「神についてと被造物について、同ジ意味デ語」ることはできない、と述べている、換言すれば「同じ概念を二つの異なった対象に適用しつつ、その都度一方の中と他方の中で違った事情を言い表しているものは、違ッタ意味デ語られている」・「名ヲ共通ニ持ッテイルガ、名ニヨッテ表示サレテイルモノヲ共通ニ持ッテイナイモノハ違ッタ意味デ、ひとつの概念の下に立っている」。このことは、「われわれが、われわれの言葉と神の存在(≪その第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の自己啓示、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」、その存在と本質は隠されたままの神の存在≫)との間の不同一性についての命題と呼んだところのことである」、Aクエンシュテットは、「この命題が、特に一七世紀初頭のある改革派神学者たちのところで代表されているのを見出した」。「事実……ポラーヌスのところで……霊ハ神ト天使ト人間ノ霊魂ニツイテ決シテ同ジ意味デ語ラレテオラズ、違ッタ意味デ語られている」。このことに対して、クエンシュテットは、「神は確かに本質オヨビ実体ニオイテ最モ卓越シタ方であり給うことによって、また被造物もソレ自身特有ナ仕方デ存在、本質、実体である」・「また神は確かに独一無比な仕方で霊であり給うが、他方天使たちと人間の魂もそれなりの仕方で霊である」・「神はいかなる非存在も創造し給わず、またキリストは人間の性質をおとりになった際にいかなる非存在もご自分のものとされなかった」と「異論を唱え」ている。またクエンシュテットは、「違ッタ意味デということを肯定するならば、……神は被造物(≪例えば「神ニツイテ多クノコトガラヲ論証的ナ仕方デ証明シテイルトコロノ哲学者タチ」≫)によって認識されることができない……という理由で」、トマス・アクィナスが自然神学の陥穽に陥ってその「違ッタ意味デということを拒否した時」、そのトマスの「議論の仕方を正しいものとみな」したのである。「タダ神ノミガ本質カラシテ存在デアリ給ウ。シカシソレダカラトイッテホカノモノガマコトニ存在スルコトガ否定サレテイルノデナク、アルイハ存在ノ可能性ヲ持ツコトガ否定サレテイルノデモナイ」、B「同一の概念を二つの異なった対象に適用させながら、それらの対象のうちのひとつのものと他のものの中にある同じひとつの事情を、違った仕方で言い表しているものは、類比的ナ仕方デ語られている」・「名ト名ニヨッテ表示サレタ事物ヲ共通ニ持ッテイルガ、シカシ違ッタシカタデ持ッテイルモノは、類比的ナ仕方デひとつの概念の下に立つ」。この意味で、神と被造物が、「ひとつの概念の下に立つかどうか」という問いに対して、クエンシュテットは、「トマスおよびほとんどの神学者と哲学者(特にルター派のそれ)と一致しつつ肯定的に答え」ている。クエンシュテットは言う。アナロギアにおいては、「譲与ノアナロギア」、すなわち「二つの対象に共通なものがまず第一に、本来、一方のものの中にあり、それから、第二のものがその第一のものに依存していることに基づいて、この第二のものの中にもあるということから成り立っている(二つの対象の間の)類似性が問題である」。このように、「アナロギアはあの第一のものの中ではアナロギアヲ与エルモノであり、この第二のものの中ではアナロギアヲ与エラレルモノである。これが、神と被造物の間に成り立っている類似性」、「それに基づいて両者が共通の概念の下に立つことができる類似性である」。さらに、クエンシュテットは、「神と被造物との間では、ただ単に外的ナ譲与ノアナロギア」だけでなく、「内的ナ譲与ノアナロギアが問題である」、と言う。言い換えれば、アナロギアは、「神にとっても」、理性的な「被造物にとっても」、「内的に本来的ナ仕方である」。「ただその場合、被造物は、それを副次的ニ、依存スル形デ持っている。ソノヨウナワケデ、……神ニツイテモ理性的ナ被造物ニツイテモ……それは実体デアリ、非物質的ナモノデアル等々トイウコトが、マコトニ言ワレルノデアル。ソウハ言ッテモ同ジ仕方ト同ジ意味ニオイテデハナイ。……神ハ絶対的ナ実体デアリ、独立的ナ仕方デ実体デアリ給イ、ソレニ対シテ被造物ハ依存シタ仕方デ参与スルトイウ形デ実体デアル」。ここで注意すべきは、この立場の場合、自然神学の段階において「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致」してしまうのである。
 このような訳で、このクエンシュテットに対して、「われわれは、どの程度まで彼と同じことを語り、どの程度まで違ったことを語ったの……か。この問いにはっきりと答えることは、歴史的にみて報いられること」なのである。何故ならば、クエンシュテットは、「昔の神学を要覧的にまとめた人として認められるから」である、それ故にこの事柄に関して、彼の立場に対する「われわれの立場」を明確にすることによって、「そもそも昔の神学に相対して明らかにして行くことができるからである」。また、この問いにはっきりと答えることは、「内容的にみても報いられるものである」。何故ならば、「この比較は、われわれによって占められている立場を、古典的な相対する立場を念頭に置いて、またそのような古典的な立場を標準にして、もう一度吟味し、解明して行く契機をわれわれに与える」からである。
