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『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(その4−2)−2

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(その4−2)−2(395−424頁)

 

「二 人間の神認識の真理性」(その4−2)―2
(3)前述したことから、「……われわれは今、……<ゆるされる>ということがわれわれの認識の行為そのものにとって何を意味しているのかを、さらに正確に考察しなければならない」。この<ゆるされる>ということ中においては、「われわれ」人間の言語を介した直観と概念を用いて認識された神についての思惟と語りと「認識されたものとの間に」、~の側の真実として、神の側からする「現実的な交わりが成り立っている」と言うことができる。しかし、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方(業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものである)であるイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。したがって、われわれが人間の言語を介した直観と概念を用いた神についての思惟と語りの「真実性」、その「認識の真実性」、換言すれば「われわれが、人間的な……ふさわしくない言葉」を、その<ゆるし>の下で「それにもかかわらず……神に適用する際の真実性」は、キリストの霊である聖霊の証しの力を内包させた「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」というその啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力からやって来るそれである、すなわちあの神の言葉自身の出来事の自己運動からやって来るそれである。したがって、われわれ人間の側からする神の人間化あるいは人間の神化は、ヘーゲルの哲学的原理あるいはわれわれ人間自身教会自身の「わがまま勝手な」・恣意的・独善的・嗜好的思惟と語りにおいてはあり得ても、神の側の真実においては、神と人間との無限の質的差異の下で、「神の隠れ」の下で、神の不把握性の下で、徹頭徹尾、客観的に、永遠的にあり得ないことなのである。したがってまた、人間の側からする形而上学的一面的固定的抽象的な、人間の言語を介した直観と概念を用いた神についての思惟、語り、認識と、その思惟、語り、認識の対象としての神との間の「同一性についての主張」の下では、また「畏敬の念の余りに人間的な誇張」による「両者」の「ただ単なる不同一性についての主張」の下では、「われわれの神認識の真実性について語ることは不可能」なのである。このような訳で、「われわれの神認識の真実性について語る」時には、先ず以て、聖書的啓示証言から規定されてくるところの、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方(業と行為、啓示・和解)、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」ということ、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということ――このことについての認識と自覚を必要とするのである。「昔の神学」は、神と人間との「交わりを言い表す表示の仕方」として、「類比(アナロギア)という概念を選び」取った。この類比概念は、「同一性と不同一性と違って」、「同一性と不同一性のいずれをも限界づけている(二つの、あるいはそれ以上のものの間の)」「部分的な……対応と一致を意味している」。したがって、われわれは、「われわれの神認識の真実性の根拠としてのその啓示の中での神の真実性を通して、さし当たって先ず」、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教における、神の人間化あるいは人間の神化へと拡散させる人間の側からする存在の類比の概念ではなくて、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力から規定されてくる啓示の類比、信仰の類比、関係の類比の概念を選び取るのである。われわれは、「それ自身ただ被造物的なものを言い表すに過ぎないわれわれの言葉を用いて(≪われわれ人間の言語を介した直観と概念を用いて≫)神について(≪思惟し≫)語りたいと願っていること」と、「神が現にあり給うところのこと」――すなわちわれわれの思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者であるところの、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、客観的な「啓示の実在」そのもの、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるそれ、客観的な啓示の「概念の実在」)との間の「関係を問う」のである。ここで啓示の類比、信仰の類比、関係の類比の概念は、存在の類比の概念、また「同一性、不同一性」の概念と同じように、「被造物的な言葉」ではあるが、決して自然神学へとあるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教へと拡散・解体させないところの、それゆえにその最後的な到達点である神の人間化あるいは人間の神化へと拡散・解体させないところの、神と人間との無限の質的差異を、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」を貫徹させた概念である。