本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−4)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−4)−1(302−326頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「二十六節 神の認識可能性」
「二十六節 ~の認識可能性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神認識の可能性は~からしては、次のこと――神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということから成り立っている。(115頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−1で行っていますので、参照してください(2017年4月24日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「二 人間の用意」(その4−4)−1
 前回私たちは、次のことを聞いた――すなわち、~の側の真実としてのみあることとして、それゆえに客観的現実性、客観的実在、永遠的実在としてあることとして、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」ということを、そのように先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は「全くただキリスト論的局面だけである」ということを聞いた。したがって、この意味において、教会史的現象としてある、第三の形態に属する全く人間的な教会の信仰・神学・宣教に無意識の共同性として存在している「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教は、神だけでなく「自分自身」の中にも「生命力」を持とうとする人間自身の「副次的な」企てである。「それであるから、自然神学は、その存在と権利を裏付けるために、常に新しい議論を勝利をもって持ち出してくることができるのである」、全く人間的な、人間の経験的普遍、人間論、教会論、哲学原理・認識論・世界観を持ち出してくるのである。「自然神学」者、自然的な信仰・神学・教会の宣教論者、人間学的神学者の、ルドルフ・ブルトマンもそうだったし、エーバーハルト・ユンゲルもそうだったし、モルトマン等々もそうだったのである。しかし、そのような人間学的神学に対して、時代状況そのものも、そのことを許さなくなったのである。ミシェル・フーコーは、「現在」を次のように述べている――「私に興味があるのは、西欧の合理性の歴史とその限界です……」、「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」、そうした中で、「時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです」、「西欧とは、世界のある特定の地域であり、世界史上のある特定の時期にあるものです」、その西欧は、近代以降において、世界普遍性を獲得した地域、「普遍性誕生の場」である、この意味で、「西欧思想の危機とは、すべての人々の関心を引き、すべての人々にかかわり、世界のあらゆる国々の諸思想、あるいは思想一般に影響を及ぼす危機なのです」、「たとえばマルクシズムは、(中略)一つの思想形態……一つの世界ビジョン、一つの社会機構となりました。(中略)マルクシズムは現在、明白な危機のうちにあります。それは西欧思想の危機であり、革命という西欧概念の危機、人間、社会という西欧概念の危機なのです。それはまた全世界にかかわる危機……です」(M・フーコー『思考集成VII フーコーと禅』)。そうであるからといって、自由を原理とした人類史における西欧的段階の危機に対して、古典古代の前段階の自然を原理とした人類史におけるアジア的段階を対置させれば危機を克服できるわけではないのである。この認識の仕方と同じ地平で、この日本に生き生活し思惟し語る吉本隆明は次のように述べている――人類史的にアジア的な日本的特殊性の自覚に基づいて日本の状況について、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、(≪人類史的に≫)西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます(≪西欧的危機の課題とアジア的・日本的特殊性の課題とを構造として扱う必要がある≫)」(『世界認識の方法』)。これらのことについて認識し自覚していれば、全く人間学的領域の哲学原理・認識論・世界観に依存していたその「後追い知識」に過ぎない「自然神学」、哲学的神学、人間学的神学も、それに先行する人間学的領域の停滞に後続して全く停滞していることが分かるのである、またルドルフ・ボーレンの「聖霊論的出発」の概念に依拠して「神学の優位性を確保しつつ」あるいは「神学の優位性を否定することなく」、「人間学的局面にもその位置を正しく与える」というように世界思想の状況について何も考えずに平然と述べている「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者・小泉健や佐藤司郎が全く時代錯誤し中世的思考に<退行>してしまって宗教的に空想しているだけであることが分かるのである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。「それであるから、自然神学」は、自然的な信仰・神学・教会の宣教は、「明白な、筋道の通ったすべての反対論」に対して、耳を塞いでしまうことができるのである。しかし、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、先行する神の用意に後続する人間の用意ができている「イエス・キリストを度外視せず、まさにイエス・キリストをまともに注視する」その時、教会に無意識の共同性として存在している自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教が「前提しているそれとしての人間自身(≪全く人間的な、直接的無媒介的な人間論的な自然的人間自身や教会論的なキリスト教的人間自身≫)の独立した現実存在は、幻想」でしかないということを認識し自覚させられるのである。なぜならば、聖書的啓示証言においては、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間論的な自然的人間自身、教会論的なキリスト教的人間自身は、「イエス・キリストにおける啓示」から「『攻撃』された」人間、「失われた」人間、「否定された」人間、「否定的判決」を受けた人間、「失われた非本来的な」人間であるからである。自然的人間であろうと、キリスト教的人間であろうと、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのである」・「しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)――このことが、「イエス・キリストの中で明らかとなってくる真理」である。