本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(その4−3)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(その4−3)−1(424−449頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」
「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神はただ神を通してだけ認識され給う。そのようなわけでわれわれは神を、われわれが神の啓示に対し、信仰の中で、応答しようと試みる際に用いる直感および概念の力によって認識するのではない。しかしわれわれはまた神を、神の許しを用い、その命令に聞き従いつつ、そのような〔直感と概念を用いての〕試みをすることなしに、認識するのではない。この試みが首尾よく成功するということは、したがってわれわれが為す人間的な神認識の真実性は、直感と概念を用いて把握しようとするわれわれの営みが神ご自身を通し、恵みの中で、神の真理へと参与させられ、取り上げられ、定められたということから成り立っている(327頁)。

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「一 神の隠れ」(その3−1)で行っていますので、参照してください(2017年8月23日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「二 人間の神認識の真理性」(その4−3)―1
 人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、第三の形態に属する全く人間的な教会のその牧師・その神学者・その成員であるわれわれ人間の言葉を、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における神の言葉の)「その本来性へと導いてゆくこと」は、「われわれの力の中」にはないのである、われわれ人間の生来的な自然的な「理性や力」(悟性、感情、意志、想像、自然を内面の原理とする修行等)にはないのである。言い換えれば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方(業と行為)、啓示・和解、まことの神にしてまことに人間イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態の預言者および使徒たちのその直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」)を、われわれの思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関と循環を志向し目指していくということは、「全く信じることができない」われわれの生来的な自然的な「理性や力」の中にはないのである、換言すれば徹頭徹尾、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を必要とするのである。そうでないならば、必然的に、自然神学の、自然的な信仰・神学・教会の宣教の陥穽に陥るのである。したがって、最後的には、ヘーゲルの哲学原理へと、神の人間化、人間の神化へと向かうことになるのである。このような訳で、そのことに対する無頓着さ、認識不足、無自覚さに、「アナロギアの概念に関して繰り返し為される間違った使われ方における誤謬が潜んでいる」のである、ちょうど「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教における間違った使われ方である「存在ノ類比」の概念に「誤謬が潜んでいる」ように。神は、あくまでもイエス・キリストにおける自己「啓示(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解≫)の中」で、「ご自分の所有を自由に処理し(≪なぜならば、自己還帰する、対自的で対他的、他在であって自在、全き自由な神であるから≫)、われわれの言葉を……その本来性にまで高め、それらのわれわれの言葉の本来的な対象となるべきご自分を与え(≪あくまでも「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、あの神の言葉自身の出来事の自己運動、「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与え≫)」、それ故に「それらのわれわれの言葉に対して真実性を与え給う」。したがって、「神とわれわれとの間の真理の類比」、神の真理とわれわれの真理の類比は、「確かにわれわれの認識する働き(≪われわれ人間の、自己認識・自己理解・自己規定、世界認識・世界理解・世界規定、する働き≫)を包含する神の認識する働き(≪神ご自身の、自己認識・自己理解・自己規定、世界認識・世界理解・世界規定、する働き≫)の中には存在している」が、「神の認識する働きを包含していないわれわれの認識する働きの中には存在していない」のである。言い換えれば、このことは、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」、ということである。したがって、われわれの認識する働きの中におけるこの真理の「類比」は、「まさにその限り、神の(≪第二の存在の仕方であるキリストにあっての神の≫)啓示の恵みであるところの……神の(≪その都度の自由な≫)恵みの決断の力によって(≪その存在と本質は隠されたままで、終末論的限界の下での「部分的な対応と一致」において≫)生起する」のである。このように理解するとき、バルトと同じように、例えば、「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚し克服した段階において次のように思惟し語らなければならないのである――「内被造世界での……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であるから、それ故に「非本来的な」「内被造世界」の中での「父」の存在から全き「父なる~」の存在を「存在の類比」において理解するのではなくて、「内被造世界での……父」は、「神の内三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして理解しなければならない、と。「神とわれわれの出会い」は、「徹頭徹尾(≪先行する≫)神ご自身によって導き入れられた出会いとして」「ただ第一」のそれ、それ故に「それに対してわれわれの認識が後から続かなければならず」、それ故にまた「決して先行することのあり得ない」ところの「第一」それなのである。