本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−2)−2

カール・バルト『教会教義学 神論T/1 ~の認識』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「二 人間の用意」(その4−2)−2(254−281頁)

 

「二 人間の用意」(その4−2)−2
 このような訳で、先行する神の用意に包括された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」と言うことができる。したがって、「人間論的命題」――すなわち人間論的な自然的人間の命題、「教会論的命題」――すなわち教会論的なキリスト教的人間の命題は、「決してそれ自身として真実なのではなく」、「ただキリスト論の諸命題の中で存在している」のである、換言すればただ「啓示の客観的現実」、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、「イエス・キリストの実在の中でだけ存在している」のである。
 さて、@「人は、人間に関して、確かに」、「彼は信じることがゆるされるし、信じるべきであると言うことができる」、しかしその時人は、「そのことが実際に何を意味しているかを理解し、まことに語りたいと思うならば」、「自分が信じている方、イエス・キリストを理解し、イエス・キリストについて語らなければならない」、A「人は、人間に関して、確かに」、「彼は神の裁きと恵みを通して別なものとなると言うことができる」、しかしその時人は、「そのことを理解し、本当に語ろうと思うならば」、「(そのほかのいかなる裁きも恵みも存在しない)イエス・キリストの恵みと裁きが言おうとされていることを理解し、語らなければならない」、「人は、イエス・キリストこそが、別のものであり」、そのイエス・キリストが単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の子、神の言葉、啓示・和解、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの、客観的な「啓示の実在」そのものであるということを「理解し、語らなければならない」、B「人は、人間に関して、確かに」、「人間が~の子供となる生まれ変わりがあることを、……見、証しすることができる」、しかしその時人は、「そのことがまことに見られ、証しされるべきであるとしたら」、「この見、証しすることは」、「全くただ」、「……われわれの肉の中へと来られた神のひとり子であり、ただその方の兄弟としてだけわれわれは神の子供であるイエス・キリストを見、証しすることからだけ成り立っていなければならない」。もしもそうでないならば、そこではすでに、聖書的啓示証言における「イエス・キリスト以外のほかのものに妥当するであろうすべての言葉でもって」、例えば八木誠一のように「イエスは別段自分を超人間的存在(≪あるいは単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間≫)として自覚していたわけではなく、『人の子』語句でもって人間存在の根底を語り続けた」「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」(『イエス』)という「人間の讃美(≪の言葉≫)でもって」、「再び(≪八木自身が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化したに過ぎない≫)作り話が、幻想が始まっている」のである、生み出されているのである。因みに、聖書的啓示証言に信頼し固執したバルトは、『教会教義学 神の言葉T/1・2』で、「人の子」語句について次のように述べている――「『人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか』(マタイ一六・一三)と聞かれ、ペテロ(教会の信仰告白)は『あなたは生ける神の子キリストです』と答えた」。「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」・「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解した方がよい・したがって、受肉、「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や神性の「減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」、神的姿の「覆い隠し」を意味している。論述を元に戻せば、「キリスト教的教説」においては、「また神認識と神の認識可能性についての教説」においても、「聖書全体の根本認識でもあるコロサイ三・三」にある「われわれの生命は、キリストと共に~のうちに隠されている生命であるというパウロの根本認識が全く真剣に受け取られなければならない。それは<キリストと共に>である」。「それであるから、決してキリストの外にではなく」、また教会論的なキリスト教的人間が「キリストに相対して独立した形でではなく(≪換言すれば単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストと人間との混合・共働・協働をという形ではなく≫)」、また「自分ひとりだけでではなく、あくまで(≪~の側の真実としてのみある≫)<キリストと共に>である」、あくまでも単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である三位一体の<まこと>の神であり、先行する神の用意に包括された後続する人間の用意を生きた<まこと>の人間である<イエス・キリストと共に>である。