本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−3)−2

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−3)−2(281−302頁)

 

「二 人間の用意」(その4−3)−2
 全く人間的な組織、制度、教義、建造物等において実体的に教会であろうとする教会に対して、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを主・頭とする教会は、換言すればそのイエス・キリストを、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」を、教会の信仰・神学・宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、絶えず繰り返し教会となることによって教会であろうとする教会は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基いて、「聖霊を通して、信仰の中で、……生きる」のである。@「われわれは、(≪客観的な啓示の出来事そのもの、インマヌエルの出来事そのものである≫)イエス・キリストが永遠にわれわれのためにいますということの力(≪起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の運動、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力≫)によって」、「神のもと」、「内部にいる」。A「われわれは、聖霊の中で(≪その客観的な啓示の出来事の中での主観的側面である、神のその都度の自由な恵みの決断による聖霊の注ぎにおいて≫)、内部にいる」。B「われわれは、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による、客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく≫)信仰の中で、内部にいる」。この時、@の「繰り返し」であるということが、@の媒介・反復であるということが、それゆえに具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言の媒介・反復であるということが、「われわれに明らかでなければならない」。バルトは、このことについて、『教義学要綱』で次のように述べている――「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉(≪起源的な第一の形態の神の言葉≫)は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方におけるわれらと共なる神である』と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが(≪神の言葉の第二の形態の≫)聖書を神の御言葉と呼ぶ場合……、われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証し(≪聖書的啓示証言≫)として、考えているのである。そして、われわれがそのことを告白する場合、われわれが(≪全く人間的な第三の形態の≫)教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによって(≪起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについて「言葉、証言、宣教、説教」としての≫)イエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」。したがって、「われわれ」が、第三の形態に属する全く人間的な教会の信仰・神学・宣教の現在と未来を考えることは、@にまで遡及して考えることでなければならないのである、換言すれば聖書的啓示証言を媒介・反復するという仕方で@にまで遡及して考えることでなければならないのである。このような訳で、「われわれ」は、聖書的啓示証言に対する「正しい注釈」を、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の「わがまま勝手な」恣意的独善的嗜好的な「判断に……依存させてしまう」ことはしてはならないのである。神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基いた「聖霊があるところ、それであるから信仰があるところ」、それゆえに起源的な第一の形態の神の言葉、「共通した永遠の真理」、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのものを、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を、教会の信仰・神学・宣教の、その思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、キリストの福音を告白し・証しし・宣べ伝えるところ、「そこには(≪第三の形態の≫)教会がある」のである。「イエス・キリストの存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~としての存在≫)と業(≪その~の第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)にあずかるわれわれの参与は、われわれが教会の中にいること、われわれ自身が教会であること(≪なぜならば、そこには、神の側の真実からやって来る、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事における聖霊があり、それゆえに信仰があるからである≫)を通して、起こるのである」。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会における制度としての牧師や神学者が、「独立した救いの道、あるいは救いの道具」であるということを全く「意味しない」のである。このことは、聖霊の注ぎも、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与も、教会の「決定事項」では全くないのと同じである。すなわち、第三の形態に属する全く人間的な「その説教と聖礼典を持った教会」、「内と外に向かってみ言葉に仕える奉仕を持った教会」は、「自分自身の中で、自分自身からして、生きるのではない」のである。なぜならば、第三の形態に属する全く人間的な「教会が自分自身の中で、自分自身から生きる限り、教会はほかの宗教団体と同じように、神の恵みに逆らう敵意に奉仕する宗教団体でしかない……」からである。