このような「出会いに対して、(≪終末論的限界の下での「部分的な対応と一致」における≫)われわれの真理(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、キリストにあっての啓示の真理についての認識・信仰、啓示認識・啓示信仰≫)の中での神の真理の反射(≪具体的には、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した第三の形態に属する全く人間的な教会の客観的な信仰告白および教義≫)が後に続くのである」。「神は、ご自分をわれわれに対して」、イエス・キリスト(神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの)における自己「啓示の恵みの中で、対象とし給わなければならず、そのことでもって被造物的な諸対象に向けられたわれわれの認識する働きに対して、真理(≪キリストにあっての啓示の真理≫)を、ご自分との類似性(≪終末論的限界の下での「部分的な対応と一致」≫)の真理(≪その存在と本質は隠されたままで、終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示の真理についての認識・信仰、啓示認識・啓示信仰≫)を与え給わなければならなかったのである」。この「与え給う」ということを、「自然神学の類比の教え」は、「少なくともそれが自らキリスト教的自然神学であり、教会の認識であると称する……限り」、その「自然神学の類比の教え」は、「与え給う」ということを、人間中心主義を実体化させる根拠として「起源的に」「言おうとしているのである」。この典型は、ヘーゲル主義者の、すなわち自然神学者のエーバーハルト・ユンゲルの、次のような言い方の中に見出すことができる――「イエス・キリストにおいて神によって和解せしめられた世界には、……神の取り扱いを受けないような世俗性など全く存在しない」というバルトの神学的立場は、「近代的な自由および自律の意識の加工処理」、「近代的自律の神学的加工処理」を認めている、と。このユンゲルの思惟と語りに対して、ユンゲルに依拠された方のバルトは、実際的には、ユンゲルとは徹頭徹尾全く違って、次のように述べている――イエス・キリストが、われわれ人間に対して、聖書および聖書に信頼し固執し連帯した教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によって(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)われわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ということを、また「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として、また「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということを認識し承認し確認する、と(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、換言すればわれわれ人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の場所だけである、と。このような訳で、「自然神学のアナロギア論」は、「『彼』を『それ』にしてしまい」、「生成」ではなく「存在」を選択し、キリストにあっての「神の啓示を通してわれわれのところに来ることから……啓示なしにも、また信仰」なしにも「見出され得るし、確認できるものにしてしまうということ」――このことが、「自然神学のアナロギア論の間違っているところである」。したがって、「われわれがこの概念を取り上げようとする時」、「われわれの言葉(≪われわれ人間の言語を介した直観と概念を用いた神についての思惟と語り≫)と神が現にあり給うところのこと(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉において、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言において現にあり給うところのこと≫)との間の類比についての(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてというように≫)動的ではなく(≪人間理性に内在する神概念の再想起というように≫)静的」に「理解」する「仕方」は、「はっきりと拒否されなければならない」のである。したがって、「この拒否が起こるならば」、「われわれが類比を、それがその根拠を神の存在の中に」、後続する「被造物に対する」先行する「神の関係の中に持っていることが確かである限り」、「神の啓示のひとつの様式として、特にわれわれの神認識と関わりのある様式として、神の恵みの業として」、換言すれば客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰における「ひとつの様式」として「理解するならば、その時」、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教における「存在ノ類比」という「概念に特有な……危険は除去されるのである」。
 先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」ということ、「神ご自身がその啓示の中で前もって然りを語られたところで……だけ、われわれは然りを語る」ができるということ、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということ――このキリストにあっての「神の真理(≪神の啓示の真理≫)の類比(≪「恵ミノ類比」、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比≫)の中で、われわれ自身も真理(あの神のその都度の自由な恵の決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、キリストにあっての神の啓示についての認識・信仰、啓示認識・啓示信仰)を語るであろうという約束をつかむことなしに、(≪神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性において≫)神について語る……ことはできない」。このように、「すべては、われわれが潔白な良心をもってそのことをするということによってもってかかっている。