このように、<非>自然的な神学と宣教を志向し目指すバルトは、生命認識においても、神認識と神の認識可能性においても、キリスト論的集中のベクトルを持っているのである――@「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。(≪教会論的なキリスト教的人間を含めて≫)われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(〔ギリシャ語原典〕ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』ピスティス イエスー クリストゥーは、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(言い換えれば、~の側の真実だけでなく、人間論的なあるいは第三の形態に属する全く人間的な教会論的な人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も手放すことをしないで同在化させる自然的な神学や宣教とは全く違って、換言すれば直接的即自的な人間的契機を同在させる「イエス・キリストの信仰」の属格を「イエス・キリストを信じる信仰」と目的格的属格として理解する旧来訳聖書や新共同訳聖書とは全く違って、~の側の真実としてのみある主格的属格として、「イエス・キリストが信じる信仰」として理解されるべきものである)、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、(≪人間論的な自然的人間それ自体においては、あるいは教会論的なキリスト教的人間それ自体においては≫)現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、(≪~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性、客観的実在、永遠的実在としてある、「イエス・キリストが信じる信仰」、「律法の成就」・完了、「神の最高の義」そのものとしての≫)われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、「人間の人間的存在が(≪人間論的な自然的人間あるいは教会論的なキリスト教的人間としての≫)われわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかし それと同時に、人間的存在が(≪~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性、客観的実在、永遠的実在としてある、「イエス・キリストが信じる信仰」、「律法の成就」・完了、「神の最高の義」そのものとしての≫)イエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)、A「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは<神>の義、<神の子>の義、<神自身>の義をまとっている者として生きることを許される」(『ローマ書新解』)、信仰の認識としての神認識、神の認識可能性は、あくまでも、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事(起源的な第一の形態の神の言葉、イエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言、預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」)とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下でのみあり得る(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)。このような訳で、自然的な神学と宣教における「キリスト教的人間」とは全く違って、<非>自然的な神学と宣教における「キリスト教的人間こそ」は、「まさに自分自身を自分自身の中に見出そうと固執することを最もしないところの人間」なのである、それゆえに「自分自身を……ただイエス・キリストの中でだけ見出す」ところの人間である。このことは「ちょうど人間が、(≪単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の≫)神を……ただ(その神の第二の存在の仕方、業と行為、まことの神にしてまことの人間である)イエス・キリストの中でだけ見出すのと同様である」(聖書的啓示証言の本来的テーマは、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神のその第二の存在の仕方である「子なる神、キリストの神性」を問う問いの中に、「父を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊を問う問いとが包括されているという点にある、それゆえにこの神の自己啓示は、その第二の存在の仕方であるナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、その業と行為において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである)。したがって、<非>自然的な神学と宣教における「キリスト教的人間こそ」は、次のように告白する――@「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の(≪生まれ持った自然的な≫)理性や力(≪悟性、想像、意志、感情作用、良心、自然を内面の原理とする修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、Aキリスト教的信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということ」は、徹頭徹尾、「神ご自身の決定事項」なのであって、第三の形態に属する全く人間的な教会自身(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の決定事項ではない、それゆえにその思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいてのみ成立している。