この場合、「わがまま勝手に」恣意的独善的に神と人間との無限の質的差異を止揚し世俗化させた宗教あるいは共同宗教としてのキリスト教におけるその自然的な信仰・神学・宣教は、人間自身が対象化し客体化したに過ぎない、人間の自己意識の類的本質、共同宗教のその最後的形態である政治的近代国家、「存在者レベルでの神への信仰」を志向し目指してだけなのである。その自然的なキリスト教信仰・神学・宣教は、まさしくフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが現実性と妥当性をもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判した宗教そのものなのである。このような訳で、第三の形態に属する全く人間的な教会は、「自分自身の中で、自分自身から生きる」ことはできないのであって、「現実に、ただ(教会がそのからだである)頭としてのイエス・キリストの中で、あるいは天的なからだとしてのイエス・キリストの中で、その地上的な形態として生きる」ことができるだけなのである。このことは、「ちょうど聖霊がわれわれの中で……現実に、ただイエス・キリストご自身の時間的な現臨(≪なぜならば、客観的な啓示の出来事の中での主観的側面であるから、それゆえに客観的に存在している啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性は聖霊自身の業であるから≫)であり、信仰が……現実に、ただイエス・キリストとのわれわれの関係(≪神のその都度の自由な恵みの決断による聖霊の注ぎによる信仰の出来事、人間的主観に実現された神の恵みの出来事におけるイエス・キリストとのわれわれの関係≫)であるのと同様である」。第三の形態に属する全く人間的な教会は、「聖霊の業の歴史的(geschichtlich)な形式であり、そのようにして信仰の歴史的形態である」、このような仕方におけるキリスト教に固有な個体的自己の信仰の成果の世代的総和(類)の継続(歴史)の形態である。この「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態に属する全く人間的な教会は、「起源的に、自分自身の中で歴史的な広がりを持っている」。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で次のように述べている――「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている…… 時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である。第三の形態に属する全く人間的な教会は、「イエス・キリストによって取り上げられた人間性の中での」、「換言すれば、イエス・キリストの十字架につけられたからだ、またその甦りの中で神的なものに変えられ、今や父の栄光の中で存在している天的なからだの中での」「全体である」。「まさに、このイエス・キリストご自身の天的なからだの地上的な形態、……イエス・キリストにあって和解され、イエス・キリストを通して代表された人間性、それが教会である」。したがって、「イエス・キリストに仕える奉仕の中で信仰が新たにされ、宣べ伝えられる中で信仰がイエス・キリストに捧げる讃美の中で可視的となる」。なぜならば、その時教会は、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)を、その信仰・神学・宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」に根拠づけられた「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわちすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すからである。このような訳で、この第三の形態に属する全く人間的な教会の「奉仕は、ただ(≪具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復するという仕方における起源的な第一の形態の神の言葉に対する≫)奉仕であることができるだけであって、決して支配となることはできない」のである、決して起源的な第一の形態神の言葉、イエス・キリストを、具体的には第二の形態の神の言葉、聖書的啓示証言を、「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に支配することはできないのである。具体的には、「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」。したがって、神の言葉に対する「奉仕は、ただ信仰が新たにされ、宣べ伝えられる中で、神の向かって讃美が捧げられる中で、そして将来(≪終末、キリストの再臨の時≫)神をみるであろうことを希望する中で、遂行されることができるだけである」。したがって、「もしも教会が自分自身」の「わがまま勝手」さに、恣意性独善性嗜好性に立とうとするならば、第三の形態に属する全く人間的な教会は、「直ちにそこに、ひとつの宗教団体を見出すだけである……」。情報科学や情報技術が高度化された社会において、高度消費資本主義段階の社会において、現在、このような教会が、ごまんと現存しているのではないだろうか。イエス・キリストを主・頭とする教会になることを志向し目指している教会は、どれくらい残っているのだろうか。いずれにしても、「そのことが聖餐の中で信じられ、宣べ伝えられているように」、第三の形態に属する全く人間的な「教会は、イエス・キリストの地上的なからだとして」、「イエス・キリストの天的なからだとしてのその形態の中で、教会自身の永遠の真理(≪起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」≫)によって自分を養うことがゆるされる」のであるから、「それとは違った仕方で教会は自分を養うことはできない」のである。したがって、「もしもそれと違った仕方で自分を養うならば、教会は、教会としてただ死ぬことができるだけである……」。