まさにそのためにすべては、われわれがその際事実、神の約束をつかみ、したがってわれわれ人間的な言葉(≪われわれ人間的な言語を介した直観と概念≫)を用いる際に、(≪キリストにあっての≫)神の啓示のゆるしと命令なしに、(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間学的な哲学原理・認識論・世界観等の≫)前もっての理解に基づいて、われわれ人間的な言葉を用いたりせずに」、先ず以てキリストにあっての「神の啓示の中で起こる決断(≪神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性の決断≫)に基づいて用いるということによってもってかかっている」。「この用い方の中」で、「それからわれわれの言葉(≪われわれ人間の言語を介した直観と概念≫)」は、その出自を「神ご自身の中に持っており、その中で(それらの言葉をわれわれに任せられた)創造主なる~が、それらの言葉を用いてご自分について知り(≪何故ならば、対自的であって対他的、他在であって自在、全き自由の三位一体の神は、その存在と本質は隠したまま、その他在としての自己還帰する第二の存在の仕方において、人間にとって対象となることによって、また自分自身にとっても対象となるから≫)、ご自分を言い表し給う真実性……全体を持つようになる」。「この用い方の中」で、「神ご自身、それらのわれわれの言葉の中で、生き、語り給う」、「人間の言葉は神ご自身の言葉となり、人間の言葉は、……純粋な宣教を、単なる神についての語りから、また神の傍らを通り過ごしての語りから、単なる宗教的な『あるかの如き』語り(それがたとえどんなに真剣であり、熱情的なものであろうと)から、区別する」ところの「あの落差、率直さ、信頼、権威……を持つようになる」。この時、「人間は、(≪恣意的独善的嗜好的に語るのではなくて≫)……自分に与えられたこと(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、あの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられた信仰の認識としての神認識、キリストにあっての~の啓示についての認識・信仰、啓示認識・啓示信仰のこと≫)を語るであろう」。
 このような訳で、「人は、次のこと……によく注意せよ」――「神についての人間的な言葉(≪人間の言語を介した直観と概念を用いたキリストにあっての神についての思惟と語り≫)は、それが神のゆるしと命令に基づいて語られるということ(≪それゆえにそれがキリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であるということ≫)、したがってそれがその対象との類似性、神の啓示を通して約束され与えられ」た「特定の類似性(≪終末論的限界の下での「部分的な対応と一致」≫)を持っているということによって」、それゆえに「決して(≪人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的≫)自分勝手に見出」し「主張」したのではない「特定の類似性を持っているということによって(≪何故ならば、その特定の類似性は、人間の自己意識・理性・思惟の類的本質、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観に基づいてでは決してなく、あの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられたものであるから≫)、ただそのことによってだけ、具体的な内容と具体的な形式を得てくるということ、換言すれば……神についての人間的な言葉は何かを語ることができるようになるということ……によく注意せよ」。このことに基づいて、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の<関係と構造・秩序性>を論じたのである。客観的な対象として存在している神の言葉の形態は、ただ単に三つあるということを論じたのではなく、自然神学への、自然的な信仰・神学・教会の宣教への危険性と拡散を取り除くために、その危険性と拡散を包括し止揚し克服するために、その三つの<関係と構造・秩序性>を論じたのである、そして必然的に、その第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の宣教における、その思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者は、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」としてのイエス・キリスト、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には、イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)であるということを論じたのである、それ故に必然的に、次のことを述べたのである――@教会の宣教を「より危険なものにしてしまう」のは、教会(その牧師、その神学者、その成員)の宣教が、キリストにあっての神の啓示とそれとは独立した人間自身教会自身の対象化した救いと平和の企てを二元主義的に主張して、聖書的啓示証言の「正しい注釈」を、徹頭徹尾「先ず第一義的に優位に立つ原理」としてのイエス・キリスト、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、神の側の真実としてある完了・成就された客観的実在・「永遠的実在」としてある個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)を原理・基準・法廷・審判者・支配者としないところにある、また聖書的啓示証言の「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う(≪自然や人間を対象として学問研究を行う大学における≫)歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ところにある(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、A「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはり(≪キリストの福音の≫)ひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの(≪キリストにあっての神の啓示の≫)真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、B「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)、C「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」、何故ならば「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいている≫)時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」、それゆえに「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」、それゆえにまた教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。