本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−3)−1

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−3)−1(281−302頁)

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)

 

「二十六節 神の認識可能性」
「二十六節 ~の認識可能性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神認識の可能性は~からしては、次のこと――神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということから成り立っている。(115頁)

 

〔この定式の詳述〕
 この定式の詳述については、『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−1)−1で行っていますので、参照してください(2017年4月24日論述分)。

 

註:「啓示の認識原理」であり「教会の宣教の批判と訂正」の規準・原理・法廷・審判者・支配者である<三位一体論>の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての客観的な対象として存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)、を参照してください。

 

「二 人間の用意」(その4−3)−1
 「われわれ」には、「どうしても答えなければならないひとつの問い」――すなわち「本当に分かったかどうか」という問い、本当に認識し自覚したかどうかという問い、その「吟味のための問い」、「了解質問」が「残っている」。それは、人間論的な自然的人間、第三の形態に属する全く人間的な教会論的なキリスト教的人間が「それ自身」としては「神に対して用意がなく」、換言すれば単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストとは同一ではないこの人間、わたし」は、あくまでも先行する神の用意に包摂された後続する「人間の用意」ができている単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、<まことの神>にして<まことに人間>「イエス・キリスト」においてのみ「神に対して用意あるものであり得るのか」という問いである。「定式的に言い換え」れば、「どの程度までキリスト論と並んで、キリスト論の下で、今やまた、キリスト論に依拠しつつ、徹頭徹尾キリスト論へとさし向けられながら、キリスト教的人間論と教会論が存在するのか」という問いである。なぜならば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」を可能とするのは、「全くただキリスト論的局面だけである」からである。したがって、この問いは、「至極必要な切迫した問い」なのである。言い換えれば、この問いは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の信仰・神学・宣教が、その思惟と語りが、人間によって「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神ヘの信仰」(偶像崇拝、人間崇拝)、その神の名と呼びかけにより救いや平和の企て、総括的に言えば自然的な信仰・神学・宣教とならないために、全く以て「至極必要な切迫した問い」なのである。したがって、この問いは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の信仰・神学・宣教における、その思惟と語りにおける、その客観的な原理・基準・法廷・審判者・支配者を問う問いなのである、換言すれば自然的な信仰・神学・宣教、その思惟と語りの問題を明確に提起することを問う問い、すなわち自然的な信仰・神学・宣教の<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然的な信仰・神学・宣教の<段階>へと移行することができる方途を問う問いなのである。「われわれ」は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、イエス・キリストを、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」を、教会の信仰・神学・宣教における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、単一性・神性・永遠性を本質とする「神の子(≪第二の存在の仕方、業と行為、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、キリストの霊である聖霊の証しの力を包摂したそれ自身に固有な証明能力を持つ客観的な「啓示の実在」そのもの≫)の真理の力、神の子の十字架と甦りの力が、いつの時代においても、(≪第三の形態に属するまったく人間的な≫)教会の中で為される神の子を知る知識と告白(≪教会の客観的な信仰告白と教義≫)の力よりももっと大きかったし、これからもいつも大きい」ところの「イエス・キリストの名を呼び、イエス・キリストの中で起こった人間の新しい創造」について想起することによって、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の対自的であって対他的、自在であって他在、全き自由なその第二の存在の仕方、イエス・キリスト、その業と行為において、「神は自分自身にとって隠されたものでなく」「あらわなものであるということ(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ということ≫)にあずかるのである」という「神ご自身の最後の言葉」を、先行する起源的な第一の形態の「神の言葉そのもの(≪具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言≫)の後に続いて」、「神ご自身の最後の言葉……であるからこそ、(≪第三の形態に属するまったく人間的な教会の≫)われわれの最後の言葉である」ということついて語ったのである。したがって、「この最後の言葉を越えて、さらにどういう問いも立てることはできない」のである。客観的対象として与えられた、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、必然性不可避性としてある「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性から逸脱して、「さらにどういう問いも立てることはできない」のである。