 さて、啓示に対する「自然的人間の狡猾さこそ」は、人間論的な自然的人間によってではなく、教会論的なキリスト教的人間によってではなく、すなわち「自然的人間自身によってではなく、まさにイエス・キリストからして見抜かれ、打ちのめされなければならないであろう」。なぜならば、人間的領域からは、すなわちフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーからは、すでに宗教としてのあるいは共同宗教としての自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教に対する現実性と妥当性を持った根本的包括的な原理的なキリスト教批判が為されているにもかかわらず、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)の自然的な神学と宣教は、その批判に対して全く聞く耳を持っていないからである、換言すれば第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その著述家、その成員)に無意識の共同性として存在している自然的な神学と宣教の問題を明確に提起しないからである、その問題を明確に提起することができないからである。「いずれにしても、キリスト教的教説は、もしもそれがこの狡猾さを見抜き、打ちのめして自分の背後に捨て去ってしまうのでなければ、一言も健全な言葉を語ることはできない」のである。したがって、「キリスト論的局面」が、「すべてのそのほかの局面」を、人間論的局面、教会論的局面を、「あますところなく、完全に駆逐」しなければならない。ここで、聖書的啓示証言に信頼し固執するバルトの立場は明確である――単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の子、起源的な第一の形態の~の言葉、啓示・和解、完了・成就された個体的自己として全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの、客観的な「啓示の実在」そのものの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化したに過ぎない多種多様な、「存在者レベルでの神への信仰」、偶像崇拝、人間崇拝、教派、学派、主義、思想傾向、時流や時勢、社会的なあるいは政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉T/1・2』)、「ペテロが来ると、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ」、その時、神の言葉の第二の形態に属する<使徒>「ペテロは彼を起こして言った。『お立ちください。わたしもただの人間です』」(使徒行伝10・25−26)、党派的意識、党派性、党派主義、党派的多元主義に依拠して「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。(≪神の言葉の第二の形態に属する使徒≫)パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですが。あなたがたは(≪第二の形態に属する使徒≫)パウロの名によって洗礼を受けたのですか」(Tコリント1・12−13)。このような訳で、先行する神の用意に包括された後続する人間の用意についての問いに対する「積極的な答えを簡単に先取り」すれば、「神の用意の中に含まれている人間の用意とはイエス・キリストのことである」。それは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストが神の恵みそのものであり」、それゆえに「~の側からしての神の認識可能性であるのと同様に」、その客観的な啓示の出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事を惹き起こす起源的な第一の形態の神の言葉の「イエス・キリストは……われわれの側からしての神の認識可能性である」、すなわちイエス・キリストは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉として「われわれの側からしての神の認識可能性」、啓示の主観的可能性である。
 このような訳で、先行する神の用意に包括された後続する人間の用意を、「ただイエス・キリストに関してだけ語ることができる」。したがって、「われわれ自身に関しても、ただそのこと」を、人間論的に自然的人間に関してあるいは教会論的にキリスト教的人間に関して語るという仕方ではなくて、「まず第一に、本来的にイエス・キリストに関して語るという仕方でだけ、語ることができる」のである。「そのイエス・キリストは、誰であるのか」。ここで、「もしもわれわれが、……イエス・キリストを名ざしで呼ぶことによって」「イエス・キリストについて語ろう」とする時、聖書的啓示証言によればイエス・キリストは単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、<まことの神>にして<まことの人間>であるから、その啓示(具体的には聖書的啓示証言)とは独立した人間の側からする、人間論的な自然的人間の側からするあるいは教会論的なキリスト教的人間の側からする「〔ひとつの〕要請について」、すなわち「神に向かって用意のできている人間の理想的なケースとか、人間が神に向かって用意ができていることの理念」とかについて「語ろうと欲するならば」、例えば八木誠一のように、形而上学的一面的固定的に抽象してイエス・キリストの人間的側面から本来的な人間存在の在り方とか範型について「語ろうと欲するならば」、「イエス・キリストについて語」ることはできないのである。