 「われわれは、……まず共通的なことを確認することにする」。すなわち、それは、「人間的な言葉と神的存在との交わりの意味を問うに際して、クエンシュテットと共に」、形而上学的一面的固定的抽象的な「同一性の概念および不同一性の概念に反対して」、すなわち両者の概念を構造において同在性において引き寄せ、「われわれは……アナロギアの概念」を選択することを「決断」したということである。先ず以て、「われわれは……アナロギアを譲与ノアナロギアとして理解している……彼の立場に同意することができる」。われわれにとってこの「譲与ノアナロギア」は、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての」、それゆえに「神認識に向かっての人間の用意が存在する」という意味での、啓示の側から措定されてくるそれである。何故ならば、われわれの信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、換言すれば人間が人間的に所有する人間の言語を介した直観と概念を用いて為すキリストにあっての神についての認識・信仰は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて(「依存」して)終末論的限界の下で与えられる(「参与」することがゆるされる)ものであるからである。したがって、われわれの言う「譲与ノアナロギア」は、クエンシュテットの言う「神と被造物との間」の与える者と与えられる者との「内的ナ譲与ノアナロギア」、すなわち人間が実体化した人間の生来的な自然的な理性に内在する神概念等のことではないのである。ここに、われわれの言う「譲与ノアナロギア」とクエンシュテットの言うそれとの差異性がある。神と被造物が「ひとつの概念の下に立つかどうか」という問いに対して、自然神学の系譜に属する「トマスおよびほとんどの神学者と哲学者(特にルター派のそれ)と一致しつつ肯定的に答え」ているクエンシュテットは、「この事柄について語っている<問イ全体>の中で」、キリストにあっての「神の啓示について一語も語っていない」のである。すなわち、彼が「譲与について語っている時、彼は事実、神的な啓示の恵みとは全く別なことを語っている」のである。彼は、啓示から措定されてくる類比概念に依拠しなかったのである、換言すれば彼は、「類比」概念を、理性的な「被造物自身に『内的に』、本来的に固有なもの」としたのである、「外的ナ譲与の概念」を選択することを決断しなかったのである、すなわちキリストにあっての啓示のためではなく(それ故に個体的自己としての全人間の救済・平和のためではなく)、「哲学者タチ」のために自然神学の段階にとどまることを決断したのである。「もしも彼が啓示の恵みのことを考えていたのであれば」、「ルター派信者」として「ただ信仰のみによって罪人が義とされるというルター的な義認論を念頭においていたのであれば、……外的ナ譲与の概念」を選択することを「決断したであろう」。何故ならば、彼は、「義認論」について、「原因トナル理由、スナワチ、義認ノ力ヲ」、「ソレ自体デマタソノ本性カラシテ」、「信仰ガ持ッテイルノデハナイ」・義認は、「神ノ自由ナ判定、アルイハ承認ノ故ニ」あるのであって、ある「価値ヲ持ツ」われわれ人間の故にあるのではない、と述べているからである。このことを、神認識の問題に適用すれば、次のように言うことができる――「被造物を神の類比体にする」ものは、「被造物とそのもともとの性質の中に含まれておらず」、またそれは、「神が被造物の性質の中に含まれている何かをご自分から類比体として承認」するという「意味ででも含まれていない」のであって、すなわちそれは、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「神認識の中で類比的に認識された対象、したがって~ご自の真実性の中にだけ含まれている」のである。このような訳で、譲与の「類比は、被造物にとって、受領の形で外的ナ仕方デ含まれているのであって、内的ナ仕方デ含まれているのではない」のである。しかし、彼は、「類比」概念を、理性的な「被造物自身に『内的に』、本来的に固有なもの」としたのである。彼だけがそうしたのではなく、「彼と共に、若干の幸運な例外と首尾一貫性の欠如をもってであるが、正統主義全体」がそうしたのである、換言すれば彼と共に正統主義全体が、自然神学の陥穽に陥ったのである。したがって、彼は、「何の障害も、何の留保もなしに、トマス・アクィナスと共に道を進み」、それゆえに「被造物に対して、創造主に対してと同じように、類比の本来性を帰することができ」たのである。したがってまた、彼は、「明らかに彼が依存について語る時」、「イエス・キリストにあっての神の認識から切り離されても認識」することができるところの、「創造主と被造物との間の関係のことを念頭に置いていた」のである。このような訳で、「既に、人間的な言葉と神的存在の間の同一性と不同一性を否定する否定」(否定的に媒介すること、包括し止揚すること)は、「この否定において(≪「譲与ノアナロギア」において≫)彼と一致するにもかかわらず」、その意味は、「内的ナ譲与ノアノロギア」を肯定する「彼のところ」と「内的ナ譲与ノアノロギア」を否定する「われわれのところ」では「別な意味を持」つことになるのである。すなわち、「われわれのところでは、(同一性についての命題に相対して、キリストにあっての)その啓示の中での神の(≪その存在と本質の≫)隠れの否定の防止であるもの」が、彼のところでは内在する人間の概念の実体化としての「絶対的存在と相対的存在そのものの間の区別の否定の防止」なのである。