したがって、このイエス・キリストにあっての「真理に対していかなる反対の立場も形造ること」はできないのである、それゆえにその「真理」と「反対の立場」は「幻想である」と言うことができる。したがって、「すべてのこと」は、「われわれがイエス・キリスト」を、御都合主義的にただ単に「口外」し、そのように「振舞う」ということにではなくて、「実際に」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、神の用意に包摂された人間の用意ができているまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストを、神に関する、まさにそれだからこそまた人間に関する、そこで明らかになってくる真理として」、「注視する」ことに「かかっている」のである。このような訳であるから、「もしもわれわれが、人間に関する真理を、イエス・キリストの現実存在」「から読み取るならば」、すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を、第三の形態の全く人間的な教会の信仰・神学・宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、その客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)における「イエス・キリストの現実存在」「から読み取るならば」、「その時」、神だけでなく人間も、人間論的な自然的人間あるいは教会論的なキリスト教的人間も、その人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教の「地盤」は、「常に幻想であり、実際には常に、倒れること、堕落すること」であるということを認識し自覚することができるのである。「なぜならば、イエス・キリストにあっては、それとして独立した人間自身というようなものは存在しないからである」。この「人間に関する真理」、その認識は、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)に依拠した信仰の類比による人間の自己認識・自己理解・自己規定としてあるものなのである。「イエス・キリストにあって」、「それとしての人間は、……恵みに逆らう敵意に対する恵みの勝利の中で、神によって取り上げられ受入れられた人間、そのものの手から神が彼の問題を、神ご自身の問題とするために取り上げられた人間、そのもののために神ご自身が、時間と永遠の中で味方となって、執り成してくださった人間である」、すなわちその「聖金曜日と復活日」、その「死と復活の出来事」、その「裁きと恵み」にあずかる人間である。したがって、ここで人間は、「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教におけるような、直接的無媒介的な、全く人間的な人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、存在の類比に関わる人間、人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍によって自己認識・自己理解・自己規定される人間ではないのである。したがってまた、「もしも人間が、ここでもう一度、ただ一瞬たりとも」、「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教において、「人間の可能性と努力」を「それとして真剣に受け取」るならば、それゆえに「神の恵みに逆らう……敵意が、もう一度特に(≪なぜならば、すでに「裁きと恵み」の認識を与えられているのであるから≫)、……興味あるものとなる」ならば、「聖金曜日と復活日の出来事は撤回されてしまわなければならない」のである、「(≪単一性・神性・永遠性を本質とする≫)父と子の間の永遠の出来事(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示、イエス・キリストにおける客観的な啓示の出来事≫)は、その永遠の出来事の時間的な形態としての聖霊の業(≪客観的な啓示の出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、人間的主観に実現された神の恵みの出来事に基づいて、終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)は、阻まれてしまわなければならない」のである、「聖霊の働きを通して造り出された」客観的な啓示の出来事との「関係としてのわれわれの信仰は、空しいものとされ」、「その同じ聖霊の働きを通して造られた信仰の一致としての」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト)、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を教会の信仰・神学・宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指す第三の形態の「教会は破壊されてしまわなければならない」のである。言い換えれば、~の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおける死と復活の出来事、「裁きと恵み」の出来事においては、「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教における「神の恵みに逆らう人間の敵意」は、その最初から「勝負」に「負けてしまっている」いるのである。このイエス・キリストにおいては、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教は、究極的包括的総体的永遠的に止揚され克服されているのである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会に無意識の共同性として存在している自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教の企ては、徹頭徹尾、全くの「幻想」、錯覚でしかないのである。<非>自然的な<段階>の信仰・神学・教会の宣教は、そのことを認識し自覚しているのである。したがって、「とりわけ人が、そのような人間の敵意に対して戦いをいどみ、損害を与えなければならないことはないのである」。ただ、起源的な第一の形態である神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストに(具体的には、第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」)に信頼し固執し依拠して、「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教を、根本的包括的に原理的に止揚し克服すればいいのである、ただ「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教は、「幻想」における思惟と語り、「幻想」の「教説」、錯覚における思惟と語り、錯覚の「教説」であると呼べばいいのである。