なぜならば、聖書的啓示証言においては、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト」は、「われわれ(≪第三の形態に属する全く人間的な教会≫)に対して」、第二の形態の直接的な最初の第一の客観的な啓示の「概念の実在」である「旧約聖書および新約聖書を通して(≪媒介・反復して≫)、イエス・キリストについて語る」という仕方ではなく、それとは独立した、すなわち第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言(客観的な啓示の「概念の実在」)とは独立した、教会の人間的な欲求からする「要請について語る可能性」を「全く断ち切」るような「仕方で、証しされている」からである、「イエス・キリストは、われわれに対して、旧約聖書および新約聖書を通して」、「イエス・キリストに関して全く何も語らせないか、それとも全く明瞭に、<イエス・キリストは主である>ということを語らせることができるか、そのいずれしかないような仕方で、証しされている」からである。聖書的啓示証言の「すべての言葉」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性である、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性において、「イエス・キリストをわれわれと結びつける」。「このひっくり返すことのできない秩序の中で、イエス・キリストは現にあるところのものであり給う」。『教会教義学 神の言葉T/1・2』た『ローマ書』では、次のように言われている――@神の言葉は、「偶発的な同時性」、すなわち「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる、神の言葉は「その都度、全く特定の一回的な、独一無比な」言葉である、しかし神の言葉は、神のその都度の自由な恵みの決断により「神の口を通して語られて、同時的」である、このことは、神の言葉は一つであるということ、すなわち「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストにおける連続性を意味している、この単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの連続性における「同時性」が、「特定のアノトコロデアノ時ニが、特定のココデイマ」となる出来事の時間・空間のベクトル変容を可能とするのである、したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会におけるバルトの<非>自然的な神学と宣教における思惟と語りは、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、イエス・キリストの「特定のアノトコロデアノ時ニ」と、交点を結び得るのである。「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である(イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない)」、A神の言葉の第二の形態に属する聖書的啓示証言における使徒「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語った。けれどもこの事実よりはるかに重要な事柄は、いま一つの事実、すなわち彼は神の国の預言者ならびに使徒としてあらゆる時代のあらゆる人々に語っている、ということである。(中略)聖書の精神は永遠の精神なのである。かつての重大問題は今日もなお重大問題であり、今日の重大問題で単なる偶然や気まぐれでない事柄は、またかつての重大問題と直結している」。論述を元に戻せば、「ひっくり返すことのできない秩序の中で、イエス・キリストは現にあるところのものであり給う」、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の中で、「イエス・キリストは現にあるところのものであり給う」、なぜならば、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリスト、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの――それは、啓示自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を持っているからである――まさにこのことが、第三の形態に属する全く人間的な教会の「われわれ」に無意識の共同性として存在しているところの、自然的な神学と宣教における人間論的な自然的人間あるいは教会論的なキリスト教的人間によって「繰り返され得る」「実を結ばない遊び」を「防止する」のである。したがって、「もしも人」が、形而上学的一面的固定的に抽象して、換言すれば一部分を拡大鏡にかけて全体化して、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である<まことの神>にして<まことの人間>「イエス・キリストの中」に、自然的な「それとしての人間そのものを読み込み」、それゆえに八木の『イエス』のように「イエス・キリストをそれとしての人間そのものからして理解する可能性を造り出そう」とするならば、「人は……父祖たちおよびイスラエルと結ばれた契約の中で起こった出来事を通して為されたイエス・キリストの預言を、この預言を成就するものとしてのイエス・キリストの機能(≪存在の仕方、業と行為≫)を、イエス・キリストの処女からの出生と甦り」を、「消し去るか、それとも『精神化』しなければならなくなるだろう」、「(それとしてイエス・キリストの自己証言である)神の国についてのイエス・キリストの使信を、……解釈し曲げ、それから最後に、イエス・キリストについてわれわれに語られているすべての言葉をひとつひとつ解釈し曲げなければならなくなるだろう」。