また、「われわれのところで(不同一性についての命題に相対して)神の(≪その第二の存在の仕方である≫)啓示の中での顕われの否定の防止であるもの」が、彼のところでは「相対的存在と絶対的存在の真理における一致の否定の防止」なのである、すなわち彼のところでは、フォイエルバッハが批判したキリスト教として、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識」であり、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」それであり、それ故に「この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」それである・「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」それである、またハイデッガーが「揶揄」したキリスト教として、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」ところの、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰』(人間自身教会自身が対象化し客体化した偶像への崇拝、偶像への信仰)は、結局のところ(≪神と人間との無限の質的差異の下にある≫)神を見失う」それである。「人間的言葉と神的存在の交わりの真実性を問うに際して、(≪キリストにあっての≫)その啓示の中での神の隠れと顕われを告白したいと思う者は」(何故ならば、聖書的啓示証言で聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」というそれであるから)、「それゆえ同ジ意味デも違ッタ意味デも(≪自然神学の段階で思惟し語るクエンシュテットの立場を≫)拒否」しようとするする者は、「あの交わりを明らかに神の啓示の中に尋ね求め、またあの交わりの真実性」を、イエス・キリストにおける神の自己「啓示の恵みの中に尋ね求める」のである。これとは「逆に、(≪自然神学の段階で思惟し語るクエンシュテットの立場のように≫)一方において絶対的な存在と相対的な存在の間の区別を、他方においてこれら二つのものの真理の一致を主張しようとし、また(≪自然神学の段階で思惟し語るクエンシュテットの立場から≫)同ジ意味デと違ッタ意味デを(両者はあの主張に矛盾するであろうという理由で)拒否する者」は、「あの交わりを神と被造物に共通な存在の中に、そして真実性をこの存在の弁証法の中に、その相違性と一致、一致と相違性の中に尋ね求める」のである、ちょうど自然神学の立場で「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠して、「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」と思惟し語ったアウグスティヌスのように。クエンシュテットは、「一般的な存在の真理のことを言おうとしている」のである。「われわれは、初めから、……それ自身で恵みの特別な存在である存在(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」というイエス・キリストにおける神の自己啓示≫)の真実性のことを言おうとした。そのような訳で、われわれは、それをただ(≪キリストにあっての≫)神の啓示の中に尋ね求めることができた。われわれは同ジ意味デに反して決断を下さなければならなかった。なぜならばそれは、その啓示の中での神の隠れ(≪その存在と本質は隠されたままのそれ≫)を言い表す告白と抗争する(≪相反する≫)からである。また、われわれは、違ッタ意味デに反対して決断を下さなければならなかった。なぜならばそれは、神の顕われ(≪その第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉におけるそれ≫)を言い表す告白と矛盾するからである。そのうちの一方に対しても、他方に対しても、それがまさにその啓示の中での神の恵みを言い表す告白と一致させることができないが故に、反対して決断を下した」のである。この前提の差異性が、われわれとクエンシュテットの「類比の概念」の差異性となるのである。このような訳で、われわれは、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する「部分的な対応と一致」における「われわれの真理は神の真理(≪神の側の真実としてある、神の側から与えられやって来る「神の恵みの真理」≫)であるという命題はひっくり返され得ない命題として理解」したが、「直ちに」「神の真理はわれわれの真理ではない」ということを「付け加えた」のである。しかし、クエンシュテットは、自然神学の立場に立脚して、「ただ相対的なものであることができるだけであるわれわれの存在」は、「われわれが相対的な仕方である者で」、「神が……絶対的な仕方であり給う限り」、「われわれの真理は神の真理である」と言うのである、また「われわれは、神が絶対的な仕方であり給うところのその同じ者で、相対的な仕方である」から、「神の真理はまたわれわれの真理である」と言うのである。このように転倒させた彼は、「恵み」を「真理の標準」としないで、「存在」を「真理の標準」としたのである。したがって、キリストにあっての啓示のためではなく(それ故に個体的自己としての全人間の救済・平和のためではなく)、「哲学者タチ」のために彼においては、「われわれを神の真理にあずからせるために、まず啓示(≪キリストにあっての神の啓示の恵み≫)を必要としてはいない」のである。このことは、同じ自然神学の立場に立脚したヘーゲル主義者のエーバーハルト・ユンゲルも同じである――「アブラハム、イサク、ヤコブの神を、たといこの神が幾何学的方法によって論証可能なお方ではないにせよ、哲学者にとっても、思惟可能な神として信じるにあたいするというふうに思惟することはよいことなのである。ただ福音においてのみ言葉に言いあらわされる神を信じるとき人は哲学者であることをやめねばならないということは、よく分からない」(『神の存在 バルト神学研究』)。