ここにおいては、人間論的な自然的人間あるいは教会論的なキリスト教的人間の側からする存在の類比という「言葉は退けられ」、また形而上学的一面的固定的抽象的な概念における同一性あるいは不同一性という「言葉は退けられ」、キリスト論的な客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力から規定されてくる(換言すればキリストにあっての神の啓示から措定される)「類比(≪啓示の類比、信仰の類比、関係の類比≫)という言葉」の「選択(≪神の言葉に対する奉仕としてのあくまでも啓示の側から強いられた他律的な服従と自律的な服従――決断と態度≫)が起こ」るのである。「神は、ほかの何ものとも比較されることのできない対象であり給う。しかし、もしも(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする≫)神の存在と人間的な言葉との間の」類比的関係が、あくまでも「神の真実な啓示(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」という、その神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)の中で」、「事実、成り立っているとしたら」、その啓示自身が、その類比的関係を、あの客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で「われわれに対して真実な神認識を伝達することによって、事実(≪何故ならば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に規定されたキリスト教に固有な類・歴史性が客観的に存在しているから≫)成り立」たせているとしたら、それゆえに「もしもこの真実な認識に」、類比的な「関係の認識が属しているとしたら」、それゆえにまた類比的な「関係を言い表すための言葉が属しているとしたら、「神がご自身を比較し得る対象として措定し給う際の神の真実な啓示の『にもかかわらず』の故に」、あくまでもその関係と構造・秩序性の中で、同一性、不同一性、類比性という「三つの言葉の領域へと駆り立てられ入れられている」と言うことができる。ただ、しかし、「われわれは、以前と同様以後においても、これらの言葉と取り組むのではなく、これらの言葉に対して……背中を向けて、真実な神の啓示の方に視線を向けるのである。そして、神の啓示を通して同一性や不同一性という言葉から遠ざけられるのである。何故ならば、神の真実な啓示の中に措定されている関係」は、神と人間との無限の質的差異の下で、神のその存在と本質は隠されたままであるから、自体的な「同一性……不同一性という表示の仕方」を「ゆるさないからである」、それゆえに「存在の類比」という自体的な類比性の表示の仕方もゆるさないのである。しかし、「この具体的な、(啓示を通して立てられた)問いに答えてゆくためには」、それ自体としては形而上学的一面的固定的抽象的な「同一性や不同一性という言葉と比べて決して特に立ちまさった性質を持っているわけではないとしても」、「真実な神の啓示」に根拠づけられた「類比という言葉」(類比概念)を要請させられるのである。このような訳で、「類比という言葉」(類比概念)は、「それ自身で正しいわけではなく、またここでも正しいわけではないが」、「神の真実な啓示の中で措定された関係」が、「まさにこの言葉に対してこそ、その関係の神的な実在を言い表す表示としての性格を与えるが故に、この類比という言葉がここで正しいものとなるのであり、そのようにしてここでの関係は同一性と不同一性の関係ではなく」、類比性・「類似性の関係であると言えるのである」、ちょうどそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(客観的な「啓示の実在」そのもの)、第二の形態の聖書的啓示証言(客観的な啓示の「概念の実在」)、第三の形態の全く人間的な教会の客観的な信仰告白および教義が、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、業と行為、神の子、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示自身が持っているそれ自身に固有な証明能力、その客観的な啓示の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動――この神の言葉の実在の出来事として、三位一体の唯一の啓示の類比あるいは類似であるのように。ここで、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性は、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者であるところの、@「先ず第一義的に優位に立つ」起源的な第一の形態である神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、A第二の形態に属するその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」、B終末論的限界の下で絶えず繰り返し@とAに聞き教えられることを通して教える第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の客観的な信仰告白および教義として存在している。言い換えれば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、それらは、第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト)を起源として、キリスト教に固有な類・歴史性(時間累積)として客観的に存在している。バルトが、『教会教義学 神の言葉T/1・2』と『啓示・教会・神学』で、次のように述べていたことは、このことなのである――「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に根拠づけられた≫)教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である・「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」る。