それに対して、起源的な第一の形態の神の言葉としての「対象に対して、それと共にまた」、第二の形態の「聖書本文に対して、……尊重する注釈」は、そこで語られているナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」を、「……それとしての人間そのもの」として、人間論的な自然的人間としてあるいは教会論的なキリスト教的人間として、「自然的な人間の理想的なケースとか理念」として考える「誤謬に陥いらない」ようにすることを「保証する」。その「尊重する注釈」においては、「神のひとり子、ただ一人の、永遠のみ子について語られている。そのようなわけで神ご自身について語られている」、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、~の子、起源的な第一の形態の~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストについて語られている、すなわち「あらゆる事情のもとで」、先行する神の用意に包括された後続する人間の用意ができている者、「神の向かって用意ができており」、心が「開いている者」、それゆえに「神は認識可能であるところの者について語られている」。対自的であって対他的、自在であって他在、全き自由の神は、「父なる名の内三位一体的特殊性」において、内在的に、「自分自身にとって、子は父にとって、しかしまた父は子にとって、認識可能である」。このことこそ、「まさに人間の側での『用意』という観点のもとにおいても、神の認識可能性について言われ得る最初にして最後のことである」。「われわれは(≪牧師であろうが、神父であろうが、聖職者であろうが、神学者であろうが、誰であろうが≫)神ではない(≪「ただの人間」である≫)」。しかし、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」ところの、「旧約および新約聖書の中で証しされている主」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である<まことの神>にして<まことの人間>イエス・キリストは、「ナザレの人」・「人間である」、しかし「神の向かって用意ができて」いる<まことの人間>である。この神と人間とを架橋する「イエス・キリストの中」においては、「われわれは外に立っているのではなく、内におり」、それゆえに前述した「あの最初にして最後のことにあずかっている」。すなわち、「イエス・キリストの中」においては、「神ご自身にとってばかりでなく」、すなわち「父と子の間においてばかりでなく、われわれ人間にとっても、神は認識可能であるということが妥当する。なぜならば、イエス・キリストの中では、人間は神に対して『用意』ができているからである」。「イエス・キリストが人間であるということは、神のひとり子が、したがって(ご自身にとって永遠から永遠にわたって認識可能である)神ご自身が、われわれの肉の中に来た」ということ、「われわれと同じ肉をとり、われわれと同じ肉を担う者であるということ、神の子として(まさしく)われわれの肉をとって、永遠から永遠にわたって存在し給うということである。イエス・キリストと共にあるがゆえに、神われらと共にいます――『インマヌエル』ということである。したがって、イエス・キリストが神を認識する時、すなわち子が父を認識する時、……神がご自身を認識される時、われわれの肉が既にそこにあるのである」。『教義学要綱』では、次のように言われている――単一性・神性・永遠性を本質とする「『神がそこでわれわれに出会い給うその恵みの御言葉(≪神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉≫)は、イエス・キリストと呼ばれる。すなわち、神の子にして人の子、真の神にして真の人、インマヌエル、この一つなる方(≪単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方≫)におけるわれらと共なる神である』」と、答えうるにすぎない。キリスト教信仰は、この『インマヌエル』との出会いである。イエス・キリストとの出会いであり、イエス・キリストにおける神の活ける御言葉との出会いである。われわれが聖書(≪第二の形態の聖書的啓示証言≫)を神の御言葉と呼ぶ場合(≪イエス・キリストによって直接的唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」と呼ぶ場合≫)……、(≪第三の形態に属する全く人間的な教会の≫)われわれは、それによって、聖書を、この神の唯一の御言葉についての(イエス・キリストについての、神のキリストであり永遠にわれわれの主にして王なるイスラエルから出たこの人についての)預言者・使徒の証しとして、考えているのである。そして、(≪第三の形態に属する全く人間的な教会の≫)われわれがそのことを(≪教会の客観的な信仰告白として≫)告白する場合、(≪第三の形態に属する全く人間的な教会の≫)われわれが教会の宣べ伝えを神の御言葉と敢て呼ぶ場合、それによって(≪具体的には、聖書的啓示証言を教会の信仰・神学・宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方における≫)イエス・キリストの宣べ伝えが理解されていなくてはならない」。「われわれの肉の中で神が自分自身を認識し給う」。聖書で、イエス・キリストにおいて自己啓示された~は、「失われない差異性の中」で三つの存在の仕方(性質、業と行為)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である――これが、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて自己啓示された~の自己認識・自己理解・自己規定である。