「人は、次のこと……を看過してはならない」――「(特にカトリック教会の中で代表されてきたし、また代表されているような)自然神学の穏健なアナロギア論(≪「存在ノ類比」のアナロギア論≫)は、神の全能を引き合いに出しながらありとあらゆるアナロギアを主張する自由主義神学と内容的に、また歴史的に、最も密接な関連性を持っているということ……を看過してはならない」。「カトリック主義」が、「キリスト教的思惟とキリスト教的言葉に対して、事実そこで主張されている存在ノ類比から一般的にこの世は神に対し類比的関係を持っているという結論をひくことをゆるさない」と言う時、「そのことは(≪カトリック主義における人間自身教会自身の≫)勝手な処置の仕方」を意味しているのである――すなわち、第三の形態に属する全く人間的なカトリック「教会の教職を通して聖別された」、そして結局は「哲学的に基礎づけられ」たに「過ぎない勝手な処置の仕方を意味している」のである、ちょうど「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学原理に見出したルドルフ・ブルトマンのように(そのようなブルトマンの神は、人間自身が対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」(偶像)でしかないことを見抜いたハイデッガー自身が、ブルトマンおよびブルトマン学派に対して、次のような根本的包括的な原理的な批判を行っている――「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』)。「実際に実証されているように、原則的にすべての側に向かってあるいはほとんどすべての側に向かって、常に新しい世の類比を見出してゆこうと用意している自由主義神学」は、「(それがそのことを知ろうと知るまいと)何らかの哲学的な勝手さを通しての(そしてこの勝手さを聖別する教職を通しての)調整をあまりにも必要としており、少なくともそれに対する憧憬を必然的に呼び覚ます」のである。このような訳で、「純粋な宣教」は、キリストにあっての「神の啓示なしにもわれわれによって確証されるべき人間的な直観、概念、言葉のアナロギアを考慮に入れなければならないと考える(≪自然神学の、自然的な信仰・神学・教会の宣教における≫)考え方の地盤の上では」、それゆえに「自然神学の(≪「存在ノ類比」の≫)アナロギア論の地盤上では可能ではないのである」。何故ならば、「純粋な宣教」は、「アナロギアが(≪神の第二の存在の仕方であるキリストにあっての神の≫)啓示そのものの業および措定として理解されないところでは可能でない」からである、もしもそうでないならば、フォイエルバッハのキリスト教批判を待つまでもなく、神は人間化され、神学は人間学化されるからである。したがって、この「純粋な宣教の特定な態度」は、「決して恣意的なものであってはならず、偶然とか、哲学的な意見の変動に、結局は『教職』の独裁的命令に、引き渡されたものであってはならない」のである、起源的な第一の形態の神の言葉を、第二の形態の聖書的啓示証言を、その思惟と語りにおける原理・基準・法廷・審判者・支配者としたものでなければならないのである、換言すれば自然神学へと、自然的な信仰・神学・教会の宣教へと必然的に解体していくところの、人間の自己意識・理性・思惟の類的本質(例えばアウグスティヌス的な理性に内在している神概念等)、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍、人類史の農耕を経済的基盤としたアジア的段階における共同体至上意識が個体性を超えていく日本的なナショナルなもの(滅私奉公の意識)、人間学的な哲学原理・認識論・世界観を、その思惟と語りの原理・基準・法廷・審判者・支配者としたものであってはならないのである。「純粋な宣教は、……それが……あの自由」、すなわち自己還帰する対自的であって対他的、他在であって自在、全き自由の「その中で神がご自分の恵みを、……人間に対して力を奮わせ給うように、またその人間的な直観、概念、言葉を用いての働きに対しての力を奮わせ給うあの自由……に従う時(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいている時≫)」、起源的な第一の形態の神の言葉であるキリストにあっての「神の啓示(≪具体的には第二の形態の聖書的啓示証言≫)の注釈である」。この時、「純粋な宣教」は、不可避的に、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、あの純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」に根拠づけられた「神の讃美」としての「隣人愛」の連関と循環に生きることになるのである。このキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」である「神の讃美」としての「隣人愛」(純粋なキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)は、短絡的な、例えば私利・私意を精神とする近代市民社会の中において、キリストにあっての神の啓示とは独立した二元主義的に意識された恣意的独善的嗜好的なキリスト教的奉仕(社会的あるいは政治的実践)とは全く違うであろう、それ故にそのキリスト教的奉仕(社会的あるいは政治的実践)は、経済的基盤を狩猟採集に置いていた人類史の起源的な段階における名残をとどめていたアイヌ人と北米インディアンにおける全く自然的に為されていた相互扶助あるいは隣人愛よりも劣るであろう――このことについては、イギリス人で牧師の娘イザベラ・バードは、『日本奥地紀行』で次のように述べている――@明治の日本人たちを「見て感じるのは堕落しているという印象である」、「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」、Aアイヌ人は、善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている、総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」。