第三の形態に属する全く人間的な「地上的な形態」としての教会が、前述したような仕方で、「その天的な形態とひとつである単一性」を、「それがイエス・キリストの(≪その死と復活の出来事の≫)中で既に遂行されたことに基づいて……遂行することによって」、「またこの遂行自体(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストの設定であり、賜物であることによって、そして現実に聖霊の働き(≪客観的な啓示の出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)の中で、以上のことを為すことによって、(≪~の側の真実としてのみある≫)そのことに基づいて教会は、神の教会として、なお不完全さの中にあって既に完全であり、なおひとつの宗教団体でありつつ、既に人間の間にある神の住居であり」という、このような教会は、「どのようにわれわれは……イエス・キリストの存在と業に参与するようになるのかという問いに対する答えである」。バルトは『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』で次のように述べている――「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、~の側の真実としてのみある「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第三の形態の教会において遂行される。また『カール・バルト教会教義学 和解論T/1 和解論の対象と問題』で次のように述べている――単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものであるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性や教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非キリスト者、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれている。
 このような訳で、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」。このように、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」。ここに、「人間に関して語られなければならない最後にして本来的なこと」があるのであるから、人間の自然的な「理性や力」等による人間の側からする「神の認識可能性」は「閉じられる」のである、自然的な信仰・神学・宣教は閉じられるのである。なぜならば、「成就されなければならず、成就されることのできるすべてのことは、イエス・キリストの実在の中で」、「われわれのためにも成就されたからであり、イエス・キリストは永遠にわたってわれわれのために執り成し給うからであり、聖霊(≪「父ト子ヨリ出ずる御霊」≫)の中で父と子がひとつであるという一致」は、「われわれのところででも、われわれの中ででも、信仰と教会の二重の形態の中で効果を持ってくるからである」。第三の形態の属する全く人間的な教会の「われわれは、ただ、(≪具体的には≫)イエス・キリストについての証言(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態、すなわち直接的な最初の第一の預言者および使徒たちの起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」≫)を取り上げ、それから(≪それを教会の信仰・神学・宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で≫)ただイエス・キリスト(≪起源的な第一の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)をさえ見さえすればよい」のである――このことが、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「起こるということが、いうまでもなくまことの信仰まことの教会の本質である」。この時、「われわれ」は、先行する神の用意に包括された後続する人間の用意ができているイエス・キリストを認識し信仰し「見る」ことによって、第三の形態に属する全く人間的な「われわれ自身」も、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教によってではなく、自然的な信仰・神学・教会の宣教によってではなく、キリスト教的人間の自然的な「理性や力」によってではなく、「神は認識可能である人間として見、理解する」ことができるのである。したがって、この時、<非>自然的な<段階>における「まことに、神との関係にある人間について語り、(≪「キリスト論的な局面の下で」の≫)キリスト教的人間論と教会論は可能となり、現実となることができる」のである、すなわちこの時、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間であるイエス・キリストに感謝をもって信頼し固執する「キリスト論的な局面以外の……いかなる独立した」キリスト教的人間論や教会論は、もはや可能でなくなるのである、自然的な人間論や第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の側からする教会論的なキリスト教的人間論は、もはや可能でなくなるのである。この時、「われわれ」は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト以外のほかの方を見ることはゆるされない」のである、それゆえに「われわれは、それの本来的な主辞がイエス・キリストであり、常に繰り返しイエス・キリストであるような命題以外の命題を形造ることはゆるされない」のである、「われわれ」は、<純粋>なキリストの福音と同時に、二元論的に「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的な事柄(例えば、それも、人間的な、国家の無化を伴う社会的現実的な人間の究極的総体的永続的な解放を構想する過渡的課題と究極的課題を明確に提起しないところの社会的あるいは政治的な言説や運動に過ぎない事柄)を付加することはゆるされないのである。言い換えれば、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストにのみ信頼し固執する第三の形態に属する全く人間的な教会の「われわれ」は、「それとしての人間そのもの(≪その現にあるがままの現実的な人間存在における人間そのもの≫)について」、すなわち「自主独立した仕方で換言すればイエス・キリストの中以外の仕方で存在している人間について」語ることはできない、すなわち「イエス・キリストにあっての彼の(≪人間≫)存在以外のところから、彼に関してもはや語」ることはできない。