したがって、「イエス・キリストの中で、われわれの肉が神ご自身を認識するということが生起する」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識が生起する、啓示認識・啓示信仰が生起する。このようにして、イエス・キリストが、私たち人間に対して、聖書およびその聖書を原理・規準・法廷としてそれに聞き教えられることを通して教える教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを、それゆえに「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として、すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認することができるのである。したがって、イエス・キリストにおける啓示は、私たち人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである、それゆえに自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すキリスト教信仰・神学・教会の宣教における福音が、人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化したに過ぎない「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。
 さて、「われわれは、ここで故意にヨハネ福音書一・一四で用いられている『肉』という言葉を用いた。なぜならば、この肉という言葉は聖書の中ではまさに人間そのもの、神の敵としての人間を言い表しているからである」。「神の子は、この(今述べたような規定をもった)人間性をとって、これをご自分のものとされたのである」、「純粋な、聖なる、永遠から永遠にわたって父に対して従順な神の子自身が、そのような人間となられたのである」。このように「イエス・キリストが神の子であったことによって、彼」は、「肉」という「あのような規定をもった人間性」のただ中に、「そういう人間性との交わりの中に歩み入られたのであり」、「そのことによって、彼は神の恵みに対する人間の敵意を挑発し、人間の憎しみを受けて苦しめられ給うた」のである。「かかるものとしての人間それ自身」が「神の恵みに対して……最後決定的に示す出来事として、彼は十字架につけられ給うた」のである。「ちょうど、すべての預言者や使徒たちが、(≪自然的な人間に対して、啓示、キリストの福音を対置させることによって、≫)人間の敵意を挑発し身に受け苦しめられなければならなかったのと同じように」である。「イエス・キリストの十字架の中で遂行された本当の決断、本当の結論」は、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストが人間であったことによって、……彼は恵みに対して敵意ある人間存在を外部から、すなわち人間の側から……神の代わりに身に経験したばかりでなく、……そのような恵みに対して敵意ある人間存在を内部から、すなわち~の側から……人間の代わりに身に経験し給うたのである」。イエス・キリストは、「この場所」で、「神の恵みに対して敵意を持つ者たちに対する神の義しい怒り、しかもわれわれの身にこそ適中すべきであった神の義しい怒りを身に経験されたのである」。
 「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリストの信仰』ピスティス イエスー クリストゥーの属格は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)。「言うまでもなく、われわれこそ神の恵みに対して敵意を持っている。われわれこそ、その本質から言えば赦されることのできないこと(なぜなら、それはまさに赦しそのものを侮蔑することであるから)をしている・イエス・キリストが十字架につけられることによって、われわれこそが告訴され、罪を暴かれている。われわれこそが、死に、しかも永遠の死に値している」。しかし、「人間の場所に入られた」イエス・キリスト、「神の子」が、「われわれに代わって」、「まさにわれわれにこそ適中する判決を」「ご自分の上に受けられた」、「まさにわれわれの刑罰を彼は担われた」。「神の子として彼は、われわれの、すべての人間ひとりひとりの、全人類の、代わりになった」。「まさに神の子としてこそ、彼はそのことを事実為し給うたのである」。このことは、「まさに恵みに対するわれわれの敵意」は、「われわれを告訴し定罪し刑罰を下す契機を与えるものとしてはもはや存在しない」ことを意味している。なぜならば、恵みに対する「われわれの敵意、人間そのものが恵みに逆らいつつ立っている敵意は、神の前に、神自身を通して、父の前にそのひとり子を通して、すなわち人間となられた~の子を通して、われわれの代わりに罰せられ、償われ、捨てられてしまったからである」。単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、「われわれに代わって」、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(「律法の成就」・完了)からである。このことは、神の「恵みに反抗する人間の敵意に対する恵みの勝利である」。すなわち、このことは、「われわれ」人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、神と人間との無限の質的差異の厳格さの下で「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆(≪混合、協働、共働≫)されぬように、(≪~の側の真実としてのみ≫)統一し給うた」ということを内容としている、啓示・和解の<客観的>現実性、<客観的>実在、<永遠的>実在ということを内容としている。