しかし、「神の真実な啓示の中で措定された」類比性、類似性と、「われわれが(≪「信仰の中で」≫)『類似性』として知っているすべてのこと」とは「同一ではない(≪何故ならば、神と人間の無限の質的差異の下で、神のその存在と本質は隠されたままであるから≫)ということを知っており、そのことを念頭においているにもかかわらず」、神に側の真実としてあるキリストにあっての神の啓示(≪神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解≫)から措定される啓示の類比、信仰の類比、関係の類比を介した神認識を「真実な神認識として言い表すのである」、「同じように、再び信仰の中で」、類比性、類似性という「言葉で呼んでいることの中で、自分自身を映し出すことが意に適うことを知っているし、念頭に置いていることによって」、神に側の真実としてあるキリストにあっての神の啓示(≪神の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解≫)から措定される啓示の類比、信仰の類比、関係の類比を介した神認識を「真実な神認識として言い表すのである」。「そのようにして、われわれの思惟と語りの中での類似性が、(神の真実な啓示の中で措定された)類似性に、(それに対してわれわれの思惟と語りの中での類似性はそれ自身では類似していないにもかかわらず)類似したものとなり、そのようにしてわれわれがあの関係(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、人間の言語を介した直観と概念を用いて「神について語りたいと願っていること」と「神が現にあり給うところのこと」≫)を類似性の関係として言い表すとき、われわれは偽りの仕方で思惟し語ってはおらず、むしろ正しい仕方で思惟し語っていることを知っているし、念頭に置いている」のである。このような訳で、「われわれ」は、「ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』」(ギリシャ語原典――ピスティス イエスー クリストゥー)の属格を主格的属格として理解する(『福音と律法』)のである、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰の中では、人間論的な自然的人間の、教会論的なキリスト教的人間の生来的な「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)ということを告白するのである、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う」ということを認識し自覚するのである、それゆえに「この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である」(『福音と律法』)ということを認識し自覚するのである、それゆえにまたインマヌエルとしてのイエス・キリストにおける死と復活の出来事の内容は、生来人間は「神の恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急」であったことを認識し自覚するのである、「神の選び」を「神に選ばれたお方」である「イエス・キリストの復活」において認識し自覚し、「神の放棄」を「神に選ばれたお方」である「イエス・キリストの十字架」において認識し自覚するのである、すなわち「われわれが本当に神の啓示を認識する時、われわれは初めて」、「神に対する人間的反抗」、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間」としての自分自身を、またそのような人間の「世」を認識し自覚するのである(『カール・バルト著作集3 神の恵みの選び』)。「われわれが、(≪終末論的限界の下で≫)この類似性という言葉をこの意味で正しいものであることを信じ、それに基づいてこの言葉を口にするとき、そのことは決して人間と人間的な言葉の神化を意味しない」(何故ならば、われわれは、神と人間との無限の質的差異と神の隠れを原理としているからである、それゆえに神の不把握性、それゆえにまた終末論的限界を原理としているからである)。言い換えれば、「われわれは、われわれ(≪人間自身教会自身≫)あるいはこの言葉に内在的な表現能力に、したがってこの言葉に内在的な正しさに対して信頼を寄せているのではない」、「われわれは、……(≪徹頭徹尾、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける≫)神の啓示に対して信頼を寄せるのである」、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力――この神の言葉自身の出来事の自己運動に「信頼を寄せるのである」。この力と自己運動を持つイエス・キリストにおける「啓示の故に、人間と彼の人間的な言葉は、原理的な無神性の無の中に見捨てられてしまうことは……ない」のである。人間、その人間的な言葉は、あの神の言葉自身の出来事の自己運動によって、「神の真実な啓示の中で、神が啓示の中で人間およびその人間的な言葉に参与し給うようになるということでもって措定される類似性にあずかるようになる」のである。類比概念に向かっての決断が、起源的な第一の形態の神の言葉であるキリストにあっての神の真実な啓示に措定されて起こったそれであるならば、すなわち具体的には第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言の「注釈的な決断であったのであれば、その時、その限り、その決断は正しい決断であったし、今も正しい決断である」。これらのことは、「われわれが(≪人間の言語を介した直観と概念を用いて≫)神について語ることと神の現にあり給うこと(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造においてあり給うこと、起源的な第一の形態の神の言葉において、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言においてあり給うということ≫)との間の関係を言い表すために、類比という概念を選ぶ際の過程の分析」である。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である」。