なぜならば、イエス・キリストにあっての「彼は、イエス・キリストを十字架につけたということ、その同じ十字架の上で彼の罪はゆるされたということ、彼はその自主独立性」を「裁かれ」、「その自主独立性を……取り除かれ……神の子の生との交わりの中へと止揚され、取り上げられたということを知っている」からである、そのことを認識し信仰しているからである。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(「律法の成就」・完了)ところのインマヌエルの出来事は、その現にあるがままの現実的な人間存在を生きる私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、神と人間との無限の質的差異の貫徹において「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも(≪神と人間との無限の質的差異の貫徹において≫)混淆されぬように、統一し給うた」ということを内容としているからである。バルトは『証人としてのキリスト者』で次のように述べている――「もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている」ところ私たちは、教会や世に対して、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない・すなわち、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、@「私がその人をその中に置くことによってではなく」、A単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができている「イエス・キリストがすでにその人をその中に(≪~の側の真実としてのみある、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の中に≫)置いてい給うことによってである」・したがって、私たちは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」。この「この規則」は、「すべての健全な教説の根本規則」である。したがって、この規則が「守られるとき、神は人間にとって認識可能であるという命題は、最も厳格な、疑いの余地のない、すべての弁証法と曖昧さ(≪典型的には、自然的な信仰・神学・教会の宣教における神だけでなく人間も、自然的人間あるいはキリスト教的人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという混淆・共働・協働・混合≫)から解放された確実さの中で、すなわち『言葉は肉となった』という命題の確実さ全体の中で、語られることができるし、語られなければならない」のである。この「極めて単純な」根本規則は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての根本規則である――単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストが、「キリスト教信仰およびキリスト教会の最初の言葉であり、最後の言葉である」・「イエス・キリストの名のほかに救いはない」ということを認識し承認し確認するならば、この根本「規則は、……いうまでもなくどこででも、常に、それによってキリスト教の信仰が、またそれによってキリスト教会が、生きると主張され、事実また生きるところの福音……以外の何を語っているであろうか」。「われわれの規則は、ただ(≪起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、イエス・キリストにおける≫)福音がキリスト教的な思惟と語りの規則(≪キリストの福音を内容とする福音の形式としての規則≫)として実際に尊重されることを欲しているだけである」。このことは、「偽りの確実さが、半分だけの確実さが、信頼できない確実さが、終わりを告げるためである」。言い換えれば、そのことは、第三の形態に属する全く人間的な「キリスト教信仰とキリスト教会が、……イエス・キリストによって生きることによって、イエス・キリストの名を宣べ伝え、聞くことによって(≪起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を、その信仰・神学・宣教における思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方によって≫)、沼の上に立たず、堅い岩の上に立つようになるためである」。
 このような訳で、「われわれは、もう一度、教会の領域の中での自然神学の問題に立ち帰らなければならない」、教会の領域の中に無意識の共同性として存在している自然的な信仰・神学・宣教の問題に立ち帰らなければならない。「(恵みとその啓示を必要としていない)人間の(≪「自然的な」≫)神認識とそのような人間が神と結ばれていることについての(≪「わがまま勝手な」恣意的独善的嗜好的な≫)主張は、全くただ、それとしての人間自身の必然的な自己解釈および自己弁護」でしかないものである。したがって、そのような自然的な信仰・神学・宣教は、うわべでは「無理やり捏造された敬虔さ」や謙虚さを装いながら、それゆえに一応は啓示神学に優位性を持たせつつ、「おおっぴらに密かに」自然的な信仰・神学・宣教を目指すのであるが、そのような自然的なキリスト教信仰・神学・教会の宣教、その思惟と語りにおける、@「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」ものなのである(『フォイエルバッハ全集第12巻 宗教の本質にかんする講演下』)、A「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識」なのである・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……」ものなのである、それゆえに「この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ものなのである(『キリスト教の本質』)。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)のそのような自然的な信仰・神学・宣教は、人々を、人間自身が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神ヘの信仰」(偶像崇拝、人間崇拝)に向かわせ、その「存在者レベルでの神」の名と呼びかけの下に、キリストの福音以外に、二元論的にさまざまな社会的あるいは政治的な救いや平和の企てを行おうとするのである。このことが、教会の領域に無意識の共同性と存在している「自然神学の中で常に新しく出来事となって起こる福音のブルジョワ化」である。