 さて、「われわれの神認識の目標」――すなわち「われわれの言葉」(人間の言語を介した直観と概念を用いての神についての思惟と語り)が、神のその存在と本質は隠されたままで、換言すれば神の不把握性の下で、それ故にその第二の存在の仕方においてその存在と本質の認識と信仰を要求するのであるが、その「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」というイエス・キリストにおける神の自己啓示において、「神の存在に対する類比を持つようになるということ」は、すなわち「認識するものと認識されるものとの関係」は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」というイエス・キリストにおける神の自己「啓示に基づいて」、「限界づけられた」「積極的な関係として理解されなければならない」。したがって、このキリストにあっての神の自己「啓示に基づいて」措定された積極的な関係性は、神のその存在と本質は隠されたままの「神の不把握性に対応しており、内容的にはそれと一致する」「限界づけられた積極性」である。したがってまた、この時、「認識するものと認識されるものとの関係」「全体の積極性、われわれの認識の真実性と最後的には神の啓示の真実性」については、「類似性、類比が問題(≪終末論的限界の下での「部分的な対応と一致」が問題≫)であることができるだけである」。すなわち、神と人間との無限の質的差異の下で、神の隠れの下で、それ故に神の不把握性の下で、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものをみている」(Tコリント13・12)だけであるから、「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」(Tコリント13・9)、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した「われわれの言葉と(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける≫)神の存在との部分的な対応と一致が問題であることができるだけである」。したがって、この「不同一性でもないし、同一性でも」ない「部分的な対応と一致」としての「類似性、類比」の概念は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を、われわれ人間の思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられことを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音を、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を志向し目指す「類似性、類比」の概念は、「神論の……最初の章全体(≪5章全体≫)……の主要命題」――すなわち「神は、……ただ神を通してだけ認識」することができるということから措定される概念である、換言すればその「類似性、類比」の概念は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による、「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二形態の聖書的啓示証言)としての客観的な「啓示と(≪聖霊の注ぎによる≫)信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識において措定される概念である。
 さて、聖書的啓示証言においてイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの 存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その聖性・秘義性・隠蔽性における存在は「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である、それ故に「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体の神」である。「失われない差異性」とは、その第二の存在の仕方における「和解ないし啓示」は、その起源的な第一の存在の仕方における「創造」の「継続」や「創造」の「完成」ではないということである。したがって、「三度別様」にとは、次のことを意味しているのである――イエス・キリストは和解主として、創造主のあとに続いて、その第二の存在の仕方において「第二の神的行為を遂行」したのである、この神の存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と子・起源的な第一の形態の神の言葉(≪啓示、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主としての父に先行することはできないのである、しかし父・子は共に神ご身として単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、その存在と本質の差異性を意味しているのではなく、その存在の仕方の差異性を意味しているのである。聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神の起源的な第一の存在の仕方である父はその第二の存在の仕方である子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である、それ故にその区別された第二の存在の仕方の子は起源的な第一の存在の仕方の父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方である聖霊は父と子が根源である――このような訳で、この神は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示するのであるが、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であると同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。