言い換えれば、「われわれの問い」は、「すべて、われわれがこの」「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において先行する起源的な第一の形態の神の言葉としての「最後の言葉によって問われているものであるということから起こってくる。すなわち、「すべてのわれわれの問い」は、この先行する「最後の言葉を、われわれが(≪具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を、第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、換言すればそれを媒介・反復するという仕方で≫)認識する途中の段階でだけあり得るのであって、この最後の言葉それ自体はいかなる問いの下にも立っていない」というのが「全くの答え」なのである。なぜならば、「われわれ」人間、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その聖職者、その成員)は、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性の中に生かされており、常に終末論的限界の下に立たされているからである。したがって、ドストエフスキーの『罪と罰』におけるマルメラードフの終末論的信仰は全く聖書的なのである――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」。バルトのこの立場は、一貫性を持っている、このひとつの立場に立脚して、さまざまな自然的な信仰・神学・宣教を根本的包括的に原理的に批判し、その<段階>を止揚し克服しているのである。例えば、次のようにである――@「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語り方に対して、バルトは、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできないのであって、それは、ただ単なる人間の自己意識・理性・思惟によって対象化され客体化された人間自身の自己認識、すなわち人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」、「単なる宇宙論や人間論」でしかないし、そのような三位一体論は、人間自身の自己意識・理性・思惟に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話」である(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)、Aハイデッガーは、「時間から対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在形式として理解」した。すなわち、ハイデッガーは、自分の意志とは全く無関係に不可避な歴史的現存性(被企投性・現前性・被制作性)に投げ出された個が、「自分の最も固有なぬきん出た存在可能性に向かおうとする『先行的な決意性』」(企投性)によって時間化する時、自分自身の時間、自分自身の未来・過去・現在を創造し持つことができる。すなわち、個が「自分自身を実現してゆく」現存性に意識的意志的自覚的に生きようとする時、時間を創造し持つことができる。自然時間でもなく、歴史的時間でもなく、内在的な個の現存性に固有な時間を創造し持つことができる。『神の国』においては神は「時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる」のだが、しかし『告白』においては「過去、現在、未来は精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と述べたアウグスティヌスの場合も、ハイデッガーと事情は変わらない。それに対して、バルトは、アウグスティヌスやハイデッガーにおいては、「自分で時間を創造する」ことによって「時間」を持つ・しかし、彼らの時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」、「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である・言い換えれば、聖書的啓示証言によれば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの時間」、「時間の主の時間」こそが、問題に満ちた非本質的な失われた「われわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」である、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものである・ここに、「まことの現在」まことの「過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。
 さて、「イエス・キリストの中で起こった(恵に逆らう人間的な敵意に対する)」、すなわち「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する「恵みの勝利は、われわれがイエス・キリストを信じることによって、われわれにとって重要なものとなり、力を発揮し、救いとなる」。しかし、この時、「イエス・キリストを信じる」という信仰の出来事を、もしもローマ3・22およびガラテヤ2・16等のギリシャ語原典の「イエス・キリストの信仰」の属格を目的格的属格として理解し、~の側の真実にのみよるのではなく、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)にのみよるのではなく、人間自身の直接的無媒介的な契機にもよると主張するならば、すなわち人間自身の生まれ持った<自然的>な「理性や力」、悟性、想像、意志、良心等によると主張するならば、イエス・キリストにおいて「没落」させられた<自然的>な信仰・神学・宣教の<段階>に停滞し循環することになるのである。この神の「恵から、(信じるときにも、信じる限りにおいても)常に身を退くことができ」る第三の形態に属する全く人間的な教会論的なキリスト教的人間における「その信仰自体」は、すなわちその人間自身の直接的無媒介的な契機も温存させた「その信仰自体」は、「最後的には結局何の成果もあげ得ないもの」なのである。「聖書全体の証言に従えば」、信仰は、「全くただイエス・キリストを信じる信仰だけが問題である」。