「恵み」を「真理の標準」としない両者は共に、「神的な力の介入と賦与」の契機の「確認が、……脱落している」のである。言い換えれば、両者共に、自然や人間を対象として学問研究を行う「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、自然神学を志向し目指しているのである。クエンシュテットにとって、「アナロギアの発見」は、「啓示を、そしてまた信仰を必要としない」ところの、すなわちあの神の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づく終末論的限界の下での信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を必要としないところの、「被造物的な存在について、……反論の余地のない仕方で遂行されるべき」人間(「哲学者タチ」)の「自由な反省の道の上で遂行される」ものなのである。また、彼が譲与のアナロギアを語る時、義認について語った時には前景化されていた「恵みの神の自由」を後景へと退かせてしまったのである。すなわち、彼が「内的ナ譲与ノアナロギア」を語る時、彼は神の「自由な介入を通して賦与された神と被造物との類似性についての考えを避けて」後景へと退けてしまったのである、換言すれば彼は、その類比・「類似性」・終末論的限界の下での「部分的な対応と一致」を、「創造主と被造物の共存の中で、共存と共に与えられ確認される類似性として理解」することを「欲し」たのである。このような自然神学の立場に立脚したクエンシュテットの思惟と語りに対して、その立場を根本的包括的に原理的に止揚し克服したところのバルトの思惟と語りは、次のようなそれである――アウグスティヌスの言う三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない、何故ならば、それは、ただ単なる人間の自己意識・理性・思惟による人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」、「単なる宇宙論や人間論」でしかないからである、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話」でしかないからである。言い換えれば、バルトは、教会の宣教(説教と聖礼典)と神学を「ただ啓示の中にのみ基礎づける」ために、聖書的啓示証言に信頼し固執した教会の宣教および神学は、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという「罪深い曲がった人間」(不信仰・無神性・真実の罪のただ中にある人間)の「究極的な限界性」を認識し自覚した人間の言語を介した直観と概念を用いたそれとして、「三位一体を、世界から説明しようと欲」しないで、逆に「世界を三位一体から説明せんと欲」するのである。また、バルトの『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』によれば、アンセルムスもバルトと同じように思惟し語るのである――アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とした、それは、彼にとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった、そしてアンセルムスにとってもそうであったが、アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、@徹頭徹尾キリストにあっての啓示に、具体的には聖書的啓示証言に「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起」において「創造しつつ神について語ろう」とはしなかった、それ故にA「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰(≪バルトの思惟と語りに引き寄せて言えば、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」≫)」を前提条件としていた、Bすなわちアンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死」の必然性を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」が、「教義学的な合理主義」を明確に否定し、神学を一般的真理としてではなく、客観的なキリストにあっての「啓示から得られた」「認識」、人間の言語を介した直観と概念を用いた啓示認識・啓示信仰として考えたのである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』および『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』)。