何故ならば、起源的な第一の形態の神の言葉(啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの)である「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがないからである」。イエス・キリストにおける神の啓示に措定された神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において、人間の言語を介した直観と概念を用いて為す、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「~への愛」においては、「われわれの神認識の出発点、神の隠れは除去され……否定されることはないであろ」、それと同時に「その隠れを損なうことなしに、……われわれが概念でもって把握する働きの内部で理解できるものとすることがみ心に適ったし、み心に適うということを否定しはしないであろう」。
 「われわれの直観、概念、言葉と、それらの対象としての神との間に、神の真実な啓示(≪存在の仕方、業と行為≫)に基づいて類比、類似性、部分的な対応(≪何故ならば、神のその存在と本質は隠されたままであるから、それ故に神の不把握性の下にあるから、それ故にまた終末論的限界の下にあるから≫)と一致(≪第一の形態の神の言葉を起源としたキリスト教に固有な類・歴史性、歴史的連続性≫)の関係が成り立っている」。「この類似性に基づいて、真実な、人間的な神認識にまでくる。したがって、人間が為す神認識は、その目標にまでくるのである」。それでは、「どのようにして、そのような部分的な対応と一致にまでくるのであろうか」。聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの存在の仕方(性質、業と行為)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である、それゆえに「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体」の神である、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする~の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」において、父は子として「自分を自分から区別」する自己啓示する神として自分自身が根源であり、その区別された子は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである聖霊は父と子が根源である、このような訳で、神の起源的な第一の存在の仕方である父は、子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示するのであるが、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、同様に父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。このような訳で、「ただ部分的にだけでもそのような対応と一致にまでくるとしたら」、この出来事の前提として、イエス・キリストにおける神の「啓示の中で、ご自身を啓示し給う主体および主としての神ご自身……の啓示の中で、ご自身の業(≪存在の仕方≫)を支配し給う創造主としての神ご自身」の中で、「成り立っているということを確認しなければならない」。神が、「神ご自身の業」(存在の仕方)の中で「現にあるところのものであり給う」ということと「われわれの業(≪あの神の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰≫)の中であるのとは全く違っ」ているとしても、それゆえに「神がご自身の中であり給うことと、神がわれわれの業の中であり給うこととの間の関係は、ただ類似的な関係でしかないとしても」、神は、「ここでもあそこでも、ご自身の中においても、われわれの業の中においても、決して違った方ではあり給わない」のである。「われわれの業は、人間的な直観、概念、言葉を神に対して適用することから成り立っている」、すなわち「われわれ」は、人間の言語を介した直観と概念を用いて神について思惟し語っている。この「われわれの業が、神の啓示に基礎づけられつつ成功しつつある業となるならば、換言すれば……それらがその全くの不適当さの中でしかも正しい真実なものとなることができるとするならば」、それゆえにそれらが神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいたものであるとあるとするならば、「神がこの関係の中で、神であり、あくまでも神であり続けつつ(≪神と人間との無限の質的差異が貫徹され続けられる中で≫)、人間を取り上げ給うことによって、純粋な対応と一致にまで来るのである」、ちょうど『福音と律法』における「福音と律法の真理性」の内容は、神の第二の存在の仕方(啓示・和解)であるイエス・キリストが、その「死と復活」の出来事において、「われわれ人間のために」「われわれ人間に代わって」、われわれ人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(「律法の成就」・完了)ところにあり、そしてこのインマヌエルの出来事が、「われわれ」人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「われわれ人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように」、すなわち「あくまでも神であり続けつつ(≪神と人間との無限の質的差異が貫徹され続けられる中で≫)」、「統一し給うた」というところにあるように。「神は、そのすべてのみ業において正しくいます」。このことの中で、「われわれ人間的な直観、概念、言語の適した対象である被造物は、言うまでもなく神の創造によるものである」。また、被造物的「対象に対して用いられるのに適している性質を持った」「われわれの思惟と言葉も、神の創造によるものである」。