したがって、「裁きと恵み」の下で「不信仰」であり・「非教会」であるところの、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間が「第一に、また最後的に必要としている唯一のもの」――すなわち彼のその「存在」・その思惟・その実践における「恵みに逆らう彼の敵意」の「『事柄』……の中で、事柄と共に」、「イエス・キリストからの……最も重い脅かしの下」でも「イエス・キリストに相対して」「立つことができ、持ちこたえてゆくことができるという」「確認こそ」が、「与えられてならないことである」。したがってまた、「信仰と教会は、それとしての人間自身に対して」、「この確認を与えるような仕方で、相対して立つ時、既に不信仰と非教会になってしまっているのではないかどうかよく吟味しなければならない」。人間が「その反抗を通して、実体を形造ることができるということは本当ではない。そのことは、イエス・キリストにあって、(たとえ人間がどう考えようと)確かに本当ではない。彼の現実存在の真理は全くただ……イエス・キリストが彼のために死なれ、彼のために甦られたということである」。したがって、「ただそのことだけが(≪ただこの<純粋>なキリストの福音だけが≫)、彼に向かって彼の真理として宣べ伝えられなければならないことである」。「イエス・キリストの宣教が問題である時」には、「あたかもわれわれ」人間が、「心配症的な真剣さ」でもって、「あたかもイエス・キリストを助けにゆかなければならず、助けにゆくことができるし、助けにゆくことがゆるされるかのよう」な軽薄な主張、すなわち「その中で人が人間」を、それ自身の「独立性の中で確認することでもって、真剣に受け取っていると主張する」「心配症的な真剣さ」は、「事実決して真剣なものではなく、むしろ全くの道化芝居」なのである。なぜならば、~の側の真実としてのみある、イエス・キリストにおけるその死と復活の客観的な啓示の出来事は、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と損出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、を持っているからである、それゆえに「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からである、「解釈する」とは「別の言葉で同一のことを言うこと」であるからである。「信仰と教会の宣教は、それの対象(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト≫)の故にも、人間のまことの唯一の救いの故にも、全くの厳格さの中で、それとしての独立した人間自身は存在しない(≪聖書的啓示証言によれば、それとしての、それ自体としての人間存在は非存在であるから、それゆえにイエス・キリストにあっての「裁きと恵み」における人間存在≫)ということから出発しなければならない。そこにはただ……そのもののためにイエス・キリストは死なれ、甦られ、そのものの事柄をイエス・キリストはご自分の手に引き受けられた人間がいるだけである。信仰と教会の宣教が、その時、人間に向かって語らなければならないすべてのことは、ただこの彼のまことの現実存在の説明であることができるだけである。……信仰が信仰であり、教会が教会であるところ」――そこでは、「恵みと裁きが、福音と律法が、イエス・キリストにあっての神の義と裁き」を、<純粋>なキリストの福音を、「宣べ伝え」ることができるだけである。「まさにこのことと共に、信仰と教会の宣教……自分を正しく理解している(≪すなわち、神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえにあの客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を正しく理解している≫)神の言葉の神学にとって、自然神学(≪自然的な信仰・神学・教会の宣教≫)の道全体が、自動的に、徹底的に、断ち切られる」のである。このように、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教の道は「全く徹底的に断ち切られているので」、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教と「対決するすべての議論は根本においてはただ」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を正しく理解している<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の「本来の主題を確認することの後に続く(≪副次的な≫)説明」として「成り立つことができるだけである」。現実の事実としては、自然的な神学はすべて自然時空に死語化してしまった。したがって、生き延び得ているのは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、大学社会の神学者、それに類する者たちにおいてだけである。したがってまた、「キリスト教の宣教は、自然神学の提供に対して(それがどのような提供であろうと)それを用いる余地は全然ないのである」。なぜならば、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を正しく理解している「キリスト教の宣教」は、「人間自身の自己説明」、自己表現を志向し目指す「自然神学が……興味深くあり得るところの人間」、すなわち直接的即自的無媒介的な、全く人間的な、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教人間を、「興味がないものと見做すべき根拠を持っているからである」、「それに固有な主題……(≪起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものである≫)イエス・キリストの中で語られた神の言葉によって、全く拘束されているからである」、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を教会の信仰・神学・宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれを媒介・反復するという仕方で「イエス・キリストにあっての人間のまことの現実存在を説明するという課題を果たすように完全に要求されているので」、換言すれば先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということを「説明するという課題を果たすように完全に要求されているので」、「それとしての人間自身の自己説明(≪自己表現≫)としての自然神学に対して徹頭徹尾何の場所も、何の時間も持っていないからである」。