しかし、この時、信仰は、「すべての可能なそのほかの、成果を伴わない、救いとならない信仰、不信仰、間違った信仰、迷信とは違って、イエス・キリストを信じる信仰が、本来、何であり、どのようにして」、「この信仰、(われわれ自身からしては、われわれ自身の恵に逆らう敵意からしては、問題化されることのできない信仰)にまで来るべきであるかということが問われている」、換言すればこの時、「イエス・キリストの死と甦りに対応している、またイエス・キリストの神的確実さにふさわしい(われわれ自身に対する、われわれ自身の中での)恵みの勝利」が「問われている」。したがって、この問いに対して「正しく答えられるべきだとすれば」、「そこでは……まさに正しい、確かな信仰が問題であるが故にこそ」、第三の形態に属する全く人間的な教会の「信じる人間からしてではなく」、~の側の真実としてのみある「信仰の対象および根拠としてのイエス・キリストからして」、それゆえに客観的現実性、客観的実在、永遠的実在としてある、主格的属格としてのローマ3・22およびガラテヤ2・16等のギリシャ語原典の「イエス・キリストの信仰」(単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが信じる信仰、「律法の成就」・完了、「神の最高の義」)から、その「神の最高の義」であるイエス・キリストから、換言すれば神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて、不信を包括し止揚し克服した信を、信と不信を架橋した信を、信仰の認識としての神認識を、啓示認識・啓示信仰を授与されるイエス・キリスト(その中に主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事を持っている客観的な啓示の出来事)から「答えられなければならない」のである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の信仰・神学・宣教が、その思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、私たち人間や教会の決定事項では決してないのである、それゆえに教会における私たちの信仰・神学・宣教は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである。このような訳で、総括的に言えば、聖書的啓示証言からして決して自然的な信仰・神学・宣教を志向し目指さないバルトは、明確に確信をもって、次のように述べたのである――@「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼 にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)、A「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。
 この「正しい答えは、原則的に」、次のことを意味する。「神に向かって用意のできている<唯一の人間>としてのイエス・キリスト」は、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する「人間の用意」ができている単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、<まことの神>にして<まことに人間>イエス・キリストは、「(われわれの間で神の満ちあふれる恵みが出来事になり、啓示されるために)時間の中でかつて一度、われわれのためにいまし、死に甦られたばかりでなく、まさにかかるものとしてイエス・キリストは永遠にわれわれのために、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~の起源的な第一の存在の仕方である≫)父の前に立ち給い、……そのような方でイエス・キリストはいましたし、いますし、いますであろう。その神のみ子として、われわれのために神自身の中に生き給う」。このような訳であるから、「イエス・キリストがわれわれのために獲得してくださったことをわれわれ自身のものとするということは、われわれによってはじめて遂行されるべきことではなくて」、それゆえに神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという混淆・協働・共働・混合によって遂行されるべきことではなくて、「イエス・キリストがわれわれのために、永遠に、神ご自身の中で、神に向かって用意のある人間であり給うことによって、永遠に、神ご自身の中で、イエス・キリストによって、その大祭司的務めの永遠的継続の中で、遂行されるのである」、~の側の真実においてのみ遂行されるのである。したがって、キリスト教に固有な類として継続するキリスト教信仰・神学・宣教は、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性は、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における先行する起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの――この「本来的なこと、起源的なこと」の「結果であり、説明である」、換言すれば啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいた「結果であり、説明である」。このような仕方で、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」のである、それゆえに「解釈する」とは、「別の言葉で同一のことを言うこと」なのである。第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)が、「わがまま勝手に」恣意的独善的嗜好的に「例証」しようとすること、自己表現することではないのである。