 さて、「もしもクエンシュテットの言うことが正しいならば、人間によって為される神認識」は、キリストにあっての「神の啓示を度外視しても」、それ故に「イエス・キリストなしにも」成り立つことができるところのそれであるし、それ故にそれは、「現実であるばかりでなく、現実であると」認識し、そのように「われわれによって要求」することができるところの神と人間の「交わりが成り立っていることに基づいて起こる」ところのそれである。したがって、その神認識は、再度述べれば、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動に引き寄せて根本的包括的に原理的にキリスト教批判を為したフォイエルバッハが言うように、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」ところのそれである。したがって、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものであるし、それ故に「この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ものである。 この時、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」にもかかわらず、「神とわれわれの関係」は、「創造主と被造物の両方」が、「創造主は絶対的な仕方で、被造物は相対的な仕方で……存在し、両者に共通な存在は、ただ単に神にとって知られているだけでなく、また人間にとっても知られている」ことになるのである。このような「関係の中でのすべての真理の標準は、決して神ではなく、……神と人間が、前者は絶対的な仕方で、後者は相対的な仕方で参与している存在……である」。その関係性も、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識において「人間が神にあずかる参与ではなく、むしろ神と人間が最後の、最後的には神と人間のいずれに対しても優越した存在の真理(≪その現にあるがままの現実的な人間存在が対象化した「道徳的な、精神的な、超越的な、経験的な、人類的な、個人的な」それ、「最深の本質」、「最高の理想」、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」≫)にあずかる参与」である。「神の恵みと人間の罪、神の啓示と人間の信仰、それらすべてのこと」は、「神は絶対的な仕方で」、人間は「相対的な仕方で……内的ニ、本来的ナ仕方デ、したがって神と共通的な仕方デ持っている存在……にあずかる参与」の形態である。また、「すべての特別なキリスト教な真理」、啓示の真理も、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性も、一般的な真理の類・歴史性の一つの形態である。このように、彼らの「事柄の論理」そのものが、キリスト論を後景へと退けてしまうのである。したがって、「哲学者タチ」のために、自分の哲学的思惟と語りのためにも、人間学的神学のためにも、自然神学の立場に立脚したクエンシュテットや「古プロテスタント正統主義者たち」が、「事実そうせざるを得ないことであるが」、「彼らが一般的な神論の危険な地盤」を、「一度乗り越え」るならば、包括し止揚し克服するならば、「彼らが存在について知っていると考えていることから神について教えられるのではなく」、「神がご自身について啓示されたことから(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいた啓示の類比・信仰の類比・関係の類比を通して≫)存在について教えられることへと戻って行くであろう」と言うことができるのである、「キリスト論から、彼らは、プロテスタントの神学者として、人間の原罪と罪について、意志ノ自由と奴隷的意志について、罪人の義認と聖化について」「教えられることへと戻って行くであろう」と言うことができるのである。このように、「われわれはここでも、……プロテスタント正統主義が……自然神学の事柄に関して作業を続けた……現象の前に立」っていたのである。このような訳で、「われわれは、アナロギアについての正統主義の教えを、そのまま取り上げ繰り返すことはできない」のである。したがって、「一般的な神論の危険な地盤を一度乗り越え」るために、その地盤を包括し止揚し克服するために、「一七世紀の人間に関しては……(≪時代水準という≫)弁解の余地があることだとしても(≪何故ならば、『経済学批判 序言』によれば、「人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題だけだからである、というのは……課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているかまたは少なくともそれができはじめている場合に限って発生するものだ」だからである≫)」、それ以降のキリスト教の神学史における「歴史的な経験によれば、われわれとしては」「弁解」を為すことは「無責任な行為」となるのである。このような訳で、「一般的な神論の危険な地盤」を包括し止揚し克服するために、「われわれは、……昔の正統主義が為したのとは違った仕方」で、すなわち「キリスト論は……神学全体の生の中心であり、あくまでも神学全体の中心であり続けなければならないということを念頭に置」いて、「当然為されなければならないような仕方でアナロギア論を理解し形成しようと努めた」のである。何故ならば、聖書的啓示証言における「事柄から言って、神学においては二重の真理をもって」、すなわちキリストにあっての啓示とは別に啓示から独立した二元論的なあるいは二元主義的なあるいは多元主義的な真理をもって「作業することはよいものであり得ないということ」の認識と自覚が「大事だからである」。このような訳で、「神論においても、また神認識についての教説においても」、「ほかのところからではなく」、すなわち人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、人間の生来的な自然的な理性、悟性、感情、意志、自然を内面の原理とした禅的修行等、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観からではなく、ただ「イエス・キリストから」のみ、起源的な第一の形態の「神の言葉から」(具体的には聖書的啓示証言から)のみ、「語り論じられなければならないということが大切」なのである」、ちょうど「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続ける」というように。