したがって、その第三の存在の仕方における「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊――「啓示されてあること」は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事、それ故に「言葉を与える主」は同時に「信仰を与える主」である)に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)――このような啓示の方式におけるキリスト教に固有な類とその類の時間累積、すなわち歴史性が、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性のことなのある。神は三位一体の神として「ひとりの方であり給う」。「啓示と信仰の出来事」に基づいた信仰の認識としての神認識が、「真実な認識であることが確かである限り」、すなわちイエス・キリストにおける神の自己啓示が、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」・「イエス・キリストの名」、この~の第二の仕方において、その存在と本質の認識と信仰を要求する限り、「われわれの言葉と神の存在との間に類似性が成り立っているとするならば」、啓示が「『部分的』という言葉」(終末論的限界の下での「部分的な対応と一致」という言葉)を措定していると言うことができるのである。われわれの思惟と語りがキリスト教的な「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないということは、神ご自身の決定事項」であるから、それ故にわれわれは、ただ「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください』という」祈りの中で、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方における思惟と語りを啓示から命令・要求・要請されているのであるから、そうした仕方における「われわれの言葉(≪われわれ人間の言語を介した直観と概念を用いての神についての思惟と語り≫)の意味と内容のある分量」は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」神の第二の存在の仕方(起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト)にあっての「神の存在の中でのある分量と対応している」のである。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その存在と本質は隠されたままのその第二の存在の仕方における啓示だからである、それだけでなくわれわれは「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯するところであの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰について、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」の途上を生きているからである、キリストの復活から復活したキリストの再臨、完成、終末までの聖霊の時代におけるわれわれは、終末論的限界の下で「部分」の中にあるからである、「部分的な対応と一致」の中にあるからである。したがって、「ここで問題になってくる『部分』」、「部分的な対応と一致」は、「一方で」、「ご自分をその啓示(≪その存在と本質は隠されたままで、その第二の存在の仕方、業と行為、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)の中で留保なしにわれわれに向かって開き、ご自分を伝達された」「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「神のひとつの、全き、分割できない存在であり」、「他方で」、「われわれの言葉、換言すればわれわれ自身、ひとつの分割できない全体として(≪「魂と体」、肉体的身体的と精神的意識的な「全体的人間」として≫)、われわれの被造物性と有罪性(≪『福音と律法』によれば、われわれ人間は、その存在、その思惟、その実践において、自主性・自己主張・自己義認の欲求、すなわち不信仰・無神性・真実の罪≫)の中に」ある「われわれの規定された姿に対応した業に従事しているわれわれ自身である」。われわれは、「これら二つのものの間の関係の積極性と真実性」を、「類似性の概念でもって」、それ故に「部分的な対応と一致という概念でもって言い表すのである」。すなわち、このことは、次のように言うことができる――@三位一体の神の、その存在と本質は隠されたままの、その第二の存在の仕方に対する感謝と奉仕における部分的な対応、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言)に聞き教えられるという仕方で、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」における部分的な一致、途上性、A神の第二の存在の仕方における神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」・「イエス・キリストの名」、すなわちその第二の存在の仕方においてその存在と本質の認識と信仰を要求する啓示である、すなわちその第二の存在の仕方において「神のひとつの、全き、分割できない存在」の認識と信仰を要求する啓示である。したがって、自然的な信仰・神学・教会の宣教における全キリスト教教会の現在の課題、すなわち現存するそうした教会を止揚する課題において教会の未来を考えることは、一方で全キリスト教会に潜在する自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服することが、同時に第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して起源的な第一の形態の神の言葉にまで遡及して考えることと同じ方法でなければならないのである。