これこそ、「恵みに反抗する人間の敵意に対する恵みの勝利である」。このように、「人間が自分を永遠から愛し給う方を愛しかえさず、かえって憎む者として、決定的に明白に正体を暴露するまさにそのところで、真理が啓示されるという奇跡中の奇跡が起こる」、「恵みを失うところで、まさにそのところで『恵みもますます満ちあふれた』(ローマ五・二〇)」という「奇跡中の奇跡が起こる」。「こういう新しいひとりの人間の真理と生命の啓示こそ」が、「彼の十字架と甦りの中で、人間の真理と生命を啓示し給う」「イエス・キリストである」。この、その死と復活における十字架の死において「古い人間を自分自身の中で葬ってしまった」「イエス・キリストの中での、新しい人間こそ、神に向かって『用意』のできている人間である」。したがって、「われわれ」は、神の認識、神の認識可能性、神に向かっての用意ができている人間を尋ね求めた時、人間論的にそれとしての自然的な「人間それ自身を見てい」た限りは、また教会論的に第三の形態に属する全く人間的な教会の「キリスト教的人間を見てい」た限りは、見出すことができず、すべて「無駄であったのである」。このような訳で、「われわれ」は、神の認識、神の認識可能性、神に向かっての用意ができている人間を、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「十字架と甦りの中で、人間の真理と生命を啓示し給う」イエス・キリストに尋ね求める以外にはないのである。なぜならば、「イエス・キリストの中にあっての人間」は、「神の恵みに反抗する人間の敵意がイエス・キリストの中で克服されたが故に、……もはや神の外部(そこでは人間は神がご自身を人間に対して認識可能なものとされる恵みを受け取らないが故に、人間にとって神が認識不可能でなければならない神の外部)にいるのではなく、むしろ神の内部にいる」からである、「神が自分自身にとって認識可能であり、父が子にとって、子が父にとって認識可能であり」、それゆえに「み子の中では、神が……人間にとっても認識可能である神の内部にいる」からである。この「イエス・キリストの中にあっての人間」における終末論的限界の下での信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の中には、当然、次のような事柄も含まれている――それは、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、ということも含まれている、それゆえに起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト、客観的な「啓示の実在」そのもの、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」が、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神父、その聖職者、その神学者、その学者、その成員)の信仰・神学・宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者であるということが含まれている、それゆえにまたキリスト教信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りがキリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神父、その聖職者、その神学者、その学者、その成員)の決定事項ではない、ということが含まれている、それゆえにまたキリスト教信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」ということが含まれている、マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」、「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは「すべての祈りの源」である、それゆえに「そこにはただ、神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」、といことが含まれている、それゆえにまた、この祈りの下で、具体的には聖書的啓示証言を、全く人間的な教会(その牧師、その神父、その聖職者、その神学者、その学者、その成員)の信仰・神学・宣教の原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>な、キリストの福音、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、換言すればすべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すということが、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すということが含まれている、それゆえにまた「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」、それゆえに「解釈する」とは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執して「別の言葉で同一のことを言うこと」である、ということが含まれている。