したがって、キリストにあっての神の啓示の真理の中で、「われわれに適した対象をわれわれに適した仕方で認識する真理」は――すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」という聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、この客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で与えられるわれわれ人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、「神の創造によるもの」――すなわち「創造主が被造物と違う違い全体の中」において「神の真理である」、「われわれの真理であるのとは全く違った仕方で」「神の真理である」。このような訳で、それは、あの神の言葉自身の出来事の自己運動に基づいて、~の側の真実として~の側から与えられたそれとして、「(創造者的な仕方でそうであるが故に)起源的な、主要な、自主独立な、本来的な神の真理であり」、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間のそれとして、「(被造物的な仕方でそうであるが故に)ただ後から、副次的な、依存的な、非本来的な仕方でだけ、われわれの真理である」。このように、「われわれの真理は、神の真理としてではなく、ただわれわれの真理としてだけ、われわれに知られるようになることができ、したがって関係の逆転、人間が神に関して自由に処理するということはあくまで排除されていて、不可能であり、それであるから後に従うことが先行することに変わってしまうことはあり得ないのである」。このような訳で、われわれは、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに先行する神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて」、「人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての(≪後続する≫)人間の用意が存在する」と言うのである。この時、キリストにあっての神の啓示の真理は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉へと向かって集中し「一つである」。「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」。この時、「神の真理はわれわれの真理ではない」が、「われわれの真理は神の真理である」。「それであるから」、神の啓示の真理、それに徹頭徹尾規定された神認識の真理は、「われわれの表向きの神理念、またわれわれの最も深い心の中での感情の対象」、すなわち「世の、最後的には人間の理念」に過ぎないそれとしての真理ではない。何故ならば、それらは「常にわれわれ自身の映像、われわれの思惟と言葉の実体化」に過ぎないからである、フォイエルバッハによれば、そこにおいては常に、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、それゆえに「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものである、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」のである。したがって、「(実は既にアウグスティヌスの教えであったところの)A・リッチュルの教え……最高価値あるいは最高善の理念」は、まさしく自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教に立脚した人間自身の「映像、……思惟と言葉の実体化」に過ぎないのである。このような訳で、バルトは、『カント』で、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」、と根本的包括的な原理的な批判をしたのである。
 われわれが、終末論的限界の下で人間の言語を介した直観と概念を用いて啓示の真理について思惟し語る時、その思惟と語りは、「~の中では起源的な、主要な、自主独立的な、本来的な真理として、われわれによっては、後から副次的な、依存的な、非本来的な真理として、また~の中では偽ることのない仕方で、われわれによっては(なぜといって、われわれはただ単に被造物であるばかりでなく、神から堕落した、罪深い被造物であるから)常に誤謬」を持った仕方で為す思惟と語りと言うことができる。したがって、われわれは、復活したキリストの再臨までの途上において、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者を、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉に、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に置いて、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられなければならないのである。何故ならば、神は、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)、「われわれの直観、概念、言葉の真理として、ひとつのご自分の真理(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」としてのイエス・キリスト、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、啓示の真理≫)をたて給う」からである。このような訳で、イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一の聖書的啓示証言におけるイエス・キリストは、自己還帰する対自的であって対他的、他在であって自在、全き自由の神の第二の存在の仕方における、その存在と本質は隠されたままの神の他在である。