この場合、そのことがキリスト教に固有な類・歴史性におけるそれであるならば、あくまでも具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復することを通してであって、決してある人間の自己意識・理性・思惟の類的本質、人間の経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、ある特定の民族、ある特定の主義、ある特定の文明や文化、人類史のアジア的段階の日本におけるナショナルなもの等々を通してではないのである。前述した「二つのものの間の関係の中」で、常に「神は神であるし、神であり続け給う」、また常に「人間は人間であり、人間であり続ける」。あくまでも、神と人間との無限の質的差異は貫徹され続けるのである。このような訳で、神の側の真実として、神の側から、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、「われわれの言葉と神の存在との間の(≪部分的な≫)対応と一致が出来事となって起こる」のである。その「二つのものの間の関係の中」で、「神は神であり、神であり続け給うが故に、神は(その全体性の中で、その存在の質的にも量的にも徹頭徹尾限界づけられない真理の中で)」、「神が人間に対し、その啓示(≪その第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解≫)の中で委ね給い、神を言い表すために用いることをゆるし、命じ給うところの直観、概念、言葉の対象であり給う」。しかし、「まさに神は神であり、神であり続け給うが故に、神はまたその啓示の中ででも、再びその全体性の中で、……隠れた神であり、徹頭徹尾、われわれが神に対して適用することがゆるされる直観、概念、言葉の対象であり給わ」ない、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質する神は、徹頭徹尾、われわれの人間の言語を介した直観と概念を用いて把握することはできないのである――これが、神の不把握性である、もしも神と人間との無限の質的差異が「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨」としてそれを堅持し貫徹させなければならなかったように、根本的包括的に原理的に自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教を命じ要求していない聖書的啓示証言における神の不把握性(このことは、すでに聖書的啓示証言に即して論考が為されている)を堅持し貫徹することをしないで、人間が恣意的独善的に神の不把握性を止揚してしまったならば、その最後的な形態――すなわちヘーゲルの哲学原理に行き着くであろうし、神の人間化、人間の神化に行き着くであろう、換言すればフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが根本的包括的に原理的に批判した自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教における宗教としてのあるいは共同宗教としてのキリスト教に行き着くであろう。「神は恵みをわれわれに対して与える義務を負うておらず」、自己還帰する対自的であって対他的、他在であって自在、全き「自由の中で与え給う限り、神は隠れた方であり給う」。神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰も出来事」は、人間自身教会自身(その牧師、その神学者、その成員)の決定事項ではなくて、あくまでも「神ご自身の決定事項」である。この「二つのものの間の関係の中」で、「人間は人間であり、人間であり続ける故に、彼の直観、概念、言葉は、それとして」、それ自体あくまでも「人間の直観、概念、言葉として、ただ単に一部分だけでなく、また全面的に、完全に、神を言い表すのに不十分であり」、それ故に人間がそれらの「道具を用いて」聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする神を把握することはできないのであり、それ故にまた人間はその道具の「無力さ」を認識し自覚する時、はじめてその道具を「手に取」ることができるのである。このような訳で、「人間の直観、概念、言葉」は、「神の恵みを通して、あの甦らせることと任務につかせることが起こらない限り」、「全く無力なのである」。それらは、聖霊による更新を必要とするのである、しかし更新されたそれらはあくまでも人間的なそれらであり・聖霊と同一ではない。「ここでもまた、人間は人間であり、人間であり続けるが故に、彼の直観、概念、言葉は、あの甦らせることと任務につかせることのおかげで」、「その人間的な全体性の中で」、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」という「ひとつの、全き、分割できない神の存在を……把握するのに十分であり」、それ故にそれは「真実であり、真実な神認識を言い表し基礎づけるのに十分なのである」。「人間の直観、概念、言葉」は、「それらが(≪神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)神の啓示を信じる信仰の中で、また神の啓示の中で人間に与えられる指示に従う服従(≪あの終末論的限界の下で絶えず繰り返し、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられることを通して教えるという仕方での「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の連関と循環を為すようにとの指示に従う、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性≫)の中で形成され語られる限り、そのようなものである」。前述したことが、「『部分的』ということであり、類似性(≪終末論的限界の下での「部分的な対応と一致」≫)という概念の中に含まれている制限であり、したがって前方に向かっての(≪復活したキリストの再臨までの終末論的限界の下で、起源的な第一の形態の神の言葉を、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに絶えず繰り返し聞き教えられなければならいところの≫)われわれの神認識の限界である」。すなわち、「われわれが神の隠れから由来して来つつ為すすべての歩み」は、キリストの復活からそのキリストの再臨、完成、終末までの聖霊の時代における途上の歩みとして、「啓示の恵みを(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、絶えず繰り返し≫)新しく受け取ることから成り立っていなければならず、また事実成り立っている……」。