 このような訳で、先行する起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリストにおいて高き所で真実であること」が、「われわれのいる低き所でも真実であり、真実であり続ける」のであって、この「神の業とは違う」、「われわれの……業が始まるのではない」。ここにおいても、「われわれの肉をとった」「われわれ自身の恵みに逆らう敵意」を「克服するものとして」の「全能の、したがって絶対的な力を持った」イエス・キリストの「神的執り成し」(ローマ8・34)が、すなわち「ひとりの神のみ子ご自身の(≪その第二の存在の仕方における「永遠の」≫)業だけ」が、それゆえに「すべての時の中で現在起こっている業」だけが、神のその都度の自由な恵みの決断による神の言葉自身の出来事の自己運動の中で「遂行されるのである」。聖書的啓示証言によれば、イエス・キリストが「ただの人間」ではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間である限り、「われわれはただ一回だけイエス・キリストを通して執り成してもらった」というのではなく、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断により「永遠に執り成してもらっている」、それゆえに「あらゆる時間に執り成してもらっている」のである。このように「われわれのために執り成しをしてくださる方は(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」であるところの≫)神の子であって、それ以下の方ではなく、父と同一の本質(≪単一性・神性・永遠性という本質、それゆえに聖性・秘義性・隠蔽性という本質、それゆえに不把握性という本質≫)を持ち給う方であり、われわれを執り成す神ご自身の力と意志を持ち給う方である」。したがって、「われわれ」は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識が、すなわち啓示認識・啓示信仰が与えられるのである。「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)単一性・神性・永遠性を本質とするこの「われわれの主、キリスト・イエスにある神の愛から」「何ものも」「われわれを離れさせることはできない」。このように「死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものもそのことができないならば、その時また、(それとしてのわれわれ人間自身の中での最後的なもの、本来的なものである)恵みに逆らう敵意のあのどうしてもなくならない残滓も、そのことはできない……」のである。言い換えれば、その「われわれ人間自身の中での最後的なもの、本来的なもの」のただ中で、神のその都度の自由な恵みの決断による神の言葉自身の出来事の自己運動は貫徹されるのである。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。こういうわけで、今や(「律法の成就」・完了、「神の最高の義」としての)キリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則(「汝斯く斯くならん」という約束、イエス・キリストにのみ「信頼せよ」と求める要求)は、罪と死との法則(「汝斯く斯くなるべし」という要求、「遂行せよ」と求める要求)からあなたを解放したからです(ローマ七・二四−八・二)」。「われわれ」は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの死と復活の出来事、「律法の成就」・完了そのもの、「神の最高の義」そのもの、「命の御霊の法則」そのものによって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには」、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「彼に固着し得る」だけなのである。このことは、その最初から「誤謬は必然」である自然的な信仰・神学・宣教においては、換言すれば自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教においては、不可能なのである。「どのようにわれわれは、『われわれが告白する信仰をかたく守っ』たらよいのであろうか」。それは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)が、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における先行する起源的な第一の形態である神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、イエス・キリスト(具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的啓示の「概念の実在」)を、その信仰・神学・宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「『われわれが、もろもろの天を通って行かれた大祭司なる神の子イエスを持つ』ことによってである」、したがってそういう仕方で<純粋>なキリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指すことによってである、そういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すことによってである。なぜならば、「この大祭司は、われわれの弱さを思いやることのできないような方ではなく、罪は犯されなかったが、すべてのことについて、われわれと同じように試練にあわれたからである」、それゆえに第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の「われわれ」は、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯することを通した起源的な第一の形態の神の言葉に対する奉仕において、「あわれみを受け、また恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか(ヘブル四・一四)」。
 さて、「われわれが、(≪「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」である≫)イエス・キリストの存在(≪単一性・神性・永遠性を本質とする~としての存在、それゆえに聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする~としての存在、それゆえに不把握性を本質とする~としての存在≫)と業(≪その~の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの)にあずかることを、聖書は普通、はっきりと言葉に出して、聖霊の業と呼ぶ」。「このことは全く」、終末論的限界の下で与えられる「われわれ」人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)が、~の側の真実としてのみあるということ、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事にのみ基づいているということ、として理解されなければならない。