言い換えれば、それは、神の側の真実として、神は、神と人間との無限の質的差異の下で、神の隠れの下で、、神の不把握性の下で、その存在と本質は隠されたままのその第二の存在の仕方イエス・キリストにおいて他にあってある在ると同時に自分にあっても在るというそれである、その存在と本質は隠されたままのその第二の存在の仕方イエス・キリスト(業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉)において人間にとって存在すると共に神ご自身にとってもまた存在するというそれである。したがって、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態である神の言葉(客観的な「啓示の実在」そのもの)、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言(客観的な啓示の「概念の実在」)に根拠づけられた第三の形態に属するイエス・キリストを主・頭とする本当のイエス・キリストの教会の客観的な信仰告白および教義におけるイエス・キリストも、その宣教(説教と聖礼典)におけるイエス・キリストも、その存在と本質は隠されたままの神の他在である。「神は、われわれの直観、概念、言葉の真理として、ひとつのご自分の真理を立てたて給う」ことによって、すなわちその第二の存在の仕方、イエス・キリストにおいて自己啓示し給うことによって、神は、「ご自身を確認し給う」、自己認識・自己理解・自己規定し給う。何故ならば、「それらが神の被造物を対象として持っていることが確かである限り、それらがそれ自身神の被造物であることが確かである限り」、「創造主なる~はそれらすべての中で(≪その存在の仕方において≫)ご自身を知り、それらすべてでもって……(≪その存在の仕方において≫)ご自身を描き、(≪その存在の仕方において≫)宣べ伝え給う」からである。「神、創造主(≪神の起源的な第一の存在の仕方、父≫)は、その啓示(≪神の第二の存在の仕方、子≫)の中で、われわれを、それと共にそれらの直観、概念、言葉を要求し給う」。
 「例えば、『父』および『子』という言葉」は、「その真理」を、「先ず第一に、本来的に、それらの言葉がわれわれの言葉としては確かに目を向けることができないところに、しかし神の啓示の恵みに基づいて目を向けることがゆるされるし、創造主である神の当然の要求に基づいてまさに目を向けなければならないところに、……それらの言葉を神に適用することの中に、換言すれば三位一体論の中に持っている」。この、聖書またそれに信頼し固執し連帯した教会の宣教における「神論の決定的に重要な構成要素」であり「啓示の認識原理」である三位一体論は、次のようなものである――イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性の中」で三つの存在の仕方(性質、業、働き、行為、行動)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である、それゆえに「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の、単一性・神性・永遠性を本質とする「一人の同一なる神」である、それゆえにまた単一性・神性・永遠性を本質とする神の完全さ・自由さは、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の完全さ・自由である、この神は「隠蔽」と「顕現」において、またその都度の自由な恵みの決断において、「人間に対して自己を伝達」する。「父」――すなわち神の起源的な第一の存在の仕方――、「および子」――すなわち神の第二の存在の仕方、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」「聖性」秘義性としての神がその起源的な第一の存在の仕方において子として「自分を自分から区別した」ところの子、それゆえに父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神として自分自身が根源である。ちょうど神の言葉自身の出来事の自己運動において、起源的な第一の形態の神の言葉が「自分を自分から区別」して、聖書的啓示証言を第二の形態の神の言葉としたように――は、「われわれにとって理解を絶した隠れた仕方で、……創造主が被造物に相対して持ち給う議論の余地のない優先性の中で、神ご自身である」。「それであるからわれわれがこれらの言葉を神に適用するとき、われわれは……これらの言葉の起源的な真理の中で語っているのである」。したがって、「支配」は、「先ず第一に、本来的に、……イエス・キリストの中で行使され、啓示された神の支配のことである」。すなわち、イエス・キリストが、われわれ人間に対して、聖書および聖書に信頼し固執し連帯した教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によって(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で≫)われわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ということを、それゆえに「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として、それゆえにまた「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということを認識し承認し確認するのである。したがってまた、「忍耐」は、「先ず第一に、本来的に」、「神がわれわれに対して、あくまでも神を信じるための時間をゆるし与え給うことの中で明らかとなる」ところの「神の理解を絶した存在と態度」のことである。したがってまた、「『愛』……の真理」は、「父なる~と子なる~の間で聖霊を通して起こること、換言すれば神がみ子にあって世を愛し給うた愛の光の中で」理解することができる。したがってまた、「『腕』とか『口』という……感覚的な内容を持った言葉」も、「その真理」を、「神の行為と言葉(≪存在の仕方、業と行為≫)について語られるところに持っている(「詩篇九四・九」、「イザヤ四九・一五」、「マタイ七・一一」)」。