 さて、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教は、人間自身からする「イエス・キリストにあっての神の啓示なしにも成り立っている人間が神と結ばれている状態についての教説である」、換言すれば神だけでなく人間自身も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという教説、すなわち正しく理解された「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言を、キリスト教信仰・神学・教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とすることなく、全く人間的な、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、人間の経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観に依拠する教説である。したがって、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教は、人間自身の「自主独立的な神との結びつきに基づいて可能であり」、神と人間との無限の質的差異が後景へと退けられたその「神」・その「啓示の内容」は「人間的理性や人間的欲求によって規定された神」であり・その「神から発生した」「啓示の内容」であり、その「神の意識」は「人間の自己意識」であり、その「神の認識」は「人間の自己認識」であり、それゆえにその「神学」は「人間学」的神学であり、「人間自身の領域」における自然「必然的な企てである」。このような自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教が「人間自身の領域」における自然「必然的な企てである」のは、次のような理由によっている――人間は自然の一部であり、その自然は、自然としての自己身体であり、他者身体であり、外界としての自然(第一次的に天然自然あるいは人間化された自然としての人間的自然)であるが、個体的自己としての全人間は、肉体・身体および精神・意識を介して、普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動を行う、肉体的身体的および精神的意識的な人間の類的な活動や生活を行う、それは人間諸個人による全自然の対象化であり、非有機的身体化であり、人間化であり、そのことによってまた人間は、人間的自然、有機的自然となる、それは人間の歴史的行為である、人間諸個人による全自然の非有機的身体化によって生み出された人間的自然は、それが感覚的客体としては孤立しているのであるが、現実的な生活過程においては媒介的に他の人間と関係づけられているから、それは協働関係としての社会を構成する、その人間の類の時間累積として自然史の一部を構成する、その自然史の一部としての人類史の自然史的過程である経済社会構成の拡大・高度化、科学や技術、その知識の進歩・発達・増大、生活的利便性の向上は、自然史的必然に属しているから、さまざまな規制等によって遅延させることはできても、停滞させたり逆行させたり後退させたりすることはできない、そこにおいて様々な観念諸形態が生み出されるのであるが、その観念諸形態は、それ自体の展開過程と自己増殖過程を持ち時間累積されて行く、人間論的な理性、悟性、想像、意志、良心を持った、自然的人間だけでなく、教会論的なキリスト教的人間も、そのただ中で不可避的に生き生活し、信仰し神学し宣教することを強いられているからである。このような訳で、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教は、「人間が(≪キリストにあっての≫)神に相対して自分自身で一人立ちし」、それゆえに彼は「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリストにあっての神を「認識できない者となり、自分を、事実、神と等しい者とすることによって、発生し、また存続する」。したがって、その場合、その神は、「(神の恵みから身をひいた)……彼自身が最高のものとして尋ね求め、選び、造り出し」たものであり、すなわち全く人間的な彼自身が対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神への信仰」(偶像崇拝、人間崇拝)であり、それゆえにその啓示の内容も彼自身の自己意識・理性・思惟や人間的欲求の「総内容となる」。したがって、彼は、「自分自身とほかの者たちに対して、……(≪彼の自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教の立場においては、信仰の認識として神認識は不可能であるにもかかわらず、≫)神ご自身に対しても」、「神の恵みの外」に出ながら、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教において「決して神を知らない不敬虔な者ではなく、それどころか……神を至極おそれ敬う者であり、……神に満ちていることを保証するために」、類的な「人間的諸能力を……用いるのである」。私たちが身近なところにこの典型を見出すことは難しいことではない。次のような「『神の人間性』に見る後期バルトの神観」をWeb上で論じた牧師がそれである――『神の人間性』においてバルト自身は、厳格に、神と人間との無限の質的差異の下で、「神の神性において、また神の神性と共に、ただちにまた神の人間性もわれわれに出会う」・「神が神であるということがいまだに決定的となっていないような人は、今神の人間性について真実な言葉としてさらに何か言われようとも、決してそれを理解しないであろう」と述べているにもかかわらず、その牧師は、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教の立場から、「バルトが語る<神の人間性>とは」、「たとえ人間が」「神を神とすることを止めて自らを神とし、神の敵として歩み始めたとしても、神は人間と関わりを持つことを決して拒まれないで、あくまでも苦難の中にうめいている人間と苦しみを共にすることを選ばれたということ」であると、尤もらしく聞こえる言い方で出鱈目極まりない誤謬に普遍性と組織性の後光をかぶせて述べていたのである、キリスト教信仰・神学・教会の宣教にとって最善最良のバルトを人々に誤解させ、バルトに迷惑をかけていたのである。バルトは、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>で停滞と循環を繰り返す教会、牧師、神学者等に対して、『啓示・教会・神学』において、次のように述べている――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪総括的に言えば、彼自身が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」・偶像、その神の名と呼びかけによる救いと平和の企て≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」。