単一性・神性・永遠性を本質とする「聖霊がきよい」のは、すなわち聖霊が聖なのは、「父ト子ヨリ出ズル御霊」である「聖霊は神の霊であり、したがって永遠から永遠にわたって父の子を動かし、結びつけるものであるからである」。『教会教義学 神の言葉T/1・2』では、次のように述べられている――@聖霊は、「父なる神と子なる神の愛の霊」であり、それゆえにここに聖霊の「起源」があり、この聖霊において父と子は、愛に基づく完全な共存的な関係・交わりにおいてあるのである、すなわち聖霊は、その「交わり」の中で、単一性・神性・永遠性を本質とする起源的な第一の存在の仕方である「父は子の父」、「言葉の語り手」であり、その神の第二の存在の仕方である「子は父の子」、「語り手の言葉」であるところの「行為」、業きである、ここに神は愛、愛は神であるということの根拠がある、「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である、愛は、自由・主権がそうであったように、先ず以て神自身においてのみ「実在であり真理」である、A「イエス・キリストは主なり」という信仰命題は、「概念の最後的・究極的意味」において、イエス・キリストが単一性・神性・永遠性を本質としており、「自分自身の中に基礎づけられて」、「唯一の」「もろもろの」「主」「主権」であるということを意味している、この単一性・神性・永遠性を本質とするイエス・キリストの「存在」が、「イエス・キリストを直接に」、単一性・神性・永遠性を本質とする「唯一の神である」その起源的な第一の存在の仕方である「父の場所へと移す」のである、B「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神」であるというイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その第二の存在の仕方、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」、その業と行為において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである、この終末論的限界の下での啓示認識・啓示信仰は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてやって来るのである。このような訳で、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意は、換言すれば先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができている人間は、まことの神にして<まことの人間>イエス・キリストであって、それゆえに第三の形態に属する全く人間的な教会の「われわれ」は、客観的な「啓示の実在」そのものである「イエス・キリストの中で」・その出来事の中での主観的側面である「聖霊を通して」「神の用意ができている」ということが、初めて言い得るのである。すなわち、そのように言い得るのは、~の側の真実としてのみある、「神の子イエス・キリストが永遠にわたってわれわれのために味方していますが故に、また味方していますことによって、父もわれわれのために味方してい給う」ことによってである。このことが、「まこと」の「真理なのである」。~の側の真実においては、「われわれ」人間の、人間論的な自然的人間のあるいは教会論的なキリスト教的人間の恵みに対する「敵意は越えられ克服されている」というのが、「まこと」の「真理なのである」。このような訳で、「世は神と和解させられている(Uコリント五・一九)」。このことが「確実なのは、父、子、聖霊がひとりの永遠にして全能の神でいますことが確実であり」、「~の側の真実として、父と子の間に何らの衝突もなく、聖霊の中で永遠から永遠にわたって父と子の間に平和と統一があることが確実であるのと同じである」。第三の形態に属する全く人間的な教会と世において、「イエス・キリストの存在と業にあずかるわれわれの参与に関して言われるべきすべては、本来ただ、次のことのみあり得る」――すなわちそれは、~の側の真実としてのみある、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて「時間の中で遂行された和解と啓示の永遠的継続の中で」「生起していることの本質の中に」は、「われわれに対してもわれわれの中でも生起するということが既に含まれている」、ということである、換言すればそれは、その~の側の真実としてのみある客観的な「啓示の実在」そのものが、啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を生起させるということが「既に含まれている」、ということである、すなわちそれは、「徹頭徹尾、イエス・キリストの中で実現されている」、ということである。したがって、「イエス・キリストの存在と業にあずかるわれわれのこの参与」は、人間の側からする「第二のものとして」、人間の側からする第二の契機として、人間の側が「あとからあらためて」付加しなければならない契機ということを意味しないのである。なぜならば、イエス・キリストこそが、先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができている人間の用意そのものだからである。ここでも、バルトは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)に無意識の共同性として存在している神だけでなく人間も、直接的無媒介的な人間論的な自然的人間もあるいは教会論的なキリスト教人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという自然的な信仰・神学・宣教を、根本的包括的に原理的に止揚し克服しているのである、すなわちバルトは、<非>自然的な信仰・神学・宣教の<段階>へと移行しているのである。このような訳で、「聖書は、それが聖霊の注ぎと賜物について、われわれに対してのわれわれの中での聖霊の業について語る時、あるいは具体的に聖霊を通して目覚めさせられた教会の生について……個々の……神の子たちの生について語る時、ただ永遠的に現在するもの(≪客観的な「啓示の実在」そのもの、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト≫)の時間的な現在について語っている」のである。このことについては、前回論じた、「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる神の言葉の「偶発的な同時性」の概念を参照されたし。