 「われわれは、われわれの主要な問い、人間の用意として理解されるべき神の認識可能性を問う問いに対する積極的な答え」を、「神に向かって用意ができている人間、それであるから神を認識する人間がいる」ということを認識し承認し確認することに見出したのであるが、その人間は、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているところの、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、完了・成就された個体自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和、客観的な「啓示の実在」そのものである<まことの神>にして<まことの人間>イエス・キリストである。この「積極的な答え」が、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の領域に無意識の共同性として存在している「自然神学の問題に関するわれわれの最後の結論」であった。「われわれ」は、「積極的な答え」をそのように認識し承認し確認した「が故に」、「自然神学」(自然的な信仰・神学・宣教)を、「信仰と教会の領域において、結局」は、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)が、換言すればその人間論的な自然的人間あるいは教会論的なキリスト教的人間が、起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト)を、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を、その信仰・神学・宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者とすることをやめて、それゆえにそれから「独立して」「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に「発言する機会」と、「独立的な権利を与え」ることによって、「ただイエス・キリストだけが支配し給う」ということを「認めないばかりか否定しようとする試み、として理解することができる」のである。「なぜならば、ここでは、第三のもの」、先に述べた「根本規則」を「認めることと認めないことの間にある中間的な立場は存在しないからである」。あの「根本規則」を認めるか認めないか「あれか」・「これか」、どちらかの立場・態度しか決断することはできないからである。ここでも、私たちは、キリスト教信仰・神学・教会の宣教には、単なる学業的知識の問題においてではなく、その思想の問題においては、二つの系譜しか存在できないことが分かるであろう。「(≪私たちは、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、その死と復活の出来事、インマヌエル、この≫)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪党派的、党派主義的、多元的党派主義的な、教派、学派、思想傾向、主義、時流や時勢、社会的あるいは政治的な言説と運動等≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、自らの立場において、両者を包括し「止揚しな ければならないということが思想的な問題」である(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか 思想の基準をめぐって』)。このような訳で、あの「根本規則」が「力を奮い、尊重されるならば、その時、それとしての人間そのものは、信仰と教会の領域において、いかなる独立した言葉と権利も持たず、そのようなわけでまた、そこでそのような独立した言葉と権利の告知者および弁護人として自ら名乗り出ることは、何の意味も持たない」ことになるのである。したがって、「われわれ」が、もしもあの「根本規則」を後景へと退けてしまうならば、その時、「イエス・キリストはもはや唯一の支配者としては理解されず」、換言すればイエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの)は、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の信仰・神学・宣教における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としては理解されず、「その時、イエス・キリストはもはや(≪キリスト教信仰・神学・教会の宣教における≫)標準ではなくなり、……イエス・キリストはもはや最初にして最後の言葉を語らず、せいぜいのところ、(≪全く人間的な牧師や神学者や著述家等の思惟や語りと等価な)ひとつの言葉を語るだけ」となるのである。もしもキリスト教信仰・神学・教会の宣教がそういう水準のものであるならば、そのような「福音のブルジョワ化」された「わがまま勝手」な恣意的独善的嗜好的な余りに人間的な薄っぺらな語りを受入れるよりは、「むしろ安っぽい無神論という非難を受入れた方がよい」(ハイデッガー)と言われても仕方がないのである、また実際的に確実に、人間や世界の本質を指し示してくれ、人間的な慰安も励ましも喜びも心の響き合いも心の豊かさも享受させてくれる、純粋な人間学的領域に属する吉本やヘーゲルやフォイエルバッハやマルクスや太宰や賢治やドストエフスキー等々の言葉や言説に耳を傾けた方がよいと言われても仕方がないのである。
 さて、あの「根本規則」に対する「二者択一と直面してわれわれ」は、「われわれの副次的な問い」、すなわち「自然神学の生命力の秘密は何か」という問いに向かわなければならない。自然神学、自然的な信仰・神学・宣教は、「どうして……繰り返し発生し、成り立つことができようになるのか」。このことは、「自然神学の業績、その教育学的有用性、その聖書的基礎づけから」は、「明らかになってこなかった」。第三の形態に属する全く人間的な教会における「福音のブルジョワ化の過程」における<制度>としての「ブルジョワ」である牧師、聖職者、神学者の思惟と語りの中に無意識の共同性として存在している「自然神学」、自然的な信仰・神学・宣教は、「たとえ彼がいかに無作法に振舞おうとも」、「イエス・キリストにあって結ばれた神との平和」、イエス・キリストにあって「既に遂行された(≪啓示から独立した「存在」、「権利」、自主性・自己主張・自己義認の欲求を志向し目指す、自然的な信仰・神学・宣教の≫)「除去」が「宣べ伝えられなければならないという観点」の下では、「自然神学」、自然的な信仰・神学・宣教「それ自身の重要性はもはや」<ない>という観点の下では、換言すれば先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているのは単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、<まことの神>にして<まことに人間>イエス・キリストだけであるという観点の下では、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」という観点の下では、「何を意味しているのであろうか」。