人間が、そのような自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教の「立場が現実の立場であると……空想の中で信じきっているということこそが」、自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教の「立場を基礎づけている」のである。誰であれ、「もしも人が、神の恵みに逆らう彼の敵意を撤回させてしまうことができないとすれば」、「彼にとって助けとなることができるもの、それはただ」、「その啓示の中でのイエス・キリストの恵みそのものが、(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)勝利をもって彼のところに来て、彼をその幻想」、錯覚、空想から、「それと共にまた自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教から、「解き放ってくれるということ」である、それゆえに「決して、彼が自分で恵みに味方して決断するということ」、「それであるから……(≪自分で≫)自分を幻想から目覚めさせつつ、自分で自分を自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教から「解放する」ということではないのである。なぜならば、「われわれが自分で決断することができると考えているような恵みは、イエス・キリストにあっての恵みではない」からである、すなわちイエス・キリストにあっての神の恵みの出来事は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられるものだからである。自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>で停滞と循環を繰り返すそれを、同じ自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>で包括し止揚し克服することはできない。なぜならば、それは、概念的に矛盾だからである。キリスト教に固有な信仰・神学・教会の宣教においては、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を教会の信仰・神学・宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>の問題を明確に提起し、その<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然的な<段階>の信仰・神学・教会の宣教へと移行していく以外にないのである。
 「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教に対して確信をもって言い切ることができる「ひとつのこと」は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を正しく理解している神の言葉の神学、「宣教……の内容として、自然神学はただ、徹頭徹尾、脱落することができるだけであり」、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を正しく理解している神の言葉の神学、「宣教……の側からしては、ただ全く存在しないものとして取り扱われることができるだけである」、ということである。言い換えれば、キリスト教に固有な信仰、神学、「宣教、自分を正しく理解している神の言葉の神学」は、すなわち客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性を「正しく理解している神の言葉の神学」は、「自然神学と何の関わりも持っておらず、自然神学を役立てようなどと欲することはできない」ということ、それゆえに「自然神学を事実少しも用いないであろう」ということである。このような訳であるから、「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教は、「この意味で、確かに情け容赦もなく切り捨てられなければならない」のである。バルトは、このことを『教会教義学 神の言葉T/1・2』および『バルトとの対話』では次のように述べている――「哲学、歴史学、心理学等は、この神学的(≪信仰的、宣教的≫)問題領域のどれにおいても、事実上、教会の自己疎外の増大以外のなにものにも役立ちはしなかった」、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしなかった」、またその場合、「哲学は哲学であることをやめ、歴史学は歴史学であることをやめる」、キリスト教哲学は、「それが哲学であったなら、それはキリスト教的ではなかった」し、「それがキリスト教的であったなら、それは哲学ではなかった」・「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」、すなわち神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」。なぜならば、キリスト教に固有な信仰と「宣教と神学」は、神と人間との無限の質的差異の下で、「神の言葉」――すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと関わっているからである」。すなわちキリスト教に固有な信仰と「宣教と神学」は、神だけでなく人間もという仕方で「イエス・キリストを真剣に受け取ると同時に」、全く人間的な人間論的な自然的人間をあるいは教会論的なキリスト教的人間を、「それとしての人間そのものを受け取るということはできず、……ただ」単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストだけを真剣に受け取ることができるのであって」、それゆえに「人間をただイエス・キリストにあって真剣に受け取ることができるだけである」、人間の「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として受け取ることができるだけである、それゆえにまた「自然神学……に根ざしており、自然神学の中で絶頂に達する……人間の業を証しすることはできず」、「ただ聖霊の業を証しすることができるだけである」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」――この客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)において、「ただ聖霊の業を証しすることができるだけである」、<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指していくことができるだけである。このように、キリスト教に固有な信仰と「宣教と神学」は、「二人の主に兼ね仕えることはできない」のである、「ただ一人のまことの主に仕えることができるだけである」。