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方である「聖霊は、永遠的にその全き真理(≪起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、啓示・和解そのもの、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)の中で、われわれのために執り成し給う(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく≫)イエス・キリストの時間的な現臨である……」。このような訳で、キリストの復活から同じキリストの再臨までの聖霊の時代において、「聖霊の中で生きる生は、われわれにとって、……『まだない』ただ中にあって、それにもかかわらず……『まだない』から見て純粋な未来であり、しかし『既に』の力で純粋な現在、したがってその中で、……全き真理の中に『既に』立っていることを意味している」。このことは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』では、次のように述べられている――聖書によれば、聖霊は、私たち人間の「救済主」である、しかし単一性・神性・永遠性を本質とする~の第三の存在の仕方である聖霊は、「救済主」であるだけでなく、その本質において、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、「父および子とともに創造主なる神」でもある、新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教とは違って、単一性・神性・永遠性を本質とするイエスを、「事実の承認」として、「思惟の初め」として語っているのである、それゆえにこの「イエスは主である」、「子を通しての父を、父を通しての子」を信じるこの「信仰」、神との出会いであるイエスとの出会い、「信仰の出来事」は、聖霊の注ぎによるのである、この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」、「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである、「われわれ」が「救済」を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである、「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである、ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、すなわち人間の感覚や知識を内容とする経験的普遍にとって<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある、客観的現実性、客観的実在、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。
 前述したように、「聖霊にあっての生活は、信仰の生活である」、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基いて与えられる終末論的信仰における生活である。したがって、ただ単に、「人間の内的な、内在的な変化から成り立っているのではない」。「信仰は(≪客観的な啓示の出来事の中での主観的側面である≫)聖霊の業として、人間が神から生まれる新しい誕生」に「基づいて、人間はまだここ(≪聖書において「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」、「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」、すなわち「われわれの時間の中で」「実在の成就された時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」≫)にいながら、既に」、「イエス・キリストの中で、……まことにあるところのことによって」、換言すれば「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、すなわち完了・成就されたキリストの復活における「神の勝利の行為」によって「生きることがゆるされる新しい誕生である」。したがって、「信仰」は、「イエス・キリストにあっての彼の永遠的な生の時間的な形態であり」、「イエス・キリストが父の前でわれわれのために執り成してくださること……に基づく」、すなわちイエス・キリストが神の恵みに逆らう「われわれの敵意」をその死と復活の出来事を通して「贖われ克服され」たことに基づく、それゆえに先行する神の用意に対して後続する人間の「用意ができていることに基づく」、「人間の存在の時間的な形態のことである」。このキリスト教における信仰に固有な類・歴史性は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストを起源的な第一の形態の神の言葉とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性である。したがって、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基いて与えられる信仰によって信じられた「われわれの存在」は、「われわれがわれわれに固有な真理としてわれわれ自身の中に見出す存在」、換言すればその現にあるがままの現実的な人間存在における「常に、神に逆らう敵意をもった存在のことではなくて」、「神のみ子の中にある」ところの「われわれの存在」、「裁きと恵み」における「われわれの存在」、すなわちイエス・キリストにあっての「われわれは神の敵ではなく、むしろ~の友人であり、その中でわれわれは恵みを憎まず、むしろ全くただ恵みによりすがり、したがってその中でわれわれにとって神が認識可能である(神のみ子にある)われわれの存在」である。これが、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる「信仰によって信じられた人間の真理である」。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにあっての和解の永遠的な現在が、われわれの中でこの時間的な形態を、(この真理を信じる)信仰の形態を持つということが聖霊の業である」。