その第三の形態に属する全く人間的な教会の、<制度>としての「ブルジョワ」である牧師、聖職者、神学者の「自然神学」、自然的な信仰・神学・宣教における思惟と語りは、結局は、第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復するという仕方で起源的な第一の形態の神の言葉だけに、すなわちイエス・キリストだけに奉仕する思惟と語りを意味していないであろう、換言すれば人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間における人間自身の自己表現としての思惟と語りをしていることを意味しているであろう。したがって、「われわれ」は、「自然神学」、自然的な信仰・神学・宣教の問題を明確に提起し、あの「根本規則」を認識し自覚し、それを「真剣に受け取ろうと思うならば」、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができている<まことの人間>そのもの、それゆえに神の認識可能性そのものである「イエス・キリスト以外のところに視線を向け」ることは、「どのような場合でも決してできないということ……は確か」なことなのである。なぜならば、「イエス・キリスト以外のところに視線を向け」る「立場を認めるためには」、「われわれ」は、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているイエス・キリストを後景へと退かせてしまわなければならないからである、それゆえに「自分自身、聖霊の業から身をひいてしまい、信仰と教会の領域……から抜け出してしまわなければならない」からである。聖書的啓示証言によれば、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の下における、聖性・秘義性・隠蔽生を本質とする~の不把握性の下における、それゆえに終末論的限界の下における信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の可能性は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事――「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、単一性・神性・永遠性を本質とする先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができている<まことの人間>イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」――とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事にあった。これが、「啓示の恵みの中での神の認識可能性についての積極的な記述」である。このように、聖書の注釈から「神が認識可能である人間を結局全くただイエス・キリストの中でだけ認識することができたが故に」、「神の認識可能性に関する決断」は、「自然神学(≪自然的な信仰・神学・宣教≫)の問題に対する答えとは全く独立した形で下され」たのである。したがって、「自然神学の取り組み方」が、このような「洞察を通して規定される時にだけ、自然神学(≪自然的な信仰・神学・宣教≫)は実際に拒否され、克服されるのである」。フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが為した自然神学(≪自然的な信仰・神学・宣教≫)の<段階>で停滞と循環を繰り返す宗教あるいは共同宗教としてのキリスト教に対する批判は、現実性と妥当性を持った根本的包括的な原理的な批判であるから、この揶揄・批判を、人間論的な自然的人間、全く人間的な教会論的なキリスト教的人間、人間学的領域を媒介しては、根本的包括的に原理的に止揚し克服することはできないのである。したがって、「われわれ」が、「自然神学(≪自然的な信仰・神学・宣教≫)の拒否」を「問題」とする時には、あくまでも「副次的な問いとして」「もう一度、(≪教会の中に現実の事実として存在している、それも無意識の共同性として存在している≫)自然神学の問題に戻ってくる」という還相過程における問題として扱うのであって、それであるから自然神学(≪自然的な信仰・神学・宣教≫)の問題は、「本来的に、最後的に真剣に受け取るべき」問題とは「決して……なり得ない」のである。このような訳で、「自然神学の問題に対するすべてのそのほかの取扱い、すべての悲劇的な取扱いの中ででは、人が自ら既に自然神学に陥ってしまっているということが暴露される」のである。因みに、寺園喜基が傾倒しているであろうクラッパートは、『バルト=ボンヘッファーの線で』において、次のようなパンネンベルクが述べたことを報告している。@バルトの神学的前提である「啓示実証主義」は、「極めて主観的な経験に基づく啓示の主観的要求」であり、「啓示の主観主義」であると批判していることをクラッパートは報告している。先ず以て私たちは、この出鱈目極まりない仕方での「啓示実証主義」者バルトという主張が、<バルト自身>の思惟と語り、言葉、概念、言説、「頭に存在したもの」とは全く相容れないものであるから、あくまでもバルトについての悪意を持った「評論」を「書いたりした人々の頭のなかにのみ存在していた」<悪意ある造語>であるということを知っておく必要がある。聖書的啓示証言に信頼し固執したバルトは、ただ三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられている、必然性不可避性としてある「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯したのである。この中には、神と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、それゆえに終末論的限界、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、第三の形態の属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その聖職者、その著述家、その成員)の信仰・神学・宣教におけるその思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、私たち人間の決定事項ではないということ・それゆえにそれは「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」ということ、が含まれている。