したがって、「宣教と神学」が、「人間を取り上げ受入れるイエス・キリストの恵みを宣べ伝える」という「自分の課題と並んで」、「さらにまたそれとしての人間の課題そのものに対しても気を配らなければならないなどというようなことについては、何ら語られ得ない」。したがって、『福音と世界』の立ち読みにあった、まさしく自然的な信仰・神学・教会の宣教における、内容的にはイエス・キリストにおいて完了・成就された救済・平和は現実的に十分でないという観点の下で二元論的に等価形態において宣教Aと宣教Bに分断してしまう宣教論は、お話にならない水準のものである。すなわち、キリスト教に固有な「宣教と神学」は、「ただ一人のまことの主に仕えることができるだけである」――このことをバルトの生涯に引き寄せて言えば、「かつて語った」「宣教(≪説教と聖礼典≫)と神学」の「一貫した繰り返し」が、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、具体的には預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言をその思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で<純粋>なキリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とする「神の讃美」としての「隣人愛」、換言すれば教会と世に向かって為さなければならないところの、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」、「インマルエル、神われらと共にいます」――このキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えの「一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行」くのである。「自然神学」、自然的な信仰・神学・教会の宣教を「肯定し、養い育てることはわれわれの為す仕事ではあり得ない」。前述した二元論的に等価形態において宣教Aと宣教Bに分断してしまう宣教論は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法ではないところの宣教論である。そういう自然神学的な宣教論は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくりあげるのである。したがって、キリストの福音に関わる宣教論としても、また究極的には観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う人間の現実的社会的な究極的総体的永続的な解放を構想する革命論(国家論)としても何の役にも立たないものである。「宣教と神学」が、「自然神学の企てを既に拒否されたものとして」、「そのことにあずかることができない時、そこでは宣教と神学の即事性が問題である。いやしくも厳格な即事性を要求する人間的な行為の対象があるとするならば、それはキリスト教の宣教と神学の対象である」「イエス・キリストにあっての神の恵み」であり、それこそが、「まさにこの特定の即事性を要求し、人間についてのキリスト論的理解……を要求する」のである、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」というように。啓示の真理によれば、全く人間的な「それとしての人間そのもの」は、それとしての人間論的な自然的人間、それとして教会論的なキリスト教人間は、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求を志向し目指しており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である。「神の恵みに逆らう……敵意」を持った人間である、それゆえに先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意を持たない人間、神の認識可能性を持たない人間である。自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教における「慰め」は、人間自身が人間的理性や人間的欲求やによって対象化し客体化しすぎない「存在者レベルでの」「神」、その「神の啓示」を内容としているから、その「彼岸」的形態は「ただ裁きであることができるだけ」である、それゆえにそこでは、ただ「一切の人間的存在の終極として」の、「老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰」を眼前に見るだけである。<非>自然的な<段階>の「キリスト教の宣教と神学」は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である「イエス・キリストを、したがって(≪単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の≫)神ご自身を、われわれの味方として持っており、イエス・キリストの中で救い出されるであろうということを知っているし、語るのである」、「キリスト教の宣教と神学は、……その時全くただ、われわれがイエス・キリストを自分たちの味方として、またイエス・キリストの中で神的な審き主を自分たちの味方として持つであろうということだけ」が、イエス・キリストにおける死と復活の出来事だけが、イエス・キリストにおける「裁きと恵み」だけが、「われわれを救うであろうということを知っており、語るのである」。第三の形態に属する全く人間的な教会は、「それ自身が世のただ中にあり、この世に対して連帯責任を持っている」のだが、「その責任」は、「イエス・キリストは世のために死に、甦られたということ、神は世をそれほどまでに愛されたので、神はそのひとり子を送られ、犠牲にされたということを世に向かって語るということから成り立っている」、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す<純粋>なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えから成り立っている。この「教会は、世に向かって、神はわれわれにとってその恵みの中で(≪先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができている人間イエス・キリストの中で≫)認識可能であり、(その恵みの中で認識可能であるが故に)全くただその恵みの中でだけ(≪先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができている人間はイエス・キリストの中でだけ≫)、認識可能である」ということを語らなければならない。このような訳で、第三の形態に属する全く人間的な「教会は、別な種類の神の認識可能性についての教説を持った自然神学」を、自然的な宣教と神学を、「何ら必要としていない」のである。