 このような訳で、「キリスト教の神学と宣教の広い範囲にわたって」、自然的な神学と宣教において、イエス・キリストの「十字架と復活を実際問題として告白しないで」、それゆえに「実際神に向かって用意ができている人間」イエス・キリストについては「何も知らず」に、「それとしての(≪自然的な≫)人間そのもの(≪その生まれ持った自然的な理性、悟性、想像、意志、良心≫)に執着」し、「そのような人間の現実存在を、……神の認識可能性を、偽りの仕方で前提し、主張する」「幻想の中」に・「転倒した道の上」にある教会の現状の中にあっても、第三の形態に属する全く人間的な教会の内在的な「根拠と存在を形造っている」のは、徹頭徹尾、教会の主・頭である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのものであるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストであって、教会の牧師、神父、聖職者、神学者、著述家、信徒では全くないのである。したがって、「キリスト教の教えの健全さを回復する道は全く明らかである」――「ソレ故ニ、純粋ナ教エヲ取リ戻スノミナラズ、コレニ耳ヲ傾ケテ保持スルタメノ唯一ノ方法ハ、……キリストヲソノスベテノ恵ミト共ニ、アリノママニ眼ノ前ニ提示スルコトデアル(カルヴァン)」。第三の形態に属する全く人間的なキリスト教会の神学と宣教の現在的問題、すなわちその現在を止揚し克服する問題は、その神学と宣教の未来を考えることと、キリスト教に固有な歴史の起源(第二の形態の聖書的啓示証言を媒介・反復するという仕方で、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト)にまで遡及して考えることとの同在性としてあるのである。未来に生きる「キリスト教の神学と宣教は、ただ、この正しいことの足跡にしたがって起源にまで、本来言おうと意図され、意志されていることにまで、戻りさえすればよい」のである、遡及すればよいのである。『教会教義学 神の言葉T/1・2』では、次のように言われている――「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた(≪教会の客観的な≫)教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」である。また『啓示・教会・神学』では、次のように言われている――「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求め」つつ、その信仰・神学・教会の宣教に、個性や時代性を刻んだ。「神の右に座し、またわたしたちのために執り成してくださる」(ローマ八・三四)人間(≪キリスト・イエス≫)を堅くとって離さないでいさえすればよい。そうすれば、キリスト教の神学と宣教は、確かに偽りを語らず、真理を語るであろう」。バルトは、『証人としてのキリスト者』で次のように述べている――第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)は、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできない。すなわち、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)がそうした人々に呼びかけることができるのは、@「私がその人をその中に置くことによってではなく」、A単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストが「すでにその人をその中に(≪その死と復活により完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものの中に≫)置いてい給うことによってである」、したがって第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)は、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」のである。神の言葉に対する<奉仕者>として「努力し得るにすぎない」のである。このように、自然的な神学と宣教の問題を明確に提起し、それゆえにその<段階>を根本的包括的に原理的に止揚し克服した<非>自然的な神学と宣教の<段階>に移行したところにおいては、社会学者の橋爪大三郎に、次のように揶揄されるいわれは全くないのである、またもしも橋爪が吉本のような思想家であるならば、ここにおいては、次のような異議・批判は決してしないのである(『現代思想11 一九七五年 「<新約思想をどうとらえるか>吉本隆明/八木誠一」』で、吉本は八木に対して、「信仰することによって信仰していない者には見えない何か新しい地平線が見える」と「思うけれども、……そこをうまく開陳してみてくれませんか」と尋ねたことに対して、八木が、不信を包括し克服した信、信と不信を架橋した信という信における思想の問題等について語るのではなく、人間学的にしか答えられなかったことに対して吉本は、「だけど今の八木さんの説明では、……あらゆる認識が、もし自分自身の体験、それから自分自身の資質というか、そういうものを全部根こそぎ動員して、認識と言うものを追究していくと出てくる問題と、あまり違わない」と疑義を呈し、「それ宗教(≪信仰≫)と関係あるかな、ということですね。やはり納得できるように思いません」と述べたのである。また吉本は、『<非知>へ――<信>の構造 対話編 「吉本×末次 滝沢克己をめぐって」』で、「言葉としての聖書というのは、<信仰の書>として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力がある……」と述べている)――「『キリスト教入門』みたいな本なら、山ほど出ている。でもあんまり、役に立たない。『信仰の立場』を後ろに隠して、どこか押しつけがましく、でもにこにこ語りかける。さもなければ、聖書学あたりの知識を、これならわかるかねと<上から目線>で教えをたれる。ひとびとが知りたい、一番肝腎なところが書かれていない。根本的な疑問ほど、するりと避けられてしまっている」(『ふしぎなキリスト教』)と揶揄されるいわれはないのである。