A「〔道端の〕石さえも語るのであるから」、直接的に「人間が神について語るというのはまったく自明のことなのである」と述べたことをクラッパートは報告している。まさしくパンネンベルクは、典型的な自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返す自然神学者、自然的な信仰・神学・宣教論者なのである、それに対してバルトは、キリスト教における啓示認識の根拠は、「教会の存在」、「教会がなす行為の基礎」、「教会の主」・頭である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているまことの神にしてまことに人間イエス・キリストであるということを語っているのである、B「他の諸宗教をフォイエルバッハ流に説明し、キリスト教は例外だとするようなやり口の(バルトの)戦術」は、「結局のところキリスト教神学それ自身を台無しにしてしまう」と述べたことをクラッパートは報告している。しかし、バルトは、「他の諸宗教をフォイエルバッハ流に説明」してはいない。すなわち、バルトは、他の諸宗教を対象としているのではなくて、聖書的啓示証言に信頼し固執して、まさにフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの宗教批判の対象そのものである自然神学の問題を、自然的な信仰・神学・宣教の問題を明確に提起して、その問題を根本的包括的に原理的に止揚し克服しようとしているのである。キリスト論的に一致しているか一致していないかという「異端」性の問題は、他人事ではなく、全キリスト教・全キリスト教会・全キリスト者の「信仰の可能性」として存在しているということ、「教会の外の可能性ではなく、……教会の内部での可能性」として存在しているということを語っているのである。バルトは、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』で次のように述べている――神と人間との無限の質的差異という「神に対する関係があらゆる点で、原理的に転倒不可能な関係だということ――そのことについて、人々は、フォイエルバッハを有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」、換言すればフォイエルバッハが為したキリスト教批判(宗教批判)の対象そのものである自然神学、自然的な信仰・神学・宣教を「有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」・神と人間との無限の質的差異を後景へと退けてしまう「神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」、換言すればフォイエルバッハが為したキリスト教批判(宗教批判)の対象そのものである自然神学、自然的な信仰・神学・宣教を、根本的包括的に原理的に止揚し克服することはできない、C「無神論的宗教批判との対決は、人間論のレベルと哲学的論証によって為されなければならない」と述べたことをクラッパートは報告している。根本的包括的に原理的に、バルトを理解していないような、またフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーを理解していないような、このようなパンネンベルクは、その最初から、バルトの神学を、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーの宗教としてのあるいは共同宗教としてのキリスト教批判を、根本的包括的に原理的に止揚し克服することはできないのである。このような訳で、パンネンベルクは、バルトを<出鱈目極まりない仕方で>形而上学的一面的固定的に抽象するという仕方で、換言すれば<出鱈目極まりない仕方で>バルトの一部分を拡大鏡にかけて全体化するという仕方で、それゆえに生産的な批判を為し得ないがゆえに、バルトについて出鱈目極まりない何の成果ももたらさない駄弁を弄しただけなのである、換言すればパンネンベルクは、キリスト教信仰・神学・教会の宣教にとって最善最良のバルトの信仰・神学・教会の宣教を、人々に誤解させただけなのである、バルトに迷惑をかけただけなのである。バルトは、キリスト教信仰・神学・教会の宣教における思想の問題、すなわち不信を包括した信、非キリスト者を包括したキリスト者、非知を包括した知を、換言すれば信と不信、キリスト者と非キリスト者、知と非知の架橋を、聖書的啓示証言におけるイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執して為したのである。したがって、「無神論的宗教批判との対決」を、「人間論のレベルと哲学的論証によって為」す必然性不可避性はないのである。逆に、そのような傲慢で出鱈目極まりない言葉を吐いたパンネンベルクは、前述したように、「人間論」によっても、「哲学的論証」によっても、「無神論的宗教批判」を、根本的包括的に原理的に止揚し克服することはできないのである。なぜならば、自然神学者そのものである、自然的な信仰・神学・宣教論者そのものであるパンネンベルクの言う神、啓示、宗教、神学は、どこまでいっても常に、パンネンベルク自身が対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」、啓示、宗教、人間学的神学に過ぎないからである。したがって、バルトに対して「無神論的宗教批判との対決」は「人間論のレベルと哲学的論証によって為す」べきだと傲慢で出鱈目極まりない言葉を吐いたパンネンベルクの神、啓示、信仰、神学は、当然にも、そのような神、啓示、信仰、神学に対して「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うこと」になると、揶揄的に、しかし現実性と妥当性を持って、根本的包括的に原理的に批判した、純粋に人間学的領域で思惟し語るハイデッガーの宗教批判の対象そのものなのである。そのパンネンベルクが、「無神論的宗教批判との対決」を「人間論のレベルと哲学的論証によって為す」ことなどできるわけがないのである。このような訳で、<非>自然的な神学者のバルトと哲学者のハイデッガーの思惟と語りの方が、まさしく、現実性と妥当性があることは、根本的包括的で原理的であることは、自明的なことなのである。