 さて、「われわれとして進まなければならない道の必然性と正当性」は、「神の存在とわれわれの言葉との間の交わりの真実性を問うに際して」、「われわれがその真実性を、クエンシュテットとは違って、はじめから神の恵みの真実性として(≪自主性・自己主張・自己義認の欲求、すなわち不信仰・無神性・真実の罪のただ中にあるわれわれ人間のために・われわれ人間に代わって、イエス・キリスト御自身が信じる信仰という主格的属格として、ギリシャ語原典の「イエス・キリストの信仰」を理解し認識し信仰したのと同じように、神の側の真実として≫)理解したことによって、真実性についてのあの特定の概念(≪「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比というアナロギア概念≫)」を提起したのである。その提起によって、われわれは、「クエンシュテット的なアナロギア論、換言すれば古正統主義的なアナロギア論」における「最後的に恣意的な前提」は、「疑いもなくその教えが内容的にはローマ・カトリック主義の主要教義」、すなわち「そこからは人は、ただカトリック的に、あるいは自由主義的に思惟してゆくことができるだけである」「存在ノ類比についての教説と同じ」であということ、「それ故……(≪クエンシュテット的な≫)あの前提を拒否していかなければということを証明」したのである。したがって、「存在ノ類比的(アナロギア・エンティス的)なアナロギア論を退ける時、そのこと」は、「恣意の行為であると言」ってはならないのである。何故ならば、「われわれはわれわれ自身の(≪選択の≫)決断」を、クエンシュテット的な選択の決断とは違って、徹頭徹尾、その思惟と語り、その選択の決断における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)に置いており、それ故に「聖書が述べていることに対応しており、その限り神の言葉によって要求されている(≪選択の≫)決断」として「基礎づけられていると見做すことができる」からである。したがって、キリストにあっての啓示だけでなく、キリストにあっての啓示とは独立的に二元論的にあるいは二元主義的にあるいは多元主義的に人間論的な自然的人間、教会論なキリスト教的人間、その生来的な自然的な理性、悟性、感情、意志、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍、「実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書は生きるために必要なことを言い尽くしていない」という説教論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観も混合・混在させる自然神学としてのあるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教としての「ローマ・カトリック主義の主要教義(≪存在ノ類比≫)についてのわれわれの神学史的判断も、この標準に照らして基礎づけられていなければならない」のである。「最後的に、本来的に、神と人間との交わりを基礎づけ保持しているのは、神と人間に共通な存在ではなく」、神の側の真実としてある「神の恵みである」。したがって、この視点に立てば、「神の恵みこそが、(それをもってわれわれがアナロギアの問題に近づいていった)前提および標準でなければならない」。「まさに(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態に属する全く人間的な教会にとっては、具体的には第二の形態の≫)聖書こそ」が、「裁判官としてわれわれ(≪われわれの「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比というアナロギア概念≫)とあの別な解釈(≪「存在ノ類比」というアナロギア概念≫)の代表者たちの間に立ち、(≪判決を携えて≫)自ら語ってくることができる」のである。したがって、「われわれの最後の言葉は、まさにこの裁判官に向かって差し出されているわれわれの訴えをはっきりと言葉に出して繰り返すことでなければならない……」。このような訳で、われわれは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態である神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)を、その思惟と語り、その選択の決断における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音を、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)の連関と循環を志向し目指して行かなければならないのである、第三の形態に属する全く人間的な教会のその牧師、その神学者、その成員であるわれわれの思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、われわれ人間自身教会自身の決定事項では全くないのであるから、われわれは「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』」という祈りと共にである。