このような仕方で信仰を与えられ「信じることによって」、「彼は、自分自身の存在」が、「結局、……常に敵意を持った存在として」、「克服され……た虚言の中にある存在として」、「暴かれているのを見出」し、認識し自覚することによって、「彼こそがただ、自分自身に(≪自分自身の自主性・自己主張・自己義認の欲求に≫)背を向け」、そういう「自分自身を越えて、『上にあるものを求める』(コロサイ三・二)という仕方で、終末論的信仰に生きることができるのである。彼は、信仰の中で結局、『望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認すること』(ヘブル一一・一)を実証しているのである」、ちょうどドストエフスキーの『罪と罰』のマルメラードフの告白におけるように。「信仰とはまさしく、イエス・キリストを信じることを意味している」――この「イエス・キリストを信じる」ということは、「われわれの時間的な現実存在が、それ自身から」、すなわちその現にあるがままの現実的な人間存在におけるわれわれの自然的な「理性や力(≪悟性、想像、意志、良心、自然を内面の原理とした修行等≫)によって」、「その真理を受け取り、持ち、再び受け取るのではなく」、「全くただ」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストが現にあり、われわれの代弁者および仲保者として神ご自身の中であり給うことの関係から」、神の言葉自身の出来事の自己運動、すなわち神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて「その真理を受け取り、持ち、再び受け取るということを意味している」。このような訳で、「逆に表現するならば」、「われわれ」が、自然的な人間あるいはキリスト教的人間「それ自身からして」「信仰の中で立っていることだと考えていること」は、換言すれば「(すべての道徳的、宗教的、またキリスト教的に立っていることを含めて)」「われわれ」が神だけでなく人間も、直接的無媒介的な自然的な人間あるいはキリスト教的人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという仕方で「われわれ自身」の「信仰の中で立っていることだと考えていること」は、イエス・キリストにあっての「信仰の中で、実際に立つことではなくて」、すなわち「まことの立つこと」ではなくて、それゆえに「偽り」において「立つこととして」、「見通されるが故に捨てられてしまうのである」。言い換えれば、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基いて与えられる「まこと」の信仰に「立つこと」――ここにおいては、「(もはやわれわれの道徳的および宗教的な存在の上に立っておらず、われわれのキリスト教的存在の上にも立っておらず)、……自明的なことながらそれとしてのわれわれの信仰そのものの上にも立っておらず」、「(今こそ最後的に堅固な、確実な仕方で)神の真理の地盤の上に立っており、したがってイエス・キリストの中で起こった、イエス・キリストを通して永遠にわたって確認された和解の上に立っている」ところの「まことの立つことに味方して」、自然的な人間あるいはキリスト教的人間の「われわれ自身の上に立つことは捨てられてしまうのである」。このように徹頭徹尾~の側の真実としてのみあることに立つこと、すなわち「まことに立つこと」は、自然的な人間あるいはキリスト教的人間の「われわれ自身から見たのでは」全く不可能な事柄としてあるのである。「われわれは信じなければならない。とはいっても、自分自身を信じるのではなく」、~の側の真実としてのみある、「われわれの代わりに」単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが「全く端的に、信じ給うた」こと(主格的属格としての、ギリシャ語原典ローマ3・22、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」)に感謝をもって信頼し固執して、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基いて「イエス・キリストを信じなければならない」のである。なぜならば、~の側の真実としてのみある「イエス・キリストの中で、神の恵みに逆らうわれわれの敵意と共に、また信仰から逃げようとするわれわれの逃避も限界づけられ、終止符が打たれ、片づけられている」からである。「イエス・キリストの中で、信仰は、自分自身を、信仰を、再び発見する」。「イエス・キリストの中で信じる人間は、(彼自身の中にある)暗闇の彼岸において、暗闇にもかかわらず、自分自身を光の中に見出す」。先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」ができているイエス・キリストにおいて、先行する神の用意「に向かって用意ができている自分を見出す」、それゆえにそこにおいて、「神の認識可能性」を「見出す」。「しかも、……信仰が(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基いた≫)イエス・キリストを信じる信仰である限り、(われわれの真理である)イエス・キリストの永遠的な真理の時間的な形態(≪起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの≫)として、信仰がもともと持っている永遠の明確さ、確実さ、祝福」「全体をもって」、「神の認識可能性」を「見出すのである」。この「見出す」中には、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性、客観的実在、永遠的実在としてある、ギリシャ語原典ローマ3・22およびガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格の主格的属格として理解された単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストが信じる信仰」、「律法の成就」・完了、「神の最高の義」、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、その出来事の中での主観的側面としてあるキリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基いて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の信仰・神学・